23 足元にあるもの
「ディオン殿下がお越しです」
「ええ。入っていただいて」
侍女の声に返事を返す。すぐに入って来たディオンはすっかり執務室へと様変わりした応接室であったはずの部屋に苦笑を浮かべていた。
「ディオン叔父様、アレク。いらっしゃいませ。先日はありがとうございました。今日はどうなされたのですか?どうぞ、こちらへおかけになって下さいな」
向かっていた机から立ち上がると、挨拶のためにディオンを招き入れて部屋の片隅にあったソファーセットへ誘った。
「リリアナ姫が部屋に籠もりきりだと聞いてね。ギルバートには話を聞いてもらえなかったんだって?」
「仕方ないのです。私の考えもまとまらないうちにお兄様にお声掛けしたのが良くなかったのですわ。考えをまとめ次第、またお伺いすることにしました」
ディオンの言葉にそう苦笑で返しながら、兄とのやりとりを思い出す。
次期国王として父である王に代わり、ほとんどの政務をこなす兄のギルバートは多忙で知られている。表情のあまり表れない顔からは理解しにくいが、たまに会う彼の妃エミリアは心配の声を漏らしていた。それほどまでに忙しくしている彼を留めておくのは身内であり実の妹であるリリアナにとっても至難の業であった。
「兄様。ご相談したいことがあるのですが、後でで良いのです。お時間よろしいですか?」
「――何の相談だ?」
移動中であるギルバートに声を掛けたが、いつもは優しい彼も片方の眉を上げてリリアナをちらりと見るだけだ。きっとこうしている間にも頭の中には違うことをパズルのように考えているのだろう。
「学校を建設するご相談です」
「学校だと?その概要は?」
「それは、その。まずは兄様にご相談をと思ったのですが」
「話をする前にまとめろ」
リリアナの話の内容を聞くとギルバートは短く言葉を切って、足早にその場を去ってしまった。リリアナはその背中を見ながら下唇を噛み締める他無かった。
兄が忙しい人であることは考えるよりも先に知っていたことだ。その彼の時間をもらうために私は私でしなければならないことがあったのに、それを疎かにしてしまったのだ。
「――リリアナ姫?」
その声にはっと顔を上げると、ディオンが心配そうにリリアナの顔を覗き込んでいた。
「頑張るのは良いが休憩もしなければ身体に毒だよ?」
「はい。でも」
「リリアナが休まなければ侍従たちも休めやしないんだから、君がきちんと休むことも仕事なんだよ?ほら、アレクに茶菓子を持って来させたからみんなで休憩にしよう」
それでも食い下がるリリアナへディオンは諭すように優しく笑って告げた。
リリアナは一分一秒の時間すら惜しいような気がして、気ばかりが焦っていた。
兄であり国政にも参加しているギルバートに協力を仰ごうと昨晩話に行ったのだが話すら聞いてもらうことができなかった。兄がリリアナへ言ったのは一言、計画の概要を紙にまとめてから来いということだけだった。それ以外には賛成も反対も言われなかったが、きちんと紙にまとめない限りは話は聞いてもらえないらしかった。
言われてみれば普通仕事で何かを企画し会議を開催する場合はきちんと概要が書かれた企画書がいる。それを作らずに会議だけしようとしても論点がずれてしまったり、話さなければいけないことを話せなかったりするだろう。
リリアナ自身も前世では、新人の頃に会議の資料の完成度が低くて上司に叱られたことがあった。そう、そこまで考えてはっと思考が止まった。
ふいに思い出した前世の記憶はリリアナの思考を奪ったが、驚いたことにそれを思い出したのは久しぶりのことだった。幼い頃はいつも前世の記憶が自分の中にあって、つい最近まで起こっていたこととしてはっきりと思い出せたものだった。しかし、今ではこのようにふいにきっかけがあって思い出す以外には前世の自分のことを思い出すことは叶わない。
――そういえば、自分の名前は何だっただろうか。
「――そうですとも。姫、さぁどうぞお召し上がり下さい」
黙ったままソファーへ座ったリリアナへディオンの侍従であるアレクがすかさずお菓子とお茶を差し出してくる。この部屋に来る前に準備したらしいそれはほかほかと温かな湯気を発している。
「……そうね。みんな休憩にしましょうか」
「はい!」
リリアナは軽く首を振って無理やり考えるのを止めると、作業をしていた二人に声をかけた。すると机にじっと座っていたジゼルが嬉しそうに声を上げた。
「ほらね。ジゼル嬢だってお疲れだよ。さぁ、おいしいお菓子を用意したからね」
「……も、申し訳ありません」
思わず上げてしまった声色にはっと冷静になったらしいジゼルは顔を赤に染めて恥ずかしそうにしている。そんなジゼルをディオンはにこにこと微笑みながら見て、アレクが菓子を差し出す。
「あのジゼルがそんなにお疲れだなんて珍しいね。君は一体何をまかされているんだい?」
「私は王立学校に通っていたときの教材を取り寄せて、思い出しながら授業で扱った内容をまとめております」
「授業で扱った内容を?」
ディオンはジゼルが語った内容を興味深そうな笑みで聞きながらお茶を口にしている。
「ええ。この国の学校とは王立学校か騎士学校くらいしかありません。ですから学校を作るとなるとまずはその学校について考えてみようと思いまして」
「うん。それは良いことだね。そういえば、明後日ユリシアがヴィルフリート様と王立学校に視察に赴くと聞いたよ。良い機会だからリリアナもご一緒させて頂くと良い」
「でも、いつもはユリシア姉さまのご公務のはずですわ」
「リリアナ。王族の仕事は君も行わなくてはいけない義務だよ。今までは彼女が率先して行っていただけのこと。君はもう大丈夫だろう?」
そのディオンの言葉にリリアナははっと気付かされる思いだった。学校への視察や教会への訪問は三人いる王女の中ではほとんどユリシアが行ってきた公務だった。だからそれはユリシアの仕事であるとリリアナは思っていた。それはリリアナの体力面で不安があったこと、そして美しい彼女が行った方が民も喜ぶであろうという安直な考えであった。
しかし振り返ってみると、それはリリアナの逃げの気持ちだった。人前に出たくない、恐い、自分よりも姉の方が相応しいはず。そのマイナスの気持ちをディオンには見透かされているようだった。
「……そうですわね。私はもう体力面での心配も少ないですし、公務にも慣れないといけませんわね」
「何事も習うより慣れろって言ってくれたのはリリアナ姫だろう?」
「そうでしたか?」
自分に言い聞かせるようなその言葉をディオンはにっこり笑って頷いている。そして出てきた言葉はどこか耳に懐かしい。
「何ですか?それは?」
「本や人に聞いているよりも、実際にやってみた方がよく身につくということよ」
不思議そうな顔のローレンスに説明しているうちに段々のこの言葉がこの国の言葉でない実感が沸いてくる。
「聞いたことのない言葉ですけれど、誰かの名言か何かですか?」
「……誰に聞いたのだったかしらね」
ジゼルに誤魔化すように笑みを浮かべると、その続きを制するようにティーカップに手を伸ばした。自分の中で前世がまるで霞のように曖昧になっているのがはっきりと分かった。しかし、それは自分というものの足場が無くなるかのように、これほどまで不安な気持ちになるなんてその瞬間までまで思ってもいなかった。




