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第九話

重厚な扉が閉ざされ、アレクセイ殿下たちの絶叫が聞こえなくなった後。

宮殿のダイニングルームには、再び静寂と、食欲をそそる芳醇な香りが戻っていた。


「……静かになったな」


「ええ。まるで嵐が過ぎ去ったみたいです」


私は改めて席につき、目の前のドラゴンステーキに向き合った。

先ほどの騒動で少し冷めてしまったかもしれないが、この肉に限ってはそんな心配は無用だ。

炎帝竜フレイム・エンペラー・ドラゴン』の肉は、自らが持つ熱エネルギーで保温され続けるという、夢のような特性を持っているのだから。


「では、改めて。……いただきましょうか」


「ああ。勝利の美酒と共に」


ギデオン様が『ドワーフの秘蔵赤ワイン』をグラスに注ぐ。

深紅の液体が揺れ、ガラス越しに照明の光を吸い込んで輝く。

私たちは軽くグラスを合わせ、チン、と涼やかな音を響かせた。


まずは、メインのステーキだ。

私はナイフを入れる。

表面はこんがりとクリスピーに焼けているのに、刃を入れた瞬間の感触は驚くほど軽い。

抵抗なくスッと切れ込み、中からロゼ色の断面が現れる。

網の目のように細かく入ったサシ(脂)が、熱で溶け出してキラキラと光っている。


フォークで一切れを刺し、たっぷりとガーリックソースを絡めて口へと運ぶ。


「んんっ……!」


噛んだ瞬間、口の中が旨味の洪水で満たされた。

牛でも豚でもない、もっと力強く、それでいて野性味を感じさせない洗練された味。

濃厚な脂の甘みが舌の上で溶け出し、鼻腔へと抜けていくガーリックと焦がし醤油の香りが、脳髄を痺れさせる。


「おいしい……っ! これ、今までで一番の出来かもしれません!」


「同感だ。……あの愚か者たちを追い払った高揚感が、最高のスパイスになっている」


ギデオン様も恍惚とした表情で肉を咀嚼し、赤ワインを流し込む。

タンニンの渋みが脂をさらりと洗い流し、次の一口を誘う。

完璧なマリアージュだ。


「それにしても、彼らは無事に帰れるでしょうか?」


私は付け合わせの『マッシュ・ポテト(とろとろチーズ入り)』をスプーンですくいながら、ふと思ったことを口にした。

心配しているわけではない。

ただの興味本位だ。


ギデオン様は冷ややかに鼻を鳴らした。


「俺が周辺の強力な魔物は狩り尽くしたからな。即死することはないだろう。……だが、彼らが今まで『雑魚』だと見下していた低級魔物が、どれほどの脅威かを知ることになる」


「まあ。それは良い社会勉強になりそうですわね」


私たちは顔を見合わせて、意地悪く笑った。

この美味しいステーキを食べている間、彼らが味わっているであろう「絶望」を想像すると、箸が──いえ、フォークがますます進んでしまうのだった。


   ◇


その頃。ダンジョンの浅層エリア。


「ハァ……ハァ……! くそっ、なんだこの森は! 歩きにくいぞ!」


王太子アレクセイは、泥だらけになりながら森の中を彷徨っていた。

王宮から着てきた上質な絹のシャツはあちこちが破れ、自慢の金髪には枯れ葉や蜘蛛の巣が絡みついている。


「アレクセイ様ぁ、待ってくださいよぉ! 足が痛いんですぅ!」


後ろからついてくる聖女ミシャも悲惨だった。

ヒールの高い靴は片方が折れ、裸足に近い状態で湿った地面を歩いている。

可愛いピンク色のドレスは泥で茶色く染まり、見る影もない。


「うるさい! お前が『聖女の力で魔物を追い払う』とか言うから、近衛騎士たちを先に帰らせてしまったんだろうが!」


「だってぇ! まさか私の光魔法が効かないなんて思わなかったんですもの! この森がおかしいんですわ!」


二人は互いに責任をなすりつけ合いながら、よろよろと歩いていた。

彼らを支配しているのは、恐怖と、そして何よりも耐え難い「空腹」だった。


先ほど、ロザリアたちの宮殿で嗅いだ、あの極上のステーキの香り。

それが鼻の奥に焼き付いて離れない。

思い出せば思い出すほど、胃袋が悲鳴を上げ、口の中によだれが溢れる。


「腹が減った……。何か、何か食べるものはないのか……」


アレクセイは血走った目で周囲を見回した。

しかし、そこにあるのは不気味な色の植物と、湿った土だけ。


ガサリ。


茂みが揺れた。


「ひっ! ま、魔物!?」


二人が抱き合って震える中、そこから現れたのは、一匹の『グリーン・キャタピラー』だった。

腕ほどの太さがある芋虫だ。

ロザリアなら「素揚げにすればエビのような味」と判断する食材だが、知識のない彼らにとっては、ただの気色悪い虫でしかない。


「い、芋虫か……。お、おいミシャ、あれを浄化して食えるようにしろ」


「いやですわ! あんな気持ち悪いもの、生理的に無理です!」


「贅沢を言うな! このままでは餓死するぞ!」


二人が揉めている間に、キャタピラーは興味なさげに去っていった。

逃した獲物(?)を見送り、アレクセイはその場にへたり込んだ。


「なぜだ……。なぜ、ロザリアはあんなに優雅に暮らしているんだ」


脳裏に浮かぶのは、美しいドレスをまとい、最強の英雄に守られ、宝石のようなケーキや極上の肉を食べていた元婚約者の姿。

かつて自分が「地味でつまらない女」だと切り捨てた彼女が、今は手の届かない高みにいる。


「……私が、間違っていたのか?」


「何を弱気なことを言っているんですか! あんなの、きっと悪魔と契約したに決まってます!」


ミシャがヒステリックに叫ぶ。

しかし、その声には以前のような覇気はない。

彼女も気づいているのだ。

自分たちが「本物」を捨てて、「偽物」を選んでしまったという事実に。


グゥゥゥゥゥ……。


盛大な腹の音が、静まり返った森に響く。

彼らの惨めな撤退戦は、まだ始まったばかりだった。

王都に帰り着く頃には、彼らのプライドは粉々に砕け散り、二度と美食を口にできないほどのトラウマを植え付けられていることだろう。


   ◇


一方、隠れ宮殿のダイニングルーム。

私たちはステーキを完食し、食後の余韻に浸っていた。


「……ふぅ。お腹いっぱいです」


「ああ。満足だ」


ギデオン様は空になった皿を見つめ、それから真剣な表情で私に向き直った。


「ロザリア」


「はい?」


「彼らは二度とここには来ないだろう。王家も、俺が睨みをきかせた以上、手出しはできないはずだ」


「ええ、そうですね。ギデオン様のおかげです」


「……だから、聞きたいことがある」


彼は椅子から立ち上がり、私のそばまで歩み寄ると、膝をついて私の手を取った。

その手は少し汗ばんでいて、彼が緊張していることが伝わってくる。

最強の冒険者が、ただの料理人相手に緊張しているなんて。


「俺は、君の料理が好きだ。君の作る飯がないと、もう生きていけない体になってしまった」


「ふふ、責任重大ですね」


「だが、それだけじゃない」


彼の赤い瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。


「俺は、料理を作っている時の楽しそうな君が好きなんだ。美味しいものを食べて笑う、君の笑顔が好きなんだ。……君自身が、誰よりも愛おしい」


「っ……」


心臓が大きく跳ねた。

今までも甘い言葉はかけられてきたけれど、これは決定的な告白だった。

雇用主と料理人という関係を超えた、一人の男性としての言葉。


「ロザリア。俺と結婚してくれないか? 一生、俺の隣で笑っていてほしい」


真っ直ぐなプロポーズ。

王太子からの婚約破棄の言葉よりも、何千倍も重みがあり、そして温かい言葉。


私は目の奥が熱くなるのを感じた。

追放されて、死ぬかと思ったあの日。

まさかこんな幸せな未来が待っているなんて、誰が想像できただろう。


私は彼の手を両手で包み込み、精一杯の笑顔で答えた。


「……はい。私でよければ、喜んで」


「ロザリア……!」


「ただし、条件があります」


私が人差し指を立てると、ギデオン様はキョトンとした。


「条件? なんだ、何でも言ってくれ。国の一つや二つ、滅ぼしてくればいいか?」


「違います! そんな物騒なことじゃありません」


私は彼に抱きつき、耳元で囁いた。


「これからも、毎日『美味しい』って言ってくださいね。それだけで、私はどんな料理だって作れますから」


ギデオン様は一瞬目を見開き、それから破顔した。

今まで見た中で、一番幸せそうな笑顔だった。


「ああ、約束する。君が飽きるくらい、毎日愛を囁きながら完食しよう」


彼は私を抱き上げ、くるりと回った。

私の笑い声と、彼の低い笑い声が重なり合う。


テーブルの上には、空になったお皿とワイングラス。

それは私たちが共に勝ち取った、平和と幸福の証だった。


「さて、ロザリア。婚約祝いだ。明日はさらに奥地へ遠征に行こうか」


「えっ、まだ奥があるんですか?」


「ああ。伝説によると、最深部には『黄金の林檎』を守る『神獣』がいるらしい」


「黄金の林檎……! アップルパイにしたら最高でしょうね!」


「そう言うと思った」


ギデオン様は愛おしそうに私のおでこにキスをした。


私たちの「おいしい冒険」は、まだ終わらない。

むしろ、ここからが本番だ。

最強の夫と、食いしん坊な妻。

二人の前には、未知なる食材と、甘い新婚生活が待っているのだから。


   ◇


そして数ヶ月後。

ダンジョンの入り口付近に、一軒の奇妙な店がオープンすることになる。

それは、冒険者たちの常識を覆す、絶品料理店だった。


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