外伝 食物の神様と久一さん
とある田舎にある古民家を改装した小さなお店。普通のお客さんは入れないその店で、その初老の男性は朝から出汁を取っていた。
彼は、店主の森山 久一。この店を継いでから数十年が経つ、ベテランの料理人だ。
昆布とかつお節の香りが広がる。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、久一は今日も良い出汁が取れたと満足気に微笑んだ。
「おはよう、久一! 遊びに来たわよ!」
店の扉が開いて、元気な声が響く。店先には、十六歳頃の少女の姿をした女神、食物の神様が立っていた。
「おや、いらっしゃい、食物の神」
「あっ、お出汁を取っているのね! すごく良い香りがするわ!」
食物の神様がカウンター席に座る。そして両手で頬杖を突きながら、楽しそうに久一の手元を見た。
「久一の手つきは流れるようで綺麗ね。見ていて楽しいわ」
「そう言ってもらえると嬉しいねぇ」
「ねぇ、久一。あたし、そのお出汁で生きる料理が食べたいわ」
「ふむ。じゃあ少し待ってておくれ」
久一がカウンターの奥から盆ざるに乗せてきたのは、絹ごし豆腐だった。
まずは薬味を作る。大根とショウガをおろし、ネギ、大葉、ミョウガを千切りにする。土鍋に取り立ての出汁を入れて、そこにほど良く切り分けた豆腐をそっと落とした。
鍋を中火にかけ、少量の塩を加える。コトコトとゆるく沸いてきたら、弱火にする。
「ここで出てきたアクは軽くすくっておこうなぁ」
豆腐が温まったところで、土鍋ごとカウンターに置く。取り皿、準備した薬味にスダチと醤油を加えれば、料理の完成だ。
「はい、お待たせ。湯豆腐だよ。ご賞味あれ」
「お出汁が透き通ってて綺麗! 早速いただくわね」
湯豆腐を取り皿に取って、口の中に入れる前に息を吹きかける。それで料理が冷めるとは思わないが、熱いものを食べるときの儀式のようなものだ。
少しずつ湯豆腐を口に入れ、熱さを逃しながら咀嚼する。十分に温まった豆腐はすぐに口の中で崩れ、そのあとに上品な出汁の香りが広がった。
「あっつーい! おいしいー!」
食物の神は湯豆腐の熱さに笑いながら、そのおいしさに歓喜の声を上げる。その姿を久一は微笑みながら見つめていた。
「久一の料理は本当においしいわね! 久一はあたしの師匠よ!」
「食物の神にそう言ってもらえるなんて、随分と光栄だねぇ」
「本気だからね! 久一は歴代最高の料理の神よ!」
ころころと表情を変えながら話す食物の神に、久一はまだ生まれたばかりの孫娘のことを思う。あの子も、大きくなれば。いつの日か、こんなふうに自分の料理を食べながら明るく笑うようになるのだろうか。
「――なぁ、食物の神。わしの後継ぎにも、こうやって良くしてやってくれるかい?」
「……何よ、急に」
食物の神は、ぐし、とレンゲで豆腐を割り、ゆっくり口に運んだ。
「わしのいずれは代替わりをする。そうなったとき、できるだけ次の後継ぎに何かを残してやりたいんだ」
「そんなこと言わないでよ! 料理の神はずっと久一がいいわ!」
久一は口元に笑みを称えながら、そっと首を左右に振った。
「神とはいえ、わしが人の身であることは変わらない。いずれ誰かに神の座を引き継ぐ時が来る」
「………」
「一生の頼みだ、食物の神。わしが代替わりをした際は、次の子を見守ってやってくれるか?」
「……分かったわよ」
「ありがとう」
頬を膨らませながら、不服そうな表情をしている食物の神。久一はその頭をポンポンと優しく撫でた。
自分の後継ぎが誰になるかはまだ分からない。それでも生まれたばかりの孫娘のことを思えば、なんとなくだけれど彼女が後継ぎになるような予感があった。
「でも、久一の後継ぎだからって簡単に認めたりしないんだからね。肝心なのは料理の腕なんだから」
「ああ、分かっているとも。そのときはきっと、食物の神の存在が良い刺激となるだろうなぁ」
「――久一、長生きしてね」
「もちろんだとも。後継ぎにしっかり教えねばならんし、何より、まだ神々と一緒に過ごしていたいからなぁ」
「……うん」
食物の神は、少し冷めた湯豆腐をまた口にする。先ほどよりも塩っぱく感じる気がした。
彼女は、湯気の消えかけた土鍋を見つめる。神様であるはずなのに、心の奥ではどうしようもなく人の子に近い痛みを覚えてしまうことがある。
久一の言葉は、ただの世間話じゃない。これは、彼が自分に向けた最後の『指名』だ。この熱さを、後継ぎにも託していく。その役目を、確かに自分が背負うのだと。
食物の神は、そっと自分の胸に手を当てた。
豆腐は冷めても、味は消えない。人の心もまた、形を変えて受け継がれていく。
これは、未来の『神様ごはん相談所』の店主が生まれてすぐの頃。食物の神様と久一しか知らない、二人だけの約束をした日の話。
――この約束が、あの『相談所』の原点となる。




