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牧田さんの家に行った翌日、私は泣きすぎて腫れぼったい目をなんとか化粧でごまかし、いつも通り大学で講義を受けた。
自分では平然を装っているつもりでも、茉由の目はごまかせないようだ。
「凪咲、今日元気ない? 目も少し腫れてるみたいだし。昨日何かあった?」
「うん、ちょっとね……」
「何があったか知らないけどさ、凪咲には笑っていてほしいな。講義終わったらケーキバイキング行こうよ」
「いいね、行こう」
元気のない私を気遣い、茉由は私をケーキバイキングに誘ってくれた。
夕方に講義が終わると私達はそのまま電車を乗り継ぎ、ケーキバイキングをやっているお店へと向かった。
「こんなお店があるなんて知らなかった」
茉由に案内されやってきたそのお店は、テレビで見るようないかにも女の子が好きそうな外観をしていて、まるでおとぎ話の世界に入り込んだようだ。茉由は私の知らないことや場所をたくさん知っている。
「いつか凪咲と来たいって思ってたんだ。それじゃあ、食べますか!」
大きな白いお皿を手に、ケーキが並べられているテーブルへと向かう。
テーブルの上には普通のショートケーキより少し小さめサイズのありとあらゆるケーキが陳列されていて、その光景はまるで宝石の海だ。フルーツタルトにチョコレートケーキ、紅茶のシフォンケーキやマカロンまで並んでいる。
目を惹くケーキをお皿に載るだけ載せた私達は自分の席へ戻り、いただきまーす! と声を揃えてさっそくケーキを口へ運ぶ。
私が最初に口にしたのはフルーツタルト、茉由はイチゴのムースケーキだ。
「……美味しい!」
「これはいくらでも食べられますなー」
バイキングとはいえ、ケーキの味はそこらへんのケーキ屋さんに負けていない。それに小さめのサイズに作られているため、少しずつたくさんの種類を食べることができる。
あっという間に一つ目を食べ終わると、二つ目、三つ目と次々ケーキを口に運ぶ。二人ともケーキを食べることに夢中で、気づけば無言になっている。
「取ってきた分、全部食べちゃった」
「もう一回取りに行こうか」
お互いのお皿の上が空になると、私達は目を見合わせ再び立ち上がりケーキのテーブルへと向かう。
次はどれを食べようかな。たくさんの種類のケーキを前に迷っていると、茉由が少し離れたテーブルから手招きをする。
「こっちにもいろいろあるみたい。あっ! モンブラン発見!」
モンブランを見つけた茉由はよほど好きなのかお皿に三つ確保した。
「凪咲にも、どうぞ」
さらに私のお皿の上にもモンブランを載せる。茉由のこういう無邪気なところが私は好きだと思う。
再びお皿をいっぱいにし飲み物の調達も済ませ、私達は二回目のいただきますを口にする。
「やっぱりモンブラン美味しい。私ケーキの中でモンブランが一番好きなの」
茉由はお目当てのモンブランにご満悦の様子だ。茉由がご丁寧に私のお皿にも載せてくれたため、私もモンブランを口にする。ここのモンブランは土台がスポンジ生地で上のクリームも重ために作られている。
確かに、美味しい。でも、私はマスターの珈琲店に置いてあるモンブランの方が美味しいと思った。
頭の中にあの日牧田さんと食べたモンブランがよみがえる。ここのモンブランが好きだと言った牧田さんの顔までよみがえり、私はすぐにかき消そうとする。牧田さんと食べたから美味しかったわけではない、あのモンブランが美味しいのだ。サクサクのメレンゲと甘さを抑えたペーストの相性が良かっただけだ。
誰にも見られない頭の中で、一人言い訳をしてしまう自分に呆れる。
それでも一度思い出してしまった牧田さんの顔はなかなか消えてくれない。思い出すのは穏やかで優しい目をした牧田さんばかりだ。
「凪咲? 手、止まってるけど大丈夫?」
「えっ、あぁ、大丈夫」
「凪咲、やっぱり元気ないね。無理に連れて来てごめん」
茉由に謝られると心が痛む。
「ううん、ちょっと食べすぎちゃったみたい。でもここのケーキ、凄く美味しかった」
茉由は私に気を使ったのか、お皿にある分のケーキを食べ終えると、今日はこれで解散! と言い私達は店の前で別れることにした。
せっかく茉由が誘ってくれたのに、私は何をやっているんだろう。茉由といるときくらい元気でいられないのか。茉由に対する申し訳なさが募り、自己嫌悪に陥る。
茉由は私と一緒にいて楽しいのかな……。
家に帰り茉由に謝罪のメールを入れ、私は気持ちを切り替えようとシャワーを浴びた。
シャワーを浴びている間に頭の中にはいろんな思いが浮かんでは水と共に流されていく。茉由のこと、牧田さんのこと、テストのこと、牧田さんのこと、レポートのこと、牧田さんのこと。
もう以前のように牧田さんと他愛ない会話をして笑い合うことはできないのだろうか。私が珈琲店に顔を出すのは牧田さんにとって迷惑になるのではないだろうか。考えても答えが出ないことくらいとっくに分かっている。それでも少し気を抜くとすぐに牧田さんのことが頭をぐるぐると回り始めるのだ。
体を拭き、新しく買ったばかりの冬用パジャマに袖を通す。新しいパジャマのふわふわとした手触りに、心が少し凪いだように感じる。この頃気温がぐっと低くなり、本格的な冬が始まったことを身をもって実感する。
茉由からメールの返信が来ていないか確認するために携帯電話を手に取る。すると着信履歴が一件あり、牧田さんかもしれないと鼓動は急速に強くなる。しかしそれは伯母からの着信だった。
突然どうしたんだろう。着信のあった時刻が数分前だったので、私はそのまま伯母に電話をかけなおすことにした。数回のコールですぐに伯母は電話に出た。
「もしもし伯母さん? どうしたの」
「凪咲ちゃん、最近体調はどう?」
体調を心配してかけてきてくれたのか。緊急事態などではなさそうな伯母の口調に少し安心する。
「おかげさまで、すっかり元気になりましたよ」
「そう、それはよかったわ。あのね凪咲ちゃん、今日心療内科の先生から凪咲ちゃんが急に来なくなったって聞いたんだけど、本当?」
心臓を突然刺されたような気持ちだった。
あの心療内科は伯母に紹介してもらったのだから伯母と先生が知り合いなのは分かってはいた。分かってはいたが、こうして直接言及されると放っておいてほしいという思いが湧き出てくる。伯母にあの先生を紹介してもらったからこそ、私は今こうして回復しているというのに。
「ごめんなさい、伯母さん。大学が忙しくてまだ先生のところへ行けてないの。数日のうちに行こうと思っていたけれど」
口から嘘が出た。
「それなら構わないけど、自己判断で薬を止めたりしたらダメよ。一度元気になったつもりでも、またぶり返すことがあるってよく聞くから」
「大丈夫です、勝手に薬を止めるなんてしません。心配かけてごめんなさい」
伯母はただ私を心配してくれているだけなのだ。いつもならこれ以上伯母に心配をかけないために、言われた通りきちんと先生のところへ行っただろう。
けれど、今の私の胸の中は得体のしれない黒いもやもやとした感情に包まれ、伯母を疎ましく思う気持ちがふつふつと沸きあがってくる。
私はもう成人しているのに、どうしていちいち伯母に心配されなきゃいけないんだろう。
自分の体のことは自分が一番分かる。私はもう元気になったのだから、どうしてこれ以上薬を飲み続けなければならないの?
心療内科の先生も、わざわざ伯母にそんなことまで伝えるなんてどうかしてる。
うざい、うざい、うざい。
私のことなんて放っておいてくれればいいのに……。
私はこんなに酷いことを考える人間だっただろうか。醜い思いが次から次へと沸きあがり、自分でも驚きを隠せない。それでも胸の中は真っ黒に染まり、伯母の電話を切った後も苛立ちが止まらなかった。
この段階で気づくべきだったのだ。自分の感情をコントロールできないというのは、まさにこういう状態を示すものだ、と。
牧田さんに会いたい気持ちは常に心の片隅にあったが、今の私にはうまく口実を作れそうにない。それにもし会えても、あの日のようにまた冷たい目をしていたら私は一体どうすればよいのか。
そんな気持ちが私を自然とあの公園へと向かわせた。
ヒロのいる公園、牧田さんのおかげで本が読めるようになった公園。
講義が終わると私はまっすぐに急ぎ足で公園へと向かった。今から行けば日暮れに間に合うかもしれない。もしかしたら牧田さんは、今日もヒロと日暮れの空を眺めているかもしれない。
わずかな期待と不安を抱え、私は公園へと走る。
中央にそびえ立つイチョウの木は、その美しい葉をもうほとんど地面へ落としてしまいその姿は酷く寒そうで心細いものに見えた。
ぐるりと公園内を見まわしたが、牧田さんの姿はない。今日は来ていないようだ。そのことにがっかりしながらも心のどこかで安心を覚えた。
ヒロはどこだろう。目を凝らし木の上や砂場を見る。しばらく探しようやくみつけたヒロは、タイヤを半型にし地面に埋めたような遊具の下で丸くなっていた。
「ヒロ、ようやくみつけた。なんでこんなところで寝てるの」
ヒロの前にしゃがみ込み、ヒロの上下するお腹にそっと触れる。すぐに目を覚ましたヒロは、遊具の下から出てきて伸びをするとぷいっと私にお尻を向け歩き出す。
「ヒロ、待ってよ。一緒に夕日見に行こう」
ヒロの後を追いかけようと私も立ち上がる。それでもヒロは私におかまいなしでスタスタと歩き続ける。そんなヒロの態度にムキになった私は、小走りでヒロに追いつくとヒロの体を持ち上げようと後ろからその小さな体に手を回した。
「シャーッ!」
突然毛を逆立て私に威嚇したヒロに驚き、私はすぐに手を引っ込めた。
「どうして……」
少し前までずっと一緒にいたのに。ヒロに拒絶されたショックは思いのほか大きくて、しばらくその場に立ちすくんでしまった。
最近何もかもうまくいかない。牧田さんとはあんなことになるし、茉由にも迷惑をかけたし、伯母の言動は鬱陶しい。おまけにヒロにまで嫌われた。ひとりぼっちに逆戻りしたのは牧田さんじゃなくて私の方だ……。
どうして……。ようやく体調も良くなって、大切に思う人が少しずつ増えて、これからはまた穏やかに幸せな毎日を過ごしていけると思っていたのに。結局私はこうして一人で生きていく運命なんだ。
「なんかもう、しんどくなっちゃったな」
思わずそんな言葉が口から出た。
いつの間にか太陽は西の空に沈み、辺りは少しずつ暗くなり始める。空を見上げるとそこには私が好きだったピンクとブルーが混ざり合った空が広がっている。
「全然綺麗じゃない」
けれど、今の私はその空を綺麗だと思えなかった。
私達人間は目で見たものを、心のフィルターを通して美しく感じたり感動に震えたりするのだろう。心のフィルターが黒く濁ってしまった今の私には、目に入るもの全てが濁って見える。そして現実さえも、ろくでもないものに思えてくる。
牧田さんに出会い、存在を認めてもらうことで浮かれていた自分が馬鹿らしく思えてきた。
私は空が目に入らないよう、俯いたまま家路を急いだ。早く家に帰りたい。早く誰にも邪魔されない空間に帰りたい。私は自分の力で生きていく。もう誰も私に構わないでほしい。
そう考える私には家路にある商店街の賑わいさえも煩わしく思えた。人の声が何倍にも大きく耳に響くようで、両手で耳をふさいでしまいたかった。うるさい、うるさい。みんな消えてしまえ……。
翌日私は講義を自主休講にし大学へ行かなかった。午後になっても起き上がる気力すらわかず、未だに布団の中にいる。携帯電話には心配した茉由からのメールが朝から何件も届いていたが、私はそれに返事をしなかった。
夕方、携帯から着信を知らせるメロディーが鳴り相手は茉由だった。なかなか鳴りやまない着信音が煩わしくなった私は布団に入ったまま電話に出る。
「……もしもし」
「もしもし凪咲! よかった、生きてた……」
茉由の大きな声が頭に響く。
「そんな大げさな」
「だってメールしても全然返信来ないし、もしかしたらどこかで事故にでもあってるんじゃないかって心配で……。でもよかった。体調悪いの?」
「少し頭が痛かったから」
「そっか、それならゆっくり休んで早く元気になってね。あっ、何か買ってお見舞い行こうか? 凪咲の家って確か、四丁目の」
「茉由、茉由ありがとう。でも大丈夫だから」
「そう……。明日は来られそう?」
「分からない。行けたら行くよ。でもあんまり心配しないで。子供じゃないんだから」
「分かった。じゃあ、またね」
そう言って電話を切る茉由の声には心配と寂しさが滲んでいて、私は思わずため息をつく。
私は馬鹿だ……。心配して電話をしてくれた茉由にどうしてあんな態度が取れるのだろうか。本当に馬鹿。茉由まで失ったら私は本当にひとりぼっちだ。でも茉由だってこんな面倒くさい私なんかじゃなくて、もっと明るくて優しい子と一緒にいた方が絶対幸せだろうに。
何に対してもネガティブなことしか頭に浮かばず、一度浮かんだネガティブな考えは海の満ち潮のように引いては寄せることを繰り返し、少しずつだが確実に私の心を侵食していく。
こんなとき牧田さんなら私になんと言葉をかけてくれただろうか。それともこんな私にかける言葉なんてないだろうか。
体調は良くなったはずなのに、どうしてこんなに心がしんどいのだろう。私が弱くて馬鹿で愚かだから? でももう今更誰に頼ることもできない。私を救ってくれた人達から距離を置こうとしているのは自分なのだ。
ぐーっとお腹が鳴った。そういえば昨日の夜から何も食べていない。
それでも今の私に布団から起き上がり食事の用意をするだけの気力はなく、このまま眠ってしまおうと思った。
「もう何もかも面倒。このままお腹が空いて死んで消えてしまえばいい。どうせ私はひとりぼっちなんだから……」
そう呟き布団を頭まで被ると、私は再び目を瞑り現実から逃げるように眠った。