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裏方公爵令嬢、舞台で鉄仮面に独占されました

作者: くるり
掲載日:2026/01/11

本作は、裏方公爵令嬢が学園の舞台で繰り広げるラブコメディ&音楽祭奮闘記。


「……また、やってしまった」


私は机に突っ伏した。いや、突っ伏したい衝動を公爵令嬢としてのなけなしのプライドでミリ単位で食い止めた。

聖ローデリッヒ貴族学院の学級委員室。


私の目の前には、修正ペンでデコレーションされたような白く悲惨な集計表がある。


私は「欠陥令嬢」だ。


公爵家の名にふさわしい完璧な秩序を愛しているのに、私の体の一部だけが反抗期らしく、呼吸をするようにミスを量産する。


「ユーリア・ゼーゼヴァン。本日三度目だ」


氷点下の風が吹いた。

振り返らなくてもわかる。


王子の側近にして、学園の秩序を司る鉄の監査役ギルバート・ハルシュタイン様だ。


「申し訳ありません、ギルバート様!すぐに書き直します!」


私は椅子からロケットのように飛び上がり、勢い余って自分の膝を机の角に強打した。

「ふぎっ……!」

令嬢にあるまじきカエルの潰れたような鳴き声が出たが、構っていられない。

彼は完璧主義者だ。私のこの、一行ずれるだけで国が滅びそうな無能ぶりをきっと軽蔑し処刑リストの最上段に「今すぐ消すべきノイズ」として登録しているに違いない。


「……三度目だ、と言ったのは」


一拍、置いて。


「君のその右手の傷のことだ」


「へ?」


心臓が止まるかと思った。

ギルバート様が、白い手袋越しに私の手首を掴んだのだ。しかも、逃がさないという強い意志を感じるほど、的確に。


鉄仮面の下の瞳は、相変わらず感情が読み取れないほど冷淡だ。


「先ほど下級生が落とした画鋲を素手で拾っていただろう。なぜ放置している。……君は、自分の身を守るという幼児でもできることすらできないのか?」


「あ、いえ! 私のような公爵家の面汚しが、未来ある若人の指を怪我させるわけには……あだだだだ!」


彼は私の弁明を無視して、慣れた手つきで私の指に救急絆創膏を巻き付けた。


私はただ小刻みに震えるしかなかった。


(やめて! そんな高級な絆創膏を私のようなミス製造機に消費しないで! 資源の無駄です!)


「大丈夫かどうかを判断するのは、君ではない。私の管轄だ」


「は、はいぃ?」


管轄?


彼の管轄は学園の風紀であって、私の指先ではないはずだ。


「君は先ほどから、三度も同じ種類のミスをしている。集中力が途切れている証拠だ。この状態で作業を続ける方が、全体にとって――いや、私にとって非効率だ」


今の、一瞬言い直しませんでしたか。 私の脳内パニックを無視して、彼は冷徹な命令を下す。


「五分、休憩を取れ。廊下を一周して、水を飲んでこい。……いいか、五分だ。一秒でも過ぎれば、君の今日のスケジュールをすべて白紙に戻し、私がつきっきりで再教育ティーチングすることになる」


「ヒッ……! 行ってきます! 今すぐ消えます!」


再教育! それは実質の監禁ではないか! 私は脱兎のごとく部屋を飛び出した。


背後から、「戻ったら、その集計表は私が預かる。書き直しは不要だ」という声が聞こえた気がしたが、私は止まれない。


廊下を走りながら、私は自分の胸を押さえた。


おかしい。


怒られているはずなのに、責められているはずなのに。


(……なんで私の心臓、こんなにドラム連打みたいな音を出してるの!?)


恐ろしい人だ。


完璧すぎて、近づいてはいけない人だ。


それなのに私は今


自分を不燃物扱いする彼の冷たい指先の感触を、これっぽっちも嫌だと思っていない自分に絶望した。


「……予定外よ。こんなの私の平穏な裏方人生の計画に、ひとかけらも入ってなかったんだから!」


私は壁に頭を打ち付けたい衝動に駆られながら、それでも「五分きっかり」で彼の元へ戻る自分を、疑いようもなく確信していた。


確信していたはずなのに――。



「五分。あと三分と四十秒で戻らないと、ギルバート様に再教育(物理的な拘束の予感)されてしまう……」


私は小声でカウントダウンしながら、廊下を小走りに進んでいた。


そのまま角を曲がろうとした、その瞬間。


「おっと、危ないよ。そんなに急いでどこへ行くんだい? 僕の胸の中かな?」


ふわり、と甘い香水の香りが鼻をくすぐる。

目の前に立ちはだかったのは、まばゆい金髪を揺らしたラウル・ド・アルメイダ王子だった。


(この人に捕まったら、五分以内に戻れない! 再教育される……!)


「で、殿下! 申し訳ありません、今、私は緊急事態――五分間の強制労働離脱中でして!」


私は慌ててブレーキをかけようとして、案の定、足がもつれた。


「おっと」


王子が軽々と私の腰を支える。

距離、わずか数センチ。心臓に悪い。この人は自分が歩くフェロモン製造機だという自覚が絶対にある。しかも確信犯だ。


「そんなに焦らなくていい。君の“予定”なら、僕が全部書き換えてあげようか? 例えば――今から僕と二人きりで、音楽祭の下見デートに行くとか」


「デ、デート!? 無理です! 私は裏方です! 会場の石ころみたいな存在です! 石ころをデートに誘うなんて、殿下の正気が疑われます!」


必死に腕の中から脱出しようとした、その時。


「……殿下。その石ころは、現在、私の管理下にあります」


背後から、地の底をなぞるような低い声が響いた。

振り返ると、そこにはいつの間にか追いついてきたギルバート様が立っていた。

鉄仮面は相変わらず無表情。だが、手にした「修正済みの書類」が、握力でみしり……と嫌な音を立てている。


「おや、ギルバート。彼女は休憩中だろう? 誰と過ごそうが自由じゃないか」


「休憩の目的は『効率の回復』です。貴方のような不純物と接触して心拍数を無駄に上げることは、私の計算に含まれていません」


(不純物って言った! 王子を不純物って言ったわよ、この人!)


ギルバート様は迷いなく歩み寄ると、王子の腕の中から私をひっぺがした。

そのまま、今度は逃げ場がないほどしっかりと、私の手首を掴み直す。


「ローゼライト嬢。休憩時間は残り二分だ。……残りの時間は、私の視界に入る場所で大人しくしていろ」


「は、はいぃっ!」


王子は面白そうに肩をすくめた。

「そんなに独占欲を隠さないなんて、ギルバートも余裕がないねぇ」


「……独占欲ではありません。不備のある個体を管理するのは、監査役としての義務です」


そう言い捨てると、ギルバート様は私を半ば引きずるようにして委員室へと連れ戻した。

握られた手首が、絆創膏を巻かれた指先よりも熱い。


(……おかしい。私、今、確実に“管理”じゃなくて“捕獲”された気がするんですけど!?)


私の脳内予定表は、この鉄仮面側近によって、

一ページ目から、容赦なく塗りつぶされようとしていた。



「……あ、数字が、逃げる……」


音楽祭を五日後に控え、私の意識はもはや遠い異世界の彼方へ旅立とうとしていた。

学級委員室には、まだ残っているのは私と向かいのデスクで無慈悲にペンを走らせるギルバート様だけ。

窓の外は、月が昇り、学園はすっかり静まり返っていた。


深夜と言うにはまだ早い時間だが、公式の作業時間を過ぎても、特別な準備のためなら教室を使えるのだ。

…つまり、私たちは“特別枠”で働いているわけだ。責任の重さを思うと、背筋がぴんと伸びる。


カチ、カチ、と時計の針が刻む音が、まるで私の処刑へのカウントダウンに聞こえる。


「ローゼライト嬢。……三秒、動きが止まった」


「ひゃいっ!? すみません、今のはその、瞬きの回数を数えていただけで……!」


ギルバート様が顔を上げ、眼鏡を指先で直す。疲弊した私の脳細胞に、余計な負荷がかかる。

彼は、私が三度も同じ行を書き直していることを、見ずとも“気配”で察知している。恐ろしい男だ。


「……もういい、ペンを置け。これ以上の作業は、インクの無駄以上に私の忍耐の無駄だ」


「申し訳ありません! 私は本当に、インクを消費するだけの装置で……」


「語弊がある。私が言いたいのは、君がそうやって意識を飛ばしながら書いた『歪んだ文字』を、後で私が一枚ずつ修正する手間を考えろということだ」


ギルバート様は席を立つと、音もなく私の隣へ歩み寄った。

そして私の手から力ずくでペンを取り上げると、見慣れない小瓶を差し出してきた。


「これは……?」

「栄養剤だ。君のような、エネルギー効率の悪い個体のために特別に調律ブレンドさせた」


調律――その言葉の選び方が、ハルシュタイン家らしい。

私は震える手で小瓶を受け取り、一気に飲み干す。甘く、そして驚くほど頭が冴えてくる。


「あの、ギルバート様。……もしかして、他の方々にもこれを?」

「……まさか。コストに見合わない。君一人のスケジュールを維持するだけで、私の計算リソースは限界に近い」


さらりと言われたが、それって要するに

「お前のミスが多すぎて、俺一人で監視しないと間に合わない」

という、最大級の皮肉ではないだろうか。

私は消え入りたい気持ちで、窓の外の夜景を見上げた。


「……明日には、他国の使節団が到着されますね。私のような石ころが、粗相をしてギルバート様の顔を泥で塗らないか、それだけが心配で……」


「ユーリア。君は、自分の失敗ばかりに執着しているが」


ギルバート様が椅子の背もたれに手を置いた。逃げ場を塞ぐ、いつもの“檻”ポーズだ。


「今日、君が提出した来賓の食事リスト。……なぜ、サグザール大公のメニューから、特定のスパイスをすべて除外した?」


「えっ? あ、それは、大公閣下の故郷の気候を調べた際、この時期の乾燥で喉を痛めやすいと記録にありましたので。……刺激物は演奏を聴く際のお邪魔になるかと思いまして。……余計なことでしたでしょうか?」


「……」


一瞬だけ、鉄仮面の下の表情が歪むのを私は見逃さなかった。

公爵令嬢が「記録にないお節介」を焼くなんて、彼にとっては完全な予定外のノイズでしかないのだ。


「……五分だ」

「えっ?」

「五分以内に、そのリストに付随する『君が勝手に配慮したすべての事項』を書き出せ。……一つも、漏らすな。それは、これからの外交において極めて重要な『武器』になる」


「へ……武器!? 私はそんな、物騒なものは……!」


「黙って書け。……君という女は、自分の指の傷には無頓着な癖に、他人の喉の調子には鼻が利くらしい」


背後で、ギルバート様が手帳に何かを書き込む音が聞こえる。

その新しいページのタイトルは――


『ユーリア・防衛・優先事項』


――まだ私は、それがどれほど自分に関わるものか、知らない。



「……おはようございます、ギルバート様」


昨夜の栄養剤のおかげで、私は驚くほどスッキリ目覚めて登校した。


けれど、学園の入り口で待ち構えていた鉄仮面を見た瞬間、私の爽快な気分は一瞬で「処刑場の朝」に変わった。


「三分遅い、ローゼライト嬢」


「ひぃっ!? 申し訳ありません! 門の前で、転びそうになった一年生を支えていたら……!」


「……やれやれ。君のそのお節介は、天災の域だな」


そう言いながら、彼は私の手に可愛い包みをした飴を押し付けた。


「これは……?」


「昨夜の栄養剤の“効きすぎ”を少し調整するための飴だ」


(効きすぎ……!? そんな物騒な表現しないでください! でも、この飴の包み……めちゃくちゃ可愛いじゃないですか!)


舐めると優しい甘さが体をふわっと柔らかくし脳がほんわかと目覚める。




私は思わず心の中でつぶやいた。


(ギルバート様、ほんとに無表情でこういうことするんだから……ずるい!)



音楽祭を三日後に控え、学園の講堂ではオーケストラの総練習が行われていた。 私は舞台袖の隅っこで、来賓用のプログラムの山を崩さないよう必死に抱えながら、手元の進行表と睨み合っている。


「……三秒、遅れてる」


はっとして、私は慌てて自分の口を押さえる。


今、壇上で演奏されているのは建国記念曲。 金管の華やかなファンファーレに合わせ、バイオリンが一斉に弓を走らせる――物語でいえば最高潮のクライマックス、誰もがうっとりと聴き入るはずの場面。


(あ、やっぱり……。第2バイオリン、左から三番目)


昨夜も遅くまで練習室の明かりをつけていたあの子だ。 指先が少し腫れているのだろう。弦を押さえる力が、ほんの一瞬だけ、音の波に追いつけていない。 私は無意識に、自由な方の指で空中に弓の動きをなぞった。


耳に届くのは、本来なら煌びやかで美しい旋律のはずなのに。 なぜか私の耳には、楽譜の裏側に隠れた悲鳴が聞こえてしまう。


『ここ、苦しい』『ここ、無理してる』『助けて、置いていかないで』


「……ローゼライト嬢」


「ひゃいっ!?」


背後から、鼓膜を直接震わせるような低く落ち着いた声。 振り向くと、いつの間にいたのか、腕を組んだギルバート様が舞台を鋭く見つめていた。


「今、何と言った」


「あ、あの、独り言です! 音楽の才能なんて微塵もない、ただの石ころな裏方が、勝手に脳内でエア合奏してバグを起こしただけで……!」


「……三秒、遅れていると言ったな」


至近距離から放たれる射抜くような視線。それは、どんな些細な「予定外」も逃さない監査役の目だ。 私は観念して、亀のように首を縮めながら小さく頷いた。


「第2バイオリンの方が……昨夜、少し無理をされたみたいで。今は気力で耐えてますけど、このままだと、最後の盛り上がり(フィナーレ)で音がこらえきれずに、バラバラに転んでしまう気がして……」


言い終えた瞬間、猛烈な後悔が押し寄せる。 私は指揮者でもなければ、プロの演奏家でもない。ただのプログラム配りの分際で、何を偉そうに専門家みたいなことを――。


「……ふ」


不意に、重苦しい空気を切り裂くような音がした。 顔を上げると、あの鉄仮面のギルバート様が、ほんの一瞬――本当に、雪解けのような一瞬だけ、口元を緩めていた。


「指揮者に伝えろ。第2バイオリンに五分の休憩。アイシング用の氷も用意させろ」


「……え?」


「それから、ユーリア。今日から君は私の隣だ」


「えっ? とな、隣ですか!?」


「そうだ」 彼は一歩近づき、周囲の演奏にかき消されないよう、私の耳元に低い声を落とした。


「君のその耳、ただの裏方に放っておくにはあまりに惜しい。気づいているのに黙っている方が、よほど非効率だ。それに――」


ほんの少し、彼の視線が熱を帯びた。


「君がそばにいた方が、私も安心できる」


――ドクン、と心臓が可愛くない音を立てた。


(……それ、管理の話ですよね!? 私を監視下に置いておけば、エラーが未然に防げて効率的だって意味ですよね!? 決して、個人的に『一緒にいたい』なんて意味じゃないですよね!?)


けれど、心の中で叫ぶ勇気なんてひとかけらもなくて。 私はただ、崩れかけたプログラムの束をぎゅっと抱え直し、彼の影に重なるようにして隣に立った。


どうやら私は今日も、平穏な「裏方」という名の安全地帯から、また一歩、踏み出してしまったらしい。





「おやおや。僕のいない間に、ずいぶん『密接』な管理体制を築いているじゃないか」


頭上から華やかな声。心臓が爆発しそうな“特等席”で固まっていた私は、飛び上がった。


「ら、ラウル殿下! いつからそこに……!」


舞台の縁に腰を下ろし、金髪を揺らした王子が笑っている。

「君が空中で魔法の指揮棒を振ってたあたりからかな?」


彼はぴょんと舞台から飛び降り、私のすぐそばまで歩み寄る。甘い香水が鼻をくすぐり、私は思わず一歩後退した。


「ユーリア、君がそんなに『音の綻び』に敏感だなんて知らなかったよ。ねぇ、ギルバート。彼女をこんな暗がりに置くなんて、宝の無駄だと思わない?」


「……殿下。公務の邪魔です。それから、彼女は家名で呼ぶよう以前進言したはずです」


ギルバート様の声が、氷点下まで冷えた。

私まで凍りそう。


「いいじゃないか、堅苦しいことは。ユーリア、提案があるんだ」


王子は軽く私の手首を取る。

「音楽祭後の夜会に、僕と踊ってくれない? 君なら僕のステップの乱れもすぐ直してくれるだろう」


「は、は、はいぃっ!? 無理です、不敬です、国家存亡の危機です!!」


パニックの私に、耳元で「メキィッ!」

ギルバート様が革製バインダーを握り潰していた。


「……殿下。失礼、手が滑りました」


「滑るわけないでしょ!?」

私のツッコミは、彼の冷たい瞳に押し込まれる。


ギルバート様は折れたバインダーを脇に挟み、王子の手から私の手首を力強く奪い返す。


「彼女は今、私の『耳』として重要だ。踊りごときで消費される余裕はない」


「おっと、でもギルバート、独り占めは無理だよ。この至宝はすぐにみんなに気づくんだから」


ラウル王子が笑い、私を隠すギルバート様を挑発する。

背中で、ギルバート様の手がかすかに震えているのを感じた。


「……価値を知るのは、私一人で十分だ」


(……やっぱり管理じゃない! 私、私有財産扱い!?)


「ユーリア、戻るぞ。次の確認だ。二度と、私の視界から三歩以上離れるな」


「は、はいぃっ!」


ギルバート様は私を引きずるように舞台裏の奥へ。

王子の「あはは、熱いねぇ」という声が遠くに聞こえたが、私はそれどころではなかった。


握られた手首が、熱い――冷徹なはずの彼の指先が、少しずつ温もりを帯びていた。



音楽祭当日。

朝から練習と進行チェックを重ね、すべては予定通りに進んでいた。

舞台袖では、オーケストラの団員たちが最後のチューニングに余念がない。

私は裏方として進行表を手元に置きながらも、バイオリンを肩に抱え、軽く弓を振って音を確かめる。


(……ふふ。昨日の練習でも指先に少し違和感があったけど、今はちゃんと音が出る)


ヒロインとしてではなく、裏方としての立場でここまで来たけれど、バイオリンは幼少期から慣れ親しんだ相棒のような存在だ。

だから、舞台袖で静かに音を確認するこの数分も、私はわずかに心が落ち着くのを感じていた。


「……嘘、でしょう?」


暗幕の隙間から会場を覗き見していた私は、血の気が引くのを感じた。

音楽祭のプログラムは大詰め。他国から招いたサグザール大公が、亡き妻との思い出の曲としてリクエストしたバイオリン・ソナタの直前――。

本来演奏するはずだった首席奏者が、ラウル王子のちょっとした悪戯か(酷い)、あるいは過度の緊張か、舞台裏で倒れ込んでいたのだ。


「代役は!? 誰かこの曲を弾ける者はいないのか!」


進行責任者の怒声が飛ぶ。

だが、私にとってこれは「絶対に弾けない」曲ではなかった。

幼少期から鍛えられた指先と、裏方として音楽を観察してきた経験が、心の奥で“弾ける”という確信をささやく。


「……一小節目の入りを、半音下げて……ヴィオラのピチカートで補強すれば、バイオリンの負担は減るはず」


私は進行表の裏に、即席の編曲案を書き殴る。

音楽祭を順調に進めてきた経験と、普段のバイオリン練習が、脳内で即興アレンジを可能にしていた。


「……ローゼライト嬢」


「ひっ!? ギ、ギルバート様……!」

すぐに注意されると思ったが、彼の瞳には冷徹さだけでなく、焦燥と確信が混ざった光が宿っていた。


「君が書いたその編曲案を、私が今すぐ指揮者に通達する。……そして、バイオリンを、持て」


「え……? む、無理です! 私は裏方で、石ころで、バイオリンなんて……!」


「持てと言っている!」


ギルバート様の声は、講堂の喧騒を切り裂いた。

倒れた奏者の手からバイオリンを奪い取り、私の手に押し付ける。


「君が一番知っているはずだ。この場を救えるのは、君しかいない」


光の中で、私は肩にバイオリンを乗せた。

最初の音が、静寂を切り裂く。


普段から慣れ親しんだ弓が、震える指先に沿い、音色を紡ぐ――

完璧ではないかもしれない。でも、会場のすべての心に、確かに届く音だった。




最初の音が、静寂を切り裂く。

震える指先が弦を捉えた瞬間、私の頭から「恐怖」が消え、

代わりに「この曲を待っている人の心」が流れ込んできた。


(……ああ、そう。私は、この『音』を届けたかった)


昨夜の居残りでギルバート様がくれた栄養剤のせいか、あるいは隣でずっと私の「正確さ」を肯定し続けてくれた彼の信頼のせいか。 指は驚くほど滑らかに動き、即興で書き換えた編曲は、オーケストラの音色を優しく包み込んでいく。


演奏が終わった瞬間。 拍手すら起きない、濃密な静寂。 サグザール大公が、瞳に涙を浮かべて立ち上がるのが見えた。


(……よし。予定通り、曲は終わった。あとは、消えるだけ!)


喝采が爆発する直前、私は楽器を床に置くと、ドレスの裾を翻して舞台袖の闇へと飛び込んだ。



音楽祭は大成功に終わった。 けれど、夜会の会場は「あの代役の少女は誰だ」という話題で持ち切りだった。 私は、ギルバート様から「管理上の必要経費だ」と無理やり着せられた紺青のドレスに身を包み、会場の隅で観葉植物と同化しようとしていた。


「……あ、あうう。なんでこんなに目立つドレスなんですか。ギルバート様のバカ……」


「バカとは心外だな。そのドレスの彩度まで計算して、君の肌が一番美しく見えるようにしたというのに」


「ひゃいっ!?」


背後から、鼓膜を甘く痺れさせる低い声。 振り返ると、そこには正装に身を包んだギルバート様が立っていた。 鉄仮面は相変わらずだが、その瞳には、隠しきれないほどの熱が灯っている。


「ギ、ギルバート様……! 音楽祭では出しゃばってすみませんでした! 今すぐ石ころに戻りますから、どうか処刑だけは……」


「処刑? 違うな。……いま私が考えているのは、会場中の男たちの視線をどうやって遮断し、君を安全な場所に監禁するか、という非効率極まりない独占欲の処理についてだ」


「え……?」


驚く私を無視して、彼は私の手首を掴んだ。 昨夜よりも強く、けれど壊れ物を扱うような繊細な力加減で。


「ユーリア。……君のあの音は、私だけのものだったはずだ。なぜ、あんなに美しく笑って弾いた。なぜ、私以外の男にまで、君の価値を『分からせて』しまったんだ」


「それは……演奏者として、当然の……」


「当然ではない! 私の心臓は、君が弓を振るたびに、計算不可能な速度で跳ねていたんだぞ!」


冷徹なはずの彼が、今、人目も憚らずに声を荒らげている。 そこへ、追い打ちをかけるように「あの声」が響いた。


「おやおや。ギルバート、今夜の君は随分と熱いねぇ」


ラウル王子が、獲物を見つけたような笑みを浮かべて近づいてくる。


「ユーリア、君は今夜の伝説だ。どうだい、僕と一曲踊って、その『正体』をバラしてしまわないかい? 僕と踊れば、君は明日からこの国の注目の的だ」


「ひぃっ!? 殿下、私はただの――」


言いかけた私の肩を、ギルバート様が背後から抱き寄せた。 それは、王子への、そして会場全体への「宣戦布告」のような抱擁だった。


「……殿下。この娘は、私の『私物』です」


(し、しぶつ!? さっきまで管理対象って言ってたのに、ついに私物って言った!?)


「彼女の価値を理解するのは、私一人で十分だ。……行くぞ、ユーリア。これ以上、君を誰の視界にも入れたくない」


ギルバート様は王子を睨みつけると、私を半分抱きかかえるようにして、夜風の吹くテラスへと連れ去った。





夜風が、熱を帯びた頬を冷ややかに撫でた。


テラスに出た瞬間、会場の喧騒と突き刺さるような視線が、嘘のように遠のいていく。


「……あの、ギルバート様。さすがに、さっきの『私物』という発言は言い過ぎでは……」

彼は私を腕の中に閉じ込めたまま、低く、断定するように言った。


「あの会場で、君を誰かに奪われる可能性をシミュレートした結果――理性を維持するコストが、私の許容範囲を完全に突破した」

(計算!? そんなシステムエラーみたいな理由で、今こんなに強く抱きしめられてるんですか私!?)



「それに」 彼は一瞬、ふいと視線を逸らして言葉を探す素振りを見せ、

すぐに射抜くような眼差しで私を見下ろした。


「君は、あまりにも自覚がなさすぎる」


「……え?」


「音楽祭の舞台で、君は笑っていた。義務でも、責任でもなく――ただ、好きな音を慈しむ顔をしていた」

ドクン、と胸の奥が跳ねる。


「私はあの表情を知っている。普段、君が書類の山に埋もれながら、誰にも気づかれないような配慮おせっかいを積み重ねているときの顔と同じだ」


「……そんなの、ただの無意識な癖で……」


「違う」

即答だった。


「君は、他人のために己を削ることを“当然”だと思っている。だがな、ユーリア。それは――」

彼は言葉を切り、私の額にそっと自分の額を当てた。

触れ合う皮膚の温度が熱くて、思考がホワイトアウトする。


「――私にとっては、狂おしいほど独占したくなる、危険な才能だ」


「……ギ、ギルバート様……それ、褒めてますか……?」


「最高級に褒めている。そして同時に、警告しているんだ」

彼の声は、もう冷徹な監査役のものではなかった。


「君は今夜、世界に見つかってしまった。だから私は、これから君を――」


一拍。重い沈黙。


「守り抜くために、今まで以上に厳しく管理する」

(……それ、普通は“熱烈な口説き文句”って言うんじゃありませんか……!?)


私が何か言い返すより先に、彼は耐えかねたように深く息を吐いた。


「安心しろ。今すぐ何かを要求するつもりはない。ただ一つだけ、命令だ」


「……は、はい」


「今夜は、誰とも踊るな。君が踏み出す最初のステップは――」


視線が、逃げ場のないほど至近距離で絡み合う。



「――私が許可したときだけだ」




そこへ、遠くから野次馬根性たっぷりの、楽しげな声が響いた。


「いやあ、完全に囲い込んだねぇ。……でもギルバート、覚えておくといい。檻に入れた宝石ほど、外の光に憧れるものだよ?」

ラウル王子の軽薄な忠告。


ギルバート様は、振り返りもせずに吐き捨てた。


「黙れ。彼女がどこを見るかは――私が、責任を持って管理(独占)する」

(あの……私の意思はどこへ置き去りなんですか……!?)


強引すぎる支配。


けれど、夜風の中で私はそっと思う。

この人は、まだ“恋”と呼ぶには不器用すぎて、真っ直ぐすぎるのだ。


(……こんなふうに、なりふり構わず必死に独占されるの。


――ちょっとだけ、嫌じゃないと思っている自分に、一番驚いています)

ここまで読んでいただきありがとうございました。


「効率的管理」と「不器用な独占」、そして「音楽祭」という舞台を通じて、ユーリアの成長と恋心の芽生えを楽しんでいただけたら幸いです。

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