第五話
「ロザリア、離れるなよ。水辺は足場が悪い」
「はい、ギデオン様!」
私たちは今、ダンジョンの第十五階層『蒼穹の地底湖』に来ていた。
天井には発光する水晶が星空のように散りばめられ、その光を反射して青白く輝く巨大な湖が広がっている。
とてもダンジョンの中とは思えない、幻想的な光景だ。
けれど、私の目は景色よりも水面下に釘付けだった。
「お魚……いえ、海鮮がいっぱい……!」
私のスキル【直感調理】が、水中の影を次々とロックオンしていく。
『アーマー・サーモン』に『サンダー・イール』。
ここはまさに、天然の生け簀だ。
拠点には肉の備蓄は増えたけれど、魚介類が不足していた。
日本人の魂を持つ私としては、そろそろ海の幸(厳密には地底湖の幸だけど)が恋しかったのだ。
「今日の狙いは大物だ。来るぞ」
ギデオン様が愛用の大剣『黒牙』を構え、湖の淵に立つ。
彼の殺気に反応したのか、静かだった湖面がボコボコと泡立ち始めた。
ザバァァァァァッ!
水柱と共に現れたのは、小さな家ほどもある巨大なイカ──『アビス・クラーケン』だ。
十本の触手が荒れ狂い、ヌラヌラと光る巨体が私たちを見下ろしている。
普通なら絶叫して逃げ出すレベルの怪物だ。
けれど、今の私には『それ』が、黄金色に輝くリングの山に見えていた。
『食材名:アビス・クラーケン』
『可食部位:全身(特にゲソと胴体が美味)』
『推奨調理法:油による高温調理、または刺身』
『味覚情報:濃厚な甘みと、歯切れの良い極上の弾力』
「おいしそう……!」
私の呟きが聞こえたのか、クラーケンが怒りの咆哮を上げて触手を振り下ろしてきた。
岩をも砕く一撃。
だが、ギデオン様は一歩も動じない。
「俺の料理人に手を出すな」
剣閃が走った。
あまりの速さに、刃の軌跡すら見えない。
ヒュン、という風切り音が遅れて聞こえ、次の瞬間にはクラーケンの巨体が十数個のブロックに解体されていた。
「……すごい」
何度見ても、彼の強さは規格外だ。
解体されたイカの切り身が、ドサドサと湖岸に降り注ぐ。
私はカゴを持って駆け寄った。
「ありがとうございます! これなら半年分のイカリングが作れます!」
「イカ……リング? 指輪か?」
首を傾げるギデオン様に、私はニカッと笑って見せた。
「ふふ、食べてからのお楽しみです。今日は揚げ物パーティーですよ!」
◇
拠点に戻った私たちは、さっそく調理に取り掛かった。
今日のメインディッシュは『クラーケンのリングフライ』。
新鮮なイカを輪切りにし、衣をつけて油で揚げる。
シンプルだけど、絶対に失敗のない最強のメニューだ。
「ギデオン様、そっちのタルタルソースを混ぜておいてください」
「あ、ああ。こうか?」
最強の冒険者が、ボウルを抱えて真剣な顔でマヨネーズ(卵と酢と油で作った自家製)と刻んだピクルスを混ぜている。
そのギャップが少し可愛らしくて、私はつい口元が緩んでしまう。
私はイカの下処理だ。
クラーケンの身は分厚いけれど、隠し包丁を丁寧に入れれば驚くほど柔らかくなる。
軽く塩コショウを振り、小麦粉、溶き卵、そして乾燥させたパンを砕いて作ったパン粉をたっぷりとまぶす。
鍋には、植物性の魔物『オリーブ・トレント』から採取した最高級オイルを熱してある。
温度は180度。
菜箸を入れると、シュワシュワと細かい泡が出るのが合図だ。
「いきますよ」
白い衣をまとったイカを、油の中へ滑らせる。
ジュワァァァァァッ!!
厨房に、食欲を直撃する重低音が響き渡った。
水分が蒸発する激しい音と共に、香ばしい揚げ油の匂いが立ち昇る。
白かった衣が、みるみるうちに食欲をそそるきつね色へと変わっていく。
「いい音だ……。雨音のようだが、もっと力強い」
ギデオン様が喉を鳴らして鍋を覗き込んでいる。
彼の赤い瞳が、油の中で踊るイカに釘付けだ。
「はい、揚がりました!」
油をよく切って、大皿に山盛りにする。
黄金色の山脈だ。
付け合わせには、千切りキャベツと、ダンジョンで採れた柑橘類『スター・シトロン』を添える。
レモンによく似ているが、酸味の中に星屑のようなキラキラした香りが混じる果実だ。
「それと、今日は特別な飲み物があります」
私は食料庫の奥から見つけた、ガラス瓶を取り出した。
『ドワーフの黄金麦酒』。
この隠れ宮殿の前の主人が遺したものだろう。
保存魔法がかかっていて、キンキンに冷えている。
「さあ、熱いうちにどうぞ!」
私たちはテーブルにつき、ジョッキを合わせた。
ギデオン様は麦酒を一口あおり、白い泡が唇につくのも構わず、揚げたてのイカリングに手を伸ばした。
フォークで刺すと、サクッという乾いた音がする。
それを豪快に口へ放り込む。
「…………ッ!」
サクッ、プリッ。
小気味よい音が響いた。
「うまいッ!」
ギデオン様の声が弾む。
「衣は軽やかで香ばしいのに、中の身はどうだ……驚くほど柔らかい! 噛み切った瞬間に、イカの甘みがジュワッと溢れ出してくる!」
彼はすかさず、スター・シトロンをギュッと搾ったものを口にした。
「酸味がかかると、また別物だ。脂っこさが消えて、いくらでも入る。そしてこのタルタルソース……卵のコクと酸味が、イカの甘みを何倍にも引き立てている!」
「麦酒も合いますよ?」
「ああ、試してみよう……くぅぅっ!」
揚げ物の脂を、冷たい炭酸が洗い流す快感。
ギデオン様はジョッキを半分ほど一気に飲み干し、幸せそうに息を吐いた。
その表情は、ダンジョンで魔物を切り伏せている時とは別人のように緩んでいる。
「ロザリア、君は天才だ。魔物をこんな極上のつまみに変えてしまうなんて」
「ふふ、素材が良いからですよ。ギデオン様が頑張って狩ってくれたおかげです」
「……そうか。俺が、役に立っているか」
彼は少し照れくさそうに笑い、また一つイカリングを頬張った。
食事は進み、黄金色の山はあっという間に消えていき、麦酒の瓶も数本が空になった。
食後のまったりとした空気が流れる。
少し飲みすぎたのか、ギデオン様の顔はほんのり赤く、とろんとしていた。
「ロザリア」
「はい、お茶を淹れましょうか?」
立ち上がろうとした私の手を、彼が不意に掴んだ。
熱い。
冒険者のゴツゴツした手だけど、今はとても甘えるような熱を帯びている。
「行くな」
「えっ? あの、お湯を……」
「ここにいてくれ」
彼は私の手を引いた。
抵抗する間もなく、私は彼の膝の上に引き寄せられてしまった。
バランスを崩した私を、太い腕が優しく、けれど絶対に逃がさない強さで抱きしめる。
「ぎ、ギデオン様!?」
「……温かいな」
彼は私の肩に顔を埋め、深呼吸するように匂いを嗅いだ。
耳元にかかる吐息が熱くて、心臓が早鐘を打つ。
お酒の匂いと、微かな石鹸の香り。
そして、彼自身の男らしい匂いが私を包み込む。
「ずっと、寒かったんだ」
彼の声は、子供のように心細げだった。
「呪いを受けてから、体はずっと冷たくて、飢えていて、世界中から拒絶されている気分だった。……誰も俺に近づかなかった。化け物を見る目で俺を見ていた」
Sランク冒険者としての栄光の裏で、彼がどれほどの孤独を抱えていたのか。
私には想像することしかできない。
「でも、君は違った。君だけが、俺に温かい食事をくれた。俺を人間扱いしてくれた」
抱きしめる腕に力がこもる。
「ロザリア。君がいなくなったら、俺はまたあの闇に戻ってしまう。……それだけは、耐えられない」
「ギデオン様……」
それは、ただの雇用主としての言葉には聞こえなかった。
もっと切実で、情熱的な響き。
私の胸の奥がキュンと締め付けられる。
私は、恐る恐る手を伸ばし、彼の背中に回した。
硬い筋肉の下で、彼の心臓が私と同じくらい激しく高鳴っているのが伝わってくる。
「私はどこにも行きませんよ。ギデオン様のお腹を満たすまで、ずっとそばにいます」
「……本当か?」
「はい。だって、ギデオン様と一緒に食べるご飯が、一番美味しいですから」
そう言うと、彼は顔を上げた。
至近距離で見つめ合う。
赤い瞳が潤んで揺れている。
彼は何か言いたげに唇を動かし──けれど、そのままふにゃりと笑った。
「そうか。……なら、安心だ」
その笑顔の破壊力は凄まじかった。
普段の強面が嘘のような、無防備で愛おしい笑顔。
ドキン、と私の心臓がかつてないほど大きく跳ねた。
あれ?
私、もしかして……。
「……むにゃ」
安心したのか、彼はそのまま私の肩に頭を預けて、寝息を立て始めた。
どうやら酔いが回って限界だったらしい。
「もう……ずいぶんと大きな甘えん坊さんですね」
私は重たい彼を支えながら、苦笑した。
でも、その重みが決して嫌ではない自分に気づいて、顔が熱くなる。
ダンジョンの奥底。
美味しい料理と、最強の冒険者との同居生活。
私の心は、確実に胃袋以外の部分でも満たされ始めていた。
けれど、そんな甘い時間は長くは続かなかった。
外の世界では、私たちを追い出した者たちが、新たな動きを見せていたのだ。




