36 重い石
「――あの方が、リコンテ領を管理しているオービニエ伯爵よ」
ルシールは口元を扇子で隠したまま目線だけをちらりと向けて一人の男を示す。その視線の先を確認すると、一人の壮年の男がグラス片手に歓談しているのが見えた。きちんと整えられた髭が特徴的で、男は伯爵という爵位をもらっているだけあって身なりが良い。着ている服の仕立てが良いことは遠目に見ても、他の人との違いで明らかだ。
男を確認すると、見ていたことを気付かれないようにさっと視線を戻すとルシールを見た。ルシールは嫌なものでも見たとでも言いたいような顔で眉を顰めていた。
「見目は良いけど、気を付けた方がいいわ。あの方の心の内は私にも読めないもの」
「そうですか……」
ルシールの言葉を頭の中で反復して、もう一度だけオービニエ伯爵をちらりと盗み見た。楽しげに歓談している男はあまり意地悪げにも見えないし、誠実そうな印象を受けるくらいだ。
「お飲み物をお持ちしましたよ。――おや、ルシール様。どうかなさいましたか?お美しい顔が険しくなっていますよ」
クロヴィスとローレンスが飲み物を持ってやって来た。クロヴィスはルシールの表情を見て、おどけた声を上げながらも真剣な瞳であたりをちらりと辺りを伺った。
「何もないわ。あら、ルージュじゃない」
「お嫌いでした?」
「いいえ。好きよ」
ルシールは美しい顔で満足げに微笑むと、グラスを傾ける。ルージュは真紅の色で透き通る酒だ。飲みやすいので飲んだ感じではアルコール度数が低く感じるが、そのアルコール度数は結構高い。おいしいのでとたくさん飲んでしまうと、思っている以上に酔ってしまうお酒だ。ルシールにはクロヴィスが付いているので問題は無いのだろうと流しながら、ローレンスが持ってきてくれたブランシュを飲む。僅かに炭酸が入っていて、喉越しが良い。すっきりとした飲み口で、爽やかで甘い香りが広がる。
「……このブランシュおいしい」
「今日のはリコンテ領のものらしいですよ。何でも、オービニエ伯爵が献上されたものをお出しされたとか」
ぽつりと出た言葉にローレンスがにっこりと笑って答えた。
「リコンテ領、ね」
リコンテ領のオービニエ伯爵。彼については今日初めて名前と顔が一致したという情けのないことだが、ルシールが言っていたことが何となく引っかかるのだ。
「このルージュもリコンテのものよね?」
「はい。ルシール様」
「本当にリコンテのルージュとブランシュは美味しいわ。悔しいけど。お父様とお母様も気に入っていらっしゃるから、彼の今の立場もあるのでしょうね」
ルシールはそう言うと、あっという間にグラスを空けて、空のグラスを近くを歩いていた給仕に渡した。
「さて。そろそろ挨拶に来るみたいよ。リリアナはどうする?」
「――私も、ここに居ます」
「そう。それなら背筋を伸ばして。ここで偉いのは私たちよ」
ルシールは視線でオービニエ伯爵がこちらの方へ歩いてきていることを告げた。そして一瞬思案して、リリアナもここから離れずにオービニエ伯爵と直接話してみようと思い、ここに留まることに決めた。ルシールはリリアナを励ますように口元を上げて笑みを作る。その笑みはまるでこの場を統べる女王であるかのように堂々と威厳のあるものだ。
「これはこれはルシール王女様。今日も大輪のバラのごとく美しいですな」
「ありがとう。オービニエ伯爵」
ルシールは先ほどの笑みのまま、オービニエ伯爵の挨拶を手の甲に許す。それを終えると、オービニエ伯爵はくるりと向きを変えリリアナを見た。
「そしてお初にお目にかかります、リリアナ王女様。私はリコンテ領を管理させていただいている、リシャール・オービニエと申します。以後お見知りおきを」
「リリアナ・メル・フォンディアです。よろしくお願いします」
続けて、ルシールと同じように手の甲に挨拶を許すと彼は顔を上げこちらを見た。年齢は多少いっているようだが、彼の見目が良いことが分かる。おそらく若かりし頃はさぞ美男であったのだろうことを彷彿とさせる。
「先ほど、リコンテ領のルージュをいただいたわ。リリアナもブランシュをいただいていたのよね?」
「はい。とても飲みやすくて美味しかったですわ」
「それは何と嬉しいお言葉でしょうか。美しい姫君方に気に入っていただけ、嬉しい限りでございます」
そう言ってオービニエ伯爵は嬉しそうに笑ってはいるが、どこか背筋が寒い。何が違うのだろうと思い考えていると、彼の目の奥が笑っていないことに気付く。声色も喜んでいる風に高く、目尻も表情に合わせて下がったりしているのにどこか違うのだ。そのことに気付いてさらにリリアナを寒気が襲った。
「今後も期待しているわ」
「はい。ご期待に沿えますよう、努力致します。それでは失礼致します」
ルシールの言葉にそう答えると、オービニエ伯爵は傍から離れた。
「――どうだった?」
オービニエ伯爵が傍から離れ、完全に声が聞こえないだろうと思われる場所まで移動すると、ルシールがリリアナに聞いてきた。
「……何だか少し、怖い印象を受けました」
「そうね。あの方には気を付けなさい。あっという間に丸め込まれてしまうかもしれないもの。だから個人的にはお付き合いしない方がいいわよ」
「はい」
リリアナはルシールの言葉に素直に頷いた。確かにリリアナ程度の社交力ではあっという間に彼の手中に収まってしまいそうだ。そう考えてぶるりと身震いがリリアナを襲った。
「――私、少し休んで来ますわ」
「あら、大丈夫?」
「少し足が疲れただけですわ」
「傍に休憩室がございます。ローレンス、リリアナ様をそちらへ」
ルシールが心配そうにリリアナを見た。すると少し考えていたクロヴィスが休憩室のことを思い出して、ローレンスにそこへ連れて行くように言った。
「はい。リリアナ様、こちらへ」
足が疲れたのは本当だ。今日のような日に着るドレスは重いし、ダンスのために少しヒールのある靴を履いていた。
休憩室の前まで来ると、複数の男の声が後ろから聞こえた。
「リリアナ様」
ローレンスはそっと扉を閉めて、鍵をかけるとすぐに男達がドアの前までやって来たことが声の大きさで分かる。ガチャガチャと扉のノブが回ってどきりと心臓が跳ねるが、鍵がかかっているので当然ながら扉は開かない。諦めてすぐにどこかへ行ってしまうかと思いきや、男達はそのままそこで話し始めてしまった。幸い床は絨毯敷きなのでそっと歩けば足音が察知されにくいだろうと思われたので、リリアナは扉から離れようとくるりと背を向けた。
「――しかし、聞いたか?第三王女が学校を作ろうとしているらしい」
その言葉にまるで足に根が生えたかのように固まった。話す男の声色はまるで嘲笑でもするかのように軽い。
「……!」
ローレンスはその声を聞いて、扉を開いて出て行きたそうにしているがそれを首を振って制す。
「あの、専属騎士をつけた王女か?」
「ああ。上手くいくと思うか?」
「まぁ、無理だろうな。あの方も反対されているという話だ」
「あの方が?」
「――おいおい。あんまりこんな所でそんな話するもんじゃない。誰かに聞かれたらどうする」
「そうだな。行くか」
その声を最後に、すぐに男たちの気配が消えたのが分かる。
「リリアナ様、あの男達追いますか?」
「いいえ。止めておきましょう。私たちがここで聞いたことが知られてしまうわ」
「……内密に探ります。しかし、あの方とは誰なのでしょう」
「気になるけれど、少し忘れましょう。まだやらなければならないことは山積みだもの」
誤魔化すように笑って、無理やり忘れようとする。しかし彼らの言葉はリリアナの心に重い石を残していた。




