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階段を登りきった2階は、エントランスとは違って蛍光灯の光であふれていた。
長く流れる髪に隠れてはいるが、この女が耳にイヤホン型のヘッドセットを着けているのに気が付いた。右手で得物を持ちながら、反対の手で時折耳元を押さえるからだ。とても通信状況がよさそうには見えないから、きっとアナログ電波に乗せているのだろう。
「受信のみか。」
僕ぼそっと呟くと、白い女は酷く驚いた。
「――なぜ分かった?」
「耳に手を当ててるし。発信しないの?」
「黙っていろ。」
女は答えないが、きっと盗聴対策だろう。それなら大層な矛盾だ。アナログなんて周波数を合わせれば誰でも盗み聞くことが出来るのに。性懲りもないことは分かっていた。
「盗聴防止ならデジタルの方が安全だろ。」
「黙れ。」
案の定軽くあしらわれて、また耳に手を当てる。10秒ほど待った後、手招きされ、さらに上に続く別の階段を登るように言われた。背中を小突く短機関銃の硬い銃口。アナログな奴。
通された3階の隅にある部屋は、小奇麗な応接間だった。部屋の中央で、黒い牛革のソファーが木製のテーブルを挟んで向かい合っている。照明はかなり落としていて薄暗いが、奥の机ではそれを感じさせないほど煌々とデスクトップのPC画面が輝いている。壁際一面に整然と並べられた会議机。唸るクーラー。窓は全て閉められ、シャッターが下ろされていた。
「お連れした。」
「あ、着いた?お疲れ。」
合羽の声に、PCの向こうから別の女の声が答えた。
「いや『お疲れ』なんてのんきな事言ってる場合じゃないわね。エリ、あんた暴れ過ぎ。いくら相手が重装備だったとはいえ手榴弾以外にも方法はあったでしょ?」
エリ、と呼ばれた白い女は、僕の隣に出て来ると、やや不満げに言い返す。
「時間が無かった。あのまま駅に到着していれば敵の援軍も考えられた。」
「あのねえ、阪急ぶっ飛ばしたこと忘れたわけじゃないでしょうね。もみ消す側の事も考えてよホント。」
一つ溜息とともにPCの影から立ち上がったのは、30手前くらいに見える女だった。金に染めたポニーテール。市街地戦用のグレーの迷彩ズボンに、黒のタンクトップを合わせている。身長はかなり高く、優に170はある。僕と同じくらい。目つきが悪いが、まあまあ美人。右目の縁に傷があった。刃物でやられたような縦の傷ではなく、火傷か何かのような、周囲を囲むような傷跡だった。僕の知るところではない。
「んで、あなたが楠下章君?」
「なんで知ってんの。」
女は僕の方を向き直って言い、ふーん、と何やら唸りながら、僕を品定めするように足元から頭の先までじろじろ見回した。そして、目を合わせると、その女は信じられないほど凶暴な笑みを浮かべた。
「いいツラしてんじゃん。ふてぶてしい所、少し面白いかも。」
「だから何で知ってんの。」
僕は言った。言った後で後悔するのがいつもの僕なのだが。
「これは一体何なんだ?何であんたらは僕の事を知ってる?あの銃撃戦は何?答えてくれ。」
目の前に立つ女は見る見る目を丸くする。隣の合羽女が少し動いたのが分かった。やらかしたと思った。こいつらが海外系マフィアなら人質を黙らせるのに足を撃つ。いつでも反転して何かしら技をかけられるように身構えていたが、女とはいえ、得物を持った奴と、その対面で挟み込むように立つ大女を同時に相手に出来るわけがない。
「うわ、よく喋るね、君。」
目つきの悪い方が感心したように呟いた。ダメだ撃たれる。僕はどう横に飛び退いて弾を避けるか頭の中で瞬時にシュミレーションする。すぐ側に革のソファーがあった。撃つなら目の前の大女が何かしら合図を送るに違いないから、その瞬間そこの裏に飛び込んで受け身すると同時に立ち上がって扉に走ろう。問題はその合図だが、大女は僕の目を真っ正面から覗き込むように見ていて視線を読むどころの問題では無かった。動けないし、そんな大層なこと出来るわけが無いだろう。
「ほんと抜け目が無い。」
女が何やら感心したように呟いた。そして目を合わせたまま言った。
「エリ、合格点。その恥ずかしいボロ銃をおろしなさい。」
軽い舌打ちが聞こえた後、背後から得物の気配が消えた。大女は続ける。
「いい目してる。世間をナメて生きてきた高慢な目、少々危険すぎるくらい。丁度よかった。」
まあ座りなよ、と言われ、僕は目前の女から視線を離さずに、傍のソファーにゆっくり腰を降ろす。タバコの臭いが昇ってくる。女はズボンのポケットからセブンスターを取りだし、僕の正面に座って足を組む。高圧的。ナメてるのはどっちだ。
「わけわかんねぇ。」
僕は言った。
「でしょうねぇ、私達ですら泡食ってるんだから。」
女はさも当然とでも言わんばかりに笑う。
「でもこれは本当に都合が良い、とんだヘタレならどうしようかと思ってた。」
「何の話?」
僕が尋ねると、大女は折れ曲がったタバコに火をつけながら言った。
「何の話も糞も無い、端的にここでバイトしない?てこと。人手が足りなくて困ってるのよ。」
「はあ?」
一瞬思考が停止した。
たいがい呆れた女だった。阪急を爆破してまで連れてきたかった人材なのか。僕は開いたまま塞がらなくなりそうな口を懸命に動かした。
「何の話してんだ、得物を持って走り回れ、ってのか。」
どうせ就職するなら命の懸からない業種がいいに決まってる。そう言うと、女は急にむせ返って、盛大に咳き込んだ。
「待ってよ、こりゃクライアントも大したもの預けてくれたもんね。」
「クライアント?預けた?」
馬鹿にされる以上に引っかかった。
「待てよ、何も知らないぞ。」
そうだ。僕は横に立っている白い合羽と中国人達に阪急の車内で急襲され、そのまま連れ去られたのだ。どっかの被害者の会にでも助けを求めようか。
「そりゃそうよ、だって極秘任務だったもの。」
「何それ。」
意味不明なことを言い続ける女は、また見下したような笑みを浮かべた。
「狙われているんだよ、君は。」