幕引き
肺が空になるまで息を吐いて、吸う。そうして「浄化」した場の空気を取り込むと、頭の奥の痺れるような痛みが少し和らいだ。
思った以上に消耗している気がする。何故なのかは分からないが、少し力が衰えているように感じた。
「……甘えすぎだ」
自嘲する。1人で戦うのが当たり前だったのに、旭に、背中を守る存在に慣れてしまっていたのか。安穏とした生活が、己の勘を鈍らせたのか。
何にせよ、現状に甘え、鈍っていたのは確かなようだ。
『こら、弛んどるぞ』
優しくも厳しい声が蘇る。小さく頷いて、気を引き締めなおした。
塔の聖火を仰ぐ。魔法によって定着させられていた瘴気は浄化した。けれど1度追い払われた神霊は、怯えてしまったのか未だ戻って来ない。
それもまた、予測済みの事態。だからこそ、小崎の協力を得て準備しておいたのだ。
神霊に戻ってきてもらう為に。2度とこのような事は起こらないと、保証する為に。
「椎奈!」
小崎の声に、振り返る。見た所無事な様子に安堵しながら、尋ねる。
「無事か?」
「おう。椎奈も大丈夫か?」
「勿論。始めるぞ」
「りょーかい」
軽い口調に敬礼の真似。事態に相応しくない態度ではあるが、そろそろ彼のやり方にも慣れてきた。護衛達のようにいちいち深刻に取られるよりは、こちらも気が楽だ。
陣に入らない位置まで小崎が下がった事を確認してから、塔の聖火に向き直る。深く息を吸い込んで、柏手を打った。
『水は形体の始、神は気の始、水は精の本、神は生の本成り』
床に現れたのは、五芒星。この国の信仰に合わせ、神霊の関心を呼ぶ。
小崎が亜空間を開いた。街の5ヶ所に創られたそれが床の五芒星と完全に方角が一致している事を確認して、亜空間に置かれた5つの璃晶に思いを馳せる。
清めた土地に、清めた場。この地に元より存在した護りの結界。
それらが呼び水となり、璃晶を依代として、言霊に乗せて神霊を勧請する。
『木火土金水の神霊、厳の御霊へ幸わへ給へ』
陰陽師の主流となる五行思想、五芒星、五つの璃晶。霊力を介してそれらが繋がり、聖なる存在を喚び寄せる。
耳が痛いほどの静寂が、刹那。
——次の瞬間、徒人には聞こえぬ轟音と共に、凄まじい程の冷厳な気配が場に舞い降りた。
余りの霊圧に、息が止まる。気付けば目を閉じ、両膝をついていた。
霊圧の嵐はしばらく続き、1度私を包み込むように巡った後、唐突に消えた。同時に、頭上の神気が濃密なものとなる。
振り仰ぐと、塔の上で聖火が燃え盛っていた。今までとは異なり、どこまでも清冽に、冷厳に、激しく。
温かさと神聖さと恐ろしさと。火に人が抱く感覚全てを、その炎は現している。それは、どこまでも——美しかった。
「椎奈?」
声をかけられて、はっと我に返る。危うく神霊に魅入られかけていた自分に呆れつつ、膝に力を込めた。
「行くか。王都にはまだ、魔物が残っている筈だ」
先程の術でほぼ殲滅出来たが、まだ気配はある。勇者や冒険者達がいるから大丈夫だと思うが、一般人に被害を出す訳にはいかない。
立ち上がると、一瞬目眩を感じた。息を詰めてそれをやり過ごし、踵を返す。
「ちょっと待て」
そのまま直ぐに大聖堂の外へ向かおうとした私を、小崎の声が引き留めた。何事かと振り返ると、どうしてか呆れたような表情を浮かべている。
「椎奈は待機。ここに居たら襲われる事もないし」
「何故? 数は多い方が良い」
外にいるのはそれなりの力を持つ魔物だ。少しでも戦闘要員がいた方が良いだろうと眉を顰めると、小崎は目を吊り上げた。
「良いから休んでろ! 顔色悪いんだっつーの!」
「この程度ならまだ大丈夫だ」
咄嗟に視線を逸らしそうになるのを堪えて、肩をすくめる。止める理由がそれだけならば、止まる必要は無い。神域に部外者があまり長居するのもどうかと思うしと、さっさと祈りの間を離れた。
「おい!」
声を荒らげる小崎を無視して、走って出口へと向かう。道中、己の霊力量を検めた。
軽く眉を顰める。顔色が悪いと言われるのも道理で、相当に消耗していた。これでは、術を使うのは些かきつい。基本刀で応戦し、必要があれば精霊魔術と理魔術で何とかするしかない。後は——
無意識に腰の銃に触れつつ、小崎が蹴りで破壊した扉から飛び出る。そのまま魔物の気配を頼りに駆け出すと、出遅れていた小崎が追いついた。
「おい、なんっでわざわざ1番やばそうな気配の方に行く!」
「1番人手が必要だからに決まっている」
何を当然な事をと訝しみつつ答えると、小崎は頭を掻きむしる。
「……ああ、ったく! 必要な時は俺がやる、分かったな!」
「え?」
驚いて小崎を一瞥すると、かなり荒い語調で怒鳴られた。
「椎奈は戦うなっつってんだよ!」
「……小崎、それは無理だ」
「何だ、と——」
私の視線につられてそれを見た小崎が絶句する。そこにいたのは、一目で強靱と分かる、2,3メートルはありそうな巨体。全身が銅のような赤い光沢を持つ鱗で覆われ、鋭い牙と爪が光を弾いて鈍く輝く。僅かに陽炎が見えるのは、その巨体が内包する魔力が漏れ出ているのか。
「竜族……」
唖然と呟く小崎を横目に、周囲の状況を確認する。やはり竜族は強力らしく、戦闘の邪魔にならない場所で治癒魔術を受ける者があちこちに見られる。
現在交戦しているのはレーナ達だ。魔術と強化魔術付加の剣術で健闘しているが、やはりあの鱗は相当に防御力が高いようだ。
「くっ、魔力が……!」
ケイの悲鳴に近い声。見れば、連続で魔術を展開するにはもう魔力が足らないのか、先程よりも魔術による牽制が減ってきている。
後衛の魔力が尽きれば、前衛も押される。攻撃も通じなくなり、危うく攻撃を受けそうになる場面も増えてきた。
「ちっ、拙いな。行ってくる、椎奈はここで——」
「うわあ!」
剣呑な小崎の言葉に被さるような、悲鳴。見れば、ジャンとレーナが吹き飛ばされ、錐揉みに吹き飛んでいくところだった。
ケイとゴードンは前衛には向いていない。それは2人も理解していて、直ぐに距離を置いて防御に努める。それは、冒険者としては正しい判断だ。
けれどここには、下手に1人で逃げると危ないからか、残って治療の手伝いをしていた街の人間もいる。そんなこの場では、彼等の選択はある意味最悪と言えた。
——魔物は、餌としやすい弱き者の気配に敏感なのだ。
「ひっ……!」
比較的前線に近い位置で治療の手伝いに励んでいた少年に、魔物の視線が向けられる。次の瞬間、魔物は体躯から予想されるよりも遥かに速い速度で少年に肉薄し、鋭い爪を向けて腕を振り上げる。少年は目を見開いたまま、動く事すら叶わない。
「やめろ……!」
必死の声と共に、小崎が理魔術を組み立て始める。ケイも奥で呪文を唱えていた。だが、間に合わない。
家など簡単に倒壊させられそうな鋭利な爪が、死鎌となって振り下ろされる——
自分でも驚くような速さで、腰の銃を抜いた。精緻に効果範囲を設定し、余波の少ない魔術を選択して引き金を引く。
——残っていた霊力をほぼ全て消費して、銃に刻まれていた魔法陣が発動した。
唐突に魔物が凍り付く。少年から見れば目と鼻の先に感じるだろう距離の先で、魔物は粉と砕け散った。
「……は?」
事態を掴めない、そんな空気が場を満たす。小崎の間の抜けた声を無視して、少年に駆け寄った。
「怪我は?」
尋ねると、少年はびくりと身を震わせる。焦りのあまり口調がきつくなってしまった事に気付き、1つ息を呑んだ。
「……驚かせてすまない。それから、危ない目に遭わせてすまなかった。怪我を、してはいないか?」
ゆっくりと言葉を投げ掛けながら、少年をさりげなく観察する。服に破れはなく、顔色も良い。間に合ったようだ。
「……は、い。ありがとう、ございます……!」
呆然と口を開き、ようやく答える少年は、事態を掴めたようだ。強張った表情が緩み、安堵に輝き出す。もう大丈夫そうだ。
「私は止めを刺しただけだ。今まで戦い続けていた彼等に礼は言ってくれ」
それだけ告げて、顔を上げる。気配をたぐれば、全ての魔物が討伐されたらしい。あちこちで勝ち誇ったような喜びの雄叫びが聞こえるのはそれだろう。深く、息を吐きだした。
……結局、旭の勝ちか。
悔しいような、どこか浮き立つような。奇妙な感情を味わいつつ、私は踵を返し、約束通り昴の様子を見に行くべく歩き出した。
——細い糸の上を駆け抜けるような作戦が、ようやく、終わる。