第三十四話 小春さんとおじいちゃんと卵焼き
全ての試練を終えた翌日。森山 小春は、夜明け前の厨房で一人佇んでいた。
夜がゆっくりと明けていく。山の端から差し込む陽光が、小春の頬を照らした。その光は柔らかく、けれどどこか現実離れした輝きを帯びている。
「――私、料理の神様になるんだ」
まだ実感はない。それでも神様たちにもっと喜んでもらえる料理を作りたいという気持ちだけはある。
『料理ってのはな、小春。人の腹を満たすだけじゃあない。心を温めるんだ』
祖父の声が、遠い記憶の底から蘇った。
包丁を握り始めた頃のことを思い出す。最初はうまく扱えず、豆腐をぐちゃぐちゃに崩してしまった。泣きそうな顔をしていた幼い小春に、祖父は笑って言った。
『崩れたっていい。形よりも、味に心を込めるんだ』
付き人たちが次々と祖父のもとを訪れ、来るときは困っていた顔が、帰るときには笑顔になっていた。まるで祖父は魔法使いみたいだった。
『おじいちゃん、かっこいい…』
そんな祖父に憧れて、小春は店に入り浸って料理を学んだ。そうして今、憧れた祖父の後を継ぐところまでやってきたのだ。
「小春」
隣から声が聞こえた。振り返ると、朝もやを背に、久一が店先に立っていた。
「おじいちゃん……」
「よく頑張ったなぁ、小春」
久一の身体の周りを、まるで稲穂のような金の粒が舞っている。
「人としての修行は終わり。次は、神の務めを果たす番だのぅ」
「神の、務め?」
「そうだ。神になるってのはな、えらくなることじゃない。誰かの『想い』を受け取って、それをまた返すことだ。小春の料理は、もうその域に達しておる」
小春は息を呑んだ。神になる。それは恐れよりも、重みだった。
「……私、なれるのかな」
「なれるとも。小春の料理はもう、『祈り』になってる」
久一の手が、そっと小春の肩に触れた。その瞬間、空気が一変した。
風が止み、音が消える。世界が静止したかのように、すべてが白く染まっていく。そこに現れたのは、無数の光の粒。それは金色でも銀色でもない――命の色。
「森山 小春」
久一の声に重なって、どこからともなく、様々な声が響いた。
「汝の料理は人を癒し、導き、結ぶ。よってここに、料理の神として迎えよう」
久一を包んでいた金の粒が、ふわりと広がって小春の身体を包み込む。不思議とそれは温かく、まるで最初からそこにあったかのように馴染んでいた。
「ありがとう、おじいちゃん」
「これからも料理を続けるが良い。人のために、そして、自分のために」
光が消える。風が戻り、音が戻り、いつもの朝が訪れた。
「小春や、わしに何か作ってくれるか?」
「うん、少し待っててね」
カウンターの奥から卵をいくつか取り出し、割る。黄身がきらりと光り、まるで小さな太陽のようだった。
砂糖と塩を加え、菜箸で卵を混ぜる。混ぜるたび、光の粒が手元にふわりと落ち、まるで祝福を纏わせているかのようだった。
火をつけると、フライパンが軽く鳴いた。油を引いて、香りが立つ。
「卵液を薄く広げて端が固まり始めたら、手早く巻いてっと」
くるり、くるりと、何層にも重ねていく。その音が、まるで呼吸のように心地よかった。
焦がさぬよう、静かに、慎重に。手の中の動きは、まるで祈りだった。人を思い、自分を見つめる時間。
焼き上がった卵焼きを、まな板の上に置く。包丁で切ると、ふんわりと湯気が立つ。湯気の中で光の粒が揺れ、まるで祝福の余韻がまだ残っているかのようだった。そして器に盛り、祖父へと差し出した。
「あぁ、おいしいのぅ」
久一が卵焼きを口に運ぶ。柔らかく、甘く、どこか懐かしい味がした。
窓の外では、初夏の風が吹いている。庭の木々がざわめき、光が差し込む。それは、まるで神々が笑っているようだった。
「今日も、誰かのために作ろう」
その言葉とともに、彼女の周りに柔らかな光が溢れた。神様の証など、誰も気づかない。けれど確かに、彼女の料理には『祝福』が宿っていた。
――今日もまた、彼女は料理を作る。人のために。そして、自分のために。
ここは『神様ごはん相談所』。柔らかな湯気が立ちのぼる台所の中、卵焼きの香りが、優しく世界を包みこんだ。




