呪い
「し、椎奈、サーシャさんに何をしたの!?」
詩織里が半ば悲鳴のような声で尋ねると、冷酷な声が返ってきた。
「こいつが旭にかけた呪いを返した。数日掛けて旭の命を奪おうとしていたものが凝縮し、呪いをかけた張本人の命を奪おうとしている。呪いというのは、命を奪う事を本能とする化け物のようなものだ。呪う対象を失えば、産みだした本人の命を奪う。魔術師も術師も呪い返しから身を守る術くらい知っているが、拘束術で魔術を封じている為にそれも出来ず、呪いをその身に受けている。2人とも覚えておけ。これが、呪いだ」
その言葉に、もう1度サーシャさんを見る。皮膚が爛れ、涙を流して苦しんでいるサーシャさんを見て、胸が強く痛んだ。
これが、呪い。人を恨む気持ちが積もった、人の1番醜い部分が凝縮したもの。
呪ったのは、サーシャさんだ。彼女は、これを旭先輩にかけていた。椎奈が返さなければ、旭先輩がこうなっていたんだ。
それは分かっている、けど。
「椎奈、もうやめて」
震える声で、椎奈に懇願した。椎奈が、無表情にこちらに目を向ける。
「もう十分だよ。旭先輩は、もう大丈夫なんでしょ? もういいじゃん。……だから、殺さないで。これで殺したら、椎奈がサーシャさんを呪い殺した事になっちゃう」
「その通りだ」
少しの躊躇う間も置かずに返ってきた、椎奈の答えは。私の耳に、この上なく残酷に響いた。
「以前にも言ったと思うが、術に呪いは多い。陰陽師は神を祀ると同時に、依頼に応えて呪殺を行う。清濁併せ持った陰陽師は、だからこそ、呪い返しを躊躇いなく行うんだ。そうしなければ、自分の大切なものに害が及ぶから。陰陽師は呪いから、呪い返しから、身を守れる。だが、自分に近いものに力が無ければ、呪いはそのものたちに及ぶ。今この呪い返しを止めれば、呪いは古宇田や神門を襲う。2人に、それから身を守る術は無いだろう? 止める訳にはいかない」
そこで言葉を句切り、椎奈はサーシャさんに視線を向けた。その瞳に浮かぶのは、相変わらず冷酷な色。
「そして、それは魔術師にとっても常識。つまり、術師や魔術師が呪いを行う際は、返される事を覚悟の上で行わなければならない。もし呪い返しを行った相手の力が自分よりも上ならば、死ぬ。それを知った上で、こいつは呪いをかけた。情けは無用だ」
……椎奈の言う事は、頭では理解出来た。きっと、それが椎奈達の常識なんだろう。
でも、それでも、心は納得しない。
「そんな……でも、私は、椎奈が人を殺すところを見たくないよ」
気持ちは同じだろう、詩織里が懸命にそう言うと、椎奈の目に異様な光がちらついた。
「——私が既に、こういう事を繰り返しているとしてもか?」
その言葉に、無意識に、ひっと息を呑む。
「これが術師だ。私が術師を名乗るという事は、何度もこういう経験があるという事。術師をただの妖退治屋と見なしていたのなら、それは大間違いだ。呪いを専門に扱う私達は、魔術師などよりも余程冷酷で、無慈悲だ」
無機質な声でそう言葉を紡ぐと、椎奈はついと左手を掲げた。
左手に青い光が集まり、次第に細長く、あるものを型作っていく。
椎奈の手が、それ——弓を、握った。矢をつがえるような仕草をすると、同じく青い光で出来た矢が現れる。
「さて、ただの人間の魔術師ならばこのまま呪いで死ねば十分だが、こいつは魔物。この程度では死なせない。——跡形残らず消えてもらおう」
氷のような声でそう言うと、椎奈は弓を引き絞り、鏃の先をサーシャさんに向けた。
椎奈が、サーシャさんを殺そうとしている。もう、虫の息の彼女を。
そう理解した時、足が独りでに動いた。椎奈とサーシャさんの間に立ちはだかる形になる。
詩織里が小さく悲鳴を上げた。椎奈は、わずかに眉をひそめただけ。
「古宇田、何をしている。どけ」
強く頭を振った。鋭い眼光に射貫かれる。
「3度目は無いぞ。どけ」
「いや。たとえ今までにこういう事があったとしても、私は、友達が人を殺すのを、黙って見ていられない」
椎奈の目が、さらに厳しくなった。絶対零度の声が、部屋中に響き渡る。
「そいつは魔物だ」
それでも嫌だ。もう1度首を振った。
「確かに私たちは、魔王を倒さなければならない。けど、これは違うでしょ? もう死にかけている相手に追い打ちをかけて、そんな残酷な事をして、何になるの? どんなに卑劣な奴が相手だとしても、私達まで人としての心を捨てちゃ、駄目だよ。お願い、椎奈、やめて」
人を殺せば、自分も傷つく。椎奈が傷つくのを見るのは嫌だ。きっと旭先輩だって、自分の為に椎奈がこんな事をするのを望まない。
何より、ただでさえ重荷を背負っているような椎奈に、これ以上重荷を背負って欲しくない。
「……無意味な情だな。生き残る事を最優先出来ないで、魔物とやり合おうというのか? それほどの愚行を犯す程、自分の生に興味が無いのか」
冷め切った声で投げかけられた問いに、強い意志を持って答える。
「違う。椎奈に、人の心を捨てて欲しくないだけ。非情になれば、相手はもっと非情になる。そんな負の連鎖、誰も幸せになれないよ」
椎奈は、わずかに目を細めた。直ぐに、深い溜息をつく。
「……もう良い。古宇田の御伽話に付き合っている時間は無い。そこをどく気が無いと言うのならば————『動くな』」
妙に語調の強い最後の一言が部屋に響いた途端、足に根が生えたようにその場から動けなくなった。詩織里も同じらしく、焦ったような気配が伝わってくる。
椎奈の持つ弓矢の青い光が、強くなる。眩いばかりだった光は、次第に鋭く、細く収束していく。椎奈の霊力が、今まで見た中で1番高まったのを感じた。
「椎奈、やめて!!」
詩織里が叫んだと同時に、椎奈が矢を放つ。私に向かって飛んでくるそれを見て、思わず目を閉じた。
覚悟した衝撃は、いつまで経っても来ない。
詩織里の声にならない悲鳴が聞こえて、私はそっと目を開けた。
真っ直ぐ私の元に飛んできた筈の矢は、私に突き刺さってはいない。訝しく思って振り返って、……心臓が止まったような気が、した。
サーシャさんの体が、青い光で包まれていた。胸に突き刺さった矢から広がるその光は、サーシャさんから漂っていた嫌なものを消していく。
——それと同時に、サーシャさんの顔から、生気が、失せていく。
「巫女の矢は、悪しきモノを浄化する矢。邪気を持たない人間に対しては何の効力もなさない。古宇田をすり抜けたのは、当たり前だ」
私達の驚いた顔に、椎奈が説明を口にした。その内容にも興味が無い訳ではなかったけれど、それ以上に今は、サーシャさんから目を離せなかった。
青い光は、やがて徐々に小さくなり、————消えた。
サーシャさんは、血の気の無い顔で、目を閉じて横たわっている。
「……死んだ、の?」
「ああ。私たちが今まで顔を合わせていたサーシャは、死んだ。魔物が死んだ、というのも妙な表現ではあるが」
呆然と呟いた私に、椎奈が淡々と返事をした。その言い方に違和感を覚えて、椎奈を振り返る。
椎奈がこちらへ歩み寄ってきた。椎奈のした事がどうしても許せなくて、顔を背ける。
椎奈は私の態度に頓着する様子を見せず、私の隣を通り過ぎ、サーシャさんへとまっすぐ歩み寄っていった。右手が刀印を型作る。
「何を……?」
詩織里の怯えた声に答えず、椎奈は刀印でサーシャさんの額に触れた。サーシャさんの体が、びくりと揺れる。
サーシャさんが、ゆっくりと緑色の目を開けた。呆然とした顔で椎奈をしばらく見上げていたかと思うと、さっと血の気を失う。
「……何か言う事はあるか」
椎奈の静かな問いかけに、サーシャさんは慌てて立ち上がった。眩暈がしたかのようにふらついたけれど、椎奈は手を貸さずに黙って見ているだけ。
「……申し訳ありませんでした……! 私が、無力だったばかりに……!」
事態について行けず、詩織里と面食らって顔を見合わせた。
「……椎奈、サーシャさんを生き返らせたの?」
混乱したままの思考がはじき出した結論を口にすると、椎奈が冷ややかな目でこちらに視線をくれる。
「死者を生き返らせる事など、神でも出来ない」
「じゃあ、一体何が起こってるの?」
もう考えるのを諦めて素直に聞いてみると、椎奈の代わりに、サーシャさんが答えてくれた。
「……私はこの2ヶ月、魔物に取り憑かれていました」