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何進考 —— 己の基盤なき「空洞の権力者」と二つの刃による自滅  作者: えいの


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【終章】歴史の犠牲者としての何進 —— 理念なき権力者の末路と編纂された記憶

大将軍・何進かしんの暗殺、それに続く知識人階級による宦官の大虐殺、そして辺境の軍閥・董卓とうたくによる帝都への乱入と権力の強奪。中平六年(189年)の秋、わずか数ヶ月の間に巻き起こったこの連鎖的な暴力によって、二百年続いた後漢という帝国の中央集権体制は完全に崩壊し、天下は血塗られた群雄割拠の時代へと突入していった。

物理的な武力による覇権争いが列島を覆い尽くしていく一方で、後の時代において、もう一つの極めて静かで、しかし残酷な覇権争いが始まっていた。それは「歴史の編纂」すなわち、「過去の記憶を誰が、いかにして記述するか」という文字を通じた戦いである。

本論考の結語となるこの終章では、視点を洛陽の焼け野原という物理的な闘争の舞台から、史書という記憶の舞台へと移す。なぜ、絶対的な権力基盤を持たない中で必死に均衡を保とうとした「空洞の権力者」何進が、後世において単なる「無学で優柔不断な肉屋」としてのみ記憶されるに至ったのか。そこには、古代中国における歴史記述の特異性と、自らの階級の正当性を無傷のまま後世に残そうとした知識人階級(士大夫)による、執念深い世論操作の力学が存在している。

1. 灰燼に帰した帝都と「記憶の独占」


「歴史は勝者が書く」という言説は広く知られているが、漢代から続く中国史においては、この言葉はより限定的かつ残酷な社会的現実を意味している。すなわち、「歴史とは、文字と高度な教養を独占する知識人階級にしか書くことが許されない」という、絶対的な非対称性である。

私たちが後漢末期の動乱を知るための最も重要な一次史料となる正史『後漢書』は南朝宋の范曄はんようによって編纂され、続く時代を描く『三国志』は西晋の陳寿ちんじゅの筆によるものである。彼らがいかなる視座で歴史と向き合っていたかを知るためには、彼ら自身の社会的属性と、史料の原典がどこから供給されたのかを厳密に理解しなければならない。

范曄も陳寿も、極めて優秀な知識人階級(官僚)であり、彼らが編纂の拠り所とした宮中の記録や個人の伝記、在野の記録の数々もまた、例外なく後漢から三国時代を生きた知識人たち自身が書き残したものである。中国における正史の編纂とは、単なる過去の事実の客観的な羅列ではなく、「褒貶(ほうへん:褒めることと貶すこと)」を通じて後世に儒教的道徳の規範を示すという、極めて政治的で思想的な事業であった。

この前提に立った時、帝都・洛陽の崩壊という未曾有の災厄を歴史に記録しなければならなかった知識人たちは、極めて深刻な自己矛盾に直面することとなる。

なぜなら、帝都を灰燼に帰し、皇帝の権威を失墜させ、天下を戦乱の坩堝へと叩き落とした直接の引き金を引いたのは、他ならぬ自分たちの先祖(あるいは精神的同胞)である「袁紹えんしょうら知識人階級の急進派」であったからである。彼らは、宦官という政敵を根絶やしにするためだけに、国家の統制を超えた辺境の軍閥(董卓)を首都に呼び寄せるという、国家転覆に等しい狂気的な手段に出た。さらに、何進が暗殺されるや否や、宮中に火を放ち、二千人以上を無差別に殺戮するという凄惨な暴挙に及んでいる。

儒教的道徳を重んじ、国家の秩序を守るべき知識人階級が、自らの手で国家の中枢を破壊し、最も野蛮な軍閥に権力を売り渡してしまったというこの残酷な歴史的事実は、知識人階級の正当性を根底から揺るがす消し去りがたい汚点であった。彼らは、自らの階級が犯したこの取り返しのつかない致命的な失策から、何としても目を背け、その責任を回避する必要があったのである。


2. 完璧なる生贄としての「無学な肉屋」


自らの階級の正当性を無傷のまま後世に伝えるため、歴史の筆を握った知識人たちは「すべての責任を押し付けるための完璧な生贄」を必要とした。その標的として選ばれたのが、市井の屠殺業という卑しい身分から大将軍にまで上り詰めた男、何進であった。

何進は、歴史の生贄としてこれ以上ないほど条件の揃った存在であった。

第一に、彼は知識人階級が最も重んじる「儒教的教養」を一切持っていなかった。家畜の血に塗れて銅銭を稼ぐ屠殺業という出自は、清らかさを至上の価値とする知識人たちにとって、生来的に「徳を欠いた卑しい存在」として描写するのに極めて都合が良かった。

第二に、そして最も重要なことであるが、何進には彼の名誉を守り、彼の正当性を後世に語り継いでくれる「門生故吏もんせいこり」すなわち直属の部下や弟子が、ただの一人も存在しなかったことである。

四世代にわたり最高位を占めた袁氏の周囲には、無数の弟子や元部下たちがおり、たとえ袁紹がどれほどの暴挙に出ようとも、彼を「やむにやまれぬ義挙を行った英雄」として美化し、擁護する記録を書き残す者がいくらでもいた。しかし、自己の権力基盤を持たない空洞の権力者であった何進の死後、彼のために涙を流し、彼の行動の真意を歴史に弁明してくれる者は、天下に一人として存在しなかった。弟の何苗かびょうも暗殺され、一族も根絶やしにされた以上、何進は「いかように捏造され、貶められても、決して反論することのできない反論なき死者」であったのである。

歴史書は、洛陽崩壊の全責任をこの「反論なき死者」の背中に乗せた。

袁紹ら知識人が董卓を呼び寄せるよう強硬に主張した事実は、「大将軍の優柔不断を正すための忠言」として美化された。そして、その危険な外部の暴力を最終的に洛陽に引き入れたのは、「大将軍・何進が愚かにも決断を下せず、無用な軍隊を招き寄せて自滅したからである」と結論づけられた。知識人階級の過激な暴走はすべて「何進が暗愚であったから起きた悲劇」へとすり替えられ、彼らは自らを「愚かな上官に仕え、国家を救えなかった悲劇の忠臣」という安全な立場へと避難させることに成功したのである。

何進が宦官の誅殺をためらったのは、自らの権力の源泉(妹たる何太后)を守り、知識人階級と宮中勢力の「均衡」を保つための極めて合理的な生存戦略であった。しかし、その政治的均衡への苦心は、歴史の記述においては単なる「優柔不断」という個人の性格的欠陥へと矮小化され、嘲笑の的として後世に固定化されてしまった。文字を持たぬ者は、歴史の審判において永遠の敗者となる運命を背負わされたのである。


3. 理念なき現実主義者の限界と「空洞」の崩落


歴史の筆による不当な貶めを差し引いた上で、我々は改めて何進という男の政治的生涯をいかに評価すべきであろうか。

彼は決して、旧来の史書が描くような無能な暗愚ではなかった。黄巾の乱という未曾有の危機にあっては洛陽の防衛を破綻なく遂行し、霊帝崩御の直後には、宦官・蹇碩けんせきの暗殺の罠を間一髪で回避して迅速に宮中を制圧するなど、事態が単一の目標に絞られている局面においては、最高司令官として申し分のない的確な危機管理能力を発揮している。

彼の思考の根底にあったのは、市井の泥水の中で培われた「理念なき現実主義(実利主義)」である。彼は知識人階級のように「正義」や「道徳」といった観念的な言葉に酔うことはなく、宦官を絶対悪と見なして排除するような狂信性も持ち合わせていなかった。彼はただ、目の前にある権力構造の「均衡」を保ち、自らの一族が生き残るための最も現実的な着地点を模索し続けていた。ある意味において、当時の洛陽の朝廷の中で、旧体制を完全に破壊することなく、流血を最小限に抑えて事態を軟着陸ソフトランディングさせようとしていた唯一の最高権力者は、何進であったと言えるかもしれない。

しかし、彼のその現実主義こそが、彼を死に追いやる最大の要因となった。

何進には、自らの足で立つための「絶対的な基盤」が欠落していた。大将軍という重い甲冑を身に纏いながら、その中身は空洞であった。彼はその空洞を埋めるために、宮中の「権威(太后と宦官)」と、外部の「頭脳(袁紹ら知識人)」という、全く相容れない二つの巨大な力を借用した。

彼らから力を借りている間は、何進は天下の最高権力者として振る舞うことができた。しかし、その二つの力が互いを「物理的に消滅させよ」と牙を剥き合った時、基盤を持たない空洞の権力者には、両者を力で押さえつける術が何一つ残されていなかった。

宦官を切り捨てれば妹との絆と権威を失い、知識人を切り捨てれば実務能力と軍の掌握力を失う。どちらの刃も彼にとっては己の身体を構成する命綱であり、それを自ら切り落とすことはできなかった。何進が陥ったのは優柔不断ではなく、「構造的な決断不能」という政治的麻痺状態であった。

理念を持たぬ者は、強烈な理念(あるいは狂気)を持つ者の熱量に飲み込まれる。現状の均衡を望む何進の現実主義は、「旧体制の破壊」という袁紹ら過激派の革命的熱狂と、「生存のための暗殺」という宦官たちの絶望的な恐怖の前に、あまりにも無力であった。彼は、両極端へと引き裂かれる力の圧力に耐えきれず、ついには外部の暴力(董卓)に決断を丸投げするという思考停止に陥り、自らの破滅を招いたのである。


4. 外戚という統治機構の死と、帝国崩壊の真実


何進の死は、一人の人間の悲劇にとどまらない。それは、後漢という帝国が二百年にわたって維持してきた「外戚と宦官による統治システム」の、完全なる終焉を意味していた。

後漢の皇帝たちは、地方に強固な基盤を持つ知識人階級(士大夫)や豪族たちが結託して皇権を脅かすことを防ぐため、あえて皇帝の母方の親族である「外戚」と、生殖能力を持たない「宦官」を重用し、彼らを防波堤として政治の均衡を保ってきた。

霊帝が、家柄も学問もない屠殺業出身の何進を大将軍に抜擢したのも、知識人階級に対抗するための無害な防波堤として彼を利用するためであった。しかし、霊帝の死という絶対的な重石の消失とともに、その防波堤は内部から崩壊した。空洞の権力者である何進が、自らの空洞を埋めるために知識人階級を内部に招き入れてしまったからである。

何進の陣営に寄生した袁紹ら知識人の急進派は、大将軍の権威という合法的な外殻を利用して国家の軍事権を簒奪し、ついには宿主である何進をも見捨てて、積年の敵である宦官を物理的に根絶やしにした。ここに、外戚も宦官も消滅し、知識人階級が単独で天下の覇権を握る新しい時代が到来するはずであった。

だが、帝国を支えていた三本の柱のうち、二本(外戚と宦官)を強引にへし折った結果、残された一本の柱(知識人)だけでは、もはや重すぎる帝国の屋根を支え切ることはできなかった。権力の均衡が崩れ去ったその巨大な真空状態に流れ込んできたのは、知識人たちの高邁な理想ではなく、辺境で培われた純粋で凶悪な暴力、董卓であった。

何進という空洞の重石が圧死し、彼が辛うじて保っていた危うい均衡が崩壊した瞬間、列島を覆っていた法の支配と権威は完全に消滅し、剥き出しの武力のみが物を言う相互殺戮の時代が幕を開けたのである。


5. 結語:歴史に圧死した大将軍


歴史というものは、常に勝者の論理と、生き残った者の都合によって紡がれる。

大将軍・何進。彼は確かに、国家を導くような壮大な政治的理念を持っていなかった。自らの地位を保つために他者の力を借り、過剰な依存の末に自滅したという点において、彼が政治家として一流ではなかったことは歴史の事実として免れ得ない。

しかし、彼を単なる「無学な肉屋」や「優柔不断な愚者」として一言で切り捨てることは、後漢末期の統治機構が抱えていた致命的な構造的欠陥——すなわち、基盤を持たない者が権力の頂点に立たざるを得ない皇帝独裁の歪みや、異なる階級間の決して交わらぬ絶望的な対立——から目を背ける行為に他ならない。

彼は、狂信的な理念に憑りつかれた知識人と、生存の恐怖に駆られた宦官と、権力奪還に執念を燃やす皇帝という、互いを物理的に消滅させようとする巨大な破壊衝動の真っ只中に、何の防具も持たずに放り込まれた一人の市井の男であった。

彼が行おうとしたのは、その猛獣の檻の中で、なんとか致命的な流血を避け、自分と一族が生き残るための「妥協点」を探り続けることであった。しかし、妥協を許さない時代において、彼の泥臭い現実主義は誰からも理解されず、最後はすべての勢力から見放されて、冷たい宮中の石畳の上でその命を散らした。

彼が優柔不断と嘲笑されたのは、彼が「どの勢力にも完全に加担せず、帝国という既存の枠組みを最期まで存続させようとしたから」に他ならない。しかし、歴史の筆を握った知識人の末裔たちは、自らの階級が引き起こした「帝都炎上」という未曾有の大罪の全責任をこの孤独な大将軍に押し付け、彼を「歴史の生贄」として永遠の闇へと葬り去ったのである。

私たちが親しんできた『三国志』の壮大な群像劇は、この空洞の権力者の無残な死と、彼が遺した巨大な権力の空白から本格的な幕を開ける。

天下の全軍を統帥しながら、己を守る一人の直属の兵すら持たなかった大将軍・何進。彼がその身を挺して証明したのは、絶対的な基盤を持たぬ権力がいかに脆いかという冷酷な政治力学の真理であり、同時に、一つの巨大な帝国がその寿命を完全に使い果たし、自重に耐えきれずに崩落していく、凄絶なる断末魔の姿そのものであった。

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