33 夢の行方
ヴィルフリートが国へ帰って、リリアナは緩んだ気持ちを引き締めねばと机へと向かう。少しは進んだようだが、まだやるべきことは山積みである。
学校設立のための資金集めも大まかにしか決められていない。単純に考えれば、比較的ゆとりのある貴族に募金を協力してもらうことが上げられるだろう。だが貴族の特権であった文字や勉学、職業の自由を平民へと広げることに反発する貴族は少なくないはずだ。そのための対策も考えなければならない。貴族に文句を言わせないような策があれば良いのだが、リリアナが一人で考えていても難しかった。
「ねぇ、少し知恵を借りたいの。いいかしら?」
「はい。何でしょう?」
「どうぞ、座って」
リリアナは広げていた本から顔を上げて、それぞれ仕事をこなしていたローレンスとジゼルを見た。二人はすぐにリリアナの傍まで来るとリリアナに促されるままに傍のソファに座った。
「今、我が国では文字は貴族達の特権になっているわよね?」
「ええ、そうですね」
「それで平民が文字を使えることによって貴族が失うものって何なのかしら?何が嫌だと思う?」
それはリリアナの疑問だった。リリアナは身分差のない社会で生きていた記憶がある。厳密に言えば多少はあったのかもしれないが、それもリリアナが生活していた範囲では感じなかった。それに対し、今の身分は国の中ではほぼ頂点の部分にいると言っても過言ではない。国の転覆でもない限り安定の位置にいる今のリリアナも逆に身分というこだわりが少なかった。
「そう、ですね。平民が知恵をつけて権利を主張することが怖いのでは?文字を読めるようになれば、自ずとたくさんの知識を身に付けることができるようになります。そうすると政治に関与したいと思う者もいるでしょうし、自身の住む土地を治めている貴族のやり方に満足できないと言い出す者もいるかもしれませんね」
「でも、それって悪いことかしら?貴族と平民とは言え、同じ人だし……」
ローレンスの言うことは正しいように思えた。確かに民に文字が普及したら、次は参政権の問題になっていくだろう。政治を行っているのは現在貴族のみだ。貴族のみだからこそ、平民よりも貴族を優遇した政治になってしまっている。だからこそ、平民たちは税金などの直接関係する部分以外には興味がない。しかしそれも平民が参政してしまえば、どちらにも平等となるような政治へと変化していくことだろう。
「私もリリアナ様の仰られていることはよく分かりますわ。しかし、貴族は急に暮らしが変わることが怖いのではないでしょうか?」
ジゼルの言葉にも不安が表れているように思った。ここにいる者はみんな貴族以上の身分を持った人間だ。変わらないことに慣れた人間は少しでも変わってしまうことに耐えられないのかもしれない。
「そうね、それもあるかもしれない」
そうぽつりと呟いて考える。民が文字を使えることによって起きる変化は小さくはないだろう。知識が増えることによって、起きる変化は計り知れない。
「――ねぇ、ローレンス。フォンディアは食料に関しては豊かな方だと思うの。確かに働いている子どもは多いけれど、街に下りても餓死するほど困っているようには見えなかった」
「そうですね。ここ数年は収穫も悪くないようですし、飢饉なども起こっておりませんし」
ローレンスは確かめるように資料をパラパラと捲りながら呟いた。
「平民の食に対する不満は小さいのではないかしら?子どもが働いている現状は嘆かわしいけれど、働いてさえいれば居住食の確保はできて、食べるものには困っていない。過度な徴税により食べるものに困るようになった平民による暴動が起こることもあるでしょうけれど、今の税は重いものではないはず。今の現状をそれぞれどう思っているのか、少し調べる必要がありそうね」
リリアナの言葉に二人は黙って頷いた。貴族と平民とどう折り合いを付けていくのか考える必要がある。そこに貴族たちを納得させる方法を見つけるヒントがあるように思えた。
「――さて、姫様。明日は朝も早いですので、今日はもうお休みになられて下さい」
「ええ、でも」
空気を割るかのように、ジゼルが通る声を出した。リリアナはその言葉に食い下がるように言葉を出すが、ジゼルは厳しい顔で首を振る。
「疲れていては良い考えも浮かびません。第一、リリアナ様がお体を壊されたらそれこそ進みませんよ」
「……分かったわ。みんなも今日はお疲れ様。明日もよろしくね」
諦めてその場にいる人たちへ向けて解散を告げる。リリアナだけでなく、みんなも顔に出さなくても疲れているかもしれない。
「はい。それでは失礼致します」
ローレンスがそう言って部屋を辞したのを見送って、ジゼルが他の侍女を連れてリリアナの寝支度を整え始めた。明日はリリアナが普段住まいしているフリアンへ赴く日だった。
久しぶりのフリアンは変わらずに穏やかな空気が流れていた。空は高く、雲はゆっくりと流れている。草木は生い茂り、田畑は豊かに実りを見せている。
「リア先生おかえりー!」
「まぁ、みんな!」
リリアナが孤児院に訪れると、あっという間にリリアナを子どもたちが囲った。小さい子はリリアナのドレスに抱き付くようにくっ付いたので、後ろでジゼルが小さく苦笑を漏らしたのが見なくても分かった。
「こら、キース!リア先生のドレスが汚れちゃうでしょう?」
そんな子どもたちに年長のエリーが声をかけるが、子どもたちには届いていない。声に反応して子どもたちの服装に目をやると、今しがたまで外で遊んでいたのか子どもたちは泥だらけだ。
「エリー、ありがとう。でも、大丈夫よ」
「全然来ないからみんなで心配してたんだよ」
一人がリリアナの手を取って口を膨らませて言う。少しの間離れているだけでも、子どもたちは瞬く間に成長していく。その短い時間の中でリリアナのことを忘れられてしまうのではないかと少し不安に思っていたが、それも杞憂だったらしい。子どもたちに囲まれてリリアナは嬉しく思う。
「あれー?リア先生、いつもよりきれいなドレスだね!先生、なんだかお姫様みたい」
リリアナが着ているドレスはいくらか簡素なものとは言え、いつもこちらへ来る時に着ているものよりも数倍も質の良いもので飾りも多い。そのドレスにいち早く気付いたのは、女の子の一人だった。
「……そう、あのね。みんなにお話しなくてはならないことがあるの」
リリアナは意を決して子どもたちを見つめた。子どもたちはそんなリリアナにきょとんとした表情を返して見ていた。
「先生?」
「ここでは何だから、先生と教室に行きましょう」
そこはまだ孤児院の玄関だった。リリアナはにこりと笑うと、子どもの手を引いて教室へ入った。
リリアナが事を進めるにあたり、いつまでも身分を隠してていることはできなかった。すでに王政の中心にまで話をしてしまっている。この状態でいつまでも自分の身分を隠していてはいけないだろうと思い、まずは自分が学校を作ろうと志したきっかけである孤児院へやって来たのだ。
「――こちらに居らせられるのはリリアナ・メル・フォンディア王女様でございます」
ローレンスがリリアナに代わり、リリアナの紹介をした。子どもたちがどのような反応を示すのかとどきどきと胸が張り裂けそうな思いで周りを伺う。
「……わぁ!リア先生本当にお姫様なのっ!」
「すごーい!」
「じゃあ、ローレンス様は本当の騎士様なんだねっ」
子どもたちは瞳をきらきらと輝かせながらリリアナたちを見てくれた。リリアナはその子どもたちの反応にほっと胸を撫で下ろす。そしてはっとキースの視線に気付いた。
「キース?」
「……リア先生がお姫様なら、なんで?おれたちの生活をもっとよくしてくれたっていいじゃん!」
この孤児院には文字などを学ぶために両親が居ても通って来てくれている子も多い。だが、キースは両親のいない。孤児院に住む、孤児だった。彼はまだ小さなその体を固くして、リリアナをじっと見ていた。
リリアナのこの美しいドレスを売るだけで、下手したら孤児である彼は何年か生活することができるだろう。確かにリリアナがお金を出すことでここに居る孤児たちの生活は救われる。この町は暮らしが豊かになるかもしれない。だが、それでは何も変わらない。リリアナがお金を出しても、そのお金は他の国民の税金だ。一部の生活が良くなろうとも、その代わりに他の生活は荒れるだろう。
「――甘えるんじゃないわよ。先生はあたしたちが少しでも良い仕事に就けるようにって文字や計算を教えてくれてるんじゃない」
「エリー」
何て言おうかと考えているリリアナを遮ったのは年長のエリーだった。エリーは厳しい声をキースに向けている。
この教室でいつも小さい子たちの面倒を率先して見てくれるエリーもまた孤児だった。そしてそろそろ孤児院を出て行かなければならない年頃に差し当たっている。
「孤児のあたしたちは土地も無ければ住む場所もない。自分の体一つで生きていかなければいけないの。ただの孤児であるあたしたちが就ける仕事なんてほとんどないのよ?その私に文字と計算という武器をくれたのは先生だわ。だから、そんなこと言ったらダメよ――リア先生……じゃなくて王女様。私は町に出て商人のところで働こうと思っています。先生にはとても感謝してます」
「……俺もそう思う。俺は計算はやっぱり苦手だけど、それでも文字を教えてもらえて嬉しい、です。キースも本当は分かってるんだろ?」
エリーの言葉に続けるように言ったのは、いつも物静かなディーだった。静かな彼は率先して口を開くことは少ない。その彼が今こうして話してくれたことが嬉しい。ディーはキースに寄り添うようにして言うと、キースは唇を噛み締めて頷いた。
「――おれだって……先生、ごめんなさい」
「ううん。いいの!私も、もっとみんなが暮らしやすくなるように頑張るから」
子どもたちに囲まれながらそう言うと、視線の先でローレンスがにこりと笑って頷いた。
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