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魔法師リルの追想録  作者: 汐田ますみ


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憂世を蹌踉する魔眼草子

 馬車を降りて幾許、乾いた土地を踏み鳴らした足が止まる。


「お前は……まさか、何をしに来た!?」

「約束を果たしに」


 ある集落に住まう老婆が彼に声を掛ける。酷く拒絶的な声と態度に、彼が傷付く事も無く淡々とした様子で再び歩を進めた。


「自分が何を言ってるのか分かって!?」


 老婆の静止を振り切って彼は集落を踏む。

 不意に吹く風が、前髪を玩び隠された醜傷を晒すが彼は立ち止まらない。赤みの強い瞳が求めたのは潤い。脳裏に過るは乾いた追想。


 其れは"憂世を蹌踉する魔眼草子"―――。

______________________

 此の世界の話をしよう。此の世界には魔力と呼ばれる摩訶不思議なエネルギーが存在し、一部の人間に宿ると幾年前に大国が公表した。


 此れにより人は、魔力を持つ者とそうでない者に分かたれ、少数は鬼人と呼ばれ迫害の一手を辿った。平等でないが故に人は魔力を恐れ徹底的な排斥を望んだのだ。

 そして、ある村落にて。魔力を持つ者が不幸にも産声を上げた。


 赤子は仲睦まじい夫婦の下に産まれ、大層に愛情を注がれた。が、物心付き始めたある晩の事。

 愛しい我が子が瞼を開け母と父を視て、夫婦は子の瞳に宿る魔の文様を視た。刹那、夫婦は子を殺した。開眼を喜ぶ筈も無かった。魔力とはそれだけに愛を憎に変えるのだ。


 然し。子の不幸は始まったばかり。


「おかあ、おとう……いたい、いたいよぉ」


 子は生きていた。否。蘇った。何度殺しても心臓は鼓動を止めず、切り取った四肢は元に戻り、取り抜いた眼球は意志を持ったかの様に子の中へ戻る。唯一箇所、目元の傷だけは切り裂かれたままで、それが返って子の不気味さに拍車を掛けた。

 軈て、愛憎尽きた夫婦は夜の内に息絶えるが、子は何時までも泣いていた。



「その話マジ?」

「マジ。子供が生きてたら8つになる頃だ」

「……新しい街に寄る度にその街の噂訊くの止めろや」

「今回は噂じゃなくてマジだって!」

「大体、不死身人間なんか居る訳……」

「鬼人だって言ってるだろ」


 空になったグラスを下働きの少年が片付ける。手入れの行き届いていない、矢鱈に伸ばされた金髪は少年の目元を隠し表情の一つも明かさない。


「しっかし、鬼人って何だろうな」

「悪魔の遣いだったりして」

「ハッ有り得る」


 ご機嫌な旅人は暫し盛り上がり、鼻歌を歌いながらベルを鳴らした。彼等の残した風が少年の前髪をふわりと捲って赤みの強い瞳を暴くが、今はもう誰も居ない。

 其の瞳の文様も火傷と殺傷の痕も、誰も見てはいなかった。


「……」


 路地裏が少年の寝床であった。酷く痩せ細った体を抱えるように縮こまって夜を明かす。近く、積まれた廃棄物は彼の所有物ではなく、住人が好き勝手放り投げ溜まっただけの物で強烈な悪臭は度々彼の眠りを浅くする。


「……もう昼、……」


 再び開いた瞼に映る太陽は、どうにも眩しく目眩がする。うつらうつらと起き上がる意識は不本意に覚醒し、汚れきった手は廃棄物の方へと伸びた。


「うわ、本当にゴミ漁ってんのな」

「!」

「真っ昼間から気分悪っ」


 路地裏を覆う影は雲に非ず。少年一人を覆い隠してしまう成人二人組の影は嘲笑の意を込めて、目の前の子供を見ていた。

 少年は動けない。動ける筈も無かった。此処で逃げ出せば痛みが倍増する事を知っていたから。だから殴打を受け入れ、こうして這いつくばる。


「おいおい殺すなよ〜」

「何だよ、あの女みたく鬼人を庇うのか」

「違げって。死んだらストレスの発散口減るだろ」

「おぉ……そうか、そうだな。悪いな、最近益々土地が痩せて食い扶持減ってるからよ」

「鬼人が居るからなぁ……仕方ねぇよなぁ」


 傷は時期癒える。其処には痛みだけが残って、傷口を内へと追いやる。淀んだ眼に映る世界は痛みに満ちて、太陽は益々遠退いて影法師は伸びるばかり。


 不意に、光が影に勝る。


「やめて!この子に酷い事しないで」

「チッ、出やがった」

「イイトコだったのになぁ、解ってねぇなイイトコのお嬢ちゃん」

「止めてください」

「領主サマに気に入られてるか何だか知らんけど他所モンが、邪魔なんだよ」

「止めて。故意に人を傷付けないでと、当たり前の事を言っています」

「人かよ、ソレが」


 陽光照らす大通りから現れた女性は、影に覆われた黒い少年を抱き寄せて果敢に元凶を睨む。柔らかでありながら芯の通った声は厄介を追い払う事に成功するが、吐き捨てられた唾に心音は悲しげに速まる。


「ヒーラーさん……」

「大丈夫。大丈夫よ。ごめんね、ごめんね」

「……、……」

「さぁ汚れを落としましょう」


 すっかり抱きすくめられた少年は、彼女の名を呼んだ。ソル・ヒーラーと何時か語った名だ。か弱い心を慰める様に、熱心に声を掛けて落ち着いた頃合い、立ち上がって優しく手を引く。

 太陽の光に、惹かれる。



 拙い足は小石にすら躓くが、眩しく尊い光は確かに少年の心を救っているのだ。それなのに彼女は出会う度、物悲しげに瞼を閉じて。


「綺麗になったね。……ごめんね、私がずっと側に居てあげられたら……この家で一緒に暮らせたら、きっと貴方を虐める人も手を出せないのに」

「私はヒーラーさんが、いてくれるから」

「ありがとう。この街の誰よりも優しく可愛い子」


 温かい水が掃き溜めに溜まった汚れを落とし、温かいリネンが少年を包み、仄かに熱る頬をヒーラーは慈しみ深く撫でた。

 此処はヒーラーの屋敷。小さな街の大きな屋敷。彼女は此の地を治める領主のお(・)気(・)に(・)入(・)り(・)であり、


「っ、う……ごほ、ぁ……!」

「ヒーラーさんっ!?」


 病弱であった。発作を起こし苦肉の表情を浮かべるヒーラーに少年は狼狽え、掛ける言葉一つ見当たらず取り込んだ酸素を無駄に消費していく。


「だ、い……じょうぶ。大丈夫だからね。私を心配してくれる貴方はやっぱり優しい子……坊やの瞳は太陽の様。沢山の光に満ちている」

「それは……だって、……」

(だって、私の瞳に映るあなたが太陽だから。ヒーラーさんが映るから、其処が光に)


 抑えた掌からどろりとした血液が流れ滴り点々と模様を描く様を、太陽の瞳を持つ少年は鬱々と眺める他無かった。不治の病と聞く、己に出来る事などあるのだろうか。


「ふぅ……っ、ほらね発作も直ぐ治まるよ。……そうだ、窓を開けてくれる?」

「……もちろん」

「心地良い風が吹くわ」


 齷齪と頼りない。発作の治まった彼女はベッドの縁に腰掛けて、花刺繍のハンカチで赤色を拭う。彼女の柔和な瞳に映る己は実に頼りなさげに見えたのだろう。

 気を遣わせてしまった。心地良い風も少年の前では乾いて、色も無い。


「この庭一面に花を植えようと思うの」

「花?」

「だから、きっと生きてみせる」

「……、だったら!」

「!」

「私も手伝うっ、私の魔力でヒーラーさんも治してみせるから!絶対……!」

「嬉しいっ。約束ね」

「約束!」


 ヒーラーは当たり前に未来を語っていた。暗夜を退ける朝日の様な笑顔で語るから、少年も釣られて笑顔を零した。大切な約束を交わして、自身の魔力に祈った。


 どうか花を咲かせる魔法が、目の前の人を治癒出来る魔法が、此の眼にあります様にと。


「さぁ今日も文字を教えるわ。おいで」


 トントンとベッドの縁を叩く。隣においでと合図を送る指先は赤く、蒼白い肌によく映えた。


「今日の御話は月の狼が傷付いた兎を助ける御話。ある晩、狼は月の王様に願いました」


 縁に添えられた赤の行先に文字が走る。学びを知らぬ少年にも理解出来る様にゆっくりと、月を追う。狼を追う。兎を追う。


「どうして文字を教えてくれるの?」

「とても大切な事よ。文字は人の歴史そのもの。文字を学べば幾年前の噺を理解出来る、噺を知れば知恵が付く、知恵が身に着けば過去を学べる。……過去を知る事、其れは未来に生きる貴方を豊かにしてくれる」

「過去と未来……」


 物語を閉じる。薄荷色の髪がさらさら、風に靡き今を生きる少年に薄く触れた。こそばゆい風の悪戯に、相見える瞳は仄かな熱を抱いた。

 ゆくゆく陰るとも知らずに。


「ソル!!お前また鬼人を連れ込んで!」

「!お婆様」


 強引に開け放たれた扉はヒーラーの髪を散らし、花色の瞳を見開かせて、咄嗟に抱き寄せた少年を怯えさせた。


「誰の金で永らえてると思ってんだい!?」

「ひっ」

「お婆様っ、おやめください!その子に酷い事しないで」

「お黙り!」


 嵐の剣幕で現れた老婆は、農具を背負ったままの汚れた衣で寝室に入り込み、少年の首を鷲掴みにした。有無を言わさない行動に抵抗の術無く、掴まれた拍子に爪先が掠った項に血液が滴る。


「坊やが何をしたって言うの!?ただ、必死に生きてるだけじゃない」

「っ」

「黙れってのが分からないのかい!?それに何をしたってぇえ?何かされる前に始末を付けるのが人間だよ!不穏分子は淘汰されて当然だ悪魔がッ」

「ぁあっ!」

「ヒーラーさん!?」


 ぱらぱら捲れた物語の頁が折れ曲がって床に落ちた。強張って声の出ない少年の代わりにヒーラーは必死に老婆を説得するが、返ってきたのは無慈悲な肘打ちだった。運悪く胸に直撃し、ベッドから転げ落ちた彼女は再び発作を起こして、涙目を浮かべた。


「〜〜っ、ヒーラーさんを虐めるなっ」

「ーーっ其の眼を閉じろ!!!」

「ハァッ!?……〜っ、ぅう」

「二度とこの屋敷に踏み入るんじゃないよ」


 優しいあの人が流していい涙ではない。漸く飛び出した言葉は、上擦り無様なものであった。それでもと力んだ眼光は次の瞬間、邪気を含んだ怒声に弾き返され、遂に少年の体は放り捨てられた。

 受け身など取れる筈もない。地面に打ち付けられた顔面が痛みで歪む。起き上がろうと土を掴む手がぐにゃりと曲がり、吐血の間に欠けた歯が転がる。


 乱暴に閉じられた窓は絶対的な拒絶。言い争う声が聞こえているのに、少年は何も出来ず何処にも繋がらない帰路を目指した。


「帰ってったようだね」

「お婆様何故です。……何故そこまでして」

「お前こそ子供に中途半端な希望を抱かせるんじゃないよ」

「希望を奪う貴方の台詞とは思えませんね」

「……。魔力ってのは病みたいなものさ、繋がりを持ったとて碌な結果になりゃしない」

「あんまりです。彼等の未来を否定する権利など私達にはありません」


 少年には聞こえない声がある。其れは祈りであり呪いであり、光であり闇である。縋る様なヒーラーの祈りを、老婆は呪いだと吐き捨て、執拗に潰す。

______________________

 眺め明かした心は曇天。


「……私がここにいたら、ヒーラーさんまで苦しい……?私がいないと、ヒーラーさんは怒られない……?」


 喉の奥が焼かれたように痛む。乾いた土地に寝転がる少年は、程なくして自らを悪と思い込むようになる。悪は罪だ。罪には罰だ。

 今朝は太陽が隠れていて良かった。暗い空に似合いの暗い感情は少年を立ち上がらせ、郊外へ歩を進めさせた。


「不気味なアイツが消えたようだ」

「これで土地は豊かになる」

「使いっパシリが居なくなるのは残念だ」


 明朝、一人の鬼人が血を振りまきながら街を去ったと街中に報せが走った。良い報せだ。悲しみの涙を流す人など、居る筈も無い。そうだろう。


「坊や……!」



 其れから幾つの夜を越しただろう。魔を宿す眼が移す世界は憂世。憂う気力すら奪われ朝を明かした。


「きれいな森……ヒーラーさんのお庭もこんな風に出来たら、喜んでくれるかな」


 風薫る青葉の森に踏み入る。一歩踏み進める度に濃くなる種の芽吹きは少年の心を少なからず癒やした。ようやっと気持ち良い眠気に身を預けられる、幾日振りの重い瞼が点滅し遂に閉じられた。


 浅い寝息が花を擽る。すっかり意識のない体は眠り方を探るように数回、寝返りを打ち俯せ状態に落ち着いた。


「……」

?「……誰だ。……妙な匂い…………?」


「……すぅ……」

?「動物、じゃないよな。……人間?」

「…………」

?「……俺も眠くなってきた……おやすみ」


 黒髪の少年が、草葉を踏む。歩き慣れた様子で靴音を鳴らし、暫く小動物と戯れていたが、ふと鼻をひくひくとさせる。嗅ぎ慣れない匂いに導かれるように辿り着いたのは金髪の少年の眠り処。

 酸味の強い匂いに鼻を曲げながら眠る彼を覗き込む。そのうちに黒髪の少年は大きな欠伸を噛み殺して、噛み切れず転寝を決め込んだ。


「……んん、ん?……ん?!だ、だれ!?!」

「ゔぅ……んわー……もう起き……、はー」


 黒髪の彼の耳が、金髪の少年の素っ頓狂な声に反応して眠気を覚ます。目覚めると見知らぬ少年が隣に居るのだ。大声を出したくなるのも分かる。そして、耳元を抑える少年は犬歯を光らせながらまたもや行動の予想を裏切るのだった。


「ま、って……もうちょっと寝」

「……は?…………なんで」


 瞼を閉じ、ペタリと顎を地面に付け黒髪の少年は本当に二度寝を、夢の心地を辿る。

 そして、金髪の少年が葉を踏み鳴らし立ち去るのは当然である。


「何だ、……誰だったんだ」


 やけに明るい少年だった。然し過ぎてしまえば記憶からも何れ消える。一言くらい話しても良かったなどど思いながら森を抜けようとして、


「見つけた!置いてくなんて酷いぞ」

「はい??」


 眠気の覚めた少年に見付かる。立ち去ってから十分程度だが、目で追える距離では無い筈だ。何故、目の前の彼は己を見ているのだろう。少年の疑問に答えるように犬歯がにっと笑う。


「狼の鼻舐めんなよ〜!」

「??おお、かみ……?」

「そう!俺は月夜の晩、狼になる。ルワード・ローレンスだ!」

「ーーっ……月の狼?」

「きみの名前は?」

「名前なんてないよ?」

「……そっか。名前無い人も居るって爺やが言ってたな」


 鼻に引っ付いた葉をプルプルと振り落とし、黒髪の少年は声高らかに自身の名を叫んだ。"ルワード・ローレンス"と。月の狼と。


「ま、……まりょく、があるってこと?」

「そう!魔法使いだ。どうだ格好良いだろ」

「私と、同じってこと……?」

「!君も魔法使い!?すっげぇ!俺達おんなじ仲間だな!!」

「???」


 途端に金糸が振れる。呂律の回らぬ舌で言葉を発してみると意外と台詞と聞き取れたようで、ルワード少年は元気よく返事をした。

 ルワードの態度が逆に覚束ない少年を混濁させた。理解出来ぬ、何故。何故、彼は魔力を魔法と呼び喜んでいるのだ。


「ど〜した?君はどんな魔法を使うんだ?」

「わからない」

「じゃ何にでも成れるってことだな!一緒に探してこうぜ」

「……」

「う〜ん、探すっても……魔法ってどうやって発現するんだっけ。俺の場合は夜更ししてたら狼になったけど……。先ずは師匠に知らせるべきか」

「せんせいがいるの?魔法、の……?」

「今師匠のとこで武者修行中なんだ!この森も近くの別荘も俺の為に用意したって父様と母様が!だから期待には応えなくちゃな」

「…………別荘」

「君も此処で過ごすといい。てかそうしろ!俺とダチになろうぜ」


 月色の瞳が陽光の欠片を反射して、キラキラと地面に散る。漸く彼を理解した。彼は両親が居て別荘があって森を自由に歩けて魔法の師匠が居て、愛されているのだと。

 愛を失う事も、愛を引き裂かれる事もない。路地裏の掃き溜めで夜を明かす事も、理不尽な暴力に傷付く事もない。だから笑って手を差し伸べる。


「だれが」

「?」

「だれがお前なんかと!!!」

「っ!……え」


 気付けばドス黒い声が飛び出ていた。止まらない、抑えが利かない、痛いのか熱いのか自身の胸臆も分からぬ内に、前髪を掻き上げ内なる傷を晒す。


「なんで、なんでお前は愛されてるんだ!私はなんで愛されないんだ!!何が違う!?お前ばっかり与えられて、幸せで!私は親に殺されたのに!!何度も、痛いのに!!ヒーラーさんだって、私が居るから苦しんで……」

「ーーっえ?……何を言って……」

「触れるな!!!お前なんか大嫌いだ!」

「っ……」


 錯乱状態に陥り、魔眼が陰り大粒の涙が溢れた。奪われてばかりの人生、太陽であった彼女さえも奪われ、瞳の光だけが路地裏で息をする。

 過呼吸で拒絶され、ルワードは言葉を失う。生々しく残酷な傷と痛みの体現である紅涙が物語る人生に触れようとして叩き捨てられた。


 痛い。でも己の痛みなど涙にすら成らぬ。


「うっ」

「…………っ!だ、大丈夫!?ねぇ、ねぇ!」


 よくよく見ると少年の体は痩せこけ骨が透けて見えているではないか。どうして、気付いてやれなかった。

 少年がなけなしの気力を使い果たし気絶するまで、どうして己は。


「爺や」

「はっ爺やは此処に」

「……」


 気絶した彼を別荘に運び込み、不規則な寝息を側で聞くルワードは沈んだ表情のまま、爺やを呼んだ。


「魔法は素敵な力だ。……そうでしょ?」

「はい。ごもっとも」

「でも魔力を持つあの子はちっとも幸せじゃなかった。……教えて爺や、あの子が酷い事されてるの?それとも魔法使い達が酷い事されてるの?」

「……」

「爺や!」

「奥様には時が来るまで、黙秘するよう仰せつかっております。ですので私めからは何も。然し」

「!」

「ルワード君。随分元気がないようだ」

「スフェンファイア様ならば坊っちゃんの疑問に応えてくれましょう」


 意を決して爺やに問うても彼はモノクルの奥を光らせる程度で言葉にも所作にも動揺は見られなかった。

 濡羽色の裾を握っても爺やが答える事は無かったが、代わりにルワードの師匠が神妙な面持ちで扉を開いた。


「教えて下さい。魔法は奇跡の力ではないのですか」

「これから語る事はルワード君にとって苦しいものになる」

「苦しみを知らなきゃあの子の力になれない」


 日が落つ隨に、ジュリアス・スフェンファイアはルワードの頭を三度撫でた。語る口調は時に厳しく、時に世を憂いて、語り終えてもう一度目の前の少年を慈しみ手を伸ばしたが、少年はそれを拒否した。鼻水を啜りながら、それでも心は彼の求める強さを身に着けていく。



「…………からだが、しずむ」

「……!起きたか!!」

「っ!なんでいる」


 まだ月の霞む明方、魔眼の模様がひらひらと金糸の間の天井を見やる。起き上がろうにも上質なベッドは己を沈ませ、苦戦。先般の出来事が頭を過り額にシワを寄せていると、ルワードが溌剌と身を乗り出し、更にシワが寄る。


「なんでってココは俺の別荘だから」

「そう」

「……ごめん、きみのことよく知らないのに傷付けて、本当にごめんなさい」

「別に。……、私も言い過ぎたから。さっきの事はもういいよ」

「……三日前だよ。きみは三日間眠ってた」

「!?」


 おずおずと謝る彼の姿に、子供ながらに行き届いた教育だと魔眼の少年は思う。


「あのさ、朝ごはん一緒に食べない?」

「……」


 狼の手を握った。とても優しい人の手だった。


「肉、魚、パン、野菜……多くない?」

「何が好きか分かんなくて」

「好き嫌いが分かるほど食べた事無い」

「どうしてもお腹空いたら……?」

「捨ててあった野菜みたいなの」

「……そっか」

「でも」

「?」

「ヒーラーさんがこっそりくれたパンは美味しかった。ちょっと硬かったけど」

「!そっか」


 小綺麗な使用人が食事を運び、気付けば食卓は大皿小皿で埋め尽くされていた。ルワードは何て事ない風に肉を頬張るが、少年は口を付けるどころか小皿の端を突く程度で、腹は空っぽのままだ。

 あの手この手で会話を試みるルワードを見つめる眼光は無意識に柔らかく揺らいで、美味なる料理は意識的に、瞼の裏に焼き付く。


「……それで名前を考えたんだけど」

「え?」

「何時までも君呼びじゃ素っ気ないし、フェンリルってどうだ?格好良いだろ」

「フェンリルってなに」

「ん〜師匠の故郷のフェンの何か強い狼?」

「そんなとこ知らないし狼じゃないし」

「じゃあリルで!」

「適当……」

「そんなことない!俺のダチって意味だ!」

「わかった。……変な名前だけど」

「よろしくなリル!」

「……変なの」

(……変なの)


 真新しい三叉の銀製フォークが少年の手からスルリと抜け落ち絨毯の上に跳ねた。

 直ぐさま交換されたフォークは先程と代わり映えのない銀装飾で大層持ちにくい。が、少年リルは改めて握り掴んだ。そうして、少しだけ腹を満たした。


「リル!朝ごはん食ったら修行、行こうぜ」

「私、魔法の使い方知らない」

「使い方を学ぶ為の修行だっ」


 忙しないルワードを追って別荘を出たリルは不意の風揺れに立ち止まり別荘の方を振り返った。ヒーラーの屋敷程の立派な外観、水鳥の噴水に月の満ち欠けを取り入れた意匠、溢れんばかりの植彩、金糸を乱す風すら此処では色を持つようで幼いリルの呼気を深くさせた。


「森で修行?」

「もう少し行った所に……あった!修行場」

「!広い」

「師匠!!連れてきましたリルです!」

(この人が魔法の先生……)

「初めまして、かな。リル君」


 よく手入れの行き届いた草木を抜けると、広々とした修行場なる空間に行き着く。路地裏の掃き溜めとは天と地程の差がある木漏れ日空間の中心に佇む何者かは、ルワードの言葉で知る。中老風の男性は杖を一つ突き、リルを見るや否や物腰穏やかに目線を合わせた。

 自身の名と魔法とを告げる口調に警戒すべき所は見当たらず、緊張の解れる音を知る。


「失礼な事とは承知で、眠る君を少し調べさせてもらった」

「私の何を」

「君の魔法について」

「私の魔法……」

「君は、いやリル君は魔眼、という魔法の中でも珍しい部類のものでね」


 知り合いに魔法能力を感知出来る者が居ると前置きしジュリアスはリルの魔法、魔眼について語り出した。

 右眼は治癒を、左眼は魔力操術を。通常は一人に付き、一能力のみが常識だが魔眼を開眼したした者は左右で異なる能力を所有する事になるのだと。


「治す力と、操る力……」

「リル君は自身の傷を無意識に治し、足りない栄養は魔力を操作し大地から吸収する事で補っている」

「……!私の傷なんて治らなくていい。無意識なんて要らない。でも、治す力はヒーラーさんを治せるかも知れない。操る力で花を咲かせる事も出来るかも知れない。わたし、私は、自分の為じゃなくて、ヒーラーさんの為に魔法を使えるようになりたい!」

「相分かった。だが魔法の修行は厳しいぞ」

「生きる事の方が大変だった」

「良い目を、しているな。修行に入る前に一つ忠告しておく。魔法とは必ずしも救う力とは限らない。リル君の無意識がそうであったように人体を蝕む事もある。扱いには十分気を付ける事だ」


 左右で映る世界は変わらない。然し魔力とは奥が深いもので、魔眼は左右で異なる能力を発揮する。漸く自身の力の根源を知り、リルの視界は晴れた様に明るく、眩しげに太陽に目を細めた。

 自身の魔力は願ってもない治癒と操術。焼き付いた記憶を再生する。何よりも大切な人の笑顔を、声音を、全てを魔力に込めた。


 そして、魔法の修行を始め数時間が経過した頃、ある事実をルワードとジュリアスは目の当たりにする事となった。


「……まだ、まだまだ」

「師匠……」

「うん。……魔眼の影響か、はたまた彼の気概がそうさせるのか」


 数時間経過してもリルの魔力量は然程変化がなく、また体外へ放出する魔力は時を経るごとに鋭く研鑽され、彼に魔法の才能がある事は火を見るより明らかだった。

 魔力量が高く才覚者であるという事は、魔力が彼を蝕む力も相当に高いという事である。事実、リルは修行中何度も自身の魔力を扱い切れず苦痛を味わった。


「まだ、まだ!」

「休憩にしよ、リル!」

「私はまだ」

「余り根を詰めるものではない。休息を取ろう」

「……はい」


 何日も望んで苦しむリルを見かねたルワードが休息を提案し、同意を得る前に柄物の布を敷く。昼食と称した多種類のパンを早速頬張るルワードは、リルが修行を再開せぬよう古めかしい本を取り出した。

 慌てた拍子に喉に詰まったらしいルワードは何処までも賑やかで、淡い三日月も昼間に顔を覗かせた。


「なにそれ」

「此の世界の事が載ってる本。読むぞ」

「読まなくていい」

「此の世界で息衝く種族は神話時代、多流に頒かたれた」

「……聞いてないし」


 ある時代、生命が誕生する。ルワードが持ち込んだ古本には、"人族・亜族・精霊族・エルフ族・悪魔族"等々、真実かはさておき流暢に画かれた世界図は、読み手であるルワードも半強制的に聞き手となったリルさえも心躍らせた。


「俺達は亜族に属すると思うんだ」

「鬼人じゃないんだ」

「鬼は悪魔の遣いと書かれてるから絶対違う!」

「ふ、ふふっ」

「!笑った」

「笑ったら駄目?」

「いやいや!良い事だ!うんっ。ですよね師匠」

「良い兆候だ。気が落ち着き、魔力と身体が馴染んでいる」


 画かれた世界図に鬼人在り。鬼人は悪の心を持つ悪魔の使者とだけ記載されており、魔の力を宿す亜族とは無関係と神話は告げる。

 己は鬼人ではない。其の一言が、綴られた一文が、リルの下手な笑顔を引き出し心を、癒やした。


 魔眼の文様が、柔らかく眩む。浮世を前に。


「修行再開だっ」

「リル君、君にこれを」

「杖?」

「己自身の魔力に押し潰されぬよう生み出された魔道具だ。君の命綱となる」

「……はい!」


 魔道具、と不思議な語感の杖を受け取り魔力を込める。魔眼を見開き大地に放たれたエネルギーは凪いだ水面の様に、或いは吹かれた息の分だけ回る風車(かざぐるま)の様に安定し世界に流れ出た。


 其れから幾日もリルは修行に明け暮れた。事の発案者であるルワードを置き去りに、魔力を高め続けた。祈りにも似た修行とは対照的に、リルは自らを癒やす術を少しずつ失くしていった。

 生傷が絶えぬ身となり、少年は何を思うのか。爪先より滴る血の文様だけが少年の思いの深さを語るのだった。


「私、あの街に帰る」

「帰るって」

「今度は逃げずに向き合いたいと思うから。この力があれば、ヒーラーさんを助けられる、笑顔に出来る」

「!そう言う事なら俺も一緒だ。リルの話すヒーラーさんがどんな人か会ってみたいし」

「……」

「爺や」

「はい。爺やは此処に。馬車の手配ですね。完了しております」

「行こうぜ」

「……変なの」


 其の日は連日降り続いた雨が漸く上がり、夜明けの陽光に朝露が反射し、大地を輝かせていた。吹く風に名残る霧雨を感じたのも束の間に、リルの一言が馬車を呼んだ。

 独り、徒歩で帰るつもりだった道すがらに規則正しい蹄と車輪の音が響く。序でにルワードの声も。


(久し振りに帰る……ヒーラーさん、元気かな。また体調崩してないかな。意地悪されてないかな。でも大丈夫、私がきっと守ってみせる。そして花を咲かせて癒やして……それから)

______________________


「死んだよ」


 見開かれた視界は黒く、突き付けられた言葉は白く、祈りは遠く、約束は果て、乾いた土が水粒を呑み込んでいく。


「お前、何しに戻って来たんだい」

「……」

「隣のガキは何だ。増えてんじゃないよ」

「……そんな言い方って」

「しかも生意気だ。あぁ嫌だね」

「…………」

「あ、リル!まっ……、って」


 ルワードが、声を発した。殆ど条件反射による無意識だ。自分が何を言ったのかさえ把握出来ず、小さな満月は眼前の差別と遠巻きに囁く侮蔑の嵐に、体中が強張ったのを肌で感じた。話に聴くのと実際目の当たりにするのとでは込み上げる痛覚が違うのだ。


 無言で踵を返すリルは、涙を流してる事に気付いているのだろうか。暗雲に覆われた金糸を追い掛けルワードもその場を去った。後には何も残らない。


「リル……」

「……」


 無言で走り去る背中を追い掛ける。言葉を掛けた程度では止まらず、名前以外に掛ける言葉も見当たらず、路地裏の行き止まりで足が止まる。


「こんな所に居ないでさ……っ杖が」


 一歩進む度、埃立つ腐臭に鼻が捩れそうになりながらもルワードなりに選んだ言葉は、リルの魔力を瞬間的に膨張させ魔道具を破裂させた。彼の魔力を安定させる為の杖は路地裏の埃となり、無残に散る。


「私はここで暮らしてた」

「!」

「"こんな所"で、それでも必死に生きてきた。魔力の使い方を知ってやっと此の世界の一人になれた気がした。なのに、なのに!」


 リルは振り返らない。振り返れない。いっとき夢見た期待は無に還り、胸臆の彼女の笑顔は刹那、痛みに変わる。軈て涙の性質すら魔力に置き換わり、切り傷を治癒していく。


 リルの意志でない事は明白だ。彼の中心に発生した風もまた魔力、勢力を増す風は主の命を嘲笑うかのように傷を刻み、癒やし、痛みを繰り返す。


「ーーっリル!……〜〜っい……!?」


 風色が血に染まる。赤く、痛々しい姿を止めようと差し伸べたルワードの手が血に染まる。深々と両手に刻まれた傷など、目の前の痛みに比べたらと無謀にも魔力の風に突っ込む、が。


「ッ師匠!?何で、止めるんだ」

「……制御出来るか」

「……、……っ」


 先走った彼等を捜していたジュリアスに抱えられ、リルの背が遠退く。ルワードの抵抗に対応する間もなく小さな背に問う。びくりと跳ねた背中が再び痛みを抱えて、辺りに散らばる血の飛沫が数度重なり次第に降り止む。


「今は、誰とも話したくない」

「リル……」


 やっとの思いで吐き出した言葉は拒絶。


「一人になりたい」


 一人になれる魔法だったなら、と込み上げた得体の知れぬ感情を殺すよう拳を握る。杖の木片が刺さったままの掌を握っても出血せず内側に籠もる痛みは人知れず体内に滲んでいく。


「君の意思を尊重しよう。一晩、世界を見つめると良い」

「師匠!?何で、待って」

「寄り添う事が痛みになる事も有る」

「!」

「何も孤独を強いているのでは無い。心を休める時間が彼には必要なのだ」

「でも」


「帰って、私は心に誰も居てほしくない」

「……」

(……本当に?本当に、これがリルの願い?これで終わってもいいの?)


 とうとう最後まで振り向かなかったリルの背をルワードが振り返る。師匠に諭され、大通りの陽光の下に出るルワードの心は何時までもリルを見つめていた。

______________________

 泣声が聞こえる。路地裏の廃棄物に埋もれた泣声は近くを通り掛かった少女の足を止めた。


「其処に居るの?泣いてるの?」


 掠れた稚声に月の光は差せども少女の手を引く親の顔は暗く陰を増す。


 "よしなさい。ああは成りたくないでしょう"。親の正しい言葉が少女を急かして路地裏を離れる。それでもと振り向いた心の行方に月光が淡く揺れた。


(ココに居たくないのに、ココに居たい)


 穴が空いた心に満月は嵌らない。



 不意に涙が途絶えた。濡れるばかりだった頬は夜風に吹かれ急速に乾いていく。リルの意識は土に近く、瞼は鉛の様に重く、魔眼の光を奪いかけた刹那、満月が待ったをかけた。


「!」


 遠く、然し確かな音が路地裏に届き辺りが騒然となる頃、其れは満月の前に姿を現した。


「月の狼……」


 突如、街路に鳴り響く一匹狼の遠吠え。満月を背景に高台に乗り上がった狼に穏やかな夜はおどろおどろしい闇へと化け、衆人は恐れを持って狼を見上げた。


『俺、やっぱりリルのとこ行く!』

『行ってどうする。君の今の姿を晒せば無事ではいられない』

『それは、そうかも知れないけど……でも、傷付いた友達を放ってはおけないよ!!』


 縋る様に、咽ぶ様に、月に吠える狼に狼狽する衆人は次第に狼の訴えに耳を貸した。まるで唄っている様だと誰かが零す。

 悲痛な叫びに似た唄が一夜を化かす最中、月の瞳がリルを見据えて地上へ降り立った。


「なんで」


 そして、リルを連れて去って月を目指す。


「狼になると力が増すんだ」

「……」

「怖がられちゃう力だ」

「……」

「でも傷付けて良い力じゃない」

「……!」

「俺が魔力を持つ人達の居場所を創る」

「そんなこと」

「絶対に創る!!だからもう傷付く事を当たり前だと思わないでくれ、受け入れないでくれ」


 月明かりの影を目指して歩む。誰も影を覗きには来ない。世界から突き放された子供一人を攫った狼を誰も責めない。狼は人の苦しみを抱えていると言うのに。


「そんなこと、出来る訳無い」

「……っ」

「って、思ってたのに……ルワードが何度も言うから出来るんじゃないかって、信じてもいいんじゃないかって」

「〜っ、……必ず!創ってみせる!」


 一歩身を退いた満目でジュリアス・スフェンファイアは二人の子供の行方を見届けていた。鮮やかな黄緑色の双眸は、柔和な光を乱反射させ薄氷の未来を語る子供等を映す。


「私も、その居場所に行きたい……」

「君は?」


 ふと物陰が動く。不思議に思い叢に視線を送ると紫髪の少女が焦がれる様な目を、未来に向けていた。


「私はバーベナ。私も、魔力があります」

「!確か、さっき……」

「親に魔力を隠しなさいって言われて……ずっと貴方が苦しんでいるのに、無関係になりなさいって、手を引かれて……それでも私はこの目で見たの!狼の魔力が人の心を照らした所を!お願い!私も連れてって」


「バーベナ君、君には君の身を案じる親が居る。君はまだ親に守られる歳だ」

「でも」

「だが、君が本当の意味で魔力を知り魔法を知り求めるのなら我らは君を歓迎する」

「……はいっ」


 月の狼の魔法に掛けられた少女は目眩く夜に明けの星を探す。キラキラと瞳に落ちる星は瞬く度に世界を照らし、少しばかり寂しげに一歩身を引く。

 いっとう暗く、夜の影を落とす大地に魔力を持つ者は集い、願い合う。


 朝焼けと共に歩き出す為に。

______________________

 狼は月を追い掛ける。太陽を追い掛ける。



「5年振りくらいかな」


 リルは変わってしまった故郷を歩く。咎める声を払い退けて、ある屋敷を前に漸く立ち止まり、コンと杖を付く。


「待ちな!何をしようってんだい」

「ヒーラーさんと約束しました。庭に花を咲かせます」

「鬼人の分際で勝手な事を。大体誰の所為で土地が痩せこけてると思ってんだい」

「少し黙っててください」

「生意気なガキが」


「〈パラソル・ヒーラー〉」

「……!?」


 主亡き後も形を保つ屋敷に踏み入り、乾き切った庭の土を蹴る。前髪に秘された魔眼が僅かに揺れ動き、憂世に揺蕩う。

 無意識に緩めた拳を握り直し、治癒魔法を大地に注ぎ込むと直後から魔眼の映る範囲に光の粒子が吹き出す。


 リルの魔力が光と惑うほど輝いた数秒後、大地が息衝く。


「バカな、そんな事が」

「……私は貴方を許さない。……けど、得体の知れない力を宿す人を不気味がる気持ちは私にも解る。そうして世界は拗れていくから」

「分かったんなら、とっとと消えな」

「此処にはもう戻らない」


 潤う翠緑の箱庭。芽吹く景色に強張っていた表情が緩む。果たされた約束を祝福する様に彼の周りに花が吹く。5年分、歩を進め目線を高くしたリルは老婆に向き合った。向き合う事の大切さを知ったから。


「リル」

「バーベナ」


 それでも拒絶された心は癒やされない。名残惜しげに満開の花園を去るリルの背を、柔和で凛とした声が呼び止めた。

 あどけなさを残しつつ淑やかに成長した声の主はバーベナ。彼女は沢山の荷物を抱えて一歩前に出た。


「居場所は出来た?」

「まだ掛かりそう。でもスフェンファイア様のギルドが漸く公認されそうなんだ」

「そっか。私もね両親と沢山話し合ったの」

「それで旅支度を?」

「駄目かな」

「ギルドを造るにも人手が居る。行こうか」

「うんっ」


 不安定な未来について、両親と話し合うなどリルには想像も出来なかったが、馬車に乗り込む間際に見せた希望と寂寥の入り混じった横顔を覚えていようと密かに決めたのだった。



「これから世界はどうなると思う?」

「分からないよそんな事、誰にも」

「じゃあ私達はどうなると思う?」

「それは、ルワード次第かな」


 此の世界は御伽話の様に綺麗で多彩なものではないし、魔法は救いでもない。然し馬車道の小石の様な、不意の運命が救いとなる事もある。

 平等な力では無いが故に其れを恐れる者が居る。が、平等な力では無いが故に其れを以て弱きを救わんとする者も居る。世界とは人とは、補い合って支え合って漸く満ちるものだ。




 憂世を蹌踉する魔眼草子は過去、日陰で生まれ育ち未来、日向へと踏み出した。

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