29 月夜(後)
月の明かりが静かに東屋へ降り注ぐ。宴会会場の窓が大きく開け放たれているために、賑やかな音が漏れ聞こえてくるが、その時のリリアナには届かない。まるで二人だけを別世界へと分け隔たれているようだ。
「本来ならばお父上へお話を通すべきなのだろうが、私は貴女の意志を無視して是が非でも連れて行きたいわけではない。貴女が頷いてくれないのであれば意味のないことだ」
「はい。――でも」
彼の言葉はまっすぐリリアナへ届く。いつもは温度など感じさせない冷たい雰囲気を纏う彼なのに、この時のヴィルフリートはまるで違う人のように視線が熱い。
「急にこんな話をして申し訳ないと思っている。貴女には騎士殿がいるのも知っている。しかし、即答で断られないだけチャンスがあると思っても良いだろうか?」
「ヴィルフリート様」
実際にはローレンスとリリアナは彼が思うような関係にはない。だがヴィルフリートにローレンスの名前を出されてどきりと胸が揺れている。
ふいに彼に壊れ物を扱うかのように丁寧にそっと包まれている手が熱を持っているのに気付いた。言われているリリアナだけでなく、ヴィルフリートも当然ながら緊張しているのだ。
「王都に戻るまで待とう。どうか考えてみてくれないか。貴女にとっても悪い話ではないはずだ」
「……分かり、ました」
ようやく頷いたリリアナにヴィルフリートは嬉しそうに目元を細めて優しく笑みを作った。そんな顔をするイメージのないヴィルフリートから出たそれにリリアナの胸は思わず飛び跳ねた。
その後、宴会の席へ戻ったのだったが、気が付いたらリリアナへ与えられた部屋の前だった。確かに宴会が終わるまでその場に居たのだが、どうやってやり過ごしていたのかも覚えていない。
「私、宴会の席で変なことしていなかった?」
宴会の間も傍に控えていたであろうローレンスに尋ねると彼は途中まで言いかけてはっと深刻そうな顔でリリアナを見た。
「普段通りでしたと思いましたが。…ま、まさか!やはり先ほどガルヴァンの王子に何かされたのですか!」
ローレンスは今にも部屋を出てヴィルフリートの元まで行ってしまいそうな勢いだ。
「大丈夫。何もされてないから落ち着いて」
「……はい」
「長旅で少し疲れてぼうっとしてたみたいなの」
リリアナがローレンスを安心させるように冗談めかして笑った後に肩をすくめた。ローレンスはその表情を少しの間じっと見て頷いた。
「――確かにお疲れでしょう。今ジゼルさんが湯の用意をしておりますので、今少しお待ち下さい。さぁ、こちらへおかけ下さい」
ローレンスに言われるままに近くにあったソファに座ると、ちょうどジゼルが洗面室から出てくる。
「湯浴みの用意が出来ました。ここからは私がおりますので、ローレンス様はお休みになられて下さいな」
「ええ。今日はお疲れ様。よく休んでね」
「――はい。では、失礼致します。ジゼルさん、よろしくお願いします」
ローレンスはそう言うと一礼をして静かに部屋から下がった。あまりにも呆気ないので先ほどの落差からこちらが拍子抜けしてしまうくらいだった。
ヴィルフリートが言ったようにこれは悪い話ではない。フォンディアからガルヴァンに嫁ぐのは現実的に考えると、リリアナは適当だった。国の関係で考えれば、ルシールほどの出自の者が本来ならば相応しい。だが、彼女の母である王妃がガルヴァン王家の血筋の者であることから、ルシールはあまり好ましくない。リリアナであればガルヴァンとは縁も所縁もないので、彼の国で権力争いなどの揉め事になる可能性も少ないだろう。そしてヴィルフリートも第三王子であるが故にフォンディアの姫と婚姻を結ぶことができる。リリアナは下位の姫であるので、ガルヴァンの正統な王位継承者と結婚するのには少し無理がある。
彼は優しいし真面目、見た目だって背も高く少しキツめではあるが顔立ちは整っているので他の女性に羨ましがられるくらいだ。リリアナが嫌がることからはしっかり守ってくれるだろう。きっと穏やかで幸せな結婚ができるはずだ。恋愛結婚など夢のまた夢だと思っていたリリアナにとってはそれだけで十分だろう。そして、二つの国が強固なものとなればおのずとそれは国の利益にも繋がる。
――この話には断る理由がないのだ。
「――この土壌は砂質に近いように見えるのだが」
リリアナがはっと気付くと、果樹の畑に膝を付いて土を触っているヴィルフリートが目に入った。プロポーズから一夜明け、今日は果樹畑へ足を運んでいた。解説員が丁寧に説明してくれているので、リリアナはその後ろから見ているだけだ。リリアナもしっかり話を聞かなければと思うのに、気が付けばぼんやりと考え込んでしまっているらしかった。
「水はけが多い方がルリモの木には良いのです。そして水は少なめの方が、少ない水分を中に留めようと甘くなります」
「ほう。水はけの良い土か……」
解説員の説明にヴィルフリートはそう言って頷きながら土を手の中で擦り合わせるようにして触感を確かめているようだった。土は確かにリリアナがイメージしていたものよりも湿り気が少なく、少し乾いているくらいの印象の土だ。ヴィルフリートは他にも土質について色々質問を重ねているが、リリアナにとっては難しい話ばかりだ。
「ヴィルフリート様は農業にもお詳しいのですね」
「せっかくフォンディアまで来るのだからある程度は勉強してきたつもりだ。ガルヴァンは食料自給率はどうしても低いし、新鮮な野菜や果物はどうしてもあまり食べれない。少しでも改善できれば国民の栄養状態も良くなるだろう」
リリアナが国の現状を憂うように、ヴィルフリートもガルヴァンの王子だ。自分が守らなければならない国民がいるのは彼も同じ。年上で頼りになる彼には悩みなんて無さそうだと勝手に思ってしまっていた自分が恥ずかしかった。
「――すみません。私、ヴィルフリート様に悩みなんて無いのだろうと勝手に思っていました」
「はは。そう見えるか?それならば嬉しい」
そう言ってヴィルフリートは悪戯が成功したような顔で楽しそうに笑う。
「王家とは民にとっては絶対的なものだ。ガルヴァンは軍国であるから強さが全て。民に弱さなど見せられぬからな。……こう言うと貴女を不安にさせてしまうか」
「いいえ。そうあらねばならぬのだと私も思います」
王族たるものそうでなければならないのだとリリアナも思う。上に立つものがしっかりしていなければ、下に居るものは不安になる。常に堂々と強くあらねばならいだろう。
「大丈夫だ。私が貴女を支えるから心配しなくて良い。良い返事が聞けるのを楽しみにしているよ」
「……はい」
リリアナにはそう応えるのが精一杯だった。リリアナの心が決まらずとも、冷静に考えれば答えは決まっているのだろう。




