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 十月、夏休みが終わり大学では再び講義が開かれる。

 季節がまだ夏になりきらない頃体調を崩し、それ以来ほとんど足を踏み入れていなかった場所。

 もしもまたあの日のように何も分からなくなってしまったらどうしよう、せっかく読めるようになった本が再び読めなくなってしまったら?

 不安ばかりが募り鼓動を速める胸を抑えるように、肩にかけた鞄の持ちてをぎゅっと握る。

「大丈夫、もしダメだったらすぐに帰ればいい」

 そう自分に言い聞かせ、私は講義室に入った。席についてからもドクドクという音が自分の体から聞こえてくるようだった。講義開始まではまだ少し時間がある。他の生徒達が楽しそうに話している声が耳に響く。久しぶりの喧騒に飲み込まれてしまいそうだ。

 少しずつ息が上がるのが自分で分かった。このままではパニック発作を起こしかねない。

 私はなんとか自分を落ち着かせるために鞄の中から手帳を取り出し、表紙のポケットに入れていた一枚の紙を取り出した。その紙には住民票、と書かれている。


「よかったらこれを持っていてください」

 大学が始まる前日、牧田さんが私に四つ折りにされた一枚の紙を差し出した。受け取り開くと、そこには大きな文字で住民票と書かれ、その下に私の名前が記されていた。

「これ……」

「気休めにしかならないかもしれませんが、なぞなぞの星の住民票です。あなたはこの星の住人で、その星には僕も住んでいます」

 本物の住民票とそっくりに作られたその紙。住所には、なぞなぞの星と記されてある。住民となった年月日の欄には私と牧田さんが初めて珈琲店で話をした日付が入り、生年月日は空欄だった。

「佐藤さんのお誕生日は伺っていなかったので、埋められていないのですが」

 申し訳なさそうに微笑む牧田さんの顔が私の涙でぼやける。

「これから先またしんどいことや辛いことがあったとき、あなたはひとりぼっちじゃないんだってことを思い出してほしくて。あなたに一人で苦しんでほしくないんです。ひとりぼっちで泣くのはとても辛いですから」

 私は涙を止められなかった。ぽろぽろと目から溢れる涙はやがて私をしゃくり上げさせ、初めて会話をしたあの日のように私は声を出して泣いた。

「ごめんなさい、泣かせるつもりではなかったんです」

「牧田さんが、あまりにも優しいから。どうしてそんなに優しいんですか、どうして」

 しゃくり上げながら泣く私を見て牧田さんは少し困ったように首を傾げ微笑み、私の質問には答えず次の言葉を紡ぐ。

「なぞなぞの星に住んでいる人は感受性が強くてどうも傷つきやすい傾向にあるので。この住民票がいつか佐藤さんの盾になって、あなたを傷つける何かからあなたを守ってくれることを願っています」

 その夜私は牧田さんから貰った星の住民票を手帳のポケットに挟んだ。引き出しにしまっていた両親と三人で写っているあの写真と共に。


 上がる息を抑えながら住民票を開く。牧田さんの直筆で書き込まれた私の名前と星の名前。牧田さんの字は線が細いながらもどこか力強く、私には到底書けないような美しい字だった。

 ―あなたはひとりぼっちじゃないんだってことを思い出してほしくて―

 牧田さんの言葉が胸によみがえる。大丈夫、私は一人じゃない。

 空欄になっている生年月日の欄を埋めるべく、私は机の上に置いていたボールペンを手に取る。息が上がっているせいだろう、指先がわずかに震えている。それでも私はボールペンを握りしめ、自分の生年月日を記入した。

 もともと字を書くのがあまり得意ではないことに加え、わずかに震える手で書いた生年月日は数字だけでも牧田さんの字とはかけ離れていて、そのアンバランスさに思わず笑みがこぼれる。

 こんな部分まで、牧田さんには敵わない。

 少しずつ呼吸が落ち着いてくる。冷静になると周りの喧騒はそれほど耳に響いてこない。

 さっそく星の住民票に力を借りてしまったようだ。私は心の中で牧田さんに感謝した。

 ちょうど講義開始のチャイムが鳴り、講師が重たい教材を抱え講義室に入ってくる。私はあの日とは違うしっかりとした眼差しで前を見つめ、講師の言葉に耳を傾けた。

 以来、私は以前のように講義を受けられるようになった。ときおり不安に襲われそうになるが、そんなときには牧田さんからもらった星の住民票を眺め心を落ち着かせた。

 大学に再び通い始めて一週間ほど経った頃、午前中の講義が終わり多くの生徒が食堂へと向かう中、一人の女の子が私に声をかけてきた。

「あの、よかったら一緒にお昼食べない?」

 同じ講義を受講しているらしいその子の顔は見たことがあったが、名前はまだ知らなかった。

「私は守屋(もりや)茉由(まゆ)っていいます」

 その子が喋るとセミロングの茶色い髪がふわふわと揺れる。

「私は、佐藤凪咲です」

 同年代の人と会話をするのはずいぶんと久しぶりで、そのきらきらとした瞳に吸い込まれてしまいそうだった。緊張を隠さず自己紹介をした私に、その子は髪を揺らしながら知ってるよと笑う。

「凪咲って呼んでもいい? 私のことは茉由でいいよ」

 私は目の前にいる女の子から放たれるきらきらに圧倒され頷くことしかできない。

「講義室で凪咲のこと見かける度に、綺麗な子だなーって思ってたの。でもいつもしかめ面で、ちょっと話しかけづらい雰囲気だったから遠くから見てるだけだったんだけどね。でもいつも一人でいるみたいだし、もう我慢できなくて話しかけちゃったよ」

「は、はぁ。それは、ありがとうございます」

「なんで敬語なの! それよりさ、早く食堂行こうよ。お気に入りのランチ売り切れちゃう」

 そう言って茉由と名乗ったその子は私の手を引っ張り食堂に向かって駆け出した。私は状況がよく掴めないまま、彼女の放つきらきらから目を離せないでいた。

「このハンバーグ、本当に美味しいんだ」

 無事にお目当てのランチをゲットした彼女は、見ているこっちが笑顔になってしまいそうなほど幸せに満ちた顔でハンバーグを頬張る。

「守屋さんは、他に友達とか……」

「茉由! 茉由って呼ばないと返事しないから。あと、敬語も禁止ね」

「ま、茉由は他の子とご飯食べなくていい、の?」

 慣れない会話にどうしても言葉が詰まってしまう。

 茉由は名前で呼ばれることに満足そうに微笑む。

「私は特定の誰かと一緒にいるってことをしてこなかったからね。私がいなくても別に誰も困らないでしょ。それより私は凪咲と話してみたかったから」

「そ、そうなんだ」

「凪咲はさ、凄く綺麗な子なのにいつも一人でいるし、私がどれだけ早く講義室に行っても絶対先に来てるし。あと休み時間もスマホとか触らないでずっと本読んでるし、講義終わったら凄い早足で帰っていくし、不思議すぎるんだよね」

 そんなところまで見られていたとは。私は自分の知らない自分まで見られていたようで少し恥ずかしくなる。

「本を読んでいるのは、本が好きだから。講義室に早く行くのは、ギリギリで行くと緊張するから早く行くようにしてる。早足で帰るのは、無意識だったな……」

「凪咲、不思議すぎ! そんなの、超魅力的じゃん!」

「よく分からない」

「凪咲の方が分からないって」

 そう言って笑うと茉由は私の目の前に両手を突き出した。すぐにその意味が読み取れず私が困惑していると、握手! と茉由は言う。おずおずと私も両手を伸ばし、茉由の手に触れる。

「これからよろしくね、凪咲」

「う、うん」

 茉由の手は小さくて柔らかく、女の子を代表するような手だった。

 こんなに女の子の要素を兼ね備えた茉由が、どうして私なんかに話しかけてきたのか理由はこれっぽっちも分からなかったが、嫌な気持ちではなかった。むしろ心の奥が浮足立つようなそんな気持ちだった。

 両親を失ったあの日から私が失い続けてきたものが、少しずつ自分の中に戻ってきている。

 この頃の私の中には、そう確かな感覚が芽生え始めていた。

 その日から私は、大学での時間を茉由と共に過ごすことが増えた。

 朝早く講義室に行くと、待ってましたとばかりに眠そうに笑う茉由の姿がある。講義は二人並んで受けた。茉由の隣に座っていると、不思議と気持ちが落ち着きパニック発作を起こすことはなかった。これまで簡易で済ませることの多かった昼食も、茉由と一緒に食堂に行くことでしっかりと食べるようになった。

「最近顔色良くなってきたね」

 茉由にそう言われ、確かに体調が悪かった時期に落ちていた体重がこの頃戻ってきていることを思い出す。食事をきちんと摂るようになったことが大きいのかもしれない。

 茉由は家庭のことや私が一人でいたことについては何も聞かなかった。その代わり私が使っているシャンプーや化粧品、着ている服のブランドなどには強く興味を示した。

「凪咲っていつもいい香りするけど香水つけてる?」

「ううん、洗濯洗剤の香りだと思う」

「それは最強すぎ。凪咲みたいな女の子から洗剤の香りってどんな香水も敵わないよ」

「大げさだよ」

 茉由は何かと私について褒めた。少なくとも会うたび必ず一つは、それいいねと言った。

 そんな茉由のおかげで、これまで意識していなかった何気ないこと一つひとつが私の中で意味を持つようになり、大切なアイデンティティへと変化していった。

「私、凪咲のこと大好きなの」

 茉由は度々そんな言葉を口にした。家族以外からそんな風に言われるのは初めてだったし、私自身も家族以外にその言葉を伝えたことはなかった。もちろん、嬉しかった。そして、好きという感情を素直に屈託なく相手に伝えられる茉由が羨ましかった。

 私も茉由のことが好きだった。けれど私などから好きと言われて茉由は嬉しいのだろうか、そんな思いが邪魔をして結局いつも、ありがとうしか言えない。それでも茉由は事あるごとに私に好意を伝えてくれた。

 そんな茉由のおかげもあり、私は休むことなく講義に出席し続けていた。

 十月中旬、私は少し久しぶりになってしまった珈琲店で牧田さんと待ち合わせをしていた。

 十月に入り講義やレポートの提出に忙しかった私は、星の住民票をもらったあの日以来牧田さんに会うことができていなかったのだ。

 久しぶりに向き合った牧田さんは、また少し痩せたようで微笑む穏やかな表情はそのままに頬が少しこけたように思えた。

「圭一くんね、佐藤さんに会えなかったから寂しくてご飯食べられなかったみたいだよ」

 そう言って茶化すマスター。普段ならそんなマスターに、牧田さんが呆れた顔で返事をし、二人の仲の良さが垣間見える場面だが、今日は違った。

「本当にね、参っちゃうよ」

 牧田さんはマスターの茶化しを否定することもせず、どこか哀し気な顔で微笑んで見せるだけだった。きっと何か言えない事情があるのだ、私はとっさにそう感じ取り、目の前で微笑む牧田さんから目をそらすことしかできなかった。

 こういうとき、私は彼について何一つ知らないのだという現実を突きつけられる。こんなに近くにいるのに、こんなにも遠い。

「佐藤さんは顔色がずいぶん良くなった気がします」

 茉由にも同じことを言われている。過去の自分はそんなにも顔色が悪かったのだろうか。

「最近、凄く調子がいいんです。心配していた講義にも毎日出席できていますし、ご飯もきちんと食べているので」

 私は講義初日にパニックを起こしそうになったこと、それをあの住民票が救ってくれたことを話した。牧田さんは相変わらず穏やかで優しい目をしている。

「それはよかったです。でも講義に出られるようになったのは佐藤さん自身の力ですよ」

 牧田さんはいつだって、自分のおかげだとは言わない。私が言う牧田さんのおかげを全て私自身の力だと言い換える。だからこそ、いつか必ず牧田さんにお礼がしたいと思った。今はまだ何もできないけれど、いつかほんの少しでも牧田さんのために何かできることがあればいい、と。

「大学で不思議な子と出会ったんです」

 私は茉由のことを牧田さんに話した。店に他の客がいなかったこともあり、マスターもコーヒー豆を挽きながら私の話を聞いているようだ。

「その子、凄く可愛くて優しくて。なんていうか、全身からきらきらしたものが放たれているみたいに魅力的な子なんです。そんな子がなぜか私と一緒にいてくれて、しかも大好きなんて言ってくれるんですよ。本当に不思議な子です」

 そう伝えると牧田さんとマスターはなぜか顔を見合わせくすくすと笑い合う。

「きっとその子は、佐藤さんの不思議な部分に惹きつけられているんですよ」

「可愛い子の友達は可愛いって相場が決まってるんだな」

 不思議なのも可愛いのも茉由の話だ。私は二人の言っている意味がいまいち理解できなかった。

 不服そうな顔をする私を見て再び笑い合う二人に、私はさらに不服だ。

「でもよかったです。これからその子が佐藤さんのそばにいてくれるなら、もう佐藤さんが一人で苦しむんじゃないかって心配はなくなります」

「まだ知り合ってから一か月も経ってないんですよ。もしかしたらそのうち私に愛想尽かして離れていっちゃうかも……」

「大丈夫ですよ。佐藤さんの話を聞いただけでも、その子があなたをとても好いていることが伝わってきましたから。きっとその子は、これから先どんなことがあってもあなたに愛想尽かすことはないです」

「どうしてそんなことが分かるんですか」

 大丈夫だと言い切る牧田さんに、少し不貞腐れ顔で返す。

「どうしてでしょうね。でもそんな気がします」

「牧田さんもマスターも今日はなんだか謎です」

 納得のいかない表情でそう返事をしたが、内心牧田さんの言葉は嬉しかった。自分のことを肯定されるだけではなく、自分が大切に思っている人を肯定されることもこんな風に心を温めてくれるのだと初めて知った。


 七月から月に一度通っている心療内科の先生に最近とても調子が良いことを伝えると、先生も安心した表情でよかったと言ってくれた。

 私は調子が良くなれば薬を飲むことを止められると思っていたが、先生は大学を卒業するまでは今と同じ薬の量で様子をみようと言う。突然薬を止めたり、間違ったタイミングで減薬したりすることは症状の悪化を招きかねないのだと言う。

 私はそんな先生の言葉に素直に頷くことができなかった。最近の私は自分でも分かるくらい調子が良いし、周りの人からも顔色が良くなったと言われるほどだ。講義にもきちんと出席しているし、パニック発作はもうしばらく起きていない。本だって読めるようになった。

 もうどこも悪い部分はないような気がしていた。薬や周りの人のおかげで、すっかり回復したのだと。だからこそ、これからは少しずつ薬を止める方向で進めていくと勝手に思っていた。大学を卒業するまではと先生は言うが、それならば私は少なくともあと一年半は薬を飲み続けなければならないことになる。

 回復してもなお、薬を続けるということは、いつまでもそこに頼らないといられないみたいでなんだか情けなく思えた。

「こんなに元気なんだもん……。大丈夫だよね」

 その過信がのちのち自分をどれほど苦しめるのかも知らず、その日から私は自己判断で薬の量を少しずつ減らしていくことにした。

 自分の体のことは、自分が一番よく知っている。そう決め込んで疑わない、愚かな私の愚かな行動。

 もしもこのとき先生の指示に素直に従っていれば、あとからそんな風に悔やんでもこのときの私にはそれが正しいとしか思えなかったのだ。


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