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―拝啓
気まぐれな天気が続きますね。静かで寛大な冬が少しずつ遠のいていく感覚に、心が不安を覚えます。
最後に牧田さんにお会いしてから早三か月が経ちます。いかがお過ごしでしょうか。
私はいつもと変わらず一人で年末年始を過ごし、相変わらず公園の猫を可愛がる毎日です。
実はこの前、出先で偶然牧田さんを見かけました。声をかけようか迷いましたが、あたふたしているうちに見失ってしまったようで。次にどこかで見かけた際には、ご挨拶くらいはできたらいいなと思っています。
時節柄、お風邪など召されませんよう、どうかご自愛ください。またいつか、お会いできる日を楽しみにしています。
なお、お忙しいことと存じますので、お返事はどうかお気遣いなさいませんように。
敬具―
机に向かい、一枚の便箋に一息でそこまで書ききると、私はその便箋を丁寧に折りたたみ封筒に入れた。封筒の裏面に日付を書く。表面には何も書かない。私の手紙はこれで完成なのだ。何度書いてみたところで、今まで一度もポストへ投函できた試しはない。結局引き出しの中にしまわれ劣化していくだけの手紙。だから表面に住所を書いたり、切手を貼ったりする必要はない。
しっかりと糊付けまでし終えると、私はその封筒を机の横に置いてある引き出しの中へと押し込んだ。
これでいい、たとえ手紙がどこにも届かず引き出しの中で朽ちていくとしても、こうして心の中にあるふわふわとした曖昧な気持ちを、便箋に文字という形で綴ること、それが大切なのだ。
学生がテスト勉強で暗記をするときに、ノートに文字をひたすら書くことで覚えるという方法がある。それと同じで、一度自分の手で書き起こした気持ちは長い間覚えていられるが、ふわふわしたまま放置しておくとすぐに雲みたいに掴めないものになってしまう。だから私はこうして手紙を書き、今このときの感情を自分の記憶に焼き付ける。
牧田さんは私の命の恩人だ。
今から三年ほど前、交通事故により私は両親を一度に亡くした。
あまりにも突然にあっけなく死んでしまった二人を前に、私はただ立ち尽くし運命と事故の相手である加害者を呪うことしかできなかった。
当時まだ大学に通っていた私にできることはほとんどなく、葬儀や保険の手続きは母親の姉である伯母が手際よく済ませてくれた。ひとりぼっちになってしまったことに現実感を抱けぬまま、両親は灰になり、多額の保険金だけが手元に残った。
自分でも不思議だが、葬儀の前後三日以外、私は大学の講義を欠席することなく受け続けた。大学に入学が決まったときの両親の嬉しそうな顔が私をそうさせたのだろう。そんな私を薄情だという人も幾人かは存在したはずだ。それでも私は毎日大学に通い、何事もなかったかのように講義室に座っていた。
家の中は私だけの空間となり、しんと静まった空気に寂しさを感じないわけはない。けれど家の中以外の私は何も変わっていないはずだった。講義にもきちんと出席し、友人に声をかけられたらランチを共にすることもある。課題のレポートだって一度たりとも遅れず提出し、今まで通りこれから先も、まるで事故なんてなかったかのように生きていけるはずだった。
そんな中、私が異変を感じたのは事故から二か月ほどが経った五月の中旬。
講義室の窓から見える木々たちはこの季節をどれくらい待ちわびたのだろう。青々とした葉を両手いっぱいに広げ、太陽の光を浴びきらきらと揺れている。
「あぁ、眩しいな」
その日はいつも以上に窓から見える景色を眩しく感じた。きっと夏が近づいているせいで、太陽の光が強くなっているのだろう。いつものように大量のテキストを手に講義室に入ってきた講師は、すでに半そでシャツを着ている。
講義自体はいつもと何ら変わらなかった。講師が一方的にテキストの内容を説明し、私達生徒はそれを座って聴いている。ときおり板書された文字をノートに書き写す。けれど私はその講義中、目の前に開いたノートに文字を書くことをしなかった。正しくは、できなかった。
何が起こったのか自分でも分からない。いつもと同じ席に同じように座っているのに、私自身はいつも通りではない。
講師の話す内容がほとんど理解できなかった。シャーペンを持つ手はいうことを聞かず、まだ書き写せていないまま消されていく板書をただ眺めることしかできない。
そのときはただの体調不良かと思い、あまり深く気にせず午後の講義を自主休講にし、ひとりぼっちの家で横になった。
まだ昼の二時、眠れるはずはなく私は読みかけの小説をベッドまで持ってきて再び横になる。しかし、私は昨日まで読めていたその小説の続きを読むことができなかった。文字ははっきりと読める、読むことはできるが内容を理解することができない。
まるで辛い現実から目を背け続けた体が、ついに何かを考えたり行動を起こしたりすることそのものを拒否し始めているような、そんな感覚だ。
眠れないままぼーっと天井を見つめる私の体は、いつの間にかいくつもの鉛を頑丈な紐で結び付けられてしまったかのように重たく、心には何の感情も浮かばなかった。
その日からの私の生活は、まるで坂道を転がり落ちるかのようだった。
最初の内は講義室に着席し講義を聴いているふりくらいはできていた。しかし、大学までは行けるが講義室に入れない、課題のレポートが作れないといった弊害が少しずつ現れ、それに伴い身体的にも食事が喉を通らなくなり、笑顔を取り繕うことさえできなくなっていった。
「死にたい……」
「消えてしまいたい……」
その頃の私は大学の屋上につくられたテラスの淵から下に見える駐車場のアスファルトを見下ろしては、何度も繰り返しそう呟いていた。
今思えば、あの頃の私は精神的にかなり参っていたのだろう。けれどひとりぼっちの生活を送っている私に、病院へ行った方がよいと助言する者はおらず、着実に死に引き寄せられていた。
牧田さんに出会ったのはそんなとき。
もしあと一週間遅かったら、いや、もしあの日牧田さんが声をかけてくれなかったら、私はすでにこの世に存在していなかっただろう。
私の命はあの日、牧田さんの手によってこの世に繋ぎ止められた。
「あの、これ本当に要らないんですか?」
「はい、要りません」
あれから小説を読むことすらままならなくなった私は、家に置いてあったお気に入りの小説をまとめて近くの本屋に売りに行くことにした。どうせこれから先も読めないのなら、もう本を持っている必要はない。小説を読むことが何より好きだった私にとって、今は本の背表紙を見るだけでも辛かった。
「査定してまいりますので、しばらくお待ちください」
全部で五十冊は超えているであろう本の山を抱え、店員はレジの奥へと消えていった。
昔から本屋に行くことが好きだった。欲しい本を求めて出向くというよりも、休日や学校の帰りにふらっと立ち寄り店内を隅から隅まで見てまわる。特に小説を読むことが好きで、小説のコーナーは毎回念入りにチェックしていた。お気に入りの作家さんの作品はもちろん、これまで読んだことのない作家さんの作品でもあらすじに惹かれたり、表紙の絵に惹かれたり。小説との出会いは運命のようで、その本屋に立ち寄るたび自分の心がぐっと惹かれた本を一冊ずつ買っていたのを覚えている。
私にとって本は大切なパートナーのような存在であったし、本屋はまさに夢の国だった。
けれど、今の私にとってここはもう夢の国ではない。
査定の待ち時間に近くの棚を眺めてみたが、そこに以前のようなきらめきは感じられず、ただ目の前に広がる文字、文字、文字の波に飲み込まれてしまいそうになりすぐに目をそらしてしまった。
神様は私から両親を奪うだけでは物足りず、普通の日常生活や大好きな本までをも奪っていくのか。今の私に生きている意味はあるのだろうか。
「お待たせしました」
受付しておいた番号が呼ばれ、私はレジに戻る。
「あの、これ。本の中に挟まっていました」
そう言い店員は私に一枚の写真を手渡す。
「あっ」
私は思わずその写真を店員の手から奪い取る。
写真に写っていたのは父親と母親、そして私の三人だった。大学に入学が決まったとき、お祝いをしようと両親が連れて行ってくれたレストランで撮られたものだ。三人はそこにある幸せにどこまでも穏やかに微笑んでいる。
「これ、こんなところに……」
私はその写真が一番好きだった。けれど現像してすぐに失くしてしまったのだ。いつでも見られるように常にその写真を持ち歩いていたから、いつしかどこかに置き忘れてしまったのだと思っていた。それが一冊の小説に挟まっていたとは。
「勝手に見てしまってごめんなさい。素敵な家族ですね」
両親が亡くなって以来、二人が写っている写真は意識して見ないようにしてきた。微笑む二人の顔を見たらきっと泣いてしまうし、きっともうひとりぼっちでは生きていけなくなる。
けれどこんな風に今日、一番好きだった写真を目にしてしまった。
写真の中の三人はこんなにも幸せそうに微笑んでいるのに、生きているのは私だけ。もうパパやママに会うことはできない。
心の底から大好きだったパパとママ。いつか私が結婚して家を出るそのときまではずっと一緒にいられると思っていたのに。
どうして、死んでしまったの……。
グラスに注ぎすぎた水のように、一度溢れてしまった感情はとめどなくどっと勢いを増して溢れ続ける。
「お客様、大丈夫ですか? こちらにスタッフルームがありますので」
レジの前で突然涙を流し始めた私に困惑しつつも、店員は店の奥にあるスタッフ専用の小さな部屋へ私を案内してくれた。
街の外れにある小さな本屋だ。スタッフの数も多くないのかその部屋には誰もいなかった。
促されるまま椅子に腰かけた私は、店員に謝ることすら忘れただひたすらに泣いた。
「ここにお水置いておきますね。今の時間他のスタッフが入ってくることはないですから、落ち着くまでゆっくりしていてください」
そう言い残し店員は部屋を出ていった。
普通なら突然泣き出した客をスタッフルームに一人で置き去りになどしないだろう。泣いている客など店から追い出すか、理由を問うのが常識ではないだろうか。
けれどその店員は私に何も聞かず、新しい水のペットボトルとティッシュの箱を残しすぐに部屋を出ていった。その普通では考えられない対応が、今の私には救いだった。
今泣いている理由を問われても頭はパニックに陥っており説明することは不可能だし、気を遣われすぎて他の店員を呼ばれるのも今はしんどかった。一人にしてくれたこと、それが有難かった。
店員の手から奪い取った写真を手に、私は三十分ほど泣き続けた。
迷子になってしまった子供のように、ただ感情のままに泣きじゃくった。ひょっとすると部屋の外に泣いている声が漏れていたかもしれない。
次から次へと溢れていた大粒の涙も少しずつその速度を落とし、しゃくり上げる現象も落ち着いてきた。どんなに悲しくても、どんなに辛くても、涙は必ず止まる。泣き止みが訪れないことは決してない。
涙が止まり、呼吸も落ち着いてきた私は店員が置いていったペットボトルの蓋を開けカラカラになった喉を潤した。そして冷静になった頭で自分の行動を後悔し、今度はその恥ずかしさで泣いてしまいそうになる。
そっと部屋の扉を開けると、廊下に先ほどの店員の姿があり、立ったまま壁にもたれて本を読んでいた。
部屋から出てきた私に気づくと、まるで写真の中の両親のような穏やかな表情でこちらに向き直る。
「落ち着きましたか?」
「はい。突然すみませんでした。ご迷惑を……」
「いえ、お店に来られたときから心配していたんです」
「えっ」
立ち話も何なので、と私と店員は再びスタッフルームに戻り、改めて話をすることにした。
「僕はもう何年もここの本屋で働いているんですけど、あなたはこの本屋によく来られますから顔を覚えてしまって。いつもあまりにも楽しそうに本を選んで買っていかれるので、本はこんなにも人を笑顔にするんだなぁって、僕はあなたから教えてもらったくらいです」
「そうだったんですか」
「でも最近めっきり姿を見なくなって、久しぶりに見かけたと思えば今にも倒れてしまいそうな顔で」
「倒れそう、でしたか?」
「なんていうか、ふっと力を抜いたら後ろに倒れてしまいそうというか、闇に飲み込まれてしまいそうな、そんな表情だったんです。生きているのが精一杯、といったら失礼ですかね」
店員の言葉に私は驚きを隠せなかった。ここ数か月で私の身に起きた出来事をこの人が知っているはずはない。この人は、私がひとりぼっちで抱えていた苦しさを一目で見抜いてしまった。
「それに、あんなに大切そうに買っていた本を要らないから引き取ってほしいなんて。本当に要らなくなっちゃったんですか」
「……」
私は何も言えなかった。
「僕は店員なので、あなたが要らないというのなら引き取らざるを得ません。けれど、何か事情があるのならその、簡単に手放してほしくないなって……。僕の勝手な思いになってしまいますけど」
「本、持って帰ります。今はどうしても読めなくて、視界に入るだけで辛くなってしまうんです。だからいっそ手放してしまおうと」
「事情があるんですね。もしまだ本を好きという気持ちがあるのなら、僕はあなたに本を持っていてほしいです。でも辛い気持ちをそのままにするのもよくないですね。もしよければあなたが本を見ても辛くならなくなるまで僕が本を預かります。またいつか、以前みたいに楽しそうに本を受け取りに来てくれたら、僕はいつまででも大切に預かっておきますから」
あまりにも穏やかで優しい視線と言葉に、私はまた泣き出してしまいそうになる。
この世界にはまだ、こんなにも優しい目をした人がいるんだ。そう思うと私は自分の弱さをさらけ出したくてたまらなくなった。私はもう自分が弱くてもいい、おちこぼれでもまぬけでも恥ずかしくてもなんでもいい。ひとりぼっちでなければそれでいい。どうか私のことを知ってほしい。
両親が亡くなってから一人で抱えていたものは、もう一人では抱えきれないほどに積み重なっていた。それが今日ふとしたきっかけで崩壊してしまい、一人で抱え直すことは到底できそうになかった。そして目の前にいるこの人のあまりにも穏やかで優しい視線に、ふと自分の弱さを預けたくなったのだ。
「あの、この後もお仕事ありますか。もし構わなければ一度だけでいいので、私の話を聞いてくれませんか」
迷うこともなく、私はそう口にしていた。
その後私は彼の仕事が終わるまでスタッフルームで待たせてもらい、彼の行きつけだという珈琲店に案内してもらった。
「改めまして、僕は牧田圭一といいます」
注文したコーヒーが運ばれるまでの間に私達は軽く自己紹介をした。
「私は佐藤凪咲です。突然話を聞いてほしいなんて言い出して、すみませんでした」
「いえ、僕は時間をたくさん持っているので構いませんよ」
相変わらず穏やかな目をした人だ。
「僕はあの本屋でかれこれ七年くらい働いています」
牧田さんという男性は自分の年齢を三十七歳だと言った。私は勝手に二十代後半くらいだと思っていたため、四十が目前のその年齢を聞いて驚きを隠せなかった。まだ二十代だった頃、理由があって以前勤めていた会社を退職しこの街に越してきたという。それからはずっとあの本屋で働いているらしい。
「本、お好きなんですか?」
そう尋ねると牧田さんは、一瞬哀しみの混ざった表情をしたがすぐに穏やかな微笑みで、本が好きな知り合いに影響されたのだと言った。一瞬だけ彼の顔に混ざった哀しみを見逃さなかった私は、それについて深く尋ねることはできなかった。
注文したコーヒーが運ばれてきて、かすかな酸味と香ばしさを織り交ぜたブレンドコーヒーの香りが鼻をくすぐる。父親が大のコーヒー好きで、休日には必ず豆を挽く音が家に響いていたのを思い出す。
止まったはずの涙が再び頬を伝う。
「ごめんなさい、泣くつもりじゃなかったのに」
急いで涙を拭い、私は笑顔を牧田さんに向けた。牧田さんは何も言及せず、微笑みながらコーヒーを一口飲んだ。
その姿を見て、私はようやく決心がつき、自分の身に起きたことを話し始める。
「身内話になるのですが、実は数か月前に事故で両親を亡くしました。私はまだ学生なので葬儀などは全て伯母が取り仕切って済ませてくれたので、実感もわかないまま気づいたら一人になっていて……」
牧田さんは何も言わずに話を聞いている。
「葬儀が終わった後、何か大きく生活が変わることはなかったんです。私は今まで通り大学へ行って講義を受けて家に帰る、それを繰り返していたはずでした。もちろん寂しかったし、悲しかった。でも私にできることは、やるべきことを淡々とこなしていくだけでした。でも、ある頃からやるべきことをこなすことすらできなくなってしまって。他人には理解できないかもしれませんが、本が読めないんです。講義を聴いていても全く頭に入らないし、今では講義室に入ることもできなくて。私どうしちゃったんでしょうね。体が重くて、毎日しんどくて……」
そこまで話し、私は牧田さんの顔を見た。牧田さんは今にも泣きそうな表情をしていた。
「それは辛かったでしょうね。ご両親を亡くされて相当辛かったはずです。それなのに佐藤さんは毎日頑張っていたんですね。えらかったですね」
なんと表現したらよいのだろう。牧田さんの言葉はこれまでの私を全て肯定してくれるようで、えらかったね、その言葉にはただの子供扱いとは違う、寛大な包容力があった。悲しさではなく安心の感情で、私は再び泣いてしまいそうだった。こんな風に心に安心感を覚えたのはいつぶりだろう。
「あんなに楽しそうに本を買っていた佐藤さんが本を読めないというのも、きっと僕なんかには想像もつかないくらいの辛さなんでしょうね。だから本を手放そうと」
「はい、いつ読めるようになるかも分かりませんし。最近は本当に何も楽しいと思えることがなくて。普通に日常生活を送ることさえできないし。本音を言うと、生きているだけでしんどいです」
「そうだったんですね。代われるならそのしんどさ、代わってあげたいくらいです。佐藤さん、本当にしんどそうですもん。無理はしないでくださいね。本はさっき言ったようにいつまででも僕が預かりますから。慌てないで、今はゆっくり休んだ方がいいかもしれません」
「休む?」
「そうです。佐藤さんはずっと一人で頑張ってきて、自分が気づかないうちに少し疲れてしまったのではないでしょうか。僕は学校のことなどあまり詳しく分かりませんが、今は可能な限り自分を休めて、目一杯甘やかしてあげることが大事だと思います」
甘やかす。ただでさえ講義を休みがちな自分をこれ以上甘やかしていいのだろうか。甘やかしてしまえば、私はもっと何もできない人間になってしまうのではないだろうか。
そう考えていると、牧田さんは私の頭の中を読んだかのように、
「甘やかしていいのかなって考えてませんか?」
と言った。私は正直に頷いた。
「頑張ってきた自分を認めてあげてください。佐藤さん自身が自分を褒めてあげるべきではないでしょうか。だって、本当にたくさん頑張ってきたじゃないですか」
この人は突然身内の不幸話を打ち明けてきた人間に対し、どうしてここまで優しい言葉を紡げるのだろうか。どうしてそんなに肯定してくれるのだろう。
ひょっとすると牧田さんは魔法使いかもしれない。
牧田さんと話しているとぼろぼろになっていた心が少しずつ、継ぎ合わせられていくようだった。
「コーヒー、冷めてしまいますよ」
その言葉で我に返る。穏やかな微笑みがそこにあった。
それから私は、牧田さんに様々なことを話した。大学で専攻している分野のこと、お気に入りの小説のこと。本に挟んであった写真のこと。写真を牧田さんの手から奪い取ってしまった謝罪も、もちろんした。牧田さんはどの話題でも変わらず穏やかに頷き、肯定してくれた。
そして私の話が一段落したところで牧田さんはこんな言葉を口にした。
「どうやら佐藤さんは、なぞなぞの星の住人みたいですね」
「なぞなぞの星?」
「えぇ、なぞなぞの星にはあまり多くの人は住んでいないんです。佐藤さんはなぞなぞの星の貴重な住人のようです」
突然出てきた聞き覚えのない言葉に戸惑う私に、牧田さんはそのなぞなぞの星のことを少しだけ教えてくれた。
なぞなぞの星には少し世間と考え方が違っている不思議な人や感受性の強い人、一般の人からするとなぞだなぁと思うようなところのある人が住んでいるのだと言う。
「でも佐藤さんがヘンって意味ではないですよ。なぞなぞの星の人はなぞですけど、不思議で魅力的な人が多いんです。その分生きづらさも抱えているようですけどね」
そして自分自身もその星の住人なのだと言う。その日、それ以上なぞなぞの星について牧田さんが何かを語ることはなかった。
「今日はありがとうございました」
珈琲店を出て、牧田さんにお礼を伝える。ずいぶん久しぶりに人とたくさん喋った気がする。涙を流したおかげか彼に多くのことを肯定してもらったおかげか、心がほんのり熱を持っているようだった。
「こちらこそ、佐藤さんのこと知れてよかったです。本は大切に保管しておきますから、ゆっくり休んでくださいね」
別れ際に、もし本が読めるようになったらという前置きをしたうえで、牧田さんは私に読んでほしい本がある、と一冊の小説のタイトルを教えてくれた。
「今の佐藤さんにぴったりかなと思うんです」
いろんな感情がまた一人で抱えきれなくなる前にまた本屋へ来てくれたらいつでも話を聞きます、と牧田さんが言い、私達は別れた。
「佐藤さん、これから末永くよろしくお願いします」
「はい、ありがとうございます」
珈琲店で牧田さんに自分の弱さをさらけ出した帰り道、私は牧田さんが教えてくれた小説を購入するために一駅先の本屋まで足を運んだ。地元の本屋で買えばよい話だが、そうなると牧田さんが働いているあの本屋に再び立ち寄ることになってしまう。それはなんだか少し恥ずかしい気がして、わざわざ遠い本屋まで行くことにした。
「えっと、確かタイトルは……あった!」
牧田さんが教えてくれた小説はあまりにも表紙のインパクトが強く、すぐに見つけることができた。上下巻に分かれており、それぞれが深い赤色と深い緑色で塗りつぶされている。それを一冊ずつ手に取り私はレジに向かった。
レジに並びながら、私はふと考える。本が読めなくなり目にすることさえ辛いから、牧田さんに預かってもらうというのに、さっそく新しい本を買っているなんて矛盾しすぎだ。我ながらその矛盾した行動に呆れ、思わず苦い笑みがこぼれた。
家に帰り着く。あたりまえだが私以外に住人のいない家は、真っ暗で物音一つしない。電気を点け上着を脱ぎ、ソファに座る。手にしている本屋の袋のことを思い出し、買ったばかりの小説を取り出す。
物は試しだと上巻の一ページ目を開く。読める、文字は読める。けれどやはり、まだそれを文章としてきちんと頭に落とし込む力は戻っていない。
分かっていた、突然そこまで回復したのでは今まで何を悩んでいたのかという話になる。それでも多少の落胆を残し、私は表紙を閉じた。そして二冊まとめて机の横にある引き出しにしまった。牧田さんが小説の中からみつけてくれたあの写真も一緒に。
次にこの引き出しを開けるときには、きっと何もかも元通りになっていますように。
おまじないをかけるように心でそうつぶやき、引き出しを閉める。
今日はいろんなことがあった。昼にこの家を出るときには本をたくさん詰め込んだ大きな袋を両手に抱えていた。もう二度と読むことはない、そう思っていた。なのに、帰ってきたときには新しい本を持っていた。自分で考えても不思議な一日だった。
牧田さんのことはまだよく分からない。けれど彼に話を聞いてもらい、肯定してもらったおかげでずいぶんと心は軽くなっている。それは確かなことだ。きっと牧田さんは優しくてお人好しで、他人の悲しみや苦労まで一緒に背負ってしまう、そんな人なんじゃないかな。だって、私の話を聞いている間、私よりも牧田さんの方が悲しそうな顔をしていたんだもの。そんなに真摯に人の話を聞いていたら、普通すぐに疲れてしまいそうなのに。
なんだか今日は疲れたな……。遠くの本屋までいったせいだろうか。
ふいに襲ってきた睡魔に抵抗することもなく、私はソファに座ったまま眠り込んでしまう。
その日見た夢は、酷く残虐的でどこまでも生々しさをまとったものだった。夢だと分かっても尚、体がこわばってしまうほどに。
―私は一人でどこまでも続く高速道路を歩いていた。空は赤黒く、昼なのか夜なのか全く判別がつかない。アスファルトを踏んでいるはずなのに、足元はふわふわとしていて安定しない。どうしてだろう、そう思い足元に目をやった私は思わず叫び声を上げる。
私の足元には幾重にも積み重なった人間の姿があった。それらは衣類をまとっておらず、皆揃って裸で体は血にまみれ空と同じ赤黒い色をしている。死んでいるのだ。アスファルトの上を歩いていると思っていた私は、全身から血を流し死んでいる人間の上を歩いていた。
そしてそれは道路を埋め尽くし、はるか向こうまで続いている。
「うわぁああああ」
もう一度叫んだ私は、足元に転がる死体に手を伸ばし、その体をつかむ。ぐちゃっという音がし、肉がえぐれる感触が伝わる。そんなこともおかまいなしで私はその死体をつかみ上げ、一体、また一体と次々に投げ始める。遠くへ投げようとするがうまく投げられず、すぐ目の前にぐちゅ、ぐちゅ、と落ちていく。生きているのは私だけのようだ。投げても投げても地面が見えないほどに積み重なった死体。
ついに私は死体の山にしゃがみこみ、栓が外れたように泣きわめいた。
「パパ! ママ! 怖いよ、助けて」
ハッと目を覚ますと電気がついたままの天井が目に入る。次に自分の荒い呼吸音が耳に入り、さっきまで見ていたものは夢だったと理解する。なんて酷い夢を見てしまったのだろう。手の中には死体をつかんだあの生々しい感触がまだ残っているようで、吐き気がした。
時計で時刻を確認すると午前三時、どうやらあのまま四時間ほど眠ってしまっていたようだ。生々しい感触の残る手を洗いたくなり、ソファから立ち上がり洗面所に向かった。手を洗いながら鏡で自分の顔を見て驚く。頬には幾筋もの涙の痕がついていた。そうして私は夢を見ながら実際に涙を流していたことを知る。
夢の中でも両親を求め、呼んでいた。現実世界ではもう二度と会えないのだから、せめて夢の中でくらい両親に会わせてくれたっていいのに。
牧田さんと話をして少し軽くなっていた心がまた深く沈んでいく。それと同時に忘れかけていた、体に鉛が結び付けられたような重さも再び戻ってきて、思わずため息が漏れる。
「……しんどいな」
シャワーを浴びる気力はなかった。せめて服を着替えねばと衣類ケースの前まで行くが、パジャマをケースの中から選び出すことさえしんどくなってしまい、出かけたままの服装で布団に横になった。もう、今日は眠ってしまおう。どうか、夢を見ませんように。
翌日の目覚めは最悪だった。恐ろしい夢こそ見なかったが疲れは全く取れておらず、むしろ眠っている間に余計に疲れが溜まったように思えた。体が重い、頭もぼーっとする。
牧田さんは魔法使いなんかじゃなかった。昨日あんなに心と体が軽くなったように感じたのは、自分の話を聞いてもらい、全て肯定してもらったことにきっと浮かれていたのだ。馬鹿……。なんて馬鹿なんだろう。彼は彼の持つ優しさで肯定してくれただけなのに、まるで自分が認められたかのように錯覚し、浮かれて本まで買って。ろくに講義にも出ていないくせに浮かれた罰であんな夢を見たに違いない。私は本当にダメだ。
重たい体を引きずり私はベッドから這い出て机まで行くと、思い切り机に頭を打ち付けた。ゴン、ゴンと鈍い音がした。
ゴン、「私は本当にダメな人間だ」
ゴン、「死んでしまえ」
ゴン、「消えろ、消えろ」
ゴン、「私がダメな人間だから神様がパパとママを死なせたんだ」
ゴン、「消えて……消えてよ……」
何度も何度も打ち付けた。心の底から死にたいと思った。昨日の反動か今日は一段と体調がよくない。
けれど家の中には私一人、ひとりぼっちだ。誰も私の行動を止めることはできない。
いつのまにか目には涙が溜まり、視界がぼやけていた。それでも私は机に自分の頭を打ち付けることを止めなかった。こうするほかにどうしようもなかったのだ。
消えたい、死にたいと願う頭の中に、その具体的な方法が浮かばなかったことが唯一の救いだった。
目が覚めると見覚えのない真っ白な天井と、馴染みのない薬品のような匂いがした。
ここはどこだろう……。
横になっていた体を起こそうとすると、頭に鈍い痛みが走った。
「痛い……」
その声で私が目を覚ましたことに気が付いたのだろう、ベッドのすぐ脇に置かれた椅子に座っていた女性が、はっとした様子で立ち上がる。その女性はよく見ると私の伯母だった。
「伯母さん、どうして?」
伯母は私の顔を見て眉を動かし、今にも泣きそうな表情をした。
「凪咲ちゃん、ごめんなさい」
突然の謝罪に私は状況を理解できなかった。
確か、朝起きて体調が最悪だった私は死にたいという思いのままに机に頭を打ち付け続けていた、そこまでは覚えている。でもどうして伯母さんが? それにここは病院?
伯母に説明を求めると、経緯はこうだった。偶然私の家の近くで用事があった伯母は、その用事を終えた後、しばらく会っていなかった私の様子が気になり突然であることを承知で訪ねてみようと思ったと言う。葬儀が終わり様々な手続きが終わった後からしばらく会っていなかったため、少し心配もあった。ところが呼び鈴を押しても一向に反応がない。私の携帯電話に電話をかけると家の中から音が聞こえる。不安を感じた伯母が思わず玄関の扉に手をかけると鍵は開いていて中に入ることができた。
そこで目にしたのはあまりにも散らかった部屋と、額から血を流し倒れている私の姿だった。
そして、伯母が呼んだ救急車によって私はこの病院まで搬送されてきたというわけだ。
「凪咲ちゃんその額の傷、自分でやったんでしょう」
すぐに事態を察した伯母は、私が転んで頭を打ったと救急隊員に伝えたと言う。
「自分でやったなんて、知られたくないでしょう。このことは誰にも言わないでおくわ。でも明日きちんと検査を受けるのよ。額の傷は大したことなかったみたいだけど、脳の中までは分からないからね」
「はい……。でもどうして私が自分でしたことだって分かったんですか?」
すると伯母は遠くを見るように目を細め、私の頭に優しく触れた。母親に撫でられているような錯覚に陥る。
「奈々子は、あなたのお母さんは昔から少し心が弱かったの。感受性が強かったのね。私だったら笑って済ませるようなことにも真剣になって悩んだり泣いたりしていたわ。ちょうどあなたくらいの年齢だったかしら、一時期うんと弱っていたあの子は一人で思い詰めてあなたと同じことをしたのよ」
初めて知る母の過去、私は伯母の話に聞き入った。
「あの頃はいつかふらっと奈々子がこの世からいなくなってしまうんじゃないかって、私いつも怖かったのよ。でもね、あなたのお母さんはあなたのお父さんと出会い、みるみる回復していったのよ。あの人と一緒にいると心が安定するんだっていつも言っていたわ。そしてあなたを産んだ。そのことであの子はさらに強くなったの。私はこの子を守るんだ、私が強くなくてどうするって」
もう会うことのできない母の姿が脳裏に浮かぶ。母はまだ赤ん坊の私を抱き清らかに微笑んでいる。決してこの目で見たわけではないのに、その姿は昨日見たかのように鮮明に浮かんだ。
「あなたが生まれてくれたことで、あの子はずいぶん強くなった。あなたを心の底から愛していたんでしょうね。だから私はもう奈々子がいなくなるなんて不安は抱かなくなった。なのに、まさか事故なんてね……やりきれないわよね」
伯母の目にはいつの間にか涙が溜まっていた。
私が倒れているのを見つけたとき、私の目から涙がこぼれていることに気づいた伯母はすぐに事の経緯を理解したのだという。妹の姿が重なって見えたから。
そしてこれまで私を一人にしていたことを悔やんだ。
「凪咲ちゃん辛かったわよね。寂しかったわよね。すぐに気づいてあげられなくてごめんなさい。一人にしてごめんなさい」
伯母は目に溜まった涙を頬にこぼしながら謝る。けれど葬儀の後、伯母は一緒に住まないかと提案をしてくれていたのだ。それを断り自ら一人になることを選んだのは私なのに。
一人でも生きていけると思っていた。今までと何も変わらず私は大学で勉強を続けるだけ、そう思っていたのに。
「私がうまく生きられなかっただけなの、伯母さんは何も悪くないの」
申し訳なさと自分の惨めさに私の目からも涙が溢れる。なんだか最近泣いてばかりだ。
その後しばらく私と伯母は二人で静かに泣いた。葬儀で泣けなかった分までたっぷりと涙を流した。そして私が一人になってからの生活のこと、だんだんと自分がおかしくなっていったことを全て伯母に話した。この人は私の母親のことを、妹のことをとても大切に思っていたのだろう。先ほど聞かされた話からその気持ちが十分に伝わってきた。だからこそ、私は安心して自分のことを話せたのだと思う。
話を聞き終えた伯母は私に二つの提案をしてくれた。
一つは心療内科を受診すること。両親を亡くした傷は自分で思っているよりもずっと深いようで、自力ではその傷を埋めていくことができなくなっていることに加え、母親の遺伝で自律神経がもともと強くないかもしれない。無理にとは言わないが一度受診してみてはどうかと伯母は提案してくれた。その際には母親が昔通っていた心療内科を紹介すると言ってくれた。
もう一つは伯父母と同居をすること。二人に子供はおらず一頭のゴールデンレトリバーと夫婦で暮らしている。伯父母の家は少し遠いところにあるが大学まで通えない距離ではない。凪咲ちゃんが嫌でなければ私達は大歓迎よ、と言ってくれた。
私は一つ目の提案はその場で受け入れ、二つ目についてはもう少し考えたいと返事をした。
伯母は快く了承してくれ、ゆっくり考えたらいいと言ってくれた。ただし体調が優れないときはすぐに連絡をすることを約束にして。
翌日私はCT検査を受け何も異常が見られなかったため退院となった。伯母に付き添われ病院を出る。
体調に異変を感じ始めたとき、季節は新緑が芽生え木々が豊かに葉を揺らす五月中旬だった。気が付くとすでに七月に入っており、陽射しはぐっと強く、立っているだけで汗ばんでしまいそうだ。
病院の前に作られた公園には小さな噴水があり、子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
「伯母さん、いろいろとお世話になりました。たくさん迷惑かけちゃいましたね」
「いいのよ、凪咲ちゃんが元気で笑っていてくれたらそれだけで十分よ。帰ったらしっかり水分摂って、疲れただろうからゆっくり休むのよ。絶対に無理をしないこと」
まるで母親のようだ。そんな伯母を見ていると思わず笑みがこぼれてしまう。
くすくす笑う私を見て伯母は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに微笑み優しく私の頭を撫でてくれた。髪を指ですくその優しい感触に私は目を瞑る。幼い頃母親はよく私の頭をこうして撫でてくれた。凪咲に嬉しいことがたくさんありますように、いつもそう言って私におまじないをかけてくれていたのだ。
切なくもどこか心地よい懐かしさをしばし堪能し、私は再度伯母にお礼を伝え別れた。
私を心から愛してくれていたパパとママにはもう会えないけれど、私の周りにはこんなにも温かく優しい人達がいる。それだけで十分幸せじゃないか。
信号待ちをしながら一人微笑む。胸に浮かんだ温かく優しい人達……その中にはしっかりと牧田さんも含まれていることに気づき、いつか体調がよくなり牧田さんの元へ本を受け取りに行く日を思い浮かべた。
伯母に教えてもらった心療内科をきちんと受診しよう、そしてまた牧田さんの本屋へ行こう。
大丈夫、少しずつゆっくり進もう。今は温かく優しい人達に甘えよう、きっとそれが回復への近道だ。私は自分で思っていたよりもたくさんの人に愛され生まれ、たくさんの愛情を注がれて育った。だから、きっと大丈夫。
数日後、私は伯母に紹介してもらった心療内科を受診した。伯母は仕事を休み自分が付き添いたいと言ってくれたが、そこまで迷惑をかけるわけにはいかない。申し出を丁寧に断り一人で出向くことにした。
初めて行く場所に胸はドクドクと心拍数を上げ、緊張で冷や汗が出てしまいそうなほどだった。けれど教えてもらった住所にたどり着くとそこは小さな個人経営の診療所といった風で、医師が一人と数名の看護師のみで経営をしている診療所だった。
診察室に入ると大きな銀縁眼鏡をかけた優しそうな先生が私を迎えてくれた。確かなことは分からないが、ぱっと見た感じ六十歳を超えているのではないだろうか。かつて若かった母がここへ通っていたときにもきっとこの先生が診ていたのだろう。
診察室で私は、伯母に話したように両親が亡くなってからのことを一つずつゆっくりと話した。何度話しても両親を思い出す行為は辛い。途中言葉に詰まり思わず涙を流してしまったときにも、その先生は次の言葉を焦らせることなく頷きながら最後まで話を聞いてくれた。そして次にいくつかの質問をされ、それに答えていく。それらを総合的に判断し先生は私に一つの病名をつけてくれた。そして少ししわがれた声でこう言った。
「佐藤さんはね、今この病気にかかってしまっているんだよ。だから日常生活がうまく送れないのも、大好きな本が読めないのも全てこの病気のせいなんだ。佐藤さんが自力でどうこうできることじゃない。だから今はゆっくり休んで病気を治すことが何より大切だよ」
「風邪をひいたとき、思うように動けないのは体が怠けているからだなんて無理に鍛え直したりせず、まず体に休息と栄養を与えるでしょう。それと同じでこの病気の場合は心に十分な休息と栄養が必要なんだよ」
以前牧田さんに言われたことと同じ言葉だった。今はゆっくり休むことが大切。
「決して自分を責めないで、今はやれること、やりたいことをやっていればいいんだよ」
先生のその言葉は私の心に深く染み込んでいった。
次回の診察予約と今日から服用する薬をもらい私は小さな診療所を後にした。
初めて服用する薬の副作用か、その日はいつもより眠気が強く軽い夕飯を食べた後私は早めに就寝した。恐ろしい夢を見ることはなかった。
数日間は薬の副作用が出やすいと先生から聞いていたが、飲み始めたばかりの頃は強い眠気と若干の嘔気が続き、ほとんどの時間を家でじっと過ごしていた。それも一週間を過ぎる頃には徐々に治まり、よく晴れた日の午後ふいに思い立ち牧田さんが働いている本屋に向かうことにした。救急車で運ばれたことを話せば余計な心配をさせてしまうだろう、それに自ら机に頭を打ち付けるなんて引かれてしまうかもしれない。でも伯母とゆっくり話したことや診療所に通い始めたことは話してみようかな。そんなことを考えながら私は家を出た。