諍い、そして
『……否。シオリ、その者はお前達に危険な目にあって欲しくないのだ』
不意にミキの声が部屋に響き、腕輪の銀色の光が強くなった。光はやがて、ミキの姿になった。さっき見たときよりも小さい。
『リナも泣くな。私はリナの決意を尊重する』
ユトゥルナの声も聞こえて里菜の方を見ると、ユトゥルナも少し小さい姿で里菜の手を舐めていた。
「誰だ」
椎奈の短い誰何が響く。険しい目でミキを見据える椎奈は、また戦う姿勢を見せていた。
『我等はこの世界の精霊の主。シイナとやら、貴殿に危害を与えるつもりは無い』
ミキの返答に、椎奈はゆっくりと右手を下げた。視線をユトゥルナに向ける。
「この世界の精霊の主だからこその判断か? 古宇田がここに残った所で、魔王を倒せる可能性が上がる訳ではない。無駄に古宇田を煽るな」
『我はただ、この少女の決意を支えると心に決めているだけだ。……しかし成る程。シイナと聞いてもしやとは思ったが、貴殿がシイナの巫女か』
ユトゥルナの最後の言葉を聞いて、椎奈の表情が変わった。苛烈な眼光が精霊の主達を射抜く。
「……貴様、何を知っている」
精霊の主を貴様と呼ぶその態度にはらはらしながらも、聞き慣れない呼称に戸惑った。
『我等は詳しくは知らぬが、我等の神は全て知っている。そうだな、人間』
ミキに急に話を降られたのは、旭先輩。意味が分からなくて旭先輩の方を見たけれど、その無表情からは何も読み取れない。
「どういう事だ、旭」
詰問に1度視線を投げ掛けたけれど、旭先輩は椎奈に答えないまま、ミキを見据えて静かに答えた。
「俺は何も知らない。だがそちらがそう言うのならば、そうなのだろう」
要領を得ない答えなのに、ミキは満足したらしく、1つ頷いて椎奈に向き直った。
『シイナの巫女よ。我等はこの少女達の願いを叶えるべく、力を貸し与えた。1つ懸念を解消しよう。この者達には、我等の力を使いこなすだけの素質がある。巫女が思うような事にはなるまいよ。……その他の懸念は、解消できぬがな』
この言葉に、椎奈の肩が僅かに揺れた。その様子を見て、ユトゥルナがミキの話を引き継ぐ。
『この世界にもたらされし、新たな脅威。今度の敵は今までとは違う。この新たな脅威に対して、シイナの巫女を始め4人も召還されたのには、必ず意味がある。天の定めに逆らっても意味が無い事は、貴殿が1番知っておろう』
「……黙れ」
『この世界に招かれし、シイナの巫女よ。貴殿に選択肢はあるまい。それが分かっているからこそ、貴殿は——』
「黙れ!」
椎奈の叫びと同時に、ユトゥルナの体に無数の赤い線が現れた。
「ユウ!!」
里菜が悲鳴を上げる。旭先輩が椎奈の右手を抑え、椎奈の視界からユトゥルナを隠すように立った。
ユトゥルナは里菜を制して、なおも言い募る。
『何を動揺しているのだ? 貴殿で選んだ道筋だろう。情に流されるなとは貴殿の言葉だ』
「黙れと言っている 貴様に分かったような口を聞かれる筋合いも無ければ、古宇田や神門に私の事を告げる権利も無い!」
椎奈が叫び返す。再び前に出ようとして、旭先輩に押し戻された。
『……ああ、成程。所詮貴殿も、自己憐憫に浸りたい愚か者なのだな』
ユトゥルナの蔑むような言葉を聞き、椎奈の激昂がいきなり鎮まる。音も空気も凪いだ部屋の中で、椎奈は静かに口を開いた。
「そこまで言うのならば答えろ。貴様は、契約がもたらす危険性について、古宇田達に説明したのか」
今まで直ぐに答えを返してきたユトゥルナとミキは、けれどこの質問には答えない。椎奈は更に言葉を重ねた。
「説明していないだろうな。慣れない力の行使がどれだけ体力を削るかも、魔術を使う時、1つでも間違えれば、自らに跳ね返り死ぬ事も。私が自己憐憫に浸っているというならば、貴様らのそれは自己満足だ。古宇田達の為ではない」
目を見開く里菜を横目に見つつ、ユトゥルナが答える。
『そうかもしれぬ、そうでないかもしれぬ。だが、シイナの巫女よ。我等に契約を破棄する意思は無い。契約の破棄には両者の同意が必要である事は知っておろう。貴殿に選択肢が無いというのは、そういう事だ』
椎奈が歯を食いしばった。険悪な2人を宥めるように、ミキが真剣な口調で言う。
『我等も危険性は理解しておる。リスクは我等が全て請け負おう。シオリに危害が加わらぬよう、約束する』
『我も同じだ。それに引き比べ、巫女の覚悟はどうなのだ。リナに危害が及ばないと、貴殿こそ約束できるのか?』
「契約相手を戦場に押し出しておいて、その結果を私1人の責とするのか?」
相変わらず喧嘩腰のユトゥルナに、椎奈も厳しい口調で言い返した。ユトゥルナのそばで、里菜が頭を抱えている。
『言っただろう、危害が及ばぬよう全力を尽くすと。もし我の力が及ばずリナが傷つくとすれば、それは巫女の——』
最後まで言い終えるのを待たず、ユトゥルナが吹き飛び、壁に叩き付けられた。ミキが怒ったように羽を打ち鳴らす。
『巫女、やめよ! ユトゥルナもだ!』
「……知っているか? 契約は、両者の同意が無くとも、一方が死ぬ事により破棄される。縁も思い入れも無い世界の大精霊がいなくなろうが、私には関係ない。そもそも、私は貴様らのような異形と行動を共にするなど願い下げだったからな。好都合だ、まとめてこの世から消し去ってくれる」
ぞっとする程冷たい声で言い放つ椎奈は、先程よりも更に激しい殺気を漂わせている。制止しようと肩を掴む旭先輩の手を荒々しく振り払い、ユトゥルナが良く見える位置まで歩を進めた。
『巫女よ、冷静になれ 汝の行動がもたらすものは、知っておろう!』
「椎奈、ユウ! やめて!!」
ミキと里菜が必死に制止しようとするけれど、椎奈もユトゥルナも耳を傾けない。椎奈が、再び立ち塞がろうとする旭先輩を乱暴に押しのける。旭先輩が大きく体勢を崩した。
ユトゥルナも駆け寄ろうとする里菜を見えない壁で制し、身を低くして、いつでも跳躍できる姿勢になった。
構えた椎奈が深く息を吸い、口を開いた、その時。
『——やめよ』
救いの声が、降り注いだ。
厳かな声が響くと共に、椎奈から立ち上る殺気が嘘のように消える。見えない何かに無理矢理押さえつけられたように、椎奈はその場で片膝をついた。その姿勢のまま顔を上げた椎奈の端正な顔に、今まで1度も見た事の無い表情——驚愕が、浮かぶ。
『初めて会うな、シイナの巫女よ。我が名はミハエル。この世界の創世神だ』
青色の髪に綺麗な緑色の目の、若い男の人。その自己紹介に、驚きを通り越してパニックになった。
ミキとユトゥルナが、慌てたように頭を垂れる。出遅れた私と里菜は顔を見合わせ、どうするべきかと視線だけで大慌てした。
『気を使う必要は無いよ、異世界の少女達。我が民の都合で喚ばれた者に、我を敬う理由は無かろう』
神様の言葉にどうしようともう1度顔を見合わせ、とにかく頭を下げる。
「あ、あの、初めましてっ。古宇田里菜です。そっちは私の親友で、神門詩緒里ですっ」
「神門詩緒里です」
何はともあれまず名前を名乗り更に私を紹介する里菜に、こんな時でも里菜は里菜だなあと、少し落ち着いた。
そんな私達を興味深げに見つめる神様に、旭先輩が話しかける。
「神よ、このような所に気安く現れていいのか」
『問題ない。ここはきちんと『場』が作られている』
「…………待って、下さい」
2人の会話に、椎奈が割って入った。やけにゆっくりと言葉を紡ぐ椎奈は、何かを恐れているよう。
「……この世界の、神よ。これは、どういう事ですか」
『随分と曖昧な問いかけをする。私が現れたのは、巫女達を止める為だ。そして、後は巫女の考えている通りだろうな』
椎奈の顔が蒼白になった。どこか悪いのではと心配になるような血の気の無い顔を、旭先輩に向ける。旭先輩の目をしばらく見つめた後、ゆっくりと視線を下げ、胸元で止めた。
そこには、鈍く輝く銀色のクロスが、鎖に下がって揺れていた。
旭先輩は、呆然とそれを見つめる椎奈を、無言で見つめている。
『シイナの巫女よ。それよりも今後の事だが、私もミキストリやユトゥルナと同意見だ。ここに集まった4人は、それぞれの役目を持ってこの世界に来た。今更引く事は出来ない』
椎奈が旭先輩から視線を外し、再び神様を見上げた。血が通っているように見えない色合いの唇から、言葉が紡がれる。
「役目、とは」
『それは言えぬ。神の言葉が世界に大きな影響を与えてしまうのは、どの世界も同じ。
シイナの巫女よ。ミキストリやユトゥルナは、その場の気分で彼女達と契約を結んだ訳ではない。その星宿を視て、相応しいと認めた上での契約だ。彼らと、いや、巫女にとってはその少女達とだな。彼女らと共に、進んではくれまいか』
神様の言葉に、椎奈は目を閉じる。再び目を開いた時、椎奈の顔からは何の感情も読み取れなかった。
「仰せのままに」
抑揚の無い言葉に頷き、神様はミキとユトゥルナに向き直る。
『聞いた通りだ。お前達はかの少女達を支え、巫女や彼と共に役割を果たせ』
『『御意』』
ミキとユトゥルナが同時に答えた。それに満足げな表情を浮かべた神様は、再び旭先輩に向き直った。
『我に用がある時は、ここか先程の祈り場で我を呼ぶとよい。汝とは相性が良さそうだ』
「分かった」
短く頷く旭先輩に微笑み、神様はその場でふっと消える。
『シオリ、何かあったら呼ぶがよい』
『リナもだ。いつでも呼んでくれ』
そう言って、ミキとユトゥルナも姿を消した。
後に残ったのは、4人と、気まずい沈黙。
「……戻るぞ。私たちを捜している奴らが、そろそろここに来るだろう」
椎奈が最初に口を開いてくれた事で、少し空気が軽くなった気がした。
「そうだね。ねえ椎奈、どうしてここを知っていたの?」
場を明るくする為に聞いてみると、椎奈がぶっきらぼうな口調ながらも答えてくれる。
「昨日、探査の術を使った。この城の地図は、既に頭に入っている」
「相変わらずの記憶力だなあ。じゃあ、道音痴の私は、椎奈の後ろをついて回らないとね」
里菜の明るい声——付き合いの長い私には、空元気だとすぐに分かったけれど——に、椎奈が溜息をついた。
「後で地図を書いてやるから覚えろ。いちいちついて来られたら迷惑だ」
そう言って椎奈は身を翻し、足早に扉へと向かった。椎奈についていかないと迷うのは分かりきっているから、急いでその後に続く。
この時の私は、いつもと変わらない態度を取る椎奈に、少し安堵を覚えたんだ。