誹謗とそれぞれの反応
その時。
「魔物だ! あれは、魔物に違いない! あれだけの魔力を、人間が持てるはずが無い!」
アーロンさんだった。椎奈を指差し、怯えた表情で叫んでいる。当の椎奈は、興味の無さそうな顔をしてそれを見やっていた。
「魔王を倒す勇者どころか、魔王の手先だ! 今直ぐあの化——」
その瞬間、アーロンさんが吹っ飛んだ。ユウの時よりも、遥かに速いスピードで壁に叩き付けられる。そのまま張り付けられたように動かない。みしみしと、嫌な音が聞こえて来た。
「……言ったはずだが。他人を侮辱するには、それなりの根拠を持てと。そこまで言うからには、覚悟が出来ているのだろうな?」
凄まじい怒気を含んだ声が闘技場に響き渡った。椎奈の時に似た不自然な風が、更に激しく舞っている。
アーロンさんは息が出来ないのか、だんだんと顔が青くなっていく。
「旭、よせ!」
椎奈が叫び、バチッという音とともにアーロンさんが床に落ちた。椎奈が旭先輩の魔術を止めたらしい。
「椎奈、止めるな。あれを潰す」
「よせと言っている! あの戯けに、旭の手を汚す価値はない!」
剣呑な声で物騒な事を言う旭先輩の腕を、椎奈が抑える。
「アーロン、いい加減にしろ!」
アドルフさんが怒鳴った。怯え切った顔のまま、アーロンさんの元に駆け寄る。
「アサヒ様の言う通りだ、何の根拠も無しに失礼な事を言うんじゃない! シイナ様に謝罪しろ!」
アーロンさんは息も絶え絶えといった様子で、けれど頑固な表情で尚も言い募った。
「……でき、ません。隊長だって、分かっているでしょう。あの魔力が、異常である事位。それを——」
「黙れ!」
アドルフさんが腕を一閃した。鈍い音がして、アーロンさんがその場で伸びる。
「旭、やめろ!」
なおも前に出ようとする旭先輩を、椎奈が押し戻した。
「ヘラー、今日のところは帰る。その戯けは2度と私達の前に姿を見せさせるな。それから、明日までに私の刀を用意しておいてくれ」
早口にそれだけ言うと、椎奈は旭先輩の背中を強引に押して歩き出す。そのまま部屋から出て行った。
「私達も帰ります。この剣はどうすれば良いですか?」
2人が出て行くのを呆然と見ていた私は、詩緒里の声で我に返る。厳しい表情でアーロンさんを見下ろしていたアドルフさんは、心からすまなさそうな顔で振り返った。
「そちらに置いておいて下さい、私が管理いたします。それから、出来ればあのおふたりに、謝って済む事ではありませんが本当に申し訳ありませんとお伝え下さい」
「分かりました」
詩緒里と一緒に、闘技場の奥にあった棚に薙刀を置く。いつの間に預かっていたのか、詩緒里は旭先輩の分の剣もそこに置いた。
そのまま部屋を出ようとして、詩緒里が逆方向に歩いている事に気付く。
「詩緒里? 出口、こっちだよ?」
「うん、もうひとつ用事」
詩緒里が静かな声で答えるので、小走りで横に並び、一緒に歩いた。前を向いて気付く。向かっているのは、アーロンさんの所だ。
詩緒里はアーロンさんの前で足を止めると、黙ってアーロンさんを見下ろした。アーロンさんは壁にもたれて座り込んだまま、顔を上げる。
「……さっきの発言で、何か言う事はありますか?」
詩緒里が静かに問いかけると、アーロンさんは口元を歪めた。
「貴女は知らないのですか? 人が持ちうる魔力には、限度がある事を。あの魔力はそれを遥かに超している。あの男性もそうですね。あれは間違いなく、人ではありません。知らなかったのならば、気をつけた方が良い。あれは——」
ばしっと、乾いた音が闘技場に響き渡る。詩緒里が、手を高々と振り上げて、アーロンさんの頬を張った音だ。
「……今のは、私が友人を侮辱された分です」
もう1度手を振り上げ、先程よりも強く頬を打つ。
「今のは、旭先輩を侮辱した分。そして——」
「あ、ちょい待ち詩緒里。それは私もやりたい」
みたび手を振り上げた詩緒里に声を掛けると、詩緒里が振り返り、頷いた。
2人で握りこぶしを作る。私は右、詩緒里は左。
掛け声も無しだったけど、全く同じタイミングで、私達はアーロンさんの顔を両方からぶん殴った。骨にひびが入る音がしたけれど、罪悪感は0。
「——今のは、椎奈が感じた痛みの分です。私達の力では、遥かに足りませんが」
「その点は旭先輩が随分やってくれたしね。これくらいで勘弁しといたげる」
「ですが、次に椎奈達を侮辱する言葉が私達の耳に入った時には、椎奈に学んだ剣術の全てをもって、貴方を叩きのめします」
詩緒里は最後まで静かな語調でアーロンさんを脅迫した。アーロンさんの顔に、改めて恐怖が走る。
それ以上何も言わずに、私達は部屋を去った。
部屋の外で椎奈が待っていた。腕を組み、無言で私達を見つめている。旭先輩の姿は、無い。
「椎奈、旭先輩は?」
詩緒里がそっと尋ねた。顔はとても心配そうだ。さっきまでの静かな怒りが嘘のよう。
「部屋を出るなり、何も言わずにさっさと行ってしまった。古宇田達を待たないといけないし、旭がここに戻ってきてまた騒ぎを起こすと厄介な事になるからな、ここで待機していたんだ。……それにしても、随分かかったな。何をしていたんだ?」
椎奈が質問の答えと、自分が今ここにいる理由まで説明してくれる。その顔に怒りや哀しみは見えない。普段通りの椎奈だ。
「……あのさ、椎奈。ちょっと話を——」
「いや、いい。古宇田、ひとつだけ聞かせてくれ。先程……私が防御魔術を破る前に旭が怒った理由は、「得体の知れない」、そして、「与り知れぬもの」、この言葉なのか?」
私の言葉を遮り、椎奈が質問の形で確認してきた。さっきの旭先輩の激昂を見て、ようやく気付いたらしい。
黙って頷くと、椎奈は額に片手を当てて溜息をついた。
「……あの馬鹿」
様々な感情が綯い交ぜになった顔と声で呟いて、椎奈は身を翻す。
「行って来る」
「場所は分かるの?」
旭先輩の所にというのは聞くまでも無かったから、そっちの心配をした。椎奈が直ぐに頷く。
「ああ。旭の霊力は強いからな、少し気を凝らせば分かる。古宇田達は部屋に戻っていてくれ。後2時間もしないうちにサーシャが迎えに来るだろう。その頃までには戻れると思うが、戻っていなければ先に移動してくれ。大体の場所は見当がついているから、そちらで合流しよう。部屋までは帰れるな?」
「うん、大丈夫だよ。椎奈、早く行ってあげて」
詩緒里がきっぱりとした口調で言った。顔は相変わらず心配そうに椎奈を見つめている。
「分かった。じゃあまた後で」
椎奈は頷き、歩き出す。けれど数歩も歩かないうちに、ふと何かを思い出したかのように立ち止まった。そのまま私達を振り返る。
「言い忘れていた。古宇田」
「何?」
いきなり指名されて、ちょっと緊張しながら答えた。
「先程の薙刀、見事なものだった」
「え?」
耳を疑った。確かに上手く弾く事が出来たけど、それは相手が弱かったから。だからこそ、聞き違いだと思った。
「構えを見た時から、それなりに経験を積んでいるのは分かっていたが……走っていく時の薙刀の握り、攻撃の後の残身。どちらもきちんと型を守った、流れのいい動きだった。隙も少ない。良い師匠を持ったな」
けれど椎奈は、重ねて私に賞賛の言葉をかけてくれる。その顔には、私を侮っている様子は無い。本心から褒め、実力を認めてくれていると、分かった。
「……ありがとう」
胸がいっぱいで、言葉が上手く出て来ない。やっとの思いで、それだけを口にする。
「……礼を言われる事ではないのだが」
そう言って椎奈は肩をすくめ、今度こそ振り返る事無く歩き去った。