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 ―あれから一年の月日が流れた。


 私と茉由は数か月後に大学の卒業を控えている。大学へ通えない時期もあったが、茉由の助けもありなんとか私も四年で卒業を迎えることができそうだ。

 茉由は県外の大手企業に就職内定をもらい、春になればこの街から出て行ってしまう。就職後も海外研修があるのだという茉由とは、大学を卒業してしまえばしばらく会えなくなるだろう。

 それでも茉由は私に手紙を書いたり、休みを利用して会いに来たりすると何度も何度も言ってくれた。それはきっとお決まりの別れ文句ではなく、茉由の本心だろう。私にはそれがよく分かる。茉由と私は友達だから。

 マスターは今も朝早くからあの珈琲店を開け、美味しいモンブランを提供し続けている。

 伯母は夫である伯父の兄弟に孫が生まれたことで毎日が楽しくてたまらないようだ。ときおり電話をかけてきては、たっぷりとその子への愛を語っている。

 牧田さんと私は相変わらずときどき会って他愛もないことを語り合ったり、日暮れの空を眺めたりしていた。ヒロを間に挟み牧田さんと並んで座っているとき、なんだか家族のようだと思ったことは今も胸にしまってある。


 そんな牧田さんに変化が訪れたのは、私が大学の卒業式を目前に控えた三月上旬。

 その日は三月上旬とは思えないほどに気温が低く、天気予報は午後から雪が降ることを伝えていた。

 珍しく牧田さんの方から連絡があり、私達はいつもの公園で待ち合わせをした。

「佐藤さん、またお待たせしてしまいました」

 待ち合わせ時間を少し過ぎた頃、息を切らしながら牧田さんは現れた。その表情はなぜか哀しそうに見え、私の心に不安がよぎる。

「今日は寒いですね。雪、本当に降るかな」

 空を仰ぐように両手を広げ、笑って見せる牧田さん。その後もしばらく天気や今騒がれているニュースの話をして、なかなか本題に入ろうとしない。きっと牧田さんは、何か話しにくいことを私に話そうとしているのだろう。

「あの、牧田さん。話したいことがあるって言ってましたけど、何かありましたか」

 焦れた私が無理やり話を本題に向ける。

 すると牧田さんの顔から笑顔が消え、代わりに寂しそうな表情が姿を現す。

「一年ほど前、僕も変わらなきゃいけないって話したと思うんですけど……」

 頭の中で心にある思いをどう言葉にするか悩んでいるのだろう。なかなか次の言葉が出てこない。

「あれから少しずつ人と関わりを持つようにしてみたんです。まずは仕事先の人、そしてそこから繋がった人達と交流を図りました。必要以上に人と関わることは、とても怖かったです。いつ、僕のどんな言葉で相手が傷ついてしまうか分からず、最初は怯えるようにして関わり始めました」

 膝の上に置いた自分の手を見つめながら、少しずつ言葉を口にする。

「それでも少しずつ打ち解けて、今では大切な仲間ができました」

 私の知らないところで牧田さんも自分と向き合い精一杯生きていたのだ。

「ここからが本題なのですが……。そうやって人と関わりを持っているうちに僕は、また心から大切にしたい、僕が守りたいと思う女性に出会いました」

 何も言葉を返せなかった。いつかそんな日が来ることは分かりきっていたはずなのに、実際に牧田さんの口から聞くと、そのショックは想像していた以上に大きい。

「その方と少し前からお付き合いをしていて、今年の桜が咲いたら僕はその方にプロポーズをしようと考えています」

「そう、だったんですね。おめでとうございます」

「まだプロポーズしていませんから。振られて佐藤さんに泣きつきに来るかもしれません」

 そう言って笑う牧田さんの顔を私は見られなかった。心から大切にしたい、守りたいと思う女性のことを語っている牧田さんの目は、どれほどの優しさに満ちているのだろう。それを見てしまえば私は自分を保てなくなってしまうかもしれない。

「牧田さんが振られることはないですよ。だって、牧田さんはどこまでも優しくて温かくて素敵な方ですから」

 ありがとう、と言って牧田さんは私の方に体ごと向き直る。

「佐藤さんのおかげですよ。佐藤さんに出会っていなければ、僕は未だにひとりぼっちの呪いにかかったまま毎日を過ごしていた。佐藤さんが僕を変えてくれました。佐藤さん、僕と出会ってくれて、どうもありがとう」

 頭を下げる牧田さん。私も牧田さんに向き直り頭を下げようと思うのに、心と体がいうことを聞かない。

 牧田さんに仲間ができて、大切な女性に出会えたこと、私だって凄く嬉しい。嬉しいよ。嬉しいのに、なぜか凄く悲しい。

 いつの間にか瞼が熱くなり、膝の上に涙が落ちる。

 泣いてはいけない、牧田さんを困らせてはいけない。分かっていても涙は後から後から溢れて落ちる。

「佐藤さん、泣かないで」

 ようやく見ることができた牧田さんの目は、穏やかで優しくて、哀しい目をしていた。

 牧田さんはきっと私が牧田さんをどんな風に思っているのか、知っていただろう。だからこそ、私にその女性のことを話すには相当な勇気と覚悟が必要だったはずだ。それでも牧田さんは私に自分の今の気持ちを話してくれた。だから、私もそれを受け入れなければならない。

 牧田さんに、哀しい目をさせてはいけない。私が笑顔でそれを受け入れ、牧田さんを安心させなければいけない。

 それが、私が牧田さんにできる唯一の恩返しだ。

 涙を止めることはできなかったが、私は精一杯の笑顔を作り牧田さんに笑いかけた。

「牧田さん、私は大丈夫です。だって、牧田さんと私は同じなぞなぞの星の住人でしょ。同じ星に住んでいるんだから、これから先いつだってあなたに会うことができる。だから少しくらい会えなくなっても私は平気です」

 止まらない涙、震える声、精一杯の笑顔。なんて不格好な姿だろう。

 それでも牧田さんは目を逸らすことなく私を見つめ、ありがとうと言ってくれた。その目からは少しずつ哀しみが消えていくようだった。 

「あ、雪」

 牧田さんの声につられ空を見上げる。寒々とした空からふわふわとした雪が舞い降りる。水分をあまり含んでいない軽いその雪は、私達の頭の上にそっと落ちるとすぐに溶けて姿を消してしまう。

「僕、雪の日が一番好きなんです」

 立ち上がり広げた手のひらで雪を受け止めながら牧田さんが言う。

「佐藤さんと出会って間もない頃、僕が雪を好きだって言ったの覚えていますか」

 私は覚えていなかった。牧田さんと冬を結び付けようとすると、雪よりも先に厳しく冷たい冬のイメージが浮かんでしまう。

 何も答えずにいる私に、忘れていてもいいですよと牧田さんは微笑む。

「うまく言えませんが、僕は雪を見ていると、生きていてよかったと思えるんです。晴れの日や雨の日があるように、雪の日があることを忘れたくないなって……」

 そう言って振り返った牧田さんの目には涙が浮かんでいた。




 ―大学を卒業して最初の冬を私は一人で静かに迎え、もうすぐ春が来る。


 茉由とは月に数回手紙のやり取りをし、年末には久しぶりに二人で直接会って話すことができた。忙しくも楽しく働いている茉由は、学生時代と変わらずそこにいるだけできらきらと輝いている。

 牧田さんはあの後、桜が咲くのを待ってプロポーズをし、秋が来る前に結婚した。今、奥さんとなった女性のお腹の中には小さな命が芽吹いている。

 結婚を機に引っ越しをした牧田さんは、私に新しい住所と電話番号を教えてくれた。奥さんに私のことを話すと、ぜひ会いたいと言ってくれたようでいつでも家に遊びに来てほしいと言われている。

 それでもきっと、私が牧田さんの家に行くことはこの先ないだろう。

 私は心療内科の先生にお墨付きをもらえるほどに回復した。そして今その心療内科で受付の仕事をしている。


 何度も私が死の際を歩こうとしたとき、いつもそこには牧田さんがいて私を救い上げてくれた。牧田さんがいてくれたから、私を救い上げてくれたからこそ、今の私はこうして生きている。

 でも、もう大丈夫。今の私はもう一人で歩いていてもうっかり死の際を踏んでしまうことはないだろう。たとえ一人でも、独りではない。私には牧田さんや茉由、マスターや伯母という心強く大切な人達がいて、いつだって私を守ってくれている。だから、大丈夫。

 それに、なぞなぞの星の住民票があれば私はどこにいたって牧田さんと同じ星の住人なのだ。



 ―拝啓

 気まぐれな天気が続きますね。静かで寛大な冬が少しずつ遠のいていく感覚に、心が不安を覚えます。

 最後に牧田さんにお会いしてから早三か月が経ちます。いかがお過ごしでしょうか。

 私はいつもと変わらず一人で年末年始を過ごし、相変わらず公園の猫を可愛がる毎日です。

 実はこの前、出先で偶然牧田さんを見かけました。声をかけようか迷いましたが、あたふたしているうちに見失ってしまったようで。次にどこかで見かけた際には、ご挨拶くらいはできたらいいなと思っています。

 時節柄、お風邪など召されませんよう、どうかご自愛ください。またいつか、お会いできる日を楽しみにしています。

 なお、お忙しいことと存じますので、お返事はどうかお気遣いなさいませんように。  

敬具―



 今日も、どこにも届かないその手紙に心に浮かんでくる言葉を綴り、そっと引き出しにしまい込む。




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