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 九月に入っても暑さとセミの鳴き声は休むことを知らず、まるで急かされながら何かに後ろを追われているようだった。

 体を動かしていなくても外でじっとしているだけで汗が流れてくる。日本特有の湿度の高い夏。べたつく肌はどうしてこうも不快なのだろう。

 牧田さんに教えてもらった小説を公園で読んでみよう、そう思ってはいるもののさすがにこの時期は避けた方がいいかもしれない。湿度と汗ですぐにページがふやけてしまうに違いない。焦ることはない、もう少し涼しくなったらにしよう。

 牧田さんと私は二週間に一度ほどのペースで珈琲店を訪れていた。

 最初こそ自分の話ばかりして牧田さんの話はほとんど聞けなかったが、最近は少しずつ彼のことを知る機会が増えている。こちらから問いかけなくても牧田さん自ら自分について話してくれることも増えたように思う。

 この前珈琲店で会ったときには、マスターはサービスでマカロンを出してくれた。

「マスターがマカロンなんて、似合わないにもほどがある」

 そう言って笑う牧田さんにマスターは

「圭一くんが失礼なのにもほどがあるね。これは知り合いからのもらいものだよ」

 と返し、相変わらず仲の良い二人の姿がそこにあった。

 綺麗な桃色をしたマカロンを口に含むとベリーの香りが広がる。この不思議な食感の食べ物が私はけっこう好きだ。

「佐藤さん、最近調子はいかがですか?」

「薬が効いているみたいで、もうしばらく泣いていませんよ」

「よかった。元気でいられるのが一番です」

 穏やかな目で微笑む牧田さんは少し痩せたようだ。

 そのことを問うと、夏が苦手なんですと眉尻を下げる。夏は食欲が出ず毎年数キロ痩せてしまうのだと言う。

「僕はやっぱり冬が好きだな。雪が、好きなんです」

 私は穏やかで優しい目をした牧田さんのことを勝手に春みたいな人だと感じていた。春のぽかぽかとしたやわらかい陽射しのような人。だから冬が好きというのは意外だった。

「牧田さんに冬のイメージはなかったです。春みたいじゃないですか、牧田さんって」

「僕は、実はとっても冷たくて厳しいところを持つ冬のような人間ですよ。本当の僕を知ってしまえば佐藤さんも凍り付いてしまうでしょうね」

 冷たくて厳しい、の部分に抑揚をつけ、わざと恐い顔をして見せる牧田さんがなんだかおかしくて私は思わず吹き出してしまう。

 冷たくて厳しいなんて牧田さんに全然似合わない。

 ―そんな風に思えるのは私がまだ彼のことをこれっぽっちも知らなかったからだろう。全てを知った後ではやはり彼に似合うのは、冬以外にありえないと思えるのだ。

「牧田さんってお仕事が休みの日は何をしてるんですか?」

「佐藤さんと珈琲を飲んでいます」

「そうじゃなくて、家にいるときとか。ほら、本を読んだりゲームしたりとか……」

「天井の木目を眺めていますね」

 なんとなく尋ねたことだが、ずいぶんとおかしな答えが返ってきてしまった。

「天井の木目、ですか。一人で?」

「はい、一人で天井の木目を眺めています。あと柱の板目を数えることもありますよ」

 プライベートに立ち入られたくないがための冗談かと思ったが、牧田さんの顔は大真面目でどうやら本当に一人で天井の木目を眺めているらしい。

「……牧田さんって不思議な人ですね」

「一応なぞなぞの星の住人なので」

「そのなぞなぞの星っていうのもなぞですよね」

 なぞなぞの星について言及しようとするも、いつもにこにこと笑顔だけを返され、はぐらかされてしまう。彼は本当に不思議な人だ。

 またあるときに最近食べたものの話をしていると、牧田さんはこんなことを言っていた。

「僕は普段夜に一食しか食べないんですけどね」

 この時点で普通ではないが、さらに

「最近そばを食べることにハマっていまして、ここ数日はずっと毎朝そばを食べているんです」

 などと言い出す。そばにハマるというところまでは理解できる。しかしなぜ朝にそばを食べるのか。

「今日も朝からそばを食べたんで、元気もりもりなんですよ」

 二の腕を内側に曲げ、上腕二頭筋を強調させるポーズをとって見せる牧田さんの顔はやはり大真面目だ。

 こんな風に不思議で少しおかしな牧田さんの話は、家に帰り一人になったときにふと思い出してみてもやはりおかしくてついつい笑顔になってしまう。

 どうやら彼は優しい言葉を紡ぎ人を肯定する力だけではなく、その天然ともいえる不思議な部分で人を笑顔にさせる力も持ち合わせているようだ。

 やっぱり敵わない、敵わないなぁと、私は彼に会うたびに思わざるを得なかった。

 けれどそんな力を持つ牧田さんの発言の中で、私は一つだけ気にかかるものがあった。

 それは、共に珈琲店を出て途中の交差点までの道を歩いていたときに発された言葉だ。

 横断歩道で信号待ちをしているとき、彼はふと遠くを見つめるような目になり

「僕には友達がいません」

 と言った。言ったというよりもつぶやいたという方が合っているかもしれない。青信号の車道に車は一台も走っておらず辺りはしんとしていた。だからこそ聞き取れた程度の声量だった。

「え?」 

 聞こえなかったわけではなく、その言葉の意味を確かめようとして私は牧田さんの顔を見た。けれど彼はまるでひとりごとのようにつぶやく。

「だから、佐藤さんとは末永く仲良くできたらいいなって思ってるんです」

 私に向けて発せられたであろう言葉だが、彼の心はどこか遠くを見つめたままだった。

 車道の信号が黄色から赤に変わり、歩行者信号が青になる。

「ぜひ、これからもよろしくお願いします。それじゃあ、僕はここで」

 何も言えず立ち止まったままの私に笑顔で手を振り、牧田さんは交差点の向こう側へと消えていく。

 友達がいないと言った時、牧田さんの目には何が映り何を見つめていたのだろう。果てしなく遠い、私には見ることのできない何かを彼は確かに見つめていた。


 ―僕はもう誰とも深く関わるつもりはなかったんだ。

 それなのに、あの日突然目の前で泣き出したあの子を放っておけなかった。まるで過去の(すず)()をみているみたいで……。もう二度とあんな思いはしたくない、あんな思いをするくらいなら僕は一生ひとりきりでいいと思っていたのに。

「なぁ、マスター。近頃の僕はどうかしてるよな、マスターだってそう思うだろ」

「あぁ、おかしいな。でもあの子といるときの圭一くんはなかなかいい顔をしてるぜ? まるで干からびていた屍が水を得て生き返ったみたいだ」

「その言い方はちょっとどうかと思うけどな」

 屍が生き返る、か。言い得て妙だが認めざるを得ない。

 僕は自分が怖い。このままあの子と関わり続けてよいのだろうか。一度殺したはずの心を生き返らせてしまえば、きっとまた怯え続けなければならない。それでも僕はあの子と関わり続けていくつもりなのか?

 怖い、怖くてたまらない。

 あの子が早く元気になって僕の前から姿を消してくれたらどれだけ楽だろうか。

「ああーーーーーー!」

 頭の中がパニックを起こし、僕は力任せに自分の髪の毛を引っ張った。

「圭一、今日はもう帰れ」

 ぞっとするほど低く感情のない声でマスターが言う。

 僕は何も言い返せず、飲んだ分の代金をカウンターに叩きつけるように置き店を出た。

 アルコールが入るとダメだ。

 いくら必死に取り繕っていてもアルコールが入るだけで僕の仮面はあっけなく剥がれ落ち、昔のような弱い人間に戻ってしまう。

 あの子と出会うまではうまくいっていたのに……。くそっ。

 外は雨が降っていて傘もささずに飛び出した僕は、自分の頬が濡れているのが雨のせいなのか泣いているからなのかさえ分からなくなっていた。


 九月下旬になると少しずつ朝晩の気温が下がり、日中でも耐えられないほどの暑さを感じることはほとんどなくなった。

 今日はいつも私が散歩の途中で立ち寄るあの猫のいる公園で、牧田さんと待ち合わせをしている。

 事の発端は私がその公園にいる猫の話をしたことだ。少し前から公園にいる猫と仲良くなり、その日も珈琲店に来る前にその猫に会ってきたのだと話すと、牧田さんはこれまでになく目を輝かせ自分もその猫に会ってみたいと言い出した。

 そして今日、待ち合わせ場所は珈琲店ではなくその公園ということになった。せっかくなので午後少し遅めの時間に待ち合わせて、以前私が話していた日暮れの空も一緒に見ようという話になっている。

 待ち合わせは午後五時。この時期の日の入り時刻は午後五時半から午後六時の間だ。このくらいの時間に待ち合わせれば、ちょうど日が暮れ昼から夜に変わる瞬間に立ち会えるだろう。

 いつもと違う待ち合わせにどこか緊張感を持ちつつ、私は少し早めに公園を訪れた。

 鞄の中には牧田さんに教えてもらったあの小説を忍ばせている。未だ読み始めることはできていないが、最近はお守りのように常に鞄の中に入れ持ち歩いている。

 公園に到着し、猫を探す。いつもなら私が公園に足を踏み入れた途端どこからともなく現れて足元にすり寄ってくるのに、今日は姿が見当たらなかった。

「猫さーん、どこにいますか」

 名前のないその猫を呼んでみる。声が聞こえたら姿を現してくれるかもしれないと思ったからだ。しかし猫が出てくる気配はなかった。

 どこかで事故にあってたりしないよね……。少しずつ胸の内に不安が募る。

「猫さーん、猫さーん」

 私は公園内をぐるぐると歩き回り猫を探した。

「どこに行っちゃったんだろう……」

 募る不安を抑え、もう一度呼んでみる。

「猫さーん」

 すると公園の入り口付近で、はーいと声がした。

 まさか猫が人間の言葉で返事をするはずはない。でも確かに私の呼びかけに対する返事が聞こえた。掴めない状況に速くなる胸の鼓動を感じつつ、私は声のした方を振り向く。すると

「佐藤さん、ここですよ」

 そこには牧田さんの姿があった。そしてその足元にはあの猫の姿が見える。

「あっ! 猫さんここにいたのね、よかった……。どうして牧田さんと?」

 私は牧田さんの足元にいる猫に駆け寄り抱き上げる。猫は喉をごろごろと鳴らし私の頬をぺろっと舐めた。

「僕が迷っていたらこの猫さんがここまで案内してくれたんですよ」

 公園に向かう途中曲がり角を一つ間違えて曲がってしまった牧田さんは、周辺をぐるぐると歩いたがなかなか目的地にたどり着けなかった。そんなとき生垣の隙間から猫が現れ足元にすり寄ったという。もしかしたらこの猫が佐藤さんの言っていた猫かな? そう思った牧田さんは猫の前にしゃがみ込み

「この近くに公園があるそうなのですが、案内していただけませんか?」

 と尋ねたらしい。猫に対しそんな風に真剣に道を尋ねるのはとても牧田さんらしかった。すると猫は彼を誘導するようにどこかへ向かって歩き始め、後をつけるとこの公園にたどり着いたというわけだ。

 私が最初にこの公園に来たときも、この猫に誘導されるように来たことを思い出し、つい猫の目の奥を覗き込んでしまう。君には不思議な力が宿っているのかな?

「名前、つけていないんですね」

 牧田さんにそう言われ、さっきまで一人で猫を捜索していた姿を見られていたことを思い出し恥ずかしくなる。

「なかなか思いつかなくて」

「猫さん、名前ほしいですか?」

 牧田さんが私の腕の中にいる猫に向かって話しかける。すると猫はニャーンと一声鳴き、私の腕の中をすり抜け地面に降りて牧田さんの足にすり寄った。

「名前、ほしいみたいですね」

「ですね」

 私と牧田さんは顔を見合わせ微笑んだ。

 そんな二人の顔に少しずつ傾き始めた太陽の赤い光が差し込む。公園に設置されている時計を見ると、時刻は午後五時二十五分。猫を探しているうちに思いのほか時間が過ぎていたようだ。

 私達はひとまず日暮れの空を見るために公園を出て近くの川原沿いまで歩いた。猫も一緒についてきて、川原沿いにあるベンチに私、猫、牧田さんの順に座った。

「今は夕日に染まってオレンジ色なんですけど、この後少しずつピンクとブルーが混ざったような色になるんです」

 オレンジの光に照らされながら私達は空を見上げる。

 ほどなくして太陽が完全に沈んでしまうと、空では夕焼けが残していったピンクと夜の始まりのブルーが混ざり始める。私はこの瞬間が一番好きだ。

「綺麗だ……」

 夜が空全体を包み込むまで私達は言葉を交わさずに、目の前で美しく色を変え続ける空を眺めていた。

「ニャーン」

 猫の鳴き声で我に返る。辺りはすっかり暗くなり、今私達の顔を照らしているのは人工的な電灯の光だ。

「こんな風に空をゆっくり眺めたのは、ずいぶんと久しぶりな気がします。こんなに美しいものを見せてくれて、ありがとうございます」

 牧田さんはそう言って立ち上がる。

「少し冷えてきましたね。場所を変えましょうか」

「そうですね、あっという間に夜になっちゃいました」

 もうすぐ十月、日が暮れてしまうと少し肌寒い。私達は一度公園に戻り、猫に今度来るときには名前を考えてくるという約束をして、いつもの珈琲店に向かった。

 カランカラン。珈琲店のドアを開けるといつも通りコーヒーの豆を挽いた香ばしい香りに包まれる。

「いらっしゃいませ。今日はずいぶんと遅い時間だね」

「佐藤さんが僕にとても美しいものを見せてくれたんです」

「なんだ圭一くん、顔がにやけているぞ。気持ち悪いな」

 いつもの席に座る。昼間は外を行き交う人々が見える大きな窓。けれど外が暗い今は店の中が反射していて、窓に映るのは私達二人の姿だ。

 こうして暗い時間に来る珈琲店もなんだか落ち着いていいな。

 ふと窓越しに牧田さんと目が合い、私達はくすくすと笑い合う。ちょうどコーヒーを手に私達の席までやってきたマスターはわざと顔にしわを寄せて言う。

「なんだ君たち、ずいぶん仲良くなったみたいだな。あまり店の中でいちゃつかないでくれよ」

「「ご心配なくー」」

 声を揃えて返事をする私達にマスターはさらに顔をしわしわにして戻っていく。

「そういえば、私最近料理をすることにハマっているんです。上手とは言えませんけど」

 私は先週くらいから始めた自炊について話す。

「お恥ずかしながらこれまで母にまかせっきりで料理なんてしたことなかったので、初心者中の初心者ですけど。一人になってからずっとレトルト生活だったので、ちゃんと自分で作れるようにならなきゃなって」

「それはいいことですね。何を作っているんですか?」

「まだレパートリーは少ないんです。でもスーパーのチラシを見たり、レシピの載ったサイトを見たりするのが楽しくて、一つずつ挑戦中です」

 そう伝えると牧田さんは何かを一人で考え始めてしまった。そんな彼の傾げた顔に少しだけ伸びた前髪がかかる。ふと何かに気づいたように牧田さんが顔を上げる。

「佐藤さん、今レシピの載ったサイトを見ると言いましたよね」

 私は状況がよく分からないまま頷く。

「そのサイトに載っているレシピを見て料理を作れたんですよね」

「はい、一応」

「ひょっとすると、佐藤さんはもう本が読めるようになっているのではないですか」

「えっ」

 牧田さんにそう言われ、私も少し考えてみる。数か月前本を読むことができなくなったとき、私は同時にテレビを見ることや新聞を読むこともできなくなっていた。それは恐らく私の中で何かに集中する力や、外から入った情報をかみ砕き自分の頭に落とし込む力が失われていたからだ。

 しかし最近はどうだろう。ポストの中に投函される新聞こそ読もうとせず捨てていたが、その中に挟まっているチラシを見て面白いと感じてはいなかったか。また、ネットの中にある膨大な情報の中から自分が欲しいと思うレシピのサイトを見つけ出し実際に作ってみる行為は、多大な集中力と情報を頭の中に落とし込む力を必要とするのではないか。

 そう考えてみると、私はとっくに本が読めるまで回復しているような気がしてきた。

「表情も一時期よりずいぶん柔らかくなったように感じますし、少しずつ元気になっているのかもしれませんね」

 そう言ってまた穏やかに微笑みかける牧田さんを見ていると、本が読めるかもしれないという思いは、必ず読めるという確信に変わった。

「私、あの公園でいつか読みたいと思って本を持ち歩いていたんです」

 慌てて鞄からあの小説を取り出す。その場でページを開こうと表紙に手をかけたが、それは牧田さんの少し大きくて骨ばった手によって阻止された。

「今じゃなくて、公園で読みましょう」

「でも」

「焦らなくても大丈夫ですよ。また明日一緒にあの公園に行きましょう。そこでゆっくり読めばいいですよ」

 私は言われた通りその場でページを開くことをやめ、本を鞄の中にしまった。

 そして明日も公園で待ち合わせる約束を交わし、それまでに猫の名前もお互い考えようということになった。

 本が読める、そう思うと自然と胸が高鳴り明日になるのが待ち遠しくてたまらなかった。

 けれどその夜布団に入り目を瞑る私の脳裏に浮かぶのは、本の表紙でもあの猫の姿でもなく、牧田さんの少し大きくて骨ばった手ばかりで、なぜか恥ずかしくなってしまった私は布団を頭の上まで引き上げ、誰に見られているわけでもないのに、自分の顔を隠すようにして眠った。


 翌日のお昼を過ぎた頃、私達は再びあの公園で落ち合った。

 時間ぴったりに公園へ行くと、大木の木陰に牧田さんと猫の姿があった。どうやら今日は迷わずにここまで辿り着けたらしい。

 牧田さんの元へ近寄ると、私に気づいた猫が私の足元にすり寄る。

「こんにちは、佐藤さん」

「こんにちは。牧田さんもすっかりこの子と仲良しですね」

 足元の猫をすっと抱き上げる。猫は喉を鳴らし、いつも通り私の頬を舐める。

「佐藤さんには敵いませんよ。そういえば、猫さんの名前考えましたか?」

 昨日私達はこの猫に名前を考えてくる約束をしていた。私は家に帰ってからお風呂に入るときも、ご飯を食べるときもずっと猫の名前について考えていたが、なかなかこれという名前が思いつかず結局候補すらあげられずにいた。

「いろいろ考えたんですけど、この子にぴったりの名前って全然思いつかなくて」

 正直に伝えると、牧田さんはいつもの穏やかな微笑みを見せ、僕もですと言った。

「この子は僕をこの公園まで案内してくれた恩人……恩猫です。それに佐藤さんをずいぶん元気にしてくれたみたいですし。安直な名前じゃなくてきちんとした名前を……と考えていたら夜が明けていました」

 そう言って笑う牧田さんの目元には確かにうっすらと隈が出ている。

 恩猫、か。師匠、先生、勇者、ヒーロー? 恩人という言葉からヒントを得て、偉大そうな言葉をいくつか考えてみる。

「ヒーロー……ヒロ、ヒロ!」

「ヒロ?」

「この子は私達のヒーローなので、ヒロ、とか……」

 自分の提案がなんだか恥ずかしくなり、言葉の最後がしぼんでしまう。ヒーローだからヒロ、それこそ安直な名前だろうか。

「ヒロ! いいですね、素敵です。どうですか、ヒロ」

 意外にも牧田さんは好反応を示し、さっそく猫にその名前で呼びかけた。すると猫は私の腕の中でニャーンと鳴いた。心なしか喉を鳴らす音が大きくなったような気がする。

「気に入ってくれたみたいですね」

 そうして私達をこの公園に導いてくれた猫の名前は、ヒロになった。私達のヒーロー、ヒロ。

 猫の名前が決まり、今日の本題である私が本を読めるかどうかという話題に入る前に、私達は公園内にある自動販売機で飲み物を買った。九月下旬とはいえ、日中はまだまだ暑さが残る。私は冷たいミルクティーを、牧田さんは缶コーヒーを買った。

 そういえば牧田さんがコーヒー以外のものを飲んでいるところを見たことがない。彼はよっぽどコーヒーが好きなのだろう。

 冷たいミルクティーを喉に流し込み一息ついた私は、自ら本題に突入させるために鞄の中から今日読む予定の小説を取り出した。上下巻あるうちの上巻は真っ赤な表紙に黒字で題が記されているのが特徴的だ。

 私と牧田さんの間には、昨日日暮れを眺めていたとき同様二人を見守るようにヒロが座っている。

「ようやくこのときが来ました。もしあの日牧田さんが私を止めてくれなかったら私はきっと永遠に本を失ったままでした。本当に、牧田さんには感謝しています」

 まだ表紙を開いてもいないのに、そんな言葉が口からこぼれる。

「僕は何もしていませんよ。佐藤さんが自分でここまで来たんです。佐藤さんの力です」

 あぁ、この人は本当にどこまでも優しいのだ。敵わない。

 牧田さんとヒロに見守られ、私は小説の表紙に手をかける。

 …………。

 どのくらい時間が経っただろう。気づくと頭上の大木の葉が風に揺れ、それを照らす太陽の角度はずいぶんと傾いたように思う。つい先ほどまで足元から一直線に伸びていたはずの影は今大きく右側に逸れ、私の左側に座っている牧田さんの影が私にかかっていた。

 ゆっくりと息を吐き、小説を閉じる。思わず集中して読んでしまった。手元の小説は百ページほど読み進んでいる。

 牧田さんは退屈していないだろうか。不安になり左を向くと膝にヒロを乗せた牧田さんと目が合った。

「ずいぶん集中して読んでいましたね」

「ごめんなさい、つい」

「いいえ、僕は全然構いませんよ。風が気持ちよくていい時間でした。佐藤さんと過ごしているときは時間がゆっくり穏やかに流れている気がして、僕はそれがけっこう好きなんです」

 ヒロを撫でながらそう言う牧田さんの目は穏やかで温かくて、どこまでも優しい。

「物語冒頭に出てくる野井戸、あれは本当に存在するんでしょうか?」

 小説の中である一人の女の子が野井戸というものを酷く怖がっていた。それは地面にぽっかりと開いている直径一メートルほどの暗く深い穴で、その穴は周辺の草に覆い隠されていてどこにあるのか分からない。女の子はその野井戸という穴にうっかり落ちてしまうことを怖がっていた。

「昔は野井戸が実際に使われていたみたいですね。今も存在しているのかは僕にも分からないです」

 そこまで言うと、牧田さんはふいに遠くを見る目になった。

 彼はときどきこうしてどこか遠くを見つめることがよくある。きっと私には見えない何かを見ているのだろう。

「でも、僕は野井戸は存在すると思います。きっとそれって存在を知らなければ怖くもなんともないんです。でもどこかに必ずあるということを知ってしまった後はもう知る前には戻れない。うっかりそこに落ちてしまわないよう、慎重に慎重に生きていくしかないんです」

「そういうものなんですかね……」

「僕の勝手な想像ですよ」

 どこか遠くを見つめていた目がふいに焦点を取り戻し、彼は笑った。なんでもないです、忘れてください、と。

 牧田さんはいつも何を見ているのだろう。ときおり口にする不思議な言葉達は一体誰を思って紡がれているのだろう。こんなに近くにいるのに、私はまだ牧田さんのことを全然知らない。

 私は急に寂しさを覚え、小説を鞄にしまい話題を変えた。

「来月から大学が始まります。少しずつ、講義に出てみようかなって。そのときになってみないとできるかどうかは分かりませんが、こうして本も読めるようになりましたし、今の私なら大丈夫かな」

「無理だけはしないでくださいね」

「はい。講義にもきちんと出られるようになったら牧田さんに預けていた本、受け取りに行こうかなと思っています」

「僕はいつまででも待ちますので。ゆっくり少しずつ、ね」

 十月はすぐ目の前だ。苦しかった夏が終わる、私の苦しみもきっと終わる。

 ―見え始めた回復の兆しに、このときの私は少し楽観的になっていた。季節が変わると同時に状況も好転していくに違いない、そんな風に考えていた。まさか自分が野井戸に怯えながら再び死と隣り合わせの日々を送ることになるなど知る由もなく。


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