02話 僕の日常
小さくノックの音がして、僕は顔を上げた。
「どうぞ」
返事をすると、三十代くらいの青年がドアを開けた。こげ茶色の髪に同色の目という地味な色合いではあるが、どこか色気を感じる美人だ。
「失礼いたします」
青年――フレドは一礼する。
「フィル様、またお一人で着替えなさったのですか?」
呆れたというよりは困ったように言うフレドに、僕は苦笑しながら本を閉じる。
「だって、早く目が覚めるんだよ。もう一度寝るのはどうかと思うし、着替えないままだと寒いでしょう?」
「ですから、そういった場合には私共を呼んでくださいと何度も申しております」
他の国でどうなのかは知らないが、この国の貴族の一般的な起床時間は大体十時過ぎだ。しかし、僕は少なくとも八時には起きている。八時頃は使用人達が尤も忙しくしている時間帯なので、たかだか着替えくらいで人を呼ぶのははばかられた。
曖昧に笑ってごまかす僕に、フレドがため息をつく。言っても無駄だと悟ったらしい。それでも注意は続けるだろうが。
本来なら、こうやって僕の前でため息をつくなど使用人としてのマナー違反である。しかし、祖父の代から執事長をしているフレドは僕達にとっても家族のようなものであり、今のように他に誰もいない場で遠慮でもされようものならこちらの方が気落ちしてしまう。フレドもそれを重々承知なので、いくらかくだけた態度をとってくれているのだ。
「あ、そうだフレド。そこにある本を返しておいてくれる?読み終わったから」
「はい」
初めはこうやって頼み事をするのにも気が引けて自分でやろうとしていたが、最近は慣れてきた。命令する事は若干抵抗が――というよりは申し訳なさがある。それでも今のように頼むのであれば普通にするようになった。こればっかりは慣れしかない。
「朝食はいかがいたしましょう」
「バスケットに入れてくれる?外に行くから」
「かしこまりました。では、そのように」
朝が遅い貴族達は、朝食をとらなかったりヨーグルトやお茶だけだったりする。しかし、早くから起きている僕には少し少ない。
僕が八時に起きるのは毎度の事なので、予想していたのだろう。今は九時前で、使用人達の仕事が一段落ついた頃合いだった。フレドの気遣いがわかって、少し頬が緩むのは仕方のない話だと思う。
◆◇◆
この屋敷は公爵家の本邸なだけあってかなり広い。どのくらいかっていうと、庭も含めてディ●●ーランドの(最低でも)五倍くらいはある。他に使用人の宿舎や騎士達の訓練場等もあり、ここは城かとつっこみたくなるくらいだ。
僕はその庭の一角にある湖のほとりの花畑に来ている。花畑はともかく、なぜ庭に湖があるのかとつっこんではならない。きりがないから。
湖と花畑は僕のお気に入りスポットのうちの一つだ。
オンハーツには魔物がいる。だから迂闊に街から出られないのだが、当然の事ながらきれいな湖なんてものは外に出ないと見られない。しかもこの辺りは強い魔物が多いらしく、僕が遊びに出掛けようと思うとたくさんの護衛が付いてくる。きれいな景色は好きだが、そうまでして見たいとは思わなかった。
それに比べ、ここはうちの敷地内なので比較的安全だ。軽いピクニック気分で来る事ができる。
……尤も、あくまで比較的だが。
「偉い人って暇なのかな」
僕は思わず呟いた。
確かに僕はリッツィア王国の第五王位継承権とシクラン王国の第二王位継承権を持っているが、一位ではない。普通に考えて公爵家の方を継ぐに決まっている。長男なのだから。
貴族の位を持ちながら国王になるという例がないわけではないが、ブーゲンビリア公爵家が代々治めるフィーリッツ地方は少々――というかかなり厄介な土地だった。正直、こっちだけで手一杯でとても国なんて治められない。
つまりはまぁ、危険視するだけ無駄なのだ。父上や母上も野心家ではないし。
「……ま、愚痴を言っても仕方ないか」
持って来ていたバスケットと本を置き、僕はパチンと指を鳴らした。
【風よ――フィーラ】
本当は詠唱など必要ないのだが、あえて唱える。風の刃は真っ直ぐに近くの茂みへ飛んで行った。
「っ……」
かすかな声が聞こえると同時に、別の方向から魔術と短剣が飛んで来る。
【解除――カーマンド】
一言で魔術を打ち消し、短剣を軽くかわす。
【氷よ――ヒョルマ】
氷柱のように先の尖った氷が、目にも止まらぬスピードで二方向に飛んだ。声が漏れないのはさすがだが、手応えはあったので当たっているはずだ。
「リシア」
「はい、フィル様」
僕の前にショートカットの少女が現れる。少女といっても、僕より何歳も年上だ。
黒い肌に白い髪。瞳は赤で、耳が尖っている。彼女――リシアはダークエルフであり、年齢も外見通りではない。
「傷を負った刺客は部下が連れて行きました。……お見事です」
「合格だったの?」
「はい。見事に急所ギリギリです」
リシアは僕に暗殺術を教えてくれる先生だ。暗殺から身を守るならば自らも暗殺術を学ぶべし、というのがリシアの考えで、父上も賛同している。以前はただの顔見知りだったのだが、七歳の頃からかれこれ三年の付き合いだ。
彼女によると、暗殺に来た刺客は殺さず捕らえるのがベストである。もちろん最優先は護衛対象の命だが、余力があれば尋問でも拷問でもして送り主を吐かせるのが良い。刺客の証言だけでは表立って責められないが、警戒する事はできる。
「気配察知は完璧。魔術も反射しませんでしたね」
「だってあれ、火の魔術だったでしょう?」
下手に反射すると木が燃える。
「えぇ。短剣も刃にぬってある毒に気付いて避けましたし、文句のつけようがありません。……これ以上、私から教える事はございませんね」
リシアがふっと表情を緩めた。普段が無表情な分、こうして笑うと幼く見える。
「これからの護衛はいかがいたしましょうか」
今までは僕の訓練のためにわざと刺客を見逃していた。しかし、合格をもらったのでその必要もないというわけか。
「適度に漏らしてくれないかな。鈍ったら困るし」
「かしこまりました」
「あ、待って」
一礼して消えようとしたリシアを呼び止め、バスケットから薄い紙に包まれたサンドイッチを取り出す。
「はい、これ。これからもよろしくね」
僕よりも早く起きてまともに朝食も食べてないであろう彼女に投げて渡す。リシアは小さく見開き、目だけで笑った。
「ありがとうございます 。……では」
僕はリシアがいたところをちらりと見、木の下に座って本を開いた。
12/26 誤字修正