01 甦った記憶
気が付くとリリアナにはもう一つの記憶があった。それはフォンディア王国第三王女リリアナ・メル・フォンディアとしてのものではなく、こことは違う世界に生きた極々平凡な女性だった頃の記憶だ。それが前世の記憶だと気付いたのも、前世の記憶によるものだった。子どもの中にはお腹の中に居たときのことや、前世の記憶を持つものが居るらしいというのを聞いたことがあったからだ。聞いた時は半信半疑だったけれど、これがそれなのかと妙にしっくり来た。
子どもの頃に前世の話などをしても乳母たちはかわいらしいと笑うだけであったけれど、物心が付いてからもそれを言うと眉を潜められた。そこでようやくリリアナはこれは口に出してはいけないことなのだと気付いた。そして前世の話を聞かれても分からない顔をしていると、彼女たちは安心したらしかった。それ以来、リリアナは前世の記憶を自分の内の中で留めている。
しかし、記憶があるといっても断片的なものだ。何かの出来事があって、少しだけ思い出す。記憶というよりも、誰かの記録を持っているという感覚の方が強かった。だから、今まで記憶に変に振り回されることもなかったのだった。
そうしてしばらく年を重ねていくごとに気付いたことがある。それは社交デビューのために着飾った三つ年上の異母姉の姿を見た時だった。
――私はこの人を知っている。
ざわりと全身に鳥肌が立った。外に見えている首に鳥肌が立たなかったのは日頃からの姫としての教育の賜物だったのだろう。そのおかげでリリアナは周りに不審がられることもなく姉の容姿を賛辞する挨拶を述べることができた。
この世界はリリアナが前世で読んだ漫画の中の話だった。今思えば姉やその婚約者の名前から思い出してもよかったようなものだが、そうはいかなかった。この世界は間違いなくリリアナが前世で過ごした場所のように三次元で、美しい姉も漫画での姿に似てはいるが漫画のような顔はしていない。だからこそ今回成長して着飾った姿を見るまで気付くことができなかった。
リリアナの美しく優しい姉、ユリシアは物語のヒーローである騎士と恋に落ちるメインヒロインだった。思えば陰の薄い妹が居た気もするが、その当時は気にも留めていなかったのだろう。おかげで今まで気付くことがなかった。自分の置かれた場所に気付いた時は頭が真っ白になったが、しばらくすると立ち直り今後の身の振り方について考えるようになった。
物語の結末は姉のユリシアと騎士が結ばれてめでたしめでたしではあるのだが、そこまで道筋が凄まじかった。お約束の敵国の王にユリシアが攫われたり、税と飢えに苦しむ平民たちから反乱が起こったり…だ。物語としては波乱万丈な中、心を通わせ問題を乗り越えていく面白いものだったと記憶する。
しかし。陰の薄い妹はエンディングの際には登場しなかったはず。おそらく何かしらの事件で死ぬのだろう。前は物語の中の話だったが、今は自分に降りかかった話である。
そして、リリアナは決意する。――運命を変えようと。
良い方のイベントであれば問題ない。けれど、悪いイベントであるならば起こらないのなら起こらないでいる方がずっと良い。そしてリリアナは聞き分けが良くて陰の薄い大人しい姫であることを止めた。元々、前世の記憶うんぬんで心配する大人たちの目を背くために始めたことだった。元の性格に戻るだけのことだ。ただ、それも彼らの目が届かない場所でに限ったが。
「……今日は疲れてるからもう休むわ。あなたも下がっていいわ。 何かあればジゼルに言って」
「はい。かしこまりました。それでは、リリアナ様。御用がありましたらベルを鳴らしてくださいませ」
「ええ。ありがとう」
侍女はリリアナの顔をまともに見ることもせず、形だけの礼をして部屋から下がった。リリアナは王都を離れ、静養のために離宮で生活している。王城のように煩い監視役は少ない上に、大人しく部屋に篭りきりのリリアナは侍女たちにとって都合の良い姫だった。リリアナの担当になると仕事は楽でいくらでもサボることができ、給料は他と変わらない。
「……行ったわね」
ふかふかの絨毯が一面に敷かれた床は静かに歩けば音などしない。リリアナはゆっくりドアに近づいて、侍女が居なくなったことを確認するとベッドに人の厚みほどの膨らみを作り、重いドレスを脱ぎきれいではあるが王女が着るものには劣る素朴なそれに着替える。そして今の時期は使われていない暖炉に近づくと、その横にある本棚の小さな突起を押した。すると、重厚で動くなんて考えられもしないそれが音もなくすうっと人一人分だけ動いた。リリアナはそこに体を入れて翻ると壁の突起を押して本棚を元の様に戻し、暗く湿った細い道を慣れた様子で小走りで抜けた。
そして人に隠れてやってきたのは町外れにある孤児院だった。そこには先の戦乱や飢えにより捨てられた子ども達が暮らしている。そこで王女リリアナが何をしているのかと言うと。
「リア様、待ってたよ!」
にこにこと笑いながらリリアナの腰に纏わり着くのは離宮のある小さなこの町に住む二、三十人にも及ぶ子ども達だ。リリアナはその衝撃を受け止めると、嫌な顔をするわけでもなく優しい笑みを浮かべる。
ここではリアは王女と一緒にやってきた貴族の娘と偽って、リアという名前で生活している。家名は親に内緒でやっているからという理由で明かしていないが、誰も無理に聞こうとはしなかった。平民にとっては貴族のことはよく分からないのもあるだろうが、皆温かくて優しい人たちなのだ。
「さぁ、みんな。お勉強の時間よ」
「はーい!」
リリアナは子ども達を連れて、古いが手入れの行き届いて小奇麗な建物に入って行く。建物に入ると、リリアナは小さな黒板とチョークを取り出して子ども達にも同じようにぼろぼろのそれらを取り出し笑顔でリリアナを見る。
「今日はこの間の続きをするわよ。掛け算、覚えているかしら?」
「うん!当然だよ、リア先生!」
リリアナの声に子ども達は自身を持った顔でリリアナを仰ぎ見た。
「……それじゃあ、3×5は?キース分かる?」
「えっと、3×1、3×2、3×3、3×4……ええと。15!」
「うん、正解。よく出来ました」
生徒の答えにリリアナはにこりと笑った。
リリアナが運命を変えるために始めたこと。それは、町の子ども達への教育だった。リリアナが初めて町に降り立って気付いたことがある。それは、就職率の悪さだった。文字が読めないこと、計算ができない人ができる仕事は簡単な雑用や力仕事、単純な作業とかなり限られてしまう。しかし、そういう仕事もたくさんあるわけでもなく、あっても給料が低い。そうなるとおのずと仕事に就ける人は少なくなり、お金に困る人は増える一方である。
そこでリリアナは考えた。識字率を上げ、様々な仕事に就けるようにしようと。ただし、この国は貴族以外の一般市民には学校に通うという概念はない。だから孤児や一般市民に向け、給食付きの学校を始めることにしたのだ。お金に困る家庭は子どもの内から働き始めることが少なくない。そういう家庭は一日に一食ということも少なくなく、学校に来ると必ず一食食べることができるというのは学校に来始める動機にするには十分だ。
「リア先生、今日の給食は何ー?」
「今日は豆といものスープとパンよ」
「ぼくおなかすいたー」
「あたしもー」
「ふふ。それじゃあ、この問題を解いたら給食にしましょう」
「はーい!」
さらさらと黒板に走らせた計算式を子ども達は真剣に見つめ、自身の持つ黒板に写していく。リリアナは教室を周りながら子ども達に指導していく。悩んでいる子、すぐに解ける子、勘違いしている子それぞれいるがどんな子どもにも平等に声をかけるようにしていた。
しばらくすると、スープとパンの匂いが子ども達の鼻を刺激したようでそわそわと落ち着かない様子の子が増えてくる。リリアナはそれにくすりと笑みを零して手を叩く。
「それじゃあ、ここを片付けてお昼にしましょう」
そう言うなり立ち上がり片付ける早さは準備の時の倍だ。リリアナは片付け終わった子ども達に手を引かれて、食堂へ移動した。
そして子ども達と賑やかで楽しい食事を済ませ、さっと着替えると孤児院の裏の畑へ子ども達と移動する。午前は町の子ども達も含めて勉強を行うが、午後は時間のある子と畑仕事を行う。そこで作った野菜は給食や孤児院の食事へ回されるのだ。リリアナがお金を出して食べ物を買うのは簡単だ。だが、子ども達と食べ物を作ることの大変さを共有したかった。こういうことはリリアナが王女でいる限り、忘れてしまいそうになることであるから。
子ども達と遊びながら土に塗れて雑草を抜いていると、孤児院を管理するシスターが一人の男性を連れて畑に現れた。そこでリリアナは今日来た時に、シスターが今日は孤児院へ見学のお客さんが居ると言っていたのを思い出した。
「リア様、少しよろしいですか」
白に青のラインが入った制服は間違いなく騎士のものだった。リリアナが王城で生活していた頃にはよく見かけたもの。しかし、この片田舎にある離宮では見ることのない制服だ。リリアナは首を傾げながらも、リリアナの出自がバレないだろうかとどきりと胸を鳴らした。近衛騎士でもない限り、騎士が王女を見かけることはないだろうし、子ども達と走るのにも適した様に素朴な服でさらに土埃を被って髪は簡単にまとめただけこの格好だ。リリアナは覚悟を決めると、にこりと笑顔を作って騎士を見た。
「はい、何でしょうか」
エプロンで手を簡単に拭くと、シスターと騎士の元へ足を進める。
「――ようやく見つけました。私の姫様!」
そう言ってリリアナの手の甲に口づけを落とす彼をリリアナはぎょっとして見つめた。簡単に拭いたとは言え、きれいではない手だ。金髪にアイスブルーの瞳に射抜かれ、リリアナの記憶の一つが甦った。
この男は登場人物の一人だった。