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 茉由の心配を冷たくあしらった翌日もさらにその翌日も私は大学へ行かなかった。

 それでもさすがに三日も続けて休むと心に罪悪感や焦りが沸き上がってくる。今受けている講義の単位まで落としてしまえば、大学の卒業延期は免れないだろう。

 重たい体を無理やり起こし、私は数日ぶりに大学へと向かった。冬の風は冷たく、私の頬にある体温はすぐに奪われてしまう。

 大学に着き、まっすぐに講義室へと向かおうとして止めた。講義が始まるまでにはまだ時間がある。もしいつものように茉由が早く講義室に来ていたら、少し気まずい。

 私は久しぶりに屋上にあるテラスへと足を向けた。早朝のテラスに人の姿はなく、誰にも汚されていない朝の新鮮な冷たい空気を肺一杯に吸い込んだ。冬の空気を吸い込むと鼻の奥がつんと痛くなる。この感覚は悪くない。冬にしか味わえない特別な感覚だ。

 最後にこの屋上テラスへ来たのは六月だっただろうか。雨の多い梅雨時期だった。講義に出られなくなった私はこうして一人屋上へやってきて、真下に見える駐車場をずっと見下ろしていた。確か、死にたいと口にしていたような気がする。

 私は以前自分が立っていた場所へと吸い込まれるように近づいて行った。そこから下を見下ろすとあの日と同じ駐車場のアスファルトが視界に入る。

「このまま消えてしまえたら……」

 自分でハッとした。私は今何を考えていた。これではあの頃の私と全く同じではないか。私はもう回復した。あの頃とは違う。頭でそう言い聞かせても遠い地面を覗き込むことを止められなかった。

 あと少し身を乗り出せば体がバランスを崩し、このまま下に落ちるだろう。事故だと思われるだろうか、それとも……?

「しんどいよ……」

 私の体はほとんど屋上の淵からはみ出している。きっと本気で死のうとしているわけではない。けれど下に広がるアスファルトは私を引き寄せ続ける。私は吸い込まれるようにどんどん身を乗り出していく。

「凪咲!」

 突然体が後ろに引っ張られた。驚いて振り返ると息を切らした茉由の姿がある。

「凪咲、何してるの! 馬鹿な真似しないでよ」

「……茉由」

 私が屋上から身を乗り出そうとしていたとき、偶然茉由は下の駐車場にいて慌ててここまで走って来たのだと言う。

 私は力なく笑って、茉由久しぶりと声に出してみたが、茉由は笑わない。

「最近の凪咲、やっぱりおかしいよ」

「おかしくないよ、私元気だもん」

「じゃあ今何してたの」

「それは……」

「とにかく、もうすぐ講義始まるから一緒に行こう」

 そうして茉由に手を引かれ、私は体から力が抜けたまま講義室へ向かった。

 数日ぶりに受けた講義は驚くほど頭に入らなかった。数回休んでいたせいではない。内容に追いつけないのではなく、講師の話が頭に入ってこないのだ。

 おかしい、これじゃまるで……。

 私は自分が少し前の自分に戻ってしまったようで、底知れぬ恐怖に襲われた。

 なんで、私はもう大丈夫なはずなのに。どうして。

 帰り際、茉由は私を心配して何度も家まで一緒に帰ると言ってくれた。けれど私は一人になりたかった。今茉由と一緒にいたら、また意識せず茉由のことを傷つけてしまうかもしれない。私は私が怖かった。

 数分かけて説得し一人で帰ることを了承してくれた茉由は、それならこれつけて、と自分の首からマフラーを外し私の首に巻いた。

「今日はいつもより寒いから。それにこのマフラーを見て私のこと思い出したら、勝手な行動できなくなるでしょ」

 そういたずらっぽい顔で笑う茉由。この前電話で冷たく接してしまったにもかかわらず、茉由はどうしてこんなに私を心配してくれるのだろう。私は不思議だった。

 茉由の巻いてくれた赤いタータンチェックのマフラーは、柔軟剤だろうか、ほんのり茉由と同じ香りがしていた。

 大学から駅まで一人で歩き、プラットホームに立つ。電車はたった今出たばかりで、次の電車が来るまで十分以上時間がある。自動販売機のある辺りまで戻ろうかと考えたが、それさえ面倒に感じ私はプラットホームに立ったまま電車を待つことにした。

 今日は風が強い。冷たい風にさらされた頬と鼻の頭はすぐに体温を失い、きっとかすかに赤くなっているだろう。

 学校帰りの高校生らしき集団が階段を上ってくるのが見えた。楽しそうに語らう彼女たちのスカートはとても短い。寒くないのだろうか。いや、きっと寒いだろう。でも今の彼女たちには寒さなんて関係ないのだ。友達と笑い合いできる限りのおしゃれをする。そう、今を楽しんでいる彼女たちは寒さになんて負けないはずだ。

「私は、寒いな」

 誰にも聞こえない声でつぶやく。茉由がマフラーを巻いてくれた首だけが、唯一暖かい。

 私はいつの間にかホームの黄色い線を踏んでいた。そしてまた一歩踏み出し、そっと線路を覗く。複雑にパーツが組み合わさって敷かれている線路に引き込まれるような感覚を覚えた。このままもう一歩踏み出せば、私はこの世から消えてしまう。たったあと一歩。

 冷たい風に煽られながら私は線路を覗き続ける。

「寒い……。茉由、寒いよ」

 そのときホームに電車が入ってくることを知らせる音が鳴り、私は驚いた拍子に尻餅をついた。幸い前ではなく後ろ向きによろけたおかげで、線路に落ちることはなかった。

 そしてようやく自分が今何をしようとしていたのかを知る。

 近くにいたサラリーマンらしき男性が危ないだろうとしきりに声をあげる。高校生の集団が遠くから私を見ている。でもそのとき私が一番怖かったのは私自身だった。

 あぁ、これが野井戸だ。

 私は牧田さんに教えてもらった小説のことを思い出していた。

 どこにあるか分からない野井戸にうっかり落ちてしまうのが怖い。それは今の私に恐ろしいほど当てはまるように思えた。自分でも気づかないうちに私は死に吸い寄せられている。今朝だって茉由が来てくれなければ私はあのままうっかり死んでいたかもしれない。今もあのまま線路に落ちていた可能性は十分にある。

 本気で死にたいわけじゃない、それなのに気づくと私は死のうとしている。

 その野井戸はどこにあるのか、いつ現れるのか分からない。落ちてしまえば、もう地上へと戻ってくることは叶わない。

 私は怖かった。

 ―きっとそれって存在を知らなければ怖くもなんともないんです。でもどこかに必ずあるということを知ってしまった後はもう知る前には戻れない。うっかりそこに落ちてしまわないよう、慎重に慎重に生きていくしかないんです―

 かつて牧田さんが言っていた言葉が耳によみがえる。

 あぁ、私は野井戸の存在を知ってしまったのだ。もう知る前には戻れない。これから先私はその野井戸にうっかり落ちてしまわないように、怯えながら慎重に生きていかなければならないのだ。

「助けて、牧田さん……」

 尻餅をついたままそうつぶやく私の声は、誰の耳にも届かない。

 牧田さんの家に行った日以来、星の住民票は引き出しの中にしまい込んだままだ。

 今の私には頼るものが何もない。

 なんとか家まで帰り着き、すぐに布団の中に潜り込んだ。

 怖い、怖い。うっかり死んでしまうのが怖くて、誰かに頼りたくてたまらない自分がいる一方で、もう誰にも関わってほしくない、放っておいてほしいと思う自分も確かに存在している。心の中に自分が二人いて、その二人は全く別の方向を向いているみたいだ。元気になったのだと主張する自分、もう限界が来ていると助けを求める自分。私はどちらの声に従うべきかまるで分からなかった。

 こんなはずじゃなかったのに……。

 携帯電話には二件のメールを知らせる表示。一件は、私が無事に帰ったかを心配する茉由からだった。私は震える手で茉由に返事を打った。


無事に帰りました。茉由のマフラー暖かかったよ、ありがとう。

私、最近やっぱり少しおかしいみたい。自分で自分が分からない。

茉由と一緒にいても茉由のこと傷つけると思う。

だからしばらく一人でいさせてほしい。茉由のこと大切にしたいから。


 自分で打っておきながら、なんて自分勝手な内容なんだと自己嫌悪に陥る。

 茉由からはすぐに返信が来た。


私は凪咲と一緒にいられたらそれで十分だよ。

凪咲がしんどいとき、私で良ければそばにいさせてほしい。

私は凪咲の味方だから、なんでも言ってね。


 茉由は本当に優しい。でも、だからこそこんなにも優しい茉由を傷つけたくないとそのときの私は思った。

 もう一件のメールは伯母からだった。私の体調を心配するとともに、それとなく心療内科へ行ったかどうかを確認しているようだ。再び私の心の中に黒いもやもやしたものが湧いてくる。このまま返信せずに眠ってしまおうかと思ったが、心配のあまり家まで来られては困る。私はそれとなく元気を装ったメールを送り返した。

「はぁ……。私は何をやっているんだろう」

 何もかも自分で引き起こした負の連鎖のような気がした。

 牧田さんは、大丈夫かな。あの日以来連絡をとっていない。帰り際に耳に届いた私を心配する牧田さんの声は、やはりどこまでも優しかったはずだ。

 けれど私はこれ以上牧田さんの記憶を辛いものに変えたくなかった。穏やかで優しい牧田さんの記憶だけを胸の中に残しておきたくて、これまで牧田さんにもらった温かい言葉ばかりを思い起こし、なかなか先へ進む勇気が出ない。

「そうだ、住民票」

 牧田さんの家に行った日の夜から引き出しの中にしまい込んだままだった、なぞなぞの星の住民票を取り出し広げる。

 あの日はこの住民票を見るだけでも辛くて悲しくて引き出しの中にしまい込んでしまった。けれど今はあの日とは違い、優しく穏やかな記憶だけがよみがえる。

「牧田さん……」

 私は住民票を胸に当て、目を瞑る。思い出すのは穏やかな記憶だけなのに、なぜか目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。住民票を胸に抱いたまま布団に仰向けに横たわる。涙は重力に逆らわず目尻を伝い、耳や髪が少しずつ濡れていくのが分かった。

 寂しくて、心細くて、悲しかった。

 それでもいつしか私は涙を流しながら眠りに落ちていた。

 ふと目が覚め、つけっぱなしにしていた電気を消すと部屋の中は真っ暗になった。時計を確認するとまだ夜中の三時を回ったばかりだ。それでもやけに意識はハッキリとしていて、再び眠りにつくことは難しそうだった。

 なんとなく外の空気が吸いたくなり、私は財布と携帯電話、牧田さんに教えてもらった小説、そしてなぞなぞの星の住民票を鞄の中に入れ家を出た。

 外は夜の静けさに包まれており、まるで世界から自分以外の何もかも全てが消え失せてしまったようだ。そこにあるのは人工的な街灯の光だけ。

 季節は冬。昼間でもコートが必要なほど寒いのだから、夜中である今頬に当たる風は痛みを感じるほどに冷たい。頬はもちろん指先や耳、風にさらされる部分が少しずつその寒さに感覚を失っていく。

 少し歩き川原沿いまでくると私は大きく深呼吸をした。鼻の奥がつんとする。突然冷たい空気を大量に送り込まれた肺が悲鳴を上げている。

 見上げた空の色は黒。まだ夜に支配されている。

 道路の淵がゆるやかな坂になっていて、そこを下ると川に降りることができる。私は転ばないようにゆっくりと坂を下り、砂利の上をその名の通りジャリジャリと音を立てながら歩く。大きめの小石を一つ拾い、目の前を流れる川に向かって放った。

 私の手から離れた小石は放物線を描き、まもなくぽちゃん、と川の中に落ちた。

 昨日までこの川原で太陽の光を浴びていたあの小石は、私のちょっとした思い付きによって川の中に放り込まれてしまった。あの小石が再びこちら側へ戻ってくることは二度とないだろう。一度水の中に沈んだものは、半永久的に水の中に沈み続ける。あの小石は誰にも気づかれないまま、二度と太陽の光を直接浴びることのできない場所へと沈んでいった。

「私もいつかあの小石みたいになるのかな……」

 誰にも気づかれないまま、もう二度とここへは戻って来られないような深い場所に一人沈んでいくのだろうか。何かきっかけがあるわけじゃない、ふとした偶然であの小石のようにどこかに投げ込まれ沈んでいくのかもしれない。

 たった今自分で投げた小石が自分のこの先を暗示しているようで、急に怖くなる。

 私は見えない何かから逃げるように早足で川原を後にした。

 あてもなく夜をさまよっていると、足は自然とあの公園に向いていたようで気が付くと私は公園の入り口に立っていた。夜中の公園に人の姿はない。ヒロを探してみようかと思ったが、私を威嚇し去っていった姿を思い出し、私は一人でベンチに腰を下ろす。時刻は四時を過ぎていた。

 一時間近く外にいた私の体はすでに冷え切り、寒いという感覚すら無くなり始めている。

 見上げた空は相変わらず真っ黒だ。

 ふいに寂しさが込み上げてきて、それを誤魔化すように私は鞄の中から小説を取り出す。ほとんど感覚の無くなった指先ではなかなかうまく表紙をめくれない。それでもようやく始まりのページまで開くと、私は再び大きく深呼吸をした。冷たい空気に慣れてしまったのか肺はもう驚かなかった。

 これからこの小説を読むことができたら私は大丈夫。本が読めるうちは問題ない。私は今まで通り一人でしっかりと生きていける、大丈夫。

 心の中で自分にそう言い聞かせ、小説として並んだ文字に願うように目を移す。

 文字を読むことは、できた。内容を理解することも、できている気がする。私は通った願いに頬をゆるめる。喜びと安心が胸にどっと押し寄せる。

 よかった、私はまだ大丈夫だ。

 しかし、その安心は長くは続かなかった。読めると思っていた文章は徐々に頭に入らなくなり、文字を目で追うことに苦痛を感じ始める。集中して本と向き合うことができなかった。

 自分の心の中で何かが割れる音がした。私の心の中に作られた最後の砦は、どうやらガラス細工で作られていたようだ。それが今、割れた。心の中でバラバラになったガラスの破片が自らを傷つける。

「やっぱり、ダメだった……」

 私はベンチから滑り落ちるように、地面に膝をついた。冷え切った頬に涙が伝い、そこだけが熱を持っている。

「私はもう、何もできない」

 涙は止まらず、静かな公園に嗚咽が漏れる。

「助けて……」

 しゃくり上げ、呼吸が乱れる。うまく息を吸うことができない。苦しい、助けて。

 地面に直接座り込み泣き続ける私の頬に温かいものが触れた。それは自分の涙ではなくざらざらとしていて少し湿っぽい。

 涙でぐしゃぐしゃになった目を開けると、そこにはベンチの上に座るヒロの姿があった。いつの間に現れたのだろう。ヒロはベンチの上から私の頬を舐めた。

「ヒロ……。ヒロ、ごめんね。私もう生きていけないかもしれない」

 しゃくり上げながら声を振り絞る。

 するとヒロは私の頬を舐めることを止め体の向きを変えた。

「こんな私、ヒロも嫌だよね」

 ヒロにまで嫌われて、情けないな。そう思う私の目の前でヒロは私の鞄を前足でつんつんと触る。

「何してるの?」

 ヒロは鞄を触ることを止めない。少しずつヒロの前足に押され鞄がベンチの上からどさっと地面に落ちる。その拍子に鞄の中身が私の目の前にばらけた。ベンチから降りたヒロは、ばらけた中身からなぞなぞの星の住民票をみつけると、それを口にくわえ私の顔を見る。

「これ……」

 ヒロから住民票を受け取ると、ヒロはニャーっと鳴き私の体に自分の頭をこすりつける。

 ヒロは私に住民票の存在を思い出させてくれたのだ。

 私は携帯電話を手に取ると、アドレス帳にある牧田さんの番号を選択し通話ボタンを押した。時刻は四時半。電話をかけるにはあまりにも非常識な時間だ。それでも私は迷わず牧田さんに電話をかけていた。

「……もしもし、佐藤さん? どうしたの」

 数回の呼び出し音の後、牧田さんは電話に出た。その声は私がずっと聞きたかった穏やかで優しい声だ。

「あの、牧田さん。私、私」

 呼吸がうまくできなくて、なかなか言葉を発せない。それでも私は必死に牧田さんに助けを求めた。

「私、しんどくて、辛くて。どうしていいか分からなくて……」

「佐藤さん、今どこにいるの」

「いつもの公園です……。こんなはずじゃなかったのに、ごめんなさい、ごめんなさい」

 すぐに状況を理解したのか、電話の向こうで牧田さんが立ち上がり歩き出す音が聞こえた。

「すぐに行くからね、少しだけ待っててね」

 その声に、その優しい言葉に私はこれまで何度救われてきたのだろう。


 牧田さんとの電話を切った後しばらくすると、静かな夜の中に誰かが走っている足音が聞こえ、それは少しずつこちらに近づいてきているようだった。

 そしてその足音はついに私のすぐそばまでやってくる。

「佐藤さん、お待たせしました」

 息を切らしながら、私を見下ろす牧田さんがそこにいた。なんだかずいぶんと長い間、牧田さんに会っていないような気がする。

「牧田さん……」

 私が何か言う前に牧田さんは私の手を引きベンチに座らせてくれた。地面に落ち、中身が散らばったままの鞄や小説も一つずつ拾い、付着した地面の砂を払ってくれた。

 そして私の隣に座ると、何を聞くわけでもなく牧田さんは真っ暗な空を見上げている。

「あの、牧田さん。私、牧田さんに迷惑を」

「もうすぐ夜が明けますよ」

 私の言葉を遮り牧田さんが言う。

「あと一時間くらいで夜が明けて朝になります。だから、きっと大丈夫です……なんて、無責任ですかね」

 そう言っていつもの微笑みを私に向ける。

 涙は後から後から溢れてくるが、少しずつ呼吸を整え、今の気持ちを伝えようと私は口を開いた。

「本、また読めなくなってしまいました。せっかく牧田さんに助けてもらったのに、また元通りです」

 牧田さんは何も言わずに私の話を聞いている。

「近頃、友達にも冷たくあたってしまって。何もかもうまくいかなくて。自分で自分がよく分からないんです。この前なんてヒロに威嚇されてしまいました」

 ヒロは牧田さんの膝の上で丸くなっている。

「私はやっぱりダメな人間です。牧田さんにもこうして迷惑をかけるし……。それに、最近自分が自分じゃないみたいに感じて、なんだかうっかり死んでしまいそうです」

「それは、この前僕が佐藤さんに言ったことが原因ですか?」

 牧田さんの目が哀しみに染まる。

 違う、あなたのせいじゃない。原因はとっくに自分で気づいていた。ただそれを認めたくなかっただけだ。

「牧田さんは何も悪くないんです。私が……。私が先生の言うことを無視して勝手に薬を飲むのを止めたから……です」

 きっと叱られるだろうと思った。そうでなければ叱ることすらできないほどに、呆れられるかもしれない。

 けれど、牧田さんの返事はそのどちらでもなかった。

「そうでしたか。佐藤さんずいぶんと元気になってましたもんね。そりゃあ、薬を飲むのを止めたくなりますよ」

「えっ?」

「いつまでも自分は薬を頼っている、そのことが辛くなったのではないですか」

「……はい」

「普通は何かに頼っていると人間は楽なんです。でもきっと佐藤さんは頼ること自体があまり得意ではないようですね」

 牧田さんは眉尻を下げ笑う。

「薬やそのお友達、僕にだって甘えられるときはうんと甘えていいんです。頼っていいんですよ。それは悪いことでもかっこ悪いことでもないんですから。って言っても佐藤さんには難しいことかもしれませんね」

「だって、きちんと一人で生きていけるようにならなくちゃ」

「どうしてですか? 好き好んでいるなら別ですが、何も一人で生きていく必要なんてこれっぽっちもありません。誰かに頼ったり甘えたりしながら生きていくこと、僕は素敵だと思います。そういう相手がいる人生はとても羨ましいです」

 黒から濃い青へと色を変え始める東の空を見上げながら牧田さんが言う。

「生きていたらどうしても心に澱が溜まってしまいますから。それに飲み込まれないように、適当に生きてほしいです」

「テキトー?」

「テキトーではないですよ、適当です。気負いすぎず、力を抜きすぎず、ほどよくです」

「ほどよく……」

 あなたはどうも生き方が極端だ、と牧田さんが笑う。それがなぞなぞの星の住人の魅力の一つでもありますけどね、とも。

 空の濃い青が少しずつ薄まっていく。

「この前は、ごめんなさい。佐藤さんのこと、傷つけてしまいましたね」

 体ごと私に向き直り、牧田さんは私に向かって頭を下げる。

「あの後何度もあなたのことを考えました。もしあなたが僕に幻滅したのならそれを受け入れます。それだけのことを僕はあなたに言いましたから。僕はひとりぼっちになっても仕方がありません。でも、あなたには、佐藤さんにはひとりぼっちになってほしくない。だから佐藤さんが辛いとき、もし頭の片隅に僕を思い出したら今日みたいに僕を呼んでください。この先あなたが誰かと出会い、少しずつ変わっていったとしても僕はいつまでもあなたの味方だということを、覚えていてください」

 そんな哀しそうな目で私を見ないで。

 私は牧田さんが穏やかに微笑んでいてくれたら、それだけで十分救われるのだから。

 牧田さんのことを知りたいと願ったのは私なのだ。そして牧田さんの過去を知り、冬のように冷たい視線を向けられても尚、牧田さんに会いたい、頼りたいという気持ちは変わらなかった。

「春のように暖かく穏やかな牧田さんも、冬のような目をした牧田さんも、全部同じ牧田さんです。今にも死んでしまいそうな私を、あなたは二度も救ってくれました。幻滅なんて、しません。牧田さんが夏みたいに暑苦しくても、秋みたいにカサカサしていても私は嫌いになんてなれません」

 すでに涙は止まっていた。

「カサカサって。佐藤さんは本当に不思議な人ですね。ありがとう」

「これからも末永く……よろしくお願いします」

 以前、牧田さんから言われた言葉。今度は私が言う番だ。

 差し出した手は牧田さんの大きな手に包まれ、優しい返事が私に降り注ぐ。

 ヒロのニャーという声に顔を上げると、東の空が少しずつ赤く染まり始めていた。

 私と牧田さんは顔を見合わせ、公園を出るとあの川原沿いへと向かった。いつかと同じようにヒロも私達の後をついてくる。

 あのときとは反対の東の空を二人と一匹で見上げる。

「綺麗……」

 夜を終えようとしている青い空が、顔を出し始めた太陽に染まり紫へと色を変える。

 日暮れの空はピンクとブルーが優しく混ざり合い徐々に夜へとその色を変える。けれど今目の前に広がっている空には眩しいほどの赤やオレンジの光が輝き、夜の後影をみるみるうちに消してしまう。

 日暮れの優しい空とは違い、朝の空は力強くたくましい。

 やがて姿を現した太陽が私達の顔を照らす。それは直視できないほどの眩しさだ。

「夜が明けましたね」

「はい」

 ふと川原の砂利が目に入る。数時間前、私はここで水の中に沈んでいく小石を見て死の恐怖に怯えていた。けれど、今はもう怖くない。一人じゃないから、隣に牧田さんやヒロがいてくれるから。

 ひとりぼっちではないという事実は、こんなにも心強い。牧田さんも同じ気持ちだといいと思った。

 太陽がその姿を全て現しきるまで私達は川原沿いで他愛ない会話をした。

 この時間が何よりも大切なものだと私は思った。ただそこに牧田さんがいてヒロがいる。並んで言葉を交わす。それだけのことが私にとっては特別でかけがえのないものであり、自分が自分でいられる時間であった。

 私達はその足でまだ開店前の珈琲店へと向かう。開店準備をしていたマスターは文句を言いながらも私達を店の中に入れてくれた。

「なんだ? 久しぶりに顔を見たと思ったら、二人して朝からニヤニヤと」

 わざと顔にしわを作るマスターに向かい私は立ったまま頭を下げた。

 困惑するマスターに構わず続ける。

「マスター、これからもたくさんマスターのこと頼らせてください。マスターほど美味しいコーヒーを淹れられる人、他に知りませんから。よろしくお願いします」

 マスターは困惑しつつもまんざらではない顔で、別にいいけどと言う。

 もう一度マスターに頭を下げ、先に席に座っていた牧田さんの元へ戻る。

「そうそう、その調子。佐藤さんに頼られたらマスターも喜びますよ」

 そう言って、よくできましたねと小さく拍手をしてくれる。

 空を見上げながら牧田さんと私は、これから先ひとりぼっちで辛い思いを抱えないためにどうしたらよいのか話し合った。一人で悩む前に誰かを頼る、すると自然と自分もその誰かのために力になりたいと思うようになる。そこに生まれた繋がりは結果的にいつか自分を救ってくれるだろう。それが私達の話し合った結論だった。そして、まずはマスターから。

「マスター、これプレゼント」

 牧田さんがフリージアの花束をマスターに差し出す。

 マスターはまたしても困惑した顔になり、なかなか花束を受け取ってくれない。

「花なんてどうしたんだよ。なんか気持ち悪いな」

「佐藤さんと僕から。マスターにはいつも世話になってるから」

 渋々花束を受け取ったマスターも、その香りに顔がパッと明るくなる。サービスで出されたモンブランがマスターの返事だ。

 私達は顔を見合わせ、くすっと笑い合った。

 珈琲店を出る頃には時刻は朝の八時半を過ぎており、私はあくびが抑えきれなくなっていた。

 そんな私を牧田さんはどこまでも穏やかな優しい表情で見守っている。

「牧田さん、本当に本当にありがとうございました。牧田さんが来てくれなかったら、私今頃どうなっていたか」

「お礼はヒロに言ってくださいね。僕を呼ぶよう指示したのはヒロなんですから」

「そうですね。でも、本当にありがとうございました」

 言葉で表しきれない感謝の気持ちが伝わるよう、私は目一杯頭を下げた。

「今日は疲れたでしょうから、一日ゆっくり休んでくださいね。それと、お薬の力を借りることも大切ですよ」

「そうですね、ひと眠りしたらきちんと先生のところへ行きます」

 伯母にも謝らなければならないと思った。ごまかし続けている事実に心が痛む。

「それから……」

 牧田さんは、もう一つだけ、と言葉を続ける。

「佐藤さんのお友達、きっと今も佐藤さんのことを待っていると思いますよ。何があったのかは分かりませんが、きっと佐藤さんのこととても大切に思っていると思います。なんとなく、分かるんです。そのお友達のことも頼って、また元気な顔見せてあげてくださいね」

 敵わないな、やっぱり敵わない。

 牧田さんはどこまでも牧田さんだ。どこまでも穏やかで優しい牧田さん。

 私はもう一度お礼を言い、牧田さんと別れた。

 家に帰って少しだけ眠ったら、やるべきことがたくさん待っている。私を大切に思ってくれている人達に伝えなければならないことがある。

「まだもう少し生きていなくちゃね」

 私はすっかり太陽が昇り切った空に向かい、そう呟いた。


 穏やかな眠りだった。何か夢を見たような気もするがほとんど覚えていない。それでもその眠りが心地よく、穏やかなものであったことだけは確かだ。

 穏やかな眠りから目を覚ますと私は茉由に電話をかけた。

「茉由、これから会えない? マフラー返したいから」

 茉由は迷うことなく、会おう! と言ってくれた。

 私は待ち合わせ場所を指定すると軽く身なりを整え、すぐに家を出た。茉由に会う前に行くべき場所がある。

 向かった先は花屋だ。今朝、牧田さんの提案でマスターに花束をプレゼントしたときにフリージアを選んだ理由は、花屋の店先で牧田さんにフリージアの花言葉を教えてもらったからだ。フリージアの花言葉は純潔、友情、信頼。それを知った私は、自分と牧田さん、そしてマスターのこれから先の関係がフリージアの花言葉のようでありますように、そんな願いを込めてその花を選んだ。

 牧田さんと別れた後自分でもいくつか花言葉を調べていると、茉由にぴったりな言葉を持つ花を見つけることができた。それを茉由に渡したかった。

 小さな花束を購入し、私は珈琲店に向かう。

 カランカラン、と音の鳴るドアを開けると奥からマスターが顔を出す。

「おや? 今度はお一人ですか」

「いえ、待ち合わせです。大切で……大好きな友達です」

 そうですか、と微笑むマスターの後ろには今朝渡したフリージアの花が生けられていた。

 少しして再びカランカランと音が鳴り、茉由が店内に入ってきた。私は手を振り茉由を呼ぶ。遠くから見ていても相変わらず茉由からはきらきらした何かが放たれているような気がする。

「凪咲、お待たせ」

「ううん、突然呼び出してごめんね」

「いいよ、凪咲に会いたかったもん」

 私は茉由に借りていたマフラーを返し、お礼と謝罪を伝えた。

「せっかく茉由が一緒にいてくれるのに、わざと一人になろうとしたり、茉由の心配にそっけない返事をしたりしてごめんなさい。心のどこかで勝手に、茉由は別の子と一緒にいたほうが楽しいだろうって思い込んでしまって。私なんかが一緒にいると迷惑はかけるし、茉由のこと傷つけたくないって思うと、少しずつ茉由と一緒にいることが辛くなって……」

 茉由は言葉を挟まずに私の話を聞いてくれる。

「でも、そういう私の考えや行動が余計に茉由を傷つけていたみたい。本当にごめんなさい」

 茉由は俯きがちに首を横に振る。

「茉由はよく私に、好きだよって言ってくれてたでしょう。私ね、その言葉をもらえて凄く嬉しかったの。だけど、どうして私なんかを好いてくれるんだろうって考えても考えても分からなくて、素直に受け取れなかったのも事実なの。でも、ようやく分かった。好きに理由なんていらないんだよね。私だって茉由のこと、好きだもん」

「凪咲……」

「今からもの凄く勝手なこと言っても、いい?」

「うん、いいよ」

「私は茉由が好き、茉由と一緒にいたい。だけど、私は弱いし馬鹿だし人と関わるのが得意じゃないから、これから先また突然一人になりたがったり、意図せず茉由を傷つけたりすることがあると思う。そのことを考えると凄く怖い……。でも、それでも私は茉由と一緒にいたい、です。よかったらこれからもこんな私と友達でいてくれませんか」

 そこまで言うと私は茉由に向かって頭を下げた。優しい茉由はきっと、いいよと言ってくれるだろう。それが分かっていても本当の思いを伝えるには勇気が必要だった。

 鼓動が速くなる。それに気づかないふりをして私は頭を下げ続けた。

「もう、仕方ないなぁ」

 おどけた茉由の声が聞こえ顔を上げると目の前に茉由の手が伸びてきて、私の頬をぷにぷにと触る。

「そんなに私のこと好きなら、凪咲の気持ちに応えるしかないよね。仕方ないなぁ、全く」

 そう言っていつまでも私の頬を触っている茉由の声は震えていて、目の前にいる茉由は笑いながら泣いていた。仕方ないなぁ、仕方ない。そう何度も繰り返す茉由の声が徐々に泣き声に変わり、テーブルの上が茉由の涙で濡れていく。

「私、寂しかった。いくら好きって伝えても凪咲からは言ってくれなかったから。凪咲は私のこと迷惑がってるんじゃないかって、不安だった。凪咲が辛そうな顔してても何もしてあげられないし、私の気づかない間にふらっと消えちゃうんじゃないかって、凄く怖くて」

「茉由……」

「凪咲と私は友達なんだから、傷つけたり傷つけられたりしたくらいで離れたりしないよ。私が凪咲といたくているんだもん。でも、凪咲の気持ち聞けて良かった。私達、相思相愛じゃんね」

 そう言って無理に笑おうとしてまた泣き出す茉由は、やはりきらきらしていて綺麗だった。

「これ、茉由に」

 花屋で買ってきた小さな花束を茉由に差し出す。茉由は涙を拭い濡れた手でそれを受け取り微笑む。今度はうまく笑顔を作れたようだ。

「これ、ラナンキュラス?」

 茉由はその花の名前を知っていた。理由を問うと、茉由は実家が花屋なのだと言う。知らなかった。こんなに一緒にいたはずなのに、考えてみると私は茉由のことをほとんど何も知らない。

 でも、焦ることはない。これから少しずつお互いのことを話し、知っていけばいい。初めて茉由のことを牧田さんに話したとき彼が言っていたように、私と茉由はこれから先も一緒にいられる気がする。

 いつか茉由にも牧田さんの話ができたらいいと私は思った。私を救ってくれた優しくて大切な二人。

 ラナンキュラスの花言葉はとても魅力的、晴れやかな魅力、光輝を放つ。そこにいるだけできらきらと輝いている茉由にぴったりだ。口に出して伝えることはしなかったが、茉由はきっとその花言葉を知っているだろう。

 珈琲店を出る前に茉由はマスターに声をかけた。

「また来てもいいですか?」

 マスターは、お待ちしておりますと微笑み返しお辞儀をした。

 すぐに体調が万全になるとは限らない。講義に再び出席できる日は少し先になるかもしれない。それでも私と茉由はまた大学で会おうと約束を交わし別れた。

 寒い冬の風に吹かれながらも、心は温かかった。

 私は、このまま心療内科へ向かい、通院を止めていたことを謝り今の症状を偽りなく先生に話そうと思った。伯母にも心配をかけた。伯母の好きなお菓子を買って久しぶりに家を訪ねてみようか。

 やるべきことが全て終わったら、牧田さんに会いに行こう。

 今会いたい人に会える喜びを噛みしめ、私は歩き出した。


「牧田さん、私ね、これからたくさん人に頼って生きていこうって決めました」

「うん」

「以前牧田さんが言ってくれたように、適当に生きていこうと思います。気負いすぎず、でも力を抜きすぎずにここ一番はしっかりと」

「そうだね」

「そうやって生きることが、周りにいる大好きな人達を大切にすることに実は繋がっているんだって、ようやく分かりました」

 牧田さんは優しい目で頷いてくれる。

「そのことに気が付けたのは、牧田さんのおかげです」

「僕は何もしていませんよ。佐藤さんが自分の力で、自分や周りの人達と向き合い見つけた答えです」

 いつになっても牧田さんには敵わない。どこまでも穏やかでどこまでも温かい牧田さん。私になぞなぞの星の住民票をくれた心の優しい人。

「僕も……僕も少しずつ変わらないといけないのかもしれませんね」

 遠くの空を眺めながらゆっくりと牧田さんが言葉を紡ぐ。

「誰かを傷つけたり傷つけられたりすることが怖くて、僕は必要以上に人と深く関わらないようにしていました。でも、佐藤さんを見ているとそういうのもいいなって。もちろん意図的に傷つけることはいけません、過去の僕みたいになってしまいます。でも誰かと本気で関わったことでついた傷は、きっといつか自分の宝物になるのでしょうね。本気で関わったからこそ知ることのできる感情だってたくさんあります」

 そこまで言うと牧田さんは立ち上がり、東の空を指さした。

「ほら、今日ももうすぐ夜が明けますよ」

 東の空はかすかに赤く染まり始めている。

 あの日見た夜明けは涙で滲んでいた。でも今日は違う。

 目が合った私達は微笑みを交わし、ゆっくりと夜が明けていく空を黙って見つめ続けた。


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