父の遺志
その後、僕はレストランを手伝うことについて、真剣に母と話し合った。
母は「ありがとう、ノア。本当にありがとう」
本当にレストランを一人で回していたのは大変だったんだと。
その辛さや孤独を押し込んだ胸のダムを、僕の言葉で決壊させてしまったのかもしれない。
その時はもう僕の中の、きっと失うであろう自分の時間のことは、些細なことにしか感じられなくなっていた。
むしろ、13歳にして社会の一員になれたような、すこし大人に手が届いたような高揚した気持ちの方が大きかったかもしれない。
とはいえ、バイトでも何でもない、ただの家業の手伝いという立場だが。
レストランにはもちろん何度も足を運んでいたし、場所への特別感はない。
ただ「働く」という特別感は、今まで経験のない事だった。
どぎまぎしながら母に尋ねた
「とりあえず、何手伝えばいいの?」
そう聞いたとき、母は笑顔で、静かに一言答えた。
「ギャルソンよ」
ギャルソン――それは、僕の父親の職業の名前だった。
シェフが作った料理を運ぶだけじゃない。
お客様に料理の意味や景色を伝え、芳醇のその先の世界を見せる仕事。
母は僕にそうやって、父の仕事について教えてくれた。
僕の「芳醇のその先って何なのさ?」なんて質問に母は、いつも笑いながら頭をくしゃくしゃに撫でてきた。
そして、その母が僕にギャルソンとして手伝いをしてほしいといったのだ。
母は、まだクリーニングされて、袋にかぶせられたままの黒のベスト。そしてたたまれた状態の白い布を、テーブルの上にそっとおいた。
「ノア。これはね、あなたのお父さんの着るはずだったお店の制服よ。ただ……オープンの日には着られなかったけどね」
少しだけ寂しそうな顔をしている母は、そのビニールを破って言った
「ちょっと着てみよっか」
少し大きいサイズだけど、体格はきっと僕と変わらないくらいだったというのが分かった。
母は僕の腰にエプロンの紐を回し、ギュッと縛ってくれた。
そのエプロンの右腰あたりには、文字が刺繍されていた。
"Ray S.L.Raz"
店の名前と、父親の名前だった。
「なかなか、似合ってるじゃない?」
嬉しそうに母が言ってきた。
木漏れ日の席の窓ガラスに移る自分の姿は、どこか優しく笑っているように見えた。
僕はこれから、まだ意味の分からない『芳醇のその先』を求めることになるんだろうかと、その時は不安ながらも漠然と思っていた。




