春の青さに時効はない
深夜二時。
元カノが、血まみれで訪ねてきた。
「ごめん、匿ってくれない?」
あまりの非現実的な光景に、思考が一瞬停止する。
夢みたいだとか、夢であってほしいだとか、ごちゃついた感情の整理が出来ないまま、鉄錆臭い血の匂いがこれは現実だと突き付けてくる。
「今夜だけでいいの。お願い、朝陽」
「無理」
「別れても十年は好きでいるって言ってくれたじゃん」
「…そんなの、もう時効でしょ」
私は恨みがましい目で彼女――七星を見つめる。
十年前、私は彼女に振られた。
あの時は、あまりにも突然だったから受け入れられなくて、みっともなく泣いて縋った。
自分から捨てたくせに、今更どの口が言うんだ。
塞がっていたはずの古傷を無遠慮に抉られ、腹の底からじわじわと苛立ちが込み上げる。
「いや、まだあと一日あるよ。明日で、ちょうど十年」
確かに別れた日にちは、正確には十年前の明日だった。
自分だけじゃなく、彼女の心にもその日にちが刻まれていたという事実に、思わず顔が緩みそうになる。
「よくそんなの覚えてるね」
「朝陽との大事な思い出だもん、そりゃ覚えてるよ」
七星は、生まれつき色素の薄い、青みがかったその瞳を三日月のように細めて、ふにゃりと笑った。
(記念日とかは、いっつも忘れてたくせに…)
他人の気も知らないで平気で嫌な思い出を掘り返してくる無神経さも、自分に都合のいい時だけすり寄ってくる調子の良さも、昔から何も変わっていない。
でも私が喜ぶ言葉は知っていて、その笑顔は人を殺した直後とは思えないほど可愛くて綺麗だ。
私の心臓は、彼女に都合よく鼓動を早める。
気付けばチェーンを外し、ドアを開け放っていた。
「…朝になったら、すぐ出ていって」
「ありがとう、朝陽」
七星を部屋に入れるのは、決して未練や恋心が残っているからではない。
ただ、あの日自分が口走った時効に、私自身が縛られているだけ。
そう自分に言い聞かせる。
それに、もしこのまま彼女がどこかで野垂れ死んだり、あるいは私のドアの前で逮捕されたりしたら、気分が悪いから。
いくつも言い訳を並べながらも、再び私の領域に足を踏み入れた彼女を見て、私の口角は自然と上がった。
数時間後。
ニュースで、旦那を殺した容疑で七星が指名手配されていた。
彼女が結婚していたことすら、私はそこで初めて知った。
当の本人は、隣で私が貸したTシャツを身に纏い、感情の読めない表情でテレビを観ている。
あまりに日常に溶け込んだその姿に、ついさっきまでの血まみれの姿が嘘だったんじゃないかと思ってしまう。
「ねえ、朝陽。やっぱ時効がくるまで匿ってよ」
もうとっくに朝日は昇っていた。
この展開はある程度想定内だ。
七星は昔から時間や約束の期限にルーズで、自分で決めた締め切りすら、その場の思いつきや甘えで平気で延長してくる女なのだ。
こういうところも変わっていないんだな、と呆れる。
「明日までってこと?」
「ううん、殺人の時効まで」
「あのねえ…」
これもまた想定内だった。十年の歳月を経て少しはまともな大人に成長しているかと思ったが、彼女の無知と無鉄砲さは本当に何も変わっていなかった。
大事な局面では私の予測をことごとく裏切って唐突な行動をとるくせに、こういうどうでもいい時に限って、一言一句想像した通りの反応を返してくる。
それがなんとも憎らしい。
「今はもう、法改正されて殺人に時効がなくなったんだよ。何十年ここにいても、時効が来ることは絶対にない」
私の言葉を聞いた瞬間、七星はわざとらしいくらいに目を見開いた。
「えっ!? 嘘、ないの?」
相変わらず本当に何も知らないのだ、コイツは。
昔からそうだった。
人から教えてもらわないと、社会のルールも仕組みも何一つ学ぼうとしない。
「うーん、じゃあ明日の時効まででいいや」
七星は特に悪びれる風でもなく、無邪気な顔でこちらを覗き込んでくる。
そして私はいつものごとく、その身勝手な要求を渋々了承してしまうのだ。
成長していないのは私も同じだった。
どんなに理不尽な形であれ、彼女と同じ空間にいられる事実を、心のどこかで喜んでしまっている自分がいる。
「じゃあ私、仕事行くから」
「えっ、明日まで一緒にいないの?」
「流石に元カノと元カノと過ごすために急遽休みますとか言えないから」
行ってきます、と半ば逃げるように家を出る。
背中に投げかけられた不満げな声は無視した。
*
七星との出会いは、大学のゼミだった。
当初、私は彼女のことが苦手――いや、むしろ嫌いで、目障りだと感じて避けていた。
一人では何一つ満足にできないくせに、七星の周囲にはいつも、手を差し伸べる人間が絶えなかった。
七星が悲しめば誰かが励まし、困れば誰かが助けてあげる。
そんな彼女の危うさと、それを許す周囲の環境が、私には理解できなかった。
今思えば、ただ嫉妬していたのだろう。
七星と付き合うことになったきっかけは、今でも鮮明に覚えている。
「一日だけでいいから、私と恋人になって!」
食堂の片隅で、彼女は突然、私の前に立ちはだかった。
ほぼ話したことのない苦手な相手からの、突拍子もない告白。
当然承諾するわけもなく、私は首を横に振った。
しかし何度断っても、彼女は執拗に食い下がってきた。
そのあまりのしつこさに根負けし、「一日だけなら」と条件付きで承諾したのが、すべての始まり。
一日が二日になり、一週間になり、一ヶ月になり……気付けば私たちは、ズルズルと恋人としての関係を続けていた。
幼い頃から、私は自分を木みたいだなと思っていた。
人と関わることが苦手で、他人に期待せず、他人を頼らず、全て一人で完結する日々。
それが、七星と過ごす毎日ですべて変わった。
七星から真っ直ぐに必要とされ、私の存在が彼女を支えているという事実が、空っぽだった心を満たしていった。
互いに求め合い、体温を貪り合いながら孤独を埋める日々に、初めて血の通った人間らしい生き方が出来ていると感じられた。
他人に依存しなければ生きていけない彼女の脆さに、私はどうしようもなく救われていたのだと思う。
でも、付き合って三年ほど経ったある日。
七星から、何の前触れもなく別れを告げられた。
「もう終わりにしよう」
その言葉を聞いた時、私は人生で初めて、みっともなく声を上げて泣いて縋り付いた。
けれど、私の涙が七星の心を動かすことはなかった。
「私、きっと十年は引きずるよ」
「十年? 思ったより短いね」
あまりにも軽やかに去っていこうとする七星の背中に、少しでも傷が残るようにと呪詛を吐く。
それを聞いた七星は振り返り、どこか愛おしそうに目を細めて笑った。
「じゃあ、その時効が切れる直前に会いに行っちゃおうかな」
それが、私が最後に聞いた彼女の言葉だった。
*
時間は、薬だ。
七星を失った絶望的な苦しみも、十年という年月が層のように降り積もることで、今ではほとんど痛みを感じなくなっていた。
その間に経験した新たな恋や、気を紛らわせるための趣味などは、心の特効薬にはなり得なかった。
消滅時効とはよく言ったもので、私の燻るような執着と未練を薄れさせるのに一番効いたのは、紛れもなく時間だった。
それなのに。
「ただいま」
「おかえり」
定時ピッタリに仕事を切り上げ、息を切らして帰宅する。
七星は、朝と同じようにそこにいた。
付き合っていた頃の「ずっと好きだよ」という言葉は平気で裏切ったくせに、別れ際の、冗談半分のような口約束だけは律儀に守る。
本当にずるくて、残酷な女。
それでも、彼女はそこにいるだけで、私の帰る理由になってしまう。
その夜、私たちは狭いベッドで寄り添い合い、とりとめのない会話を交わした。
離れていた期間、どんな風に生きていたのか。お互いにいくつかの恋愛を経たけれど、結局のところ、目の前の相手以上に深く好きになれる人間なんて現れなかったこと。
十年という莫大な空白の時間は、恐ろしいほどの速さで埋まっていく。
今思えば、七星のいない毎日は、日常というものを支えていた底が抜けて、無重力の中に命綱なしで放り出されたみたいだった。
世界はモノクロどころか暗闇に近くて、手探りで無をかき分けて進むような、そんな日々。
別にそれでもいいやと思いかけていた時、そんな私を引き戻すみたいに七星は現れた。
ここに居ると手を握られて、ようやく世界が自分に向かって収束した。
同じものを食べて、同じシャンプーと柔軟剤で、同じベッドで眠って、同じ朝を迎える。
そんな、ようやく訪れた奇跡みたいな日々を、涼しい顔で当たり前だと呼んでいたい。
静かにそう願った。
しかし、夜が深まった頃。
二人並んだベッドの中、七星は小さく呟く。
「明日、自首しに行くね」
再び訪れた愛おしい日常は、嫌な音を立てて崩れ始める。
私は、十年前と同じように七星の肩を掴みそうになるのを必死で堪えた。
「…ずっとここにいればいい。私が匿ってあげるよ」
「ダメだよ。昼間、警察の人が来てた。今はまだ大丈夫っぽいけど、そのうち見つかるかも。ここ」
七星は、私の目を真っ直ぐに見つめた。夜の海のような色をした瞳が、窓から差し込む月光を浴びて煌めき、波打つ。
「一緒に逃げるか、心中してくれる?」
もしこれが十年前だったなら、私は彼女の提案を迷わず承諾し、喜んで手を取っていただろう。
しかし、今の私に首を縦に振ることはできなかった。
私の人生のすべてを懸けてもいいと思えたほどの彼女への恋心は、十年という長い年月の中で風化し、すっかりその熱を失っていたのだ。
その決定的な温度差に直面し、はっきりと自覚してしまう。
残酷なまでに、私の中の彼女への想いは確実な終わり――「時効」を迎えようとしているのだと。
「やっぱり」
声を発することなく押し黙った私の態度を見て、彼女はすべてを悟ったのだろう。
七星は自嘲するように目を伏せると、ふっと力のなく笑った。
「時間って残酷だね」
その言葉に、私は何も言い返せなくなった。
目が覚めると、私の隣はすっかり冷たくなっていた。
部屋の中に、七星の姿はどこにもない。
一縷の望みを込めてリビングの扉を開けると、視界に飛び込んできたのは嫌味なほどに真っ青な空だった。
七星の瞳より鮮烈な青さが、私の網膜を強く刺す。
「好きだったな」
ぽつりと呟いた言葉は、ぬるい風に溶けて一瞬で消え去る。
朝が来るのを拒むように、私はそっと目を閉じた。
*
旦那を殺した。
時代錯誤な親たちによって決められた、愛のかけらもない結婚生活。
自由も尊厳も奪われた人生に、私はもう限界だった。
さて、これからどうしようか。
そう思った時に浮かび上がったのは、朝陽の顔だった。
返り血に濡れたデジタル時計の日付を見て、最後の約束を思い出す。
図ったようなタイミングで日付が変わり、約束の十年を満了する前日となった。
朝陽が私をまだ好きでいる確証なんて、何一つない。
半ば賭けのような気持ちで、友人伝手に聞いた、現在彼女が済んでいるマンションに向かう。
偶然にも、彼女の家は徒歩圏内にあった。
外出するたび、ばったり会わないかななんて淡い期待を抱いたりもしたが、今まで一度も朝陽を見かけたことはない。
もしまだ、朝陽も私を好きでいてくれるなら。
二人でどこか遠くへ逃げて、最後は心中してしまうのもやぶさかではない。
もしかしたら、私のことなんてとっくに忘れて、新しい誰かと幸せに暮らしているかもしれない。
ドアすら開けてもらえず、一目見ることすら叶わないかも。
いや、朝陽は融通が利かない子だ。
言葉のあやみたいな数字すらきっちり守り通すような、危うい誠実さを持つ女だ。
だから、きっと大丈夫。
人間なんて、十年という年月でいくらでも変わるのに、私は愚直に彼女が変わっていないことを信じていた。
普通は口約束の時効なんて、とっくに切れているものなのに。
結果として、私は賭けに勝った。
拒絶の言葉を口にしながらも、最終的に私を部屋に迎え入れてくれる朝陽を見て、自然と表情が緩む。
けれど、きっちり十年という期日まで恋心を守り通しているということは、裏を返せば期日が来ればそれは消えてしまうということだ。
私を連想させるものが一切ない室内に、朝になったら定刻通りに仕事へと向かう姿に、私は確信した。
今の朝陽の中に、十年前には確かにあった私への盲目的な恋心はない。
*
元々、私は朝陽のことが気に食わなかった。
誰にも頼らず、一人で完璧に生きていけます、という涼しい顔をしている彼女に、ずっと見下されているような気がしていた。
だから、この女を誰かが居なくては生きられない身体に、誰かなしでは壊れてしまう心にしてやろうと思って、あの時しつこく告白したのだ。
別に、私じゃなくてもよかった。ただ、自分が一番手っ取り早かっただけで。
大学卒業間近、親から許嫁との結婚を急かされたタイミングで、朝陽に別れを切り出した。
子供のようにボロボロと涙を流して崩れ落ちる彼女を見て、正直なところ「ざまあみろ」と思った。
彼女の心を支配するという本懐を遂げ、歪んだ優越感で満たされていた――はずだった。
*
時間は、遅効性の毒だ。
私は積み重ねた時間に侵されて朝陽しか薬になり得ない。
取得時効とはよく言ったもので、元々別の人間のものだった私の身体も、心も、もう全て朝陽のものだった。
別れを告げた時には既に、泣いて縋っていた朝陽以上に、私の方が彼女のことを狂おしいほど本気で好きになっていたのだと、引き返せなくなってから気づいた。
苦しみの果てに罪を犯した私とは違い、朝陽はこの十年間、私との別れを乗り越えて、懸命に生きてきたのだろう。
私の醜いエゴのせいで、彼女を歪めてしまった。彼女は、私のせいで変わるべきではなかったのだ。
私がかけた恋の呪いを、朝陽は幸せと呼んでくれたけれど。
綺麗な彼女に、私はきっと相応しくない。
気付けば、自分でも驚くほどにあっさりと、彼女のために身を引く決意が出来ていた。
消えかけの呪いに終止符を打ち、私たちの恋は終わった。
朝陽の恋が時効を迎えた日。
日が昇る前に目を覚まし、まだ健やかに眠っている彼女の横顔に、音を立てずに口づけをした。
借りていたTシャツから自分の服に着替えて、静かに部屋を後にする。
私の門出には相応しい、暗くて濁った群青が、私の瞳の色をさらに濃く染め上げる。
私を匿ったことで、朝陽も何らかの罪に問われたりしてしまうだろうか。
親に頼めば、それくらいの罪はもみ消せるかもしれない。
流石に、私の殺人までは無理だろうけれど。
未だに彼女のことばかり気にしてしまう自分に、思わず乾いた笑いがこぼれた。
「……ずっと、好きなんだろうな」
一生消えることはないであろう未練を、フリでもいいから振り切れるよう、まっすぐ警察署へと歩みを進めた。




