26 二つの国
その日、完成した学校創立の企画概要をギルバートの執務室に持って行って直接渡したリリアナは心地よい達成感に包まれていた。まだ始まりでしかないが、それでも少しずつ前には進めている気がしたからだ。
「――分かった。確かに受け取った。これは必ず目を通そう。……リリアナ、体調は問題無いか?」
書類の束の表紙に目を走らせていたギルバートが顔を上げてリリアナを見た。
「はい。この通りです」
にこりと笑って応えれば、ギルバートはふむと頷いて考え込むように顎に手を置いた。
「今は込み入った案件が立て込んでいて、すぐにはこれにかかれない。その間にと言ってはなんなんだが、リリアナにディカードに行って欲しい」
「ディカード、ですか?」
リリアナがそう言って思い浮かべるのはフォンディア南端の街ディカードだ。果物が名産でディカードのものは他の街のものよりも数段甘いと聞く。リリアナ自身がそこを訪れたことは無かったが、のどかで良い場所だとも聞いたことがあった。
「ヴィルフリート殿が視察に行かれるのだが、私は生憎都合が悪く行けそうにない。もし体調に問題無さそうなのであれば行ってもらえないか?」
「私でお役に立てるのでしたら」
そう言いながらもギルバートの顔はまだ心配そうだったが、リリアナの体調はこのところ全く問題無かったのでリリアナはにこりと笑って頷いた。
フォンディアはガルヴァンと違い、土地が豊かな場所が多いために農業は彼の国よりも発展している。土壌が違う上でどの程度参考になるかは分からないが、彼が見て学べることも多いのかもしれない。
「そうか。正直助かった。いつもならルシールに頼むんだが他の用があるそうでな。どうにかして予定を空けられないか考えていたんだが、ディオン叔父がリリアナを薦めたのでお前が良ければと思ってな」
「ディオン叔父様が……。でも、ディカードにヴィルフリート様をお連れしてよろしいのですか?」
リリアナは先日ディオンと交わした会話を思い出す。ディオンはリリアナならできると思ってくれているのだ。彼の期待に応えたいと思った。
ディカードは果樹造りが盛んなだけの田舎町とは言え、他国の王族を自由に歩かせてもいいものだろうかと考えてふいに疑問に思う。政治に疎いリリアナにはヴィルフリートに見せていいもの、悪いものの区別に自信が無い。
「ああ。ディカードについては問題無い。彼の今回の訪問については果樹園の視察も正式に含まれている。専門の解説員も付けるからリリアナは心配をせずとも、ヴィルフリート殿に粗相のないように接待だけに気をつけてくれていれば良い」
「……そうなのですか。分かりました。失礼をしないように気をつけます」
「まぁ、そう緊張するな。あの方も恐ろしい方では無い。それではよろしく頼む。詳細については後で誰かに届けさせる」
ギルバートはリリアナを安心させるように鉄仮面のような固い表情を僅かに目元だけ緩めて笑ってリリアナの頭を撫でた。そしてそれだけ言うと、兄は慌しく部屋を出て足早に去っていた。多忙な彼はこの後も予定が詰まっているのだろう。フォンディアは王政であるが、現在は王であるフェルディナンはほとんど引退していると言っても過言ではない。成人し、優秀な兄が執務の中心にいる状態なのである。その兄は当然多忙でいつも何かの書類を片手に持っている。
そんな兄の後ろ姿を見送って、リリアナも部屋へ戻った。
「――それでこの書類、というわけなのですね」
先ほど届けられた日程や詳細が書かれた紙に目を通しながらローレンスが言う。
「ディカードですか。ディカードと言えば果物の中ではルリモが有名ですわね。今はちょうど収穫の時期ですし、楽しみです」
にこにこと笑みを浮かべてジゼルが言うルリモとはディカードで一番有名な果物の名前だ。はっきりとした橙の色に染まった皮の中の果肉はその外とは違って薄らと黄みがかった白だ。そして果汁は滴るほどに瑞々しく甘い。多くの人に好まれる味のルリモだが、それ自体は特別に珍しいものではなく、干されたものは王都だけでなく地方の店でも取り扱われている。しかしそのままの状態では日持ちがしないために、日干しにしたもの以外は王都では限られた人間しか食べることのできない果物である。
「そうね。でも、その間休みが無くなってしまうのよ。ジゼルは無理しなくていいわよ?」
「いえいえ。姫様のお傍に付くのが私の役目ですので」
専属騎士のローレンスはリリアナに付き従わねばならないので仕方ないにしても、侍女の役目は通常であれば交替制である。数日付きっ切りになってしまう今回のような時は休憩はあってもその間の休日は無くなってしまう。リリアナが気遣って声をかけるが、ジゼルはにっこりと笑顔を作って首を振る。
「それにしてもヴィルフリート様とまたご一緒ですか。近頃ご一緒されることが多いですね」
「そう?たまたまよ。でもいつもの公務に比べたら大仕事ではあるわね」
ローレンスは少し不満そうに眉を寄せて言った。ローレンスの言葉にふと考えてみると、このような宿泊が伴って数日に渡る公務は初めての経験なことに気付く。このような他国の王族と一緒に宿泊も伴う公務は後継者のギルバートか、王妃の娘であるルシールが優先的に選ばれる。ギルバートはリリアナがヴィルフリートを相手に緊張しているのだと思っているようだったが、ヴィルフリート自体はリリアナが当初思っていたよりも恐ろしい人ではないように感じている。初めて会った時はユリシアを攫う恐ろしい人であったが、先日ヴィルフリートはユリシアへの気持ちは既に無いと言っていた。それを思うと多少リリアナの気持ちも緩んでしまうものである。
「リリアナ様が親しくされていても、あの方が他国の王子であることは変わりません。その点についてはお忘れなきようお願い致します」
「……ええ。分かったわ」
改めて戒めるように言うローレンスに頷く。恋の話の類をしたせいもあって、余計にヴィルフリートを身近に感じてしまう。誰かに恋心を抱いているなんていう話は色々な思惑が絡む王族や貴族同士ではできない話だ。
「でも、本当に話に聞くよりも恐ろしい印象が無い方ですわね。黒髪に赤い瞳なのにどこか優しげですし」
「そうね。私も個人的にはジゼルと同じように思うわ。……でも、ローレンスが言うようにあまり気を緩めてはいけないわね。気を付けないとだめね」
そう言えば、初めてヴィルフリートに会う前に注意をしてきたのはジゼルだった。しかし、その恐ろしいはずのヴィルフリートはそのジゼルにこうまで言わせている。
ジゼルが言うようにヴィルフリートが恐ろしい人ではないと、リリアナも個人的には感じている。だがリリアナは一国の姫であり、国民の命を預かっている身分だ。今はヴィルフリートと良い関係でも、リリアナが粗相をしたせいでガルヴァンに攻め込まれでもしたらフォンディアは一溜りもないだろう。現在は食料などをガルヴァンに供給することによって、ガルヴァンの軍事力に助けてもらっている関係だ。フォンディアの軍事力などガルヴァンのそれに比べたら高が知れていて、ガルヴァンにとってフォンディアを攻めることなど造作もないことだろう。
個人的に親しく友人として付き合いたくとも、国力の差を前には叶わない話なのだ。フォンディアとガルヴァンは協力関係にあるようで対等ではないのだから。




