第二話
ウォーキング・マッシュの直火焼きで空腹を満たした私は、再び「奈落の森」の奥へと歩を進めていた。
お腹が満たされると、人間というのは現金なもので、次に欲しくなるのは「水」と「甘いもの」だ。
特に、キノコの塩気と旨味を堪能した後だから、口の中をさっぱりさせたいという欲求が強まっていた。
「水魔法で飲み水は作れるけれど……やっぱり、冷たくて甘いものが食べたいなあ」
贅沢な悩みだと自分でも思う。
さっきまで死にかけていたくせに。
でも、このポジティブさ(という名の食い意地)こそが、私がこの過酷なダンジョンで生き残るための最大の武器なのだ。
森の植生は、奥へ進むほどに異様さを増していた。
足元には踏むと微かに光る苔が絨毯のように広がり、頭上には時計の針のように螺旋を描く蔦が絡まり合っている。
一時間ほど歩いた頃だろうか。
前方に、キラキラと陽光を反射する開けた場所が見えてきた。
水のせせらぎも聞こえる。
「水場だ!」
私はドレスの裾を持ち上げ、小走りで駆け寄った。
そこには透明度の高い美しい小川が流れていた。
喉を潤そうと水面に近づいた、その時だった。
ボヨン。
そんな間の抜けた音がして、私の目の前に「壁」が立ちはだかった。
いや、壁ではない。
それは半透明で、淡い水色をしていて、プルプルと震えていた。
「……スライム?」
ファンタジー小説の定番。
初心者冒険者の練習台とされる最弱の魔物。
けれど、目の前にいるそれは、私の背丈を優に超える大きさだった。
『クリスタル・スライム』。
以前図鑑で読んだことがある。
物理攻撃無効、魔法も半減。
取り込んだ獲物を体内の強力な酸で溶かして消化するという、冒険者にとっては厄介極まりない中級魔物だ。
「……ッ!」
スライムの一部が鞭のようにしなり、私めがけて振り下ろされた。
私は慌てて横に飛びのく。
スライムの触手が地面を叩くと、ジュワッという音と共に草が溶けて煙を上げた。
あれに触れたら、私の柔肌なんて一瞬でただれてしまう。
逃げるべきか?
いや、背を向けた瞬間に捕まる。
私はじりじりと後退りしながら、再びスキル【直感調理】を発動させた。
私の視界の中で、スライムの体がサーモグラフィーのように解析されていく。
『食材名:クリスタル・スライム』
『可食部位:核以外のゲル状物質』
『注意:生の状態では強酸性。急激な冷却により酸が中和され、食用可となる』
『味覚情報:無味無臭だが、極上の喉越しと清涼感』
ウィンドウに浮かんだ文字を見て、私は思わず足を止めた。
「冷却……?」
無味無臭。極上の喉越し。
その言葉が、私の料理人としての記憶を刺激する。
それはつまり、最高級の「寒天」や「わらび餅」のようなものではないだろうか。
私のポケットの中には、さっき確認した時に見つけた「ハニー・ビーの蜂蜜飴」が三粒入っている。
王都で流行っていた、濃厚な蜂蜜を固めた飴だ。
(冷やせば食べられる。そして私には、甘い飴がある)
逃げる?
いいえ、これは天啓だ。
私のデザートが、向こうからやってきたのだ!
「覚悟なさい、私の食後のデザート!」
私は大きく息を吸い込み、魔力を練り上げた。
攻撃魔法は使えない。
けれど、生活魔法の出力調整なら、毎日の炊事で鍛え上げている。
冷蔵庫のない世界で、食材を長持ちさせるために使っていた「冷却」の魔法。
それを一点に集中させる。
スライムが再び触手を振り上げた瞬間、私は両手を突き出した。
「生活魔法・急速冷凍!」
バキキキキッ!
私の手から放たれた冷気が、スライムの身体を包み込む。
本来ならそよ風程度の冷気しか出せない魔法だが、全魔力を注ぎ込んだそれは、スライムの水分を一瞬で凍結させる威力を持っていた。
スライムの動きがピタリと止まる。
透明だった体が、白く曇った氷の彫像へと変わっていく。
「ふう……やった」
私は、その場にへたり込んだ。
魔力を使い果たして少しふらつくけれど、勝負には勝った。
完全に凍りついたスライムは、もう襲ってこない。
私は近くにあった鋭い黒曜石の欠片を拾い、カチコチになったスライムに近づいた。
中心にある赤い「核」を慎重に避けて、氷塊の一部を切り出す。
冷却されたことで酸が中和され、安全な食材に変わっているはずだ。
切り出した塊は、手のひらサイズ。
まだ凍っているけれど、外気温ですぐに程よい柔らかさに戻るだろう。
私は大きな葉っぱを皿代わりにして、スライムの切り身を置いた。
そして、ポケットから「蜂蜜飴」を取り出す。
石の上で飴を細かく砕き、黄金色の粉末にする。
少し溶け始めて、プルプルと震えだしたスライムの上に、その蜂蜜パウダーをたっぷりと振りかけた。
「完成。特製スライムのわらび餅風」
見た目は、高級な水信玄餅のようだ。
透明なスライムの身に、黄金色の蜂蜜がとろりと絡んでいる。
涼しげな見た目が、乾いた喉を誘惑する。
「いただきます」
葉っぱを持って、スライムを口へと運ぶ。
唇に触れた瞬間、ひんやりとした冷たさが心地いい。
つるり、とそれは私の口の中へと滑り込んできた。
「ん……っ!」
噛もうとしたけれど、その必要はなかった。
舌の上で体温に溶け、はかなく崩れていく。
それなのに、しっかりとした弾力が喉を通り過ぎる時の快感。
まさに「極上の喉越し」だ。
最初は無味無臭だったスライムに、砕いた蜂蜜飴の濃厚な甘さが絡み合う。
ジャリッとした飴の食感と、トゥルンとしたスライムの対比がたまらない。
冷たさが食道を通り抜け、胃の中に落ちると、熱を持っていた体が内側からクールダウンされていく。
「おいしーい……!」
生き返る。
甘味は心の栄養だとはよく言ったものだ。
たった三粒の飴と魔物の一部だけど、今の私には王都の有名パティスリーのケーキよりも輝いて見える。
夢中で二口、三口と食べていると、不意に背筋がゾクリとした。
冷たいものを食べたからではない。
もっと別の、本能的な恐怖。
森の鳥たちのさえずりが、ピタリと止まっていた。
風が止まり、重苦しいプレッシャーが辺りを支配している。
「……?」
スプーン代わりの木片を口にくわえたまま、私は恐る恐る振り返った。
そこには、闇があった。
森の木々の影よりもなお濃い、漆黒の全身鎧。
顔を覆う兜の隙間から、血のように赤い瞳が爛々と輝いている。
背負った大剣は、私の身長ほどもある巨大なものだ。
その巨躯から発せられるのは、圧倒的な「死」の気配。
先ほどのスライムが可愛く思えるほどの、強者のオーラ。
ダンジョンの主だろうか。それとも、死神?
黒い巨人は、私──正確には、私の手元にある「スライムの食べかけ」を凝視していた。
赤い瞳が見開かれ、困惑の色を浮かべているように見える。
彼はゆっくりと、地を這うような低い声で言った。
「……貴様」
私は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
殺される。
そう思った。
けれど、次に彼が発した言葉は、予想外のものだった。
「……魔物を、食っているのか?」
「へ?」
間の抜けた声が出た。
兜の下の表情は見えないけれど、その声には敵意よりも、純粋な疑問と、そしてほんの少しの──羨望のような響きが混じっていた。
私が口元についた蜂蜜を舐めると、黒い巨人の喉が、ゴクリと鳴ったような気がした。




