第三十六話 リュウさんと水の神様と雨のごはん
梅雨が明け、湿り気を帯びた空気に蝉の声が混じるようになった頃。開店準備を終えて、日課の出汁を取っていた森山 小春のもとに、小さな嵐が舞い込んだ。
「お、おはようございます」
「リュウさん! おはようございます!」
店の扉をそろっと開けたのはリュウだった。いつもは凛と背筋を伸ばしている彼女が珍しく、周りを気にしながら店の中へと入ってくる。
「小春、この度は神格化おめでとうございます。実は折り入ってお願いが――」
「おい! 遅いぞ、リュウ! まだ店に入ってはいけないのか!」
開けっ放しの扉の向こうから、子ども特有の高い声が聞こえてきた。その声を聞いたリュウは大きく溜め息をついて、小春の顔色を窺うように視線を上げた。
「今日は私一人ではないのです。主が……」
「ああ、もう待てぬ! 入るぞ、リュウ!」
店先に現れたのは、まだ十歳ほどに見える少年だった。肩まで伸びた群青の髪は、光の加減で黒にも青にも見える。その髪の先から、きらりと水滴がこぼれ落ちた。前髪の隙間から覗く金色の瞳には、嵐のような激しさがあった。
「ああ、主…。あれほどお待ちくださいと申し上げましたのに…」
「主さんってことは……水の神様?」
「いかにも。我こそが水の神である」
決して見た目通りの年齢ではないはずだ。とはいえこんな子どものような神様が、キラキラした料理が食べたいだの、お酒を使った色鮮やかな料理が食べたいだのと言っている姿は想像できない。
「今日は直々にお前の料理を食べに来てやったのだ。感謝するが良い」
「……こうおっしゃっていますが、本当は小春の料理がお食べになりたくて仕方がなかったのです」
「なっ、リュウ! 何を言うか!」
「さあ、主。小春に食べたい料理を相談しましょう」
ぶつぶつ言っている水の神様を宥めるように、リュウは彼をカウンター席へと促す。小春はそれを見ていることしかできず、二人が席についたところで、そっと相談内容を聞いてみた。
「それで、食べたい料理というのは…?」
「うむ。人間たちが雨を好きになる料理を作れ!」
「へ?」
「主、それでは背景が伝わりませんよ…」
水の神様の突飛もない注文に慣れているらしく、リュウは呆れたような顔をしつつも面倒見が良い。なんでも事の始まりは、梅雨の時期だったらしい。
「……梅雨といえば雨です。いくら恵みの雨とはいえ、降り続ければ人々も憂鬱になってくる。『雨が止んでほしい』という祈りが日に日に強まっていったのです」
水の神様としては、これは面白くない。良かれと思って雨を降らしているのに、降らないでほしいと願われてしまっては、徳を積むにも積めなくなる。そして水の神様はどうしたかというと――拗ねた。
「雨がいらないと言うのだから止めてやったのだ! 感謝してほしいものだな!」
(ああ、だから今年は梅雨明けが早かったのか…)
小春は一人納得する。その上で、リュウと水の神様の相談内容がなんとなく見えてきた。
「それで拗ねてしまった主は、もう雨は降らさないというのです。それは流石に良くありません。そこで小春に、人々が雨を好きになる料理を作ってほしいと思いやってきたのです」
「雨を好きになる料理、ですか。これまた難題ですね…」
リュウもとい水の神様の要望はいつだって難題だ。小春は顎に手を当てて、必死に頭を回転させた。
雨を聞いて思いつくのは、寒天料理だったりそうめんだったり、ちゅるんとした食べものだ。しかしそれで雨が好きになるかと言われると、そうは思えない。
「雨かぁ。たしかどこかに雨にちなんだ料理があった気がするんだけどなぁ」
記憶を遡っていく。あれはたしか外国の料理を勉強したときだった気がする。
「何か思いついたか? 雨の音なんかも再現できると最高だな!」
水の神様の一言に、小春がはっとなる。どうやら料理を思いついたようだ。
「今から調理しますね。少々お待ちください」
いつものように、カウンター奥から食材を持ってくる。盆ざるに乗っていたのは、ニラと卵だった。
(水の神様に料理を出すなんて、昔なら想像もしなかったな)
そう思うと、少し背筋が伸びた。
ボウルに卵、水、小麦粉、片栗粉、塩を入れる。粉っぽさがなくなるよう、菜箸で切るように混ぜ合わせる。そうして切ったニラも加えて、さらに混ぜる。
「フライパンにごま油を多めに引いて、油っぽくならないようしっかり温めます」
生地を落とすと、ジュッと焼きつく音がした。フライパンいっぱいに広げて、表面を平らにならす。表面にこんがりと焼き色がつくまで、しっかりと焼き上げる。
「生地の端がカリカリになるまで焼くと、食感が楽しくなりますよ」
生地をひっくり返してさらに焼き付ける。生地の裏面もカリカリに焼くため、ごま油をフライパンのふちからぐるりと回し入れるのがポイントだ。パチパチと油の跳ねる音が心地良い。
あとはコチュジャンとポン酢醤油でタレを作って、焼き上がった生地を器に盛れば完成だ。
「お待たせしました。ニラチヂミの完成です!」
「わあ! 韓国料理ですか!」
「うまそうだな! 早く食べたいぞ!」
リュウと水の神様が手を合わせてから、チヂミに手を伸ばす。一口頬張れば、カリッという小気味良い音が響いた。
「おお! カリッとしてるのにモチッとしてるぞ!?」
「コクがあって酸っぱいタレもよく合います…!」
「チヂミは、韓国では雨の日に食べる料理なんだそうですよ」
多めの油で生地を焼くパチパチという音が、雨音に似ているかららしい。――というのは建前で、本当は雨で買い物に出れずとも作れる料理だからだそうだ。
「チヂミが食べられると思うと、雨の日も楽しくなりそうですよね」
「――ふむ、」
小春の一言に、水の神様は考え込むように箸を置いた。
「我の要望に合った良い料理だ、小春よ」
「ありがとうございます!」
「さすがは小春です。主も私も満足です」
小春はレシピを書き留める。それをリュウに渡せば、大事そうに懐にしまった。
「お前の料理、確かに見届けだぞ。料理の神に恥じぬ腕前だった」
「おいしかったんですね、主」
「ふん! まあ、また食べに来てやっても良い程度ではあるな」
素直ではない水の神様の態度に、リュウと小春は顔を見合わせて笑い合った。
「小春、こちら今日のお代です」
『二人分です』と、小春の手のひらには二枚の銀貨が置かれた。
「また来ますね、小春」
「雨の料理、お前も周りに広めろよ!」
『そうすればみんな雨を好きになる』と、水の神様が笑ったのが印象的だった。
小春はふと、外の音に耳を澄ませた。さっきまで晴天だった空に、遠くで小さな雷鳴が転がった。次の雨はきっと優しい音がするだろう。
『神様ごはん相談所』。雨の日はおうちで料理を楽しむのはいかがですか? おいしいごはんがあれば、そこは陽だまりのような温かい場所になりますよ。




