守るという事
この世界では、日付が変わる前にはほぼ全ての人間が寝静まるようだ。勿論兵が見回りを行ってはいる。だが、使用人は既に各自与えられている部屋に戻っていた。
私にとってこの時刻は仕事の終了時刻、あるいはそれでも仕事が残っている時刻である為、この静けさには少し違和感を感じる。
図書室での用件を済ませ、神官の練習場に足を向けた。ここ2ヶ月というもののほぼ毎日訪れているが、未だに誰かに遭遇した事は無い。
ここの神官は、自主練習をしないらしい。騎士達といい神官達といい、向上心の無い者ばかりで嫌になる。
練習場に入り、いつもの結界を張り巡らせる。図書室から拝借した魔術書を開き、もう1度確認した。
精霊魔術水属性、中級治癒魔術。古宇田が使っていたものとは、また違うものだ。相当古いそれは、今では使う者はほぼいないそうだ。魔力の消費量が多い、というのが理由らしい。
「…………」
確認を終え、持っていた小さな石を、五芒星の頂点となるように足下に置く。魔術書を脇に置いて、結印し、深く息を吸って意識を集中する。
青い光が5つの石を線で結び、五芒星が淡く輝く。
時間を置かずして五芒星が宙に浮き上がり、私の目の前で形を維持したまま静止したのを見て、魔術を解除した。
今行ったのは、魔術の動作確認だ。正しく魔術の発動順序を踏んで霊力を流せているか、魔術が完成しているか、調べる事が出来る。大規模魔術などの実際に発動させるわけにはいかない魔術の練習に使われる事が多い。
始めに置いた石は、魔術の杖に使われている石——晶華だ。魔力の流れを制御し、魔力量を調節出来る晶華を使う事で、魔術の動作確認をより精確なものと出来る。
五芒星の形がどれだけ維持出来るか、その動きを制御出来るかが、魔術の完成度の指標となる。
——魔術は問題なく発動している。ならば…出来る筈だ。
左手の袖を捲り、腕を外気に晒す。薄暮の中でも白さを確認できるその腕に、刀印を結んだ右手を無造作に振り降ろした。
左前腕に赤い線が走り、血が滲む。
血が床に落ちないように腕を傾けて、目の前に掲げた。もう1度深く息を吸い込んで、最大限まで集中力を高めて、魔術を、発動する。
青い光が左腕を覆った。霊力が渦巻き、傷に流れ込んだ所で——光が、消える。
傷は、少しも変わる事無く、血を滴らせていた。
溜息をついて、傷に止血の術を掛ける。直ぐに血が止まったのを確認して、袖を元に戻した。
「……やはり、駄目か」
漏れた呟きに落胆が滲む。
師匠に術を教わり始めてから、9年。師匠の教えが適切だった為か、力を求めてただがむしゃらに修行を続けた成果か、師匠に教わった術や術書に書かれた術で出来ないものは無い。旭から借りた魔術書のまとめが非常に分かりやすかったおかげで、魔術も順調に修得している。
——ただ1つ、「治癒」に関する術、魔術を除いて。
師匠に何度も教わって、辛うじて止血、止痛の術は出来るようになった。戦いにおいて怪我をする事は少なくないが、戦闘中に暢気に治癒など行う暇はない。命に関わる失血を抑え、動きを阻害する痛みを取り除くこれらの術を根気強く教えて下さった師匠には、感謝してもしきれない。
旭に出会うまで、それ以外の術を求めた事は無かった。最低限の医療に基づく治療は自学で出来るようになっていたからだ。縫合も出来る。それ以上の治療を必要とする怪我を負う事など、近年は無かった。
しかし、旭と約束した後から、再び治癒術を練習し始めた。術書を漁り、魔術書を読みふけり、ありとあらゆる治癒術、治癒魔術を試した。
更にこの世界で古宇田達とも行動を共にする事が決まり、私にとって治癒魔術の修得は最優先課題となった。
災いをもたらすモノと共に行動して、怪我をしない筈が無い。医療の発達していないこの世界では、治癒魔術が頼り。私のせいで傷付くならば、私が治すのは当然の義務だ。だからこそ、時間を見つけたら魔術書を漁り、今日までに精霊魔術、神霊魔術、理魔術の全ての治癒魔術を試した。
——だが、そこまでしても尚、治癒魔術は成功しない。
今日のように、動作確認は上手くいくのだ。本来ならば成功する筈だが、何度試しても傷が塞がらない。止血さえ出来ないのだから、救いようが無い。
先刻古宇田が治癒魔術を成功させたのを見て、彼女達が自分で身を守る術を手に入れた事に安堵すると同時に、自分がどれだけ出来損ないなのかを突きつけられたような気がした。
確かに治癒魔術は難易度が高いとされている。だがそれはあくまで、「他の魔術に比べて」だ。初級の治癒魔術は他の中級魔術の難易度、という程度の話。上級魔術を当たり前に使える魔術師が初級、中級の治癒魔術に苦労する事は無い。
私が治癒術を1つたりとも満足に扱えない理由にはならない。
「……攻撃魔術なら、練習さえ必要ないというのにな」
自らを嘲る。自分では見えないが、今私の口には、化け物に相応しい、歪んだ笑みが浮かんでいる事だろう。
堪えきれず、低い笑声が漏れる。成程、他者を容易に傷付ける事は出来て救う事は出来ないというのは、確かに災いをもたらす身に相応しい話だ。
「……まったく、あの3人だけで旅出た方が、余程良いのではありませんか? この世界の神よ」
実際に神に届かぬよう言霊を消して、旭と契約を交わした神に語りかける。答えなど必要無い。定めだか何だか知らないが、今私が言った言葉が真実である事に疑いの余地はないのだから。
「これで旭と約束さえしていなければ、私はさっさと姿を消す所なのだがな」
そうひとりごちたとき、旭の言葉が甦った。
『——約束などするのではなかったなどと、言うな』
思わず目を閉じ、頭を振る。
「……旭。何故、私などの側に居たいんだ」
1度も問う事の出来ていない問いを、風に乗せる。
旭には何度も救われた。欲しかった言葉も、知らなかった感情も与えてもらった。
——だが、私が旭に与えたものは、災いと不幸と、歪んだ生き筋。それだけだ。これから先も、それは変わらない。
それなのに、何故。
ゆっくりと息を吐き出して、答えの無い疑問に嵌りかけた思考を止める。
「……戻るか」
日付が戻る前に帰ると言った気がする。日付が変わったからどうしたという話だが、言った言葉には責任は持たねばならない。
結界を解除し、部屋を離れる。そのまま寝室を目指し、人目を避けつつ、やや早足で歩き去った。
部屋の扉がある廊下にたどり着く直前の角で、旭と出くわした。
「……旭、どうかしたのか?」
訓練の疲労か、旭がこの時間に起きている事は少ない。起きていたとしても魔術書を読むだけで、城を徘徊するような習慣は無かった筈だ。
「帰りが遅かったから、何かあったのかと思った。椎奈が言った時間を守らない事など、滅多に無い」
抑揚無く返されたその言葉に、警戒心から周回に出ようと思い至ったらしいと知る。
——これからは、下手に戻る時間を明言するのは避けた方が良さそうだ。
「少し調べ物に手間取り、時間を忘れただけ。何も起こってはいない」
私が治癒魔術を練習している事は、誰にも話していない。私が基本的な治癒魔術1つ使えないと知れば、要らぬ不安を煽ると判断したからだ。
「そうか。ならば、部屋に戻るぞ」
「ああ」
旭の言葉に頷き歩き出したが、旭が動かない事に気付き、足を止める。振り返ると、旭は私に歩み寄り、目の前で立ち止まった。
「……戻るのではなかったのか?」
怪訝に思って問いかけると、旭が私の左腕を取る。
「……何も無かったのならば、この腕はどうした」
そのまま袖を捲られる。止血した傷が露になった。
「何でも無い。部屋に戻って処置すれば、数日で治る」
そう言って腕を引こうとしたが、旭は手を離さない。
「そういう事を訊いているのではない。何故怪我をした、と訊いている」
「敵襲にあった訳ではない。旭には関係ないだろう」
言及を避けるべく手を離させようとするも、思いの外強い握力に既視感を覚えて、振りほどくに振りほどけない。
——この頃、どうも余計な事を思い出す。
心の中で舌打ちをして、先程から無言のままの旭に再び言葉を重ねる。
「戻るのだろう。明日——もう今日だな、今日も訓練はある。休まないと疲労が残るぞ」
ただでさえ、昨日の旭は少し妙だったのだから。
私の言葉に対する旭の答えは、行動で示された。
旭が、腕を捕らえているのとは反対の手を傷にかざした。旭の霊力が穏やかに流れ込む。
旭が手を離した。腕を見ると、傷は跡も残さず消えていた。
「……西洋魔術で、治癒魔術は珍しいな。旭が治癒魔術を使うのを初めて見た」
「理魔術だ。こちらの魔術書に載っていた」
勿論知っている。数週間前に試して、ものの見事に失敗した魔術だ。
「……そうか。傷跡も残らないとは、流石だな」
再び込み上げる自責の念を押さえ込み、表情を変えずに頷いてみせる。
——旭が使えるのは、当たり前だ。
それ以上の会話を避けるべく部屋に戻ろうと踵を返した時、背中に声がかかった。
「椎奈。自分を傷付けるような真似をするな」
その言葉に、嫌でも1月半前に見た夢を思い出す。
全く——何故旭はこれほどに、彼等と同じ事を言うのか。
「その傷、椎奈が自分で付けたものだろう。何故だ」
「……言っただろう、旭には関係ない」
追求を拒む。頭に浮かぶのは、血の気の無い皺の刻まれた顔と、飛び散る赤い華。そして——赤く染まった、凄惨な光景。
もう2度と繰り返さない為にも、旭をこれ以上近づけるわけにはいかない。
——弑名という呼び名に込めた言霊を、願いを、無駄にはしない。
腕を強い力で掴まれた。そのまま無理矢理振り返らされる。
「何故、自分を傷付けた」
私の目を覗き込むようにして、旭が繰り返した。その声から、その眼差しから、絶対に引き下がらないという意志が伝わって来る。
ここで意地を張って黙っていても、埒が明かない。そう判断して、私の欠陥を教える事にした。
「……治癒魔術の練習をしていた。時間の無駄遣いにしかならなかったが」
「練習をする事は、無駄遣いにはならない」
「結果が出ればな。この2ヶ月の結論だ。この国にある全ての治癒魔術を試した。……私は、治癒魔術が使えない」
旭の表情が僅かに崩れた。その顔に浮かぶ感情を読み取る事はせず、淡々と言葉を続ける。
「だが、旭や古宇田が使えるのならばそれで良い。ただ、誰かが怪我をしても、私は役立たずだという事だけは頭に入れておいてくれ」
そう締めくくった私の言葉を聞き、旭がすっと手を伸ばして来た。手は、そのまま私の頬に触れる。肌越しに温もりが伝わって来た。
「誰にでも苦手な事はある。気に病むな。俺が使えるなら、問題無いだろう」
穏やかな口調で告げる旭の手に、そっと触れる。
「……他を傷付けるだけで、救う事の出来ない、半人前の術師。問題無い訳が無い」
「治癒魔術だけが、人を救う手段ではない」
静かに紡がれた言葉に、思わず、先ほどと同じ、歪んだ笑みを浮かべた。
「そうだな。そしてその全てが、私は不得手だ。攻撃魔術は仮令古代禁術であっても1度で出来るがな。……まあ、どうでもいい事だ。旭の言う通り、旭も古宇田も使えるなら、ひとまず問題無い」
一息に言って、旭の手を外す。
「いい加減、戻るぞ。そろそろ誰かが不審に思うだろう」
旭は、外された手を宙に止め、無言で私を見つめていた。何となく背を向け辛く、旭を見つめ返す。
常よりも更に澄んだ光を讃えた瞳で私を見つめたまま、旭は口を開いた。
「——椎奈。俺は、お前が進んで人を傷付けようとする人間ではないと知っている。お前が力を振るうのは、他者を守る為だとも。守る為に使われる攻撃魔術に長けている事は、自分を卑下する理由にはならない。だから……そんな顔をするな」
優しく、言い聞かせるように告げられた言葉に、不意をつかれた。顔を見られたくなくて、慌てて背を向ける。
「……戻るぞ」
「ああ」
旭は短く答えると、私の横に並ぶ。どうにも落ち着かなくて、顔を背けたまま歩き出した。旭もそれに合わせて歩く。
それ以上の言葉を交わさずに、私達は部屋まで戻った。