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僕が「熊殺し」と言う名でチンピラ共の間に知れ渡っている理由は、別に旭山動物園のシロクマをタイマンで倒したから、と言うわけでは全くない。2年程前、商店街で難癖をつけてきた「ヒグマ」と言う通り名のでかいチンピラを大腰で放り投げ、腰を潰して下半身不随にしかけたことがあるからだ。親父直伝の半端な柔道技でも、受身を知らない素人相手になら充分通用する。さして腕力は無いが、いくつかあるそれ等の技が僕の身の上だった。
「へえ、物騒な名前で通ってるんだ。昔の猟師みたい。」
「一応警官の息子だよ。」
うるさいサーバーの山の向こうから現れた女は、趣味の悪い赤黒いタンクトップからヘソを覗かせていた。小野田絵里、と名乗った白い女は草臥れたソファーに腰掛け、腕を組んで目を閉じている。警官の息子、とは言ったものの当然こんなドンパチは初めての僕は、今更になって全身に疲れが回り始めているのを感じていた。
「さて、まずはお疲れ様。座っていいよ。」
「汗でソファーを汚しそうだ、やめとく。」
実際は、座ればそのまま寝てしまいそうだから。女は気味悪く笑うと、ポケットから何やら小さな袋菓子を取り出して、僕に投げて寄こす。半分ほど残ったコアラのマーチだった。
「自己紹介、まだよね。私は淡路優梨。ユーリって呼ばれてるけど、まあ適当に呼んで。歳はあなたより上、とだけ言っとく。私はここ“淡路警備”の代表をしているの。分からない事があったら、何でも聞いてくれて構わない。」
分からない事だらけで何を聞けばいいのか分からなかった僕は、首を横に振った。淡路優梨は再度悪趣味な笑みを浮かべ、
「そうそう。あなたの父上から伝言...つか手紙を預かってるの。」
ホルスターのぶら下がったジーパンのポケットから、折り畳まれた紙切れを取り出した。ホルスターには、警官ご用達のSIGが刺さっている。昔、僕がぶっ放したのと同じ奴だ。使い勝手のよさが売りらしいが、訓練無しで使いこなす事はやはり無理なのだろう。
くたくたのレポート用紙には、親父の汚い筆跡で「しばらくそこで世話になれ。」とだけ書いてあった。無責任もいい所。僕がそいつをさっさとポケットに突っ込むと、淡路と言った女は欠伸とともに話し出した。
「あなたの父上は、今現在、外せない用事で県外にいる。これが速達で届いたタイミングと今日のドンパチのタイミングから見て、間違いなくこの件に絡んでるわ。父上が何をしたのかは調査中だけど、その報復か、人質にするかで中国人に追われてるのよ、あなたは。タッチの差だったわ。相手の仕掛けが予想より早くて、少し驚いた。ていうことで、駒が少ない現時点での油断は即命取りになる。いつ敵が反転攻勢に出るか分からないから、私達は厳戒態勢を布いてるの。だから安心して、とは全く持って言えないから、そのつもりでね。とはいっても命の保障くらいはしたげる。分かった?」
何となく状況が見えてきていた。
「つまり、僕は親父が関係している何らかの厄介事に巻き込まれていて、それが収まるまでしばらくここで世話になる、と言う事か。」
「そうそう、物分りがよくて助かるわ。」
「あんたの説明が回りくどいだけだ。」
そう言うと、女はけたたましい笑い声を上げた。何こいつマジウケル。死語。合羽女がおっかない目でこちらを睨んでいた。
「はーあ、笑わせてくれるわね、あなた。じゃ、今日のところはそう言う事だから、お疲れ様。部屋にはエリが案内してくれるわ。んじゃ、そういう事で。お休み――」
一方的に話を切られた。エリ、と呼ばれて立ち上がった白い女は、そのまま黙って部屋を出て行く。付いて来い、と言う事か。僕はその背中を追って、部屋を後にした。
一瞬、目の端に部屋の中から手を振る大女の姿が見えた。結構綺麗な人じゃんか。
案内された部屋は、やはり暗い階段を登った5階の、右へ曲がって2番目の部屋だった。窓の無い、少し狭いが小奇麗な部屋。広さはそこそこある。薄型テレビは台湾製。円卓が一つ、そして壁際に支柱丸出しの質素なベッド。触ってみると少し固めだが、眠るのに不自由はなさそうだ。引き戸のクローゼットが一つ。何故かコンセントが4箇所もあった。
「トイレと、シャワーはこっちだ。」
小野田が壁際のスチールのドアを開いていた。ビニールカーテンのついたバスタブ。その対面の扉の向こうはトイレなのだろう。それより、バスタブのさらに向こう側に見える扉が気になった。
「あの扉は?」
「あれより先は私の部屋だ。」
道理で無駄に風呂場が広いわけだ。小野田は小さくため息を吐く。
「兼用。部屋も隣同士だから、あまり大きな音を立てるな。」
「了解した。ところで、僕の着替えはどうすればいい。」
「あの中だ。」
合羽はクローゼットを指差す。そこを開けると、中にはダンボールが山積みされていた。
「お前の家から持ち出した。時間が無くて選べなかったが...」
「いつの間に。」
「今日の日中。お前が家にいない間に、大家に協力してもらった。大丈夫だ、危害は何も加えていない。」
どんな協力かは容易に想像できた。大家のじーさん、何年寿命をすり減らしたのだろうか。
「洗面道具一式と、そしてノートPCもその中のどれかに入っている。」
「おお、そりゃ助かる。」
ノートPCは大いに助かった。小金稼ぎにやってる同人イベントのポスター制作は唯一の収入源だったからだ。小野田はそれだけ言い終えると、さっさとスチールの扉を閉め、自分の部屋に戻っていく。無愛想な奴。まあいい、この件が終わるまでの付き合いだ。適当にやっておけばいいだろう。とりあえず、僕はダンボールの中から着替えとPCを取り出しにかかった。
この日はシャワーを浴びると、顔を洗ってすぐにベッドに横になった。11時を過ぎた頃、思い出したかのように腹が鳴り出したから、さっきもらったコアラのマーチをつまんだ。甘さが舌に染みる。適当に空腹をごまかしつつ、PCを起動してみる。ネットは切断されていた。そりゃそうか、と妙に感心しつつ、ポケットに放り込んだまま忘れていたケータイを呼び起こす。太陽光充電。電波は圏外。ビルのどこかにジャミング装置でも仕掛けているのか。まあいいや。コアラのマーチを片付けると、PCを落として目を閉じた。一生分の非現実を目の当たりにした僕の脳はくたくただった。思考がものの見事に停止している。凝り固まった巨大な脳味噌を前に、へらへらと意味不明な笑顔を浮かべて踊る自分の姿が見える。思考停止のイメージ図。どでかい脳味噌は、僕の意思に反抗して頑なに僕の目の前に居座り続けた。
それが夢だと気付いた時、僕の意識らしきものは突然ぷつりと途切れた。
第1章 バチ当たりロンリー・デイズ 終