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外伝 わがまま陛下と龍神 物語の本当の終わり

本編でお気付きになった方もいらっしゃると思いますが、子供たちの両親は景華と柳鏡です。この話は、この二人があの後どのようにして結婚するまでに至ったか、という物です。本編の読後感を大切にして下さっている読者の方がいらっしゃいましたら、ご遠慮下さい。

夜中、柳鏡リュウキョウはふと空を見上げた。一年前と同じように、彼は景華キョウカの部屋の戸口を守っていた。そして、その部屋の戸口を静かにくぐる……。彼女は、安らかな寝息を立てていた。見慣れた、寝顔……。そしてその髪に、そっと触れた。深緑の柔らかい髪は、彼の冷えた指先に心地良い……。そっと屈みこんだ柳鏡の唇が、彼女の額に触れた。そして……。

「……。」

もう一度ゆっくりと彼女の顔を眺めて、彼は踵を返した。決して、彼女の方を振り返ろうとはしない……。渡り廊下に出た彼の頬に、一筋の光が流れた。


景華はふと目を覚ました。暗闇に慣れられるように、彼女は明かりをつけて眠る習慣を改善しようとしていた。それでも、やはり暗闇は恐ろしい……。何者かが、息を潜めて彼女を狙っているかのような錯覚に囚われる……。

「柳鏡……?」

廊下にいてくれるはずの、彼の名を呼ぶ……。返答は、ない。近くにいてくれるはずなのだから、今の声の大きさでも十分に聞こえるはずだ。もしかしたら、疲れて眠っているのかもしれない……。嫌な予感がする……。ヒヤリとした床に、足をつける。そして、渡り廊下に続く戸を開けた……。

「柳鏡……?」

彼の名を呼んでみるが、やはり、返答はない……。

「柳鏡っ……!」

廊下を見渡す……。彼の姿は、どこにもない。そこで、確信する……。彼女の体から力が抜けて、床に膝をつく……。空気の冷たさが、彼女のその身に染みる……。

「どこ行っちゃったのよっ……?」

真紅の瞳から、滴がこぼれそうになる。彼は、約束を守ったのだ。行く時は何も言わずに行くという、約束……。彼女はぐっと、こぼれそうになった物を飲み込んだ。そして、力が抜けてしまったその体を奮い立たせる。泣く前に、自分がするべきことがあるはずだ……。

「探さなきゃ!」

寝巻に上掛けを羽織って、彼女は自分の部屋を飛び出した。彼を、失いたくない。その一心で……。

はやて!お願い、一緒に柳鏡を探して!」

厩舎に飛び込んで、あの馬に飛び乗る。彼女の言葉が理解できたのかどうかはわからないが、そのとたんに颯はものすごい勢いで駆け出した。乗馬には大分慣れた彼女でも、振り落とされそうになる……。

「お願い颯!急いで!」

彼の行き先を、知っている訳ではない。しかし彼女の脳裏に、ある場所が浮かんだ。確信はない。それでも、その場所を目指して、駆ける……。颯は、一年前のように壊れた城壁の上を飛び越えた。


秋の空気は、冷たい。ましてや夜の空気は、なおさら……。彼の心を温めてくれる少女ひとは、もういない。最後に、眠っている彼女に別れを告げて来た。約束通り、何も言わずに……。

「自分で言ったくせに、怒るだろうな。あのわがまま姫は……。」

泉が見えた。彼が龍神の紋章を解放してから、飛翔するならここで、と密かに決めてあった場所……。一年前に、彼女に水を飲ませようとして拒絶された、あの場所……。彼を最後に見送ってくれるのは、ほろ苦い思い出の方が良い……。その方が、決心が鈍るようなことがないだろうから。乗って来た馬から降りて、彼を離してやる。彼は、勝手に走って行った。

「さてと……。青龍の召喚とやらを行うか……。」

そう言って、左腕を捲る。それから、その腕に巻かれた包帯を解いた。くっきりと刻まれた青い紋章と、青銀の鱗……。自分の腕だとしても、見る度に悪寒が走る。彼女は、そんな腕の自分でも受け入れてくれた……。深緑の髪が、意識の隅にちらつく。ダメなんだ。彼女は、俺のものにはできない……。

「確か、紋章に触れて呪文を唱える、だったか?随分とお手軽だな……。本当にそれで大丈夫なのかよ?」

彼の悪態に反応を示してくれる者は、一人もいない。彼女なら、ほら、文句言わないの!と言っただろう。真紅の瞳が思い出されて、胸が苦しい……。人でなくなろうとしているこの瞬間にも、思い返すのは、考えるのは彼女のことばかり……。

「洗脳されてるみてえだな……。馬鹿だな、俺……。」

自分から、彼女を離れたくせに。望んだ訳ではないが、それが彼女の幸福のためなのだ。自分の存在は、彼女の存在を害するように運命付けられている……。そして、その逆も……。暗い思考を振り切って、彼は息を吸い込んだ。青龍の力で龍神になれば、もう、苦しむこともないだろう……。

「我、龍神の紋章を持つ者なり……。ここに東方の守護神、青龍を召喚す……。」

辺り一面が、青白い光に包まれた。真昼の太陽よりも眩しく思える程の、輝き……。もしも彼女が城からこれを見れば、気付くだろう。いや、もしかしたら自分の不在で気が付くかもしれない……。そして、帰らない自分をいつまでも待ち続けてくれるのだろう。約束通り、何も言わずに離れたのだから……。

「柳鏡!」

城に残して来た、愛おしい声。その時になって、気が付く……。あぁ、自分は。最後に彼女が自分を呼ぶ幻聴が聞こえる程、本当に強く、彼女を想っていたのだと……。

「柳鏡!」

ハッとする。背中から、細い腕が回される……。まさか、そんなはずはない。彼女が自分を追いかけて来るなんて、そんなこと……。肩越しに、後ろを振り返る……。

「っ……!」

最初に目に入ったのは、深緑の髪。その柔らかさは、彼の凍えた心に温かい……。そして次に目に入ったのは、龍神の華の、真紅の瞳……。そして。

「やだ!龍神なんかになっちゃダメ!」

相変わらずの、わがまま……。今度は、体ごと振り返る。彼女の細い腕は一度解かれたが、今度は彼の正面から、再び折れそうな腕がその体に回される。非力な彼女が、精一杯の力を込めて……。

「あんた、どうして来たんだよっ?何も言うなって言ったの、あんただろっ?」

必死で彼女を振り払おうとする。決心が、鈍ってしまうから……。それでも、彼女は離れようとしない。

「前言撤回!何があっても、一緒にいてくれなくちゃダメ!」

小さな肩が、震える……。彼女は、最後の最後に約束を破った。

「一人ぼっちに、しないでよぉ……。柳鏡がいてくれないと、ひとりぼっち……。」

この一年間で、彼女は多くのものを失った。残っていたのは、彼だけ……。光が収まって、青い長大な龍がその姿を泉の上に現した。その場にいるだけで相手を圧倒するほどの、強い霊気……。

「私を呼んだのはお前か?龍神の紋章、栄光への権利を与えられた者よ。」

柳鏡が景華からすっと離れて、その前に跪く……。景華は、茫然とその場に立ち尽くした。彼が、自分から離れて行く……。

「はい。私があなたを召喚いたしました……。」

冷たい言葉が、景華の耳に遠く響く……。膝から力が抜けて、ガクン、とその場に座り込む。彼は、本当に行ってしまうのだろうか?彼女を、一人にして……。

「お前は試練を乗り越え、昇龍の資格を得た。この世に、何も未練はないな……?」

「…………はい……。」

かなり迷ってから、それでもそう答える。彼の未練は、たとえこの世に残ったとしても、永遠にそれが叶えられることはない……。彼女とは、結ばれないように運命付けられているのだから……。左腕の紋章から、淡い光が発せられる。彼の腕と同じ、青銀の色……。

「柳鏡!行かないでよ!ダメっ!」

青龍の霊気でその場に足が縫い止められてしまっているのだろう、彼女は駆け寄ろうとはせず、その場所から彼を見つめた。最後に想いを告げること位、許されるだろうか……?

「……泣くなよ。俺、あんたの笑った顔が好きだった。ガキの頃からずっと、自分でもアホかと思う位、あんたに夢中だった……。」

淡い光が、彼の体を包みだす……。彼女が激しく首を横に振った。聞きたくない、ということだ。それでも、伝えたい……。

「あんたが、ずっと好きだった……。」

景華が顔を上げた。今更聞く、彼の本音……。でも、それなら。

「それなら一緒にいてっ!一人にしないでっ!私っ……!」

理由も、話しておこうか……。この速度でなら、まだ龍神になれるまではかなり時間がかかりそうだ。そばにいられない、理由も……。

「龍神の華、の話は、覚えているか?」

泣きじゃくる彼女が、辛うじて頷く。それに安心して、続きを話す。

「それ、あんたのことだそうだ。あんたみたいな、真紅のあかい目をしている奴……。俺たちは、互いに害し合う存在らしい。あんたが生きれば俺が死に、俺が生きればあんたが死ぬ……。」

言葉を切る。何も聞きたくない、と彼女が首を振る。現実は残酷だが、自分の心に偽りがなかったことを証明するために、話さねば……。

「だから、俺はあんたを離れる。あんたが大事だから離れるんだ、誤解するなよ……。」

「……でもいい……。」

「は……?」

泣きじゃくる彼女の声は、かなり聞き取り辛い。必死で、彼女の声を拾おうとする……。

「それでもいい!一緒にいてくれるなら、なんでもいい!私が大事なら、戻って!」

めちゃくちゃな論理。いかにもわがままな彼女らしいが、困る……。

「そんなこと位で柳鏡を諦められる程、聞き分けが良い子じゃないわ、私!だって、わがままだもの!」

その言葉に、笑みがこぼれる。そして、心が揺さぶられる……。

「それに柳鏡がいなくなったら私、今すぐ死んじゃう!柳鏡がいないなら、生きている意味もないもの!」

本当に、彼女は無茶苦茶だ。自分がいなくても彼女は国王として生きなければならないのに、平気でそんなことを言う……。涙で顔をクシャクシャにして、小さな肩をこれ以上はないという程大きく震わせて……。それでも彼女は懸命に、怒鳴る。

「戻って!……戻りなさい、柳鏡!好きなら私を置いて行くなっ!」

深緑の瞳が、見開かれる……。青銀の光に預けられていた彼の体が、心が動いた。そのまま、彼女の体を包み込む。強い腕、近い吐息……。

「あんた、どこまでわがままなんだよ……?」

彼の顔を見上げる。深緑の瞳が、近い。寒さと霊気で白くなる吐息が、かかる……。

「柳鏡が一緒にいてくれるなら、どこまででもわがままになる!」

苦しい位の、抱擁。乱暴で、力加減なんて全くされていない。それが、嬉しい……。彼が纏っていた青銀の光が、左腕の紋章の中に治まって行く……。

「それがお前の答えか、柳鏡?龍神の紋章を持つ者よ……。」

青龍が、重く言葉を発する。彼女とともに滅びを選ぶのか、という意味……。

「はい。永遠の命も、巨万の富も……。」

柳鏡が、顔を上げる。その腕に、最愛の華を抱き締めたまま……。

「彼女と過ごす一瞬に比べれば、何の価値もない。」

青龍が、一度咆哮と思しきものを上げた。それから、次の言葉を紡ぐ。

「愚かなり、人の子……。短い生涯を、なぜ選ぶ?」

確信に満ちた声で、柳鏡が告げる。

「それが……人、だからです……。」

青龍が黙り込んだ。どうやら、彼の完敗のようだ……。その体を大きくくねらせて、体勢を変える。

「それがお前の結論ならば、それも良い。龍神の華と龍神が結ばれたことは、未だ嘗てない……。もしかすると、二つにはまだ知られていない別の関係があるやもしれぬな……。」

そしてその青く透き通った瞳で、景華を見つめる。身をすくませた彼女を、柳鏡が庇う。その様子が、青龍には腹立たしい。

「またしても龍神の華は、紋章を持つ者の昇龍を妨げるのか……。」

そう言い残して、空へと昇る……。その姿は月明かりに紛れて、消えた。柳鏡が、おかしそうに笑い声を上げる。

「神様でも捨て台詞って吐くものなんだな……。」

冷たい左手が、景華の頬を包む。そして彼女の額に自分の額をコツンとぶつけて、彼が止まった。

「さあ、困った。俺は、まだあんたの返事を聞いていないんだが……。」

いつもと変わらない、景華に意地悪をする時に独特の口調。景華の頬が、見る間に赤くなった。

「な、そんなことっ、今更……。」

「ほぅ、俺には今更・・あんなことを言わせておいて、自分は逃げるのか。大した根性だな……。」

意地の悪い、唇を吊り上げる笑い方……。勝手に言ってくれたくせに、と景華は心の中で反論する。

「さて、困ったな。あんたの返事を聞かないと、続きができないんだが……。このままここにいるのも良くないよな、女王陛下?あんた、どうせ無断で城を抜け出して来たんだろう?」

「う……。」

景華が返答に詰まる。顔が近い。息がかかる……。もう、この際だ。

「残念でした!柳鏡なんか、大っ嫌い!」

そう言って舌を出して見せる。その両頬が、つねられた。そのまま、両方に持ってかれる……。

「どの口がそんなこと言うんだ?この口か?引っ張ったら素直になるか?」

「ふぁふぁふぁひ!」

ならない!と抗議の声を上げる。つねられた両頬は、ようやく放してもらえた。自分の手で、それを包む。

「暴力反対ー!」

「アホ、今のはかわいがってやっている、って言うんだ。人聞き悪いな。」

むぅっとむくれて見せる。彼が、優しく笑う。それだけで、景華の膨らんだ頬は元通りになってしまう……。

「帰るか。あんたが乗って来たの、颯だろ?俺の馬は逃がしたから、二人乗りだな。」

「やだー!柳鏡みたいな変態とは二人乗りできないー!」

彼の優しい笑顔が、とげのあるものに変わった。まずい、と思った時にはもう後の祭り……。

「じゃあ、あんたはここにいろ。俺だけ帰るから。じゃあな。」

「あっ、待ってよ!嘘だよ、嘘!」

颯に向かって歩いて行く彼の後ろを、慌ててついて行く。この半歩の距離は、永遠……。景華を馬上に押し上げてから、彼がその後ろに乗った。一年前と同じように、彼の右腕に抱き締められる……。颯が、走り始めた。秋の夜は長い。彼女なら、そんなに遅くならずに城に連れて帰ってくれることだろう。

「柳鏡、さっきのあれ、嘘だよ。」

「どれだよ?あんたの言ったこといちいち覚えていたら、俺、洗脳されるだろうが。」

面倒そうに彼が答えた。本当は、もう洗脳されているくせに……。

「柳鏡、大好き!」

これまで彼女にかけられた言葉の中で、一番素直で、一番嬉しい言葉……。

「……知ってる。」

龍神は、ついに華を手にした。


『あれ?なんか変……。』

目を覚ました景華が感じた物は、朝に特有の空気の冷たさと、温かい腕、規則正しい息の音……。そっと目を開ける。最初に目に映ったのは黒いくせ毛、次に包帯を巻かれた腕と体……。空は白んで来ているが、まだ日は射していない。

『あ、そうか、柳鏡……。』

寝ぼけた頭で、ようやく状況を飲み込む。昨夜、彼を連れ戻してからの記憶……。

『柳鏡の腕、痺れてないかな……?』

自分が頭をもたれさせているその腕は、包帯が一部の隙もなく巻かれている。呪いの青い鱗を隠すために……。

『……あれ……?』

景華は、ふとあることに気が付いた。昨夜と違って、彼の腕が温かくて、柔らかい……。そっと起き上がって衣装を軽く整え直し、早く確かめたい、という一心で、彼を揺り起こす。

「柳鏡……?ねえ、柳鏡?」

「なんだよ、うるせえな……。」

寝起きが悪いのは、いつものこと。それでも、彼女が起こせば彼は必ず起きる。

「ねえ、柳鏡。腕っ……。」

「あぁ?」

そう言って仕方なさそうに起き上がる。そして。

「ちっ、痺れてひでえな……。あんた、頭悪いくせに重過ぎるんだよっ……。」

思ってもいないような悪態をつく。そこで、彼の表情が変わった。

「んっ……?」

彼も異変に気付いたらしく、右手で肩の結び目を解こうとする。あまりうまくいかないので、景華がその結び目を解いてやった。逸る気持ちとは裏腹に、ゆっくりと包帯が解かれていく……。そして……。

「龍の鱗が……消えている……。紋章も……薄くなってっ……!」

柳鏡が目を見張り、驚きの声を上げる……。景華もそれを見てニッコリと微笑み、何度も頷いた。真紅の瞳には、涙がいっぱいいっぱいに湛えられている……。長い間彼を苦しめ続けていた呪いの証、龍神の紋章から、彼は今、やっと解き放たれたのだ……。

紋章これの伝説に一つ、書き加えねえとな……。」

柳鏡のその言葉に、景華は首を傾げた。一体何を?とその瞳が問っている……。

「龍神の呪い・・から救ってくれるのは、破滅をもたらすはずの龍神の華だ、ってことだよ。俺も……これで、人になれた……。」

抱き寄せられる。景華を抱きしめてくれるその腕は、二本とも温かい。それが、何よりも嬉しかった。彼がこだわり続けた、人として存在すること。それが、叶ったのだ……。

「でも、待てよ。紋章これのおかげで強かったんだとしたら、前より弱くなっちまったかもしれねえな……。」

景華が元気に答えた。

「その時は、私が柳鏡を守ってあげるよ!任せて!」

たまらなく不安げな顔を彼女に見せてから、その額を指でピンッと弾く。

「痛っ!」

「あんたに助けられる位なら、死んだ方がマシだ。……そろそろ時間だな……。」

そう言って、足元に脱ぎ捨てたままだった上着たちを拾い上げる。こんなものもういらねえな、と言って彼は乱暴に、だが、嬉しそうに包帯を捨てた。そして最後に、枕元に立掛けたままだった大剣を背負った。

「どこか行くの?」

きょとん、として問いかける景華に、柳鏡は苦笑して答えた。

「あのなぁ、俺のいるべき場所は本来、この部屋の外なんだよ……。」

「うん、そうだね。それで?」

「つまり、俺があんたの部屋の中にいることは、他の人間に見つかる訳にはいかねえんだ。」

「どうして?」

この姫、いや、この女王はどこまで鈍いのだろう、と思いながら、答えてやる。目を逸らして、長い指を黒いくせ毛に掻き込んで……。

「……まだ……人に認められて、正式に結婚した訳じゃないからな……。」

それで、わかった。景華は一度目を見開いて、それからしゅん、として俯いた。

「そうだね……。」

大きな手が、彼女の頭をクシャクシャっと撫でた。その仕草は、昨日までに比べると、遥かに優しい……。

「そんな顔するなよ、不細工だな。いや、アホな顔って言った方がいいか?」

「失礼ねーっ!人が真剣に考え事しているのに!大体っ……!」

彼はずるい。その瞬間、彼女がとっさに思ったのがそれだった。彼女の額に一瞬、その唇で触れると、彼は体をくるりと反転させて出て行ってしまったのだ。それで、彼女が何も言えなくなってしまうのを知っているから……。

『ずるい……』

そして。

『好き……。』

景華は、寝台の上で膝を抱えた。そのまま、真剣な顔で足元を見つめる。まだぬくもりが残っている、寝具たち……。

『人に認めてもらうって、どうすればいいんだろう?私は、一度趙雨のことがあったから、信用されていないだろうし……。ただ柳鏡と結婚したいって言っただけじゃあ、やんわりと否定されちゃうよね……。』

その時、突拍子もない考えが景華の頭に浮かんだ。これならば、彼を皆に認めさせることができる……。時期を見て、大臣たちに話してみよう。いつの間にか、部屋には朝日が差し込み始めていた。


それから一月経った城では、乱で壊れた物の復興具合や戸籍作りの作業の進み具合を確認するための閣議が行われていた。どうやら、どちらも順調なようだった。壊れた物の修復や戸籍作りにかかる費用のために、景華は自分の宝飾品や城の装飾品をかなり売った。彼女が手元に残したのは、父母の形見のかんざし一本ずつと、柳鏡がくれた珊瑚の首飾りのみだった。そうしてできた費用を、ある物は建物の建築資材に、またある物は役人がその地に滞在するための費用として使った。

「それから、大臣たちに一つ提案があります。」

報告を聞き、それぞれに指示を出した景華がそう言った。彼は、城の守護を行う近衛隊の隊長としてこの閣議に出席している……。

「今残っている直系の王族は、私のみです。つまり、私にもしものことがあれば直系の血筋が絶えてしまうことになります。」

「私どもも、常々それは案じておりました。陛下には、一刻も早く良い夫君を迎えられ、お子様を持っていただく必要があります……。」

そう答えたのは彼の父、清龍シンロン族の長、龍連瑛ロンレンエイ

「そこで、大臣たちに提案したいのです。私の人選には、既に信頼をなくしていらっしゃることでしょう。」

景華の言葉に、何人かの顔が下を向く。図星、といったところだろう。

「ですから、大会を開こうと思います。」

「大会、ですか?」

あちこちから、驚きの声がざわざわと上がった。連瑛も明鈴も、もちろん、彼も目を丸くしている。

「一体、どういうことですか?」

そう問ったのは虎神コシン族の長、虎秦扇コシンセンだ。趙雨の、父の……。

「ですから、私と結婚してこの国を支えて下さる方を、皆様にも納得していただけるように公正な勝負で決めたいと思います。」

誰もが、彼女の言葉に聞き入っている。

「もちろん、その人が王位に就くことはありません。法を改正しましたからね。でも、その子供は次代の王となります。つまり次の王にはその部族の血が流れるのですから、十分に魅力的な地位だと言えるでしょう。」

そこで一度、景華が言葉を切った。皆が続きを待っていることを確認してから、さらに口を開く……。

「各部族から一人ずつ、優秀で、なおかつ私との結婚でも納得してくれる若者を代表として出して下さい。その際、決して無理強いをすることのないように。彼らにいくつかの競技で競ってもらって、結果を出したいと思います。よろしいですか?代表がいなければ、それでも構いません。」

各部族長が、礼をして去って行った。他の人も、後に続く……。柳鏡だけが、静かになった閣議室に残った。

「……あんた、どういうつもりだ……?」

その口調がとても静かなことから、彼が本気で、しかも相当怒っていることが窺える……。それも当然だ、今回のこの計画は、彼女の独断で行った物だった。彼に、一言も相談せずに……。

「柳鏡、絶対勝ってね!」

敢えて全く関係のないことを言って誤魔化そうとする……が。

「ふざけるなっ!どうして俺が、あんたを賭け事の対象として、賞品として獲得しなければならないっ?俺にあんたを物扱いしろって言うのかっ?それにあんたっ、自覚はあるのかっ?」

「何のよっ?」

対する景華も、声を荒げた。外には誰もいない。彼らの会話を聞いているのは、彼ら自身と、この部屋の調度品たちだけ……。

「……どうやら……俺の思いあがりだったみたいだな……。」

柳鏡が唇を噛んで、俯いた。その拳が、強く握られる……。

「あの時……たとえ非公式にだったとしても、俺はあんたを手に入れたと思っていた……。どうやら、俺の思い違いだったみたいだな……。」

「違うよっ!」

景華が力一杯その言葉を否定した。腕を上下に振る、お決まりの仕草……。

「私、あの時にずっと、一生柳鏡だけって誓ったもの!ただ、柳鏡言ったじゃない。人に認められて、正式に結婚した訳じゃないって。だから、ずっと一緒にいる訳にはいかないって……。それじゃあ嫌だから、皆に認めて欲しくて、一緒にいて欲しくてこうしたの!」

「そんなこと、他にも方法がいくらでもあっただろうっ?俺を戦地にやって武勲をあげさせて、それを理由にする、とかっ……!」

「それじゃあ時間がかかり過ぎるもの!現在いま一緒にいられないじゃない!」

普段の喧嘩とは違う、本当の口論。それでも、彼にわかって欲しい。自分が、なぜこんな方法を選んだのかを……。そして、深緑の瞳が見返して来る。ほんの少しだが、その面積が大きくなった。おそらく彼は自分の意図を理解し、納得してくれたのだろう。面倒事が嫌いな彼には、気に食わないかもしれないが……。

「絶対優勝してよ!負けたりしたら、一生呪ってやるから!」

軽く溜息をついた柳鏡の左手が、景華の右手を取った。その甲に、彼の唇が押しつけられる……。それは忠誠の印であり、彼女の言葉通りに優勝してみせるという、誓い……。彼は、彼女の絶対命令・・・・を受けた。

「約束、してくれる?」

真紅の瞳に涙をうっすらと浮かべた彼女が、そう問いかける。

「ああ。まったく、相変わらずわがままで、面倒なことを言いやがる……。」

溜息をついてだるそうにするが、彼は決して嫌そうな顔はしていない。彼女の絶対的な信頼が、何よりも嬉しかった。

「負けたりしたら、呪うついでに死んでやるっ……。」

景華が、頭一つ半近く背が高い彼の目を軽く睨んで、そう言う。最高の脅し、のつもりだった……。

「ああ、一層その方が楽かもしれないな。このままいって本当にあんたなんかと結婚しちまったら、一生わがまま陛下の面倒を見る羽目になっちまうし……。」

「何よ、柳鏡の馬鹿っ!大っ嫌い!」

赤くなって怒るその姿は女王のそれではなく、年相応の、十七歳の少女の姿だった。

「はいはい、知ってるから。」

そう言って彼女をなだめるような仕草をしてから、柳鏡は椅子に立掛けたままだった大剣を背負って出て行った。


「父上、柳鏡です。よろしいですか?」

その夜、柳鏡は父である清龍族の長、連瑛の元を訪ねた。

「入れ。」

短く、入室を促す言葉。戸がキィ、と軋んだ音を立てて開き、その後すぐ閉じた。長身の陰が、一つ室内に増えた。

「陛下のおそばに控えていなくていいのか?」

「今は、姉上に代わってもらっています……。」

父に勧められて、柳鏡は椅子に腰掛けた。酒が入ったひょうたんと盃を二つ出して、連瑛もその向かい側に腰掛ける……。

「何かあったのか?」

「父上に、お願いがあって参りました。」

出された酒に口をつけてから、柳鏡が話を切り出した。

「どうか、今日陛下が提案された大会に、清龍族代表として俺を出場させて下さい。」

連瑛が、酒をぐっと飲み干した。空になった盃に、柳鏡が酒を注ぎ足す。

「正直、なぜ陛下があんなことをおっしゃったのかわからない……。陛下はいずれ、時期が来れば必ずお前を選んで下さると思っていた……。違うか?」

確かに、乱の最中の二人の様子を見ていれば、そう思うのが自然であった……。柳鏡が、自分の盃の酒を見つめた。蝋燭の光が、その中で踊る……。

「……一緒にいられる現在いまが欲しい、と彼女は言いました。他の理由は、彼女が昼間言った通りです……。」

柳鏡は、ここで敢えて彼女を女王陛下・・・・としてではなく景華・・として扱った。父は、これで自分が言いたいことを読み取ってくれるだろう、と思って……。

「そうだったのか……。」

その言葉には、二重の意味があった。一つは、彼女の思惑に納得したということ。そしてもう一つは、彼らがどういった関係なのかを把握した、ということ。

「お前がそう望むのなら、もちろんお前が代表だ。武芸に秀で、頭の回転も悪くない。そして、陛下に対する忠誠心も、それ以上の想いも揺るぎない。お前以上の代表など、いる訳がない……。」

そう言って、息子を力づける。彼の息子は、長年の想いを成就させるべく、戦う。そしてなによりも、その想い人のために……。

「若いのに、お前も苦労させられているな……。お前の母親みたいだ……。」

小さく呟いた連瑛の盃には、月が浮いていた。


「どうやら、各部族とも代表を決めて下さったようですね、ありがとうございます。」

彼女の衝撃の発表から三日後、全ての部族からの申し出が出揃ったので、景華は各部族長とその代表者を招集した。結局、各部族の代表は皆、各部族長の子息となった。清龍族代表の柳鏡を始め、亀水族からは景華のいとこにあたる凌江リョウコウが、砂嵐サラン族からは部族長の三男である大連タイレンが、緋雀ヒジャク族からは三男で春蘭の一つ下の弟である紅瞬コウシュンが、そして虎神コシン族からは趙雨の次弟にあたる英明エイメイが名乗りを上げた。

「それでは、どういった方式で大会を行っていくのか説明いたします。まず、皆さんには文、武、勇、芸、忠の五つの課題で競っていただきます。それらの課題は、各部族長に一人一つずつ決めていただきます。その課題の出来具合で順位をつけ、一位から順に五、四、三、二、一点と点数をつけて行き、その得点の合計が一番多かった方が優勝となります。また、万一課題をこなすことができなければ無得点となります。よろしいですか?」

単純明快なルールだったので、質問はないようだ。景華は、ほっと息をついた。

「では、各部族長は残って下さい。誰がどの課題を決めるのか、くじ引きで決めたいと思います。それと、勝負を公正に行うために大会期間中はご子息にはこの城に滞在していただき、できるだけ課題を決める部族長たちとは会わないようにしていただきます。」

全員が頷くのを確認してから、景華は候補者たちを退出させた。彼らを用意された部屋に案内するための侍女たちが、外に待機していた。戸が閉められて、室内の声も室外の声もお互いに聞き取れなくなる……。

「俺の部屋は?」

柳鏡が、女官の一人に問いかけた。他の候補者たちも、足を止める。

「西の対の南角の部屋です。ご案内いたします。」

「いや、いい。場所がわかれば一人で行ける。」

「そんなつれないことをおっしゃるな、柳鏡殿。」

踵を返して歩き始めていた柳鏡を、後ろから呼び止める声があった。

「女官殿が可哀想ではないか。なぁ?仕方ないからこちらにおいで。彼女と一緒に私を部屋まで案内しておくれ。」

そう言って柳鏡の案内をするはずだった女官の肩を引き寄せたのは、虎神族代表の英明だった。柳鏡は、彼を一瞥して思った。この女好き、と……。見れば、彼は女官たちと楽しそうに肩を組み、ニヤニヤと笑っている。柳鏡の脆い堪忍袋の緒は、既に切れていた。修復の見込みもない程、派手に……。

「もし万が一俺に事故が起きてあなたが優勝するようなことになれば、もう女遊びはできませんよ、英明殿?」

嫌味全開の口調で柳鏡が発した言葉に、英明はどこまでも軽薄に答えた。本当に、あの趙雨の弟なのだろうか……?密かにそう思う柳鏡だが、それは口には出さない。

「あなたに事故が起きなくてもそうなると思うが……。宮廷は美人の宝庫だろう?そんな所に住めるというだけで十分だ。陛下もなかなかかわいらしい方でいらっしゃるし……。」

柳鏡の頬が、ヒクヒクと痙攣している……。形の良い片眉が吊り上がった。

「ほぅ……あのわがまま陛下をかわいい、とおっしゃるのか……。それでは、一日付きっ切りで陛下のお世話をなさってみると良い。言っておきますが、死ぬ程大変ですよ?陛下はドジで、無茶苦茶で、無鉄砲で、その上八つ当たりの常習犯でいらっしゃる……。」

周囲の他の候補者たちが黙り込む中、英明だけがおかしそうに笑い声を上げる……。

「それは、それは。護衛の騎士としてさぞ苦労をされたことだろう。さぁ、行こうか女官たち。両手に花とはまさにこのことだな?」

そう言って両肩を女官たちと組み、楽しそうに話しながら英明は行ってしまった。その後ろ姿を見て、柳鏡は誓った。

「あいつにだけは、男として負けられねえ……。」

他の候補者たちは、比較的まじめで大人しそうだ。特に凌江は乱の時から会うことがあったので、気心のしれている友達となっていた。その彼も同じ西の対なので、一緒に移動することになった。

「しかし驚いたなぁ。まさか、お前が出るなんて。」

凌江のその言葉に、柳鏡は黙ってじろりとその横顔を眺めた。同じように、彼が候補として出たことに驚いているということを伝えるために……。

「あぁ、俺か?俺は、辰南一の男になりたくて出たんだ。だってそうだろう?各部族の代表の中で一位になれば、国士無双の男として評価される。」

それが、景華がこの大会を開いた理由だった。柳鏡が代表たちの中で一位になれば、各部族長も彼の実力を認めざるをえない……。

「ところで、お前はどうして出たんだ?」

「聞くな……。」

そう言って柳鏡が視線を逸らした。

「ふうん、さては……。」

凌江が含み笑いをして柳鏡の顔を下から覗き込んだ。

「お前、陛下に惚れているんだろう?」

「っ……!」

図星を指されて、柳鏡は言葉が出ない……。凌江がニヤリとした。

「やっぱりな、そうだと思っていたんだ。しかし、驚いたな。陛下とお前は相思相愛だと思っていたのに、お前の片恋だったのか?」

「うるせえ、放っておけ!」

自分の一方的な恋慕なら、ここまで苦労はしていない。両想いだからこそ、彼女の期待に応えたくて苦労しているのだ……。長い指が、黒いくせ毛を乱暴に掻いた。

「安心しろ、柳鏡。俺が優勝したら辞退してお前を推薦してやる。そうすれば俺は国士無双の男だし、お前は陛下とめでたく結ばれる、という訳だ。悪くないだろ?」

「優勝しろっていうのが絶対命令だから、それじゃあ意味ねえんだよ!」

ちょうど凌江の部屋の前についたので、柳鏡はそう不機嫌に言い放って足早に自分の部屋に向かって行った。

「絶対命令って、誰のだよ……?」

残された凌江が、その背中にポツンと問いかけた。


三日後、最初の文の課題が執り行われた。これは非常に単純な課題で、史学、語学、数学の三つの科目の試験が代表者たちに課された。皆一室に集められて、答案用紙の上にさらさらと筆を走らせる。それを文官たちが採点した。

「どうだった?」

景華が、文官たちが採点を行っている部屋を訪ねた。全員が礼をしてから、責任者である文官長が答えた。

「たった今、採点が終了いたしました。結果も出ております。一位は、虎神族の英明様でした。」

景華は、これは仕方ない、と思った。彼が苦手とする語学が含まれていたし、他にも種目があるので全てで一位を取らなくても良い、と……。

「二位が砂嵐族の大連様、次に亀水族の凌江様、緋雀族の紅瞬様と続き……。」

「えっ、柳鏡は?」

いくら語学が苦手でも、彼の知識ならば他の部分で十二分に挽回が可能なはずだ。その彼の名前が、ない……。

「あの……清龍族の柳鏡様の回答用紙がこれなのですが……。」

文官長は、ひどく困った様子で景華にそれを差し出した。それを受け取った景華の手が、わなわなと震える……。ブチンッ!何か、不穏な音がした。そして、彼女は勢いよくその部屋を後にした。廊下を、その足で踏み鳴らして……。


バターンッ!

先程から廊下がやけに騒がしいな、と彼は思っていた。なにやら、ドシドシとその床を踏み鳴らす音が……。しかし、まさか自分の部屋の戸がそんなに勢い良く開けられるとは思ってもいなかったので、驚いて飛び上がった。

「……柳ー鏡ぉーっ!」

そして現われた人物にも驚かされたが、そのものすごい剣幕にはもっと驚かされた。怒りが、その全身から滲み出ている……。大剣の手入れをしていた柳鏡は、その瞬間に思った。間違いなく殺される、と……。

「な、なんだよ、いきなりっ……!」

なんとか平静を装って、そう声をかける。対する彼女は、息を切らせて肩を上下させていた。自分が何をやったのかは全くもってわからないが、相当頭に来ているらしい……。

「馬鹿っ!柳鏡の馬鹿っ!馬鹿、馬鹿、馬鹿っ!」

現われて早々に喧嘩を売るとは良い根性だな、と思いながらも、これ以上彼女を怒らせれば本気で八つ裂きにされかねないので、黙っている。

「なんでっ、なんで、なんで、なんでっ!」

そう言って彼の方へツカツカと歩き、詰め寄る……。そして。

「なんでこんなに、字が汚いのよーっ!」

彼の目の前に、手に持っていた答案を突き付ける。それを見て一目で自分の答案だと理解した柳鏡が、訊ねる。

「やっぱり……汚いか……?」

「当たり前でしょーっ!こんな、こんなっ……!」

彼の答案用紙は、敢えて題をつけるなら、ゲテモノ協奏曲。そこには、何匹ものおたまじゃくしやミミズが元気良く泳いだり、地を這う姿が描かれていた。……文字には、見えない……。

「仕方ねえだろ。俺、ガキの頃から字書くのが苦手なんだから。」

確かに、彼はいつも筆を持てば顔や手を汚す方が専門だった……。だが……。

「読めないから……採点できない、って……。柳鏡、最初の課題は一点だよ……。」

景華が俯いた。肩が、先程とは違う震え方をしている……。その様子に柳鏡は困ったが、どうしようもないというのも事実だ。

「済んだ物は仕方ねえだろ。苦手なことだったし、他の課題で挽回すれば……。」

バンッ!

景華の拳が、激しく机を打ちつけた。

「苦手、苦手って……。さっきからそればっかり……。そんな風じゃあ、優勝、できないよ……?」

「そんなこと言ったって、こればっかりは仕方ないだろうが。」

パァンッ!

今度は、景華の平手が柳鏡の頬を強く打った。

「そんなこと言わないでよっ!苦手でも嫌いでも、私のために頑張りなさいよ、馬鹿っ!大っ嫌い!」

言うだけ言うと、彼女は行ってしまった。思い切り平手で打たれた頬よりも、心が痛い……。久しぶりに見た、彼女の泣き顔……。開けっ放しの戸口から、冷たい風が吹き込んだ。


夜になって、景華は寝台の上に膝を抱えて座っていた。ただし、考え事をしている訳ではなく、いじけているのである。柳鏡に代わって景華の警護をしてくれている明鈴メイリンが、二つ分の入れ物にお茶を注いだ。そしてその片方を、景華の手に持たせる……。

「ありがとう……。」

つい先程まで泣いていたのだろう、弱々しく笑って見せた彼女は、泣き腫らした目をしていた。明鈴の方も椅子を引いて来て、彼女の前に腰掛けた。

「柳鏡は……私が誰のお嫁さんになっても、構わないんだわ……。」

いじけて、なおかつ自暴自棄に陥ってそんなことを言う……。彼の心を疑っている訳でもないのに。

「それはないよ、絶対。もしそうなら、面倒くさがりなあいつが大会に出る訳ないじゃない。」

そう言って隣に腰掛け、彼女の頭を撫でてやる……。明鈴にとって景華は、二人でいる時には女王陛下、ではなくかわいい妹、だった。自分の弟にとって、二人でいる時の彼女が、特別に愛おしいことを除けばただの少女であるのと同じように……。

「だって……結果のこと、全然気にしていなかったし……。」

グスン、と鼻をならす……。

「でも、柳鏡が約束してくれたんでしょ?優勝する、って……。」

明鈴の問いかけに、景華はコクリと頷いてお茶を一口含んだ。その温かさが、体中に染み渡る……。

「じゃあ、絶対優勝してくれるよ。景華のお願いならね。」

明鈴の笑顔に、景華も同じ表情を作って応えた。どうやら、大分落ち着いたようだ。

「ところで、どうして大会なんて開こうと思ったの?そんなことしなくても、柳鏡と結婚する方法はあったよね……?」

チラリと戸口に視線を走らせながら、明鈴が訊ねた。

「だって、時間がすごくかかってしまうでしょう?それにね、柳鏡に言われたの。正式に結婚した訳じゃないから、朝までは一緒にいられない、って……。」

ブッ!

口に含んでいたお茶を吹き出してしまった明鈴は、隣で目を丸くしている景華に辛うじてこう言った。

「あいつ……意外と手が早いわね……。」

その意味を理解したのかどうかはわからないが、景華の言葉は続いた。

「わがままかもしれないけど、それが嫌だったからこうしたの。手っ取り早いでしょう?」

「まぁ、確かにね……。でも、柳鏡が負ける、ってことは考えなかったの?」

明鈴が軽く苦笑してからそう訊ねた。湯気が立つお茶を見つめて、景華は本当に幸せそうに微笑んだ。

「一度も考えなかったよ。だって……。」

言葉を切って、さらに目を細める……。

「柳鏡が、一番だもん……。」

そう言いきった彼女は本当に眩しくて、この顔を弟にも見せてやりたかったな、と彼女は思った。

「目、冷やそうか。お水と布、もらって来るね。」

明鈴はそう言って景華の部屋を後にした。廊下に出て戸を閉め、正面の植え込みの中に剣を突き付ける……。

「盗み聞きするなんて、いい度胸ね……。」

植え込みの枝がガサゴソと音を立てて、柳鏡がその姿を現した。

「ばれてたんですか……。」

彼の目は、明鈴の肩を通り越して一枚の戸に向けられていた。中の彼女が、見えるかと思って……。

「どこから聞いていたのよ?」

「ほとんど全部、ですかね……。」

どこかばつが悪そうに答える……。明鈴が、溜息をついた。

「しかし、あんたたちもよく喧嘩のネタが尽きないわねぇー。ちょっと待ってて……。」

そう言って彼女は渡り廊下を歩いて行き、曲がり角でその姿を消した。その言葉通り、彼女はそんなに間を空けずに戻って来た。その手には、冷たい水がはられた桶と白い布……。

「ほら。景華、泣いて目がすごく腫れてるの。あんたのせいなんだからね、ちゃんと治してあげな。虎の刻になる頃には戻るからね、それまで景華のこと頼んだよ。」

「えっ?ちょっと、姉さんっ?」

戸惑う柳鏡の手に、彼女は持って来た物を全て押しつけて去って行った。仕方なく、彼女の部屋の戸を開ける。

「何しに来たのよっ?」

予想通りの歓迎っぷり・・・・・だった。何も言わずに机の上に桶を置き、布をその中に浸す。それを硬く絞ってから、相変わらず寝台の上で膝を抱えている彼女の隣に腰掛ける。

「ほら、冷やさねえと……。」

「嫌。」

景華はそう言って、柳鏡と反対側に顔を向けた。

「あんた、それ以上不細工になってどうするんだよ……。」

彼女の顔を自分の方に向けさせて、その瞼に冷たい布をあててやる。彼女は、今度は大人しくそれに従った。膝が解放されて、細い足が寝台から床に向かって投げ出される。

「私、今明鈴さんに話していたの。柳鏡が優勝しても、絶対に柳鏡のお嫁さんにはなってあげない、って……。」

「全部外で聞いていた……。」

「そう。聞いていたならわかったでしょ?だからっ……はっ?」

柳鏡の言葉に、景華は絶句した。全部聞いていたということは、まさか、最初から最後まで……?頬が熱くなる……。

「あんた、余計なことまで話し過ぎ……。」

「柳鏡には関係ないでしょ!盗み聞きするなんて、最低!もう出て行って!さよならっ!」

その言葉を聞き終えた柳鏡が、立ち上がった。

「ちょっ……。」

彼女の呼びかけで、彼は立ち止まって振り返った。

「何も、本当に出て行かなくても……。」

「あぁ、これを濡らし直すだけだ。」

そう言って、彼女の瞼から熱を吸い取った布を、再び水にさらす。景華がふくれっ面になった。

「騙すなんて、ずるい。」

「別に騙したつもりはねえよ。」

また、冷たい布が瞼に優しく当てられる。視界が、白くなる……。

「不安にさせて、悪かった……。」

彼がどんな顔をしているのか、景華には見えない。でもその声音からは、彼の謝罪の気持ちが十二分に窺える。

「もういいよ。無茶苦茶言ったの、私だもの……。無理に優勝しろなんて言って、ごめんね……。」

「無理じゃねえよ。」

彼のその言葉に、目を上げる。視界に、色が戻る……。

「残りの種目で全部一位を取れば、優勝だろ?全部一位になってやるよ。だから……。」

そこで言葉を切った彼が、ついと彼女から視線を逸らした。照れた時に特有の仕草で、黒いくせ毛の中に指を掻き込む……。

「だから、何?」

続きをなかなか言わない彼の顔を、真紅の瞳が覗き込んだ。彼の苦手な色。でも、一番好きな色……。

「だからっ……、そのっ……。あぁ、もう!いいか?一回しか言わねえぞっ?」

彼女から意図的に目を逸らしていた彼だが、何を思ったのかその目を見つめた。その頬は、赤い。深緑の色が、彼女の視神経に心地良い刺激をもたらす……。吸い込まれそうになりながら、頷く。

「だからっ……、その、その時はっ……。その時は、大人しく俺の嫁さんになれっ!いいなっ?後から文句とか、絶対言わせねえからなっ!」

予想だにしなかった言葉。不器用で恥ずかしがり屋で、その上面倒くさがりの彼からは、一生もらうことができないと思っていた言葉……。思考が、停止する。再起不能。深緑の瞳が、だんだんとぼやけて映る。周囲が、歪む……。

「だあぁ、もう!泣くなよ、いい加減!俺、あんたを泣かせに来たみたいじゃねえか!」

慌てて涙を拭ってくれる不器用な手が、本当に心地良い。温かい、大きな手……。停止した思考が、ようやく復活する……。

「なるーっ……!柳鏡のお嫁さんになるーっ……。」

繰り返し、そう呟く。自分が言っていることは、もはや自分ではよくわからない。でも、彼はわかってくれたようだ。

「わかったからもう泣くなっ!……その時になってから気が変わった、とか言うの、なしだぞ?」

「言わないよー……。」

ボロボロと涙をこぼすその姿は、小さな頃の彼女を想起させる。しかし……。

「まったく、大体なんでこんなに泣かなきゃならねえんだよ?俺、悪いことしたみたいじゃねえか。」

「だってぇー……。」

辛うじて、彼に口答えする。

「柳鏡がそんなこと言ってくれるなんて、思いもしなかったもん……。」

どうやら、彼女を宥めるのにはまだ時間がかかりそうだ……。


真っ暗な室内で、柳鏡は軽く溜息をついた。自分に寄りかかったまま気持ちよさそうに寝息を立てている彼女を見て、苦笑する。もうすぐ、明鈴が指定した虎の刻だ。仕方なく、彼女の頭をそっと支えて寝台に寝かせようとする……。だが。

「……もう時間?」

枕に頭がつくか否かというところで、彼女が目を覚ましてしまった。寝ぼけた顔で、目を擦りながら起き上がる。どうやら、目の腫れは引いたようだ。

「起こしちまったな、わりぃ……。もうすぐ姉さんが戻って来るんだ。」

大会が終わるのは、各種目を一日おきに行うから、八日後……。景華は、ふとそんなことを考えていた。そして。

「ねえ、柳鏡?」

「何だよ?」

面倒そうな、かと言って決して嫌そうではない返事が返って来る。大剣を背負うその背中に笑いかけながら、言う。

「九日後の朝は、一緒にうんと朝寝坊しようね!」

何も答えないのは、承諾の証拠。彼は、そのまま出て行ってしまった。廊下に出てから、軽く左腕を振る……。彼女が寄りかかっていたので随分と痺れてはいたが、嫌な感じはしなかった。蘇るのは、柔らかい重さの記憶……。

「九日後の朝は、か……。」

先程彼女が言った言葉を、繰り返す。

「勝手に約束増やすんじゃねえよ。面倒な奴……。」

しかも、わがままだ。小さく笑みがこぼれる。彼女のわがままを聞いてやれるということは、彼にとっては何よりも嬉しいことだった。一度は諦めた、彼の願い。それは、彼女のわがままを一生、一番そばで聞き続けてやるというもの……。彼の未練。昇龍を妨げた、一番の理由だ。月を見る。

「今頃、青龍は悔しがっているかもしれないな……。」

短い生涯を、なぜ選ぶ……?あの言葉が、蘇る。青龍は、自分が後悔をすると思っていたに違いない。だが……。

「生憎だったな。俺、今が一番幸せだ……。」

空を見上げて、かの神にそう声をかける。彼の言葉を受けて、月が輝いた。


次に行われた武の課題は、全員で総当たり戦を行ってその中で優劣をつけるというものだった。もちろん、一位は柳鏡だった。他の候補者たちもかなり腕の立つ者揃いだったが、辰南の龍神には敵うはずもなかった。

「くっそー!やっぱりお前は強いな!」

しりもちをついた状態で大剣を胸に突き付けられた凌江は、本当に悔しそうにそう言った。

「当たり前だ。そんなに弱い奴に陛下の護衛が務まる訳がない。」

「わがまま陛下の、か?」

柳鏡が手を貸して、凌江を助け起こす。この前の柳鏡と英明の会話を思い出して、凌江は彼にそう言った。

「その上、ドジで、無茶苦茶で、無鉄砲で……だっけ?」

続きを思い返して、彼に問う。景華が白い目でこちらを見ているのを知っていて、柳鏡は彼に答えた。悪意に満ちた、爽やかな笑顔で……。

「ああ。しかもの八つ当たりの常習犯で、じゃじゃ馬で、泣き虫で。その上、泣き顔とふくれっ面は世界一不細工ときている。」

ゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!

背後から、怒りで迸る闘気を感じる……。背中に彼女の視線が刺さるのが感じられる……。だが柳鏡は、とびっきりの魔法を使った。

「だから、目が離せねえんだよ。」

なんと単純なのだろう、彼がそう言った途端に、背後の不穏な空気が一瞬でピタリと治まってしまった。その様子を見て、凌江が苦笑した。

「確かに、お前でなければ務まらないな……。」

結果、二位が英明、三位が凌江、四位が紅瞬、五位が大連となり、総合得点では柳鏡は六点で、凌江と並んで二位に躍り出た。一位の英明とは、まだ三点差がある……。


そしてその二日後、勇の課題が執り行われることになった。勇の課題の内容は、城の北にある山に分け入って、次の日の正午までに一番凶暴な動物を仕留めた者が勝ち、というものだった。柳鏡が、さりげなく景華に訊ねた。

「なぁ、虎と熊っていうのはどっちが凶暴なんだ?」

「うーん……、虎、じゃないかなぁ……?多分、虎が一番……。」

「そうか、わかった。」

普通に考えればありえないことを言っている柳鏡だったが、彼には自信があった。何しろ彼は景華と清龍の里で暮らしていた時に人食い虎や熊の退治依頼を受け、その賞金で生計を立てていたのだ。それらのいるような場所の見当のつけ方も、大体はわかっていた。明日の朝まであれば、何とかなるだろう……。

「怪我、しないでね?」

人に聞こえないように俯いて小さくそう呟く景華に、笑いかけてやる。

「虎や熊ごときにやられる龍神がいるか、アホ。」

そう、彼は。彼女の、龍神……。

「うん、頑張ってね!」

笑って送り出す。そうすれば、彼が何倍も力を出せることを知っているから。他の候補者たちも、それぞれに出発して行った。

「ところで、どうしてこんな課題になさったのですか、伯父様?」

そう、この課題を決めたのは亀水族の長、帯黒だった。

「どんな動物でも良いと知りながら、より強い者に立ち向かおうとするのは勇気です、陛下。しかし、力量が備わっていなければそれはただの無茶なのです。自分の限界と向き合うこともまた、私は勇気だと思います。」

礼をとってそう答える伯父に、景華が笑いかけた。

「でも、清龍の里に私を匿ってくれていた時に、柳鏡はこういうことをしてくれていたんです。彼には限界がないわ。すごく、有利な課題……。」

「左様。陛下の龍神が動物ごときで限界を迎えるとは、私も思っておりません。陛下をお隠ししていた際に彼がどのようなことを行っていたのかは、凌江から聞き及んでおりました。ですから、このような課題にしたのです。」

豊かな深緑の髪が、揺れた。彼女が小首を傾げる……。

「普通なら、自分の息子が少しでも有利になるような課題を作るべきなのでしょう。しかし、私は思ったのです。彼以上に、陛下の御心に寄り添える者も、陛下をお支えすることができる者もいない、と。ですから私は、一人の父としてではなく、一人の臣下として、国民としてこのような課題を作らせていただきました。」

「感謝します、伯父様……。」

景華の彼女自身としての、そして女王としての言葉に、帯黒は礼をしただけで応えた。明日が、待ち遠しい……。


次の日、最初に戻って来たのは英明だった。彼は、自慢げに自分が狩った熊の首を掲げた。

「ご覧下さい、陛下。どうです?立派な熊でしょう?」

「ええ、本当に。」

柳鏡の方がすごいわ、と心の中で答えていながらも、虎神族との微妙な関係を保つために笑顔で答える。そこに、凌江が戻って来た。

「う、わ……。」

彼が持って来たものに、彼女は絶句した。それは、大きな毒蛇だった。景華が身をすくませているのを見て、凌江が笑った。

「大丈夫ですよ、陛下。もう死んでいます。それよりも、私はさらにすごいものを見ました!」

凌江が目を輝かせてそう言った。景華は、それが何なのか目で問いかけた。

「清龍族の柳鏡殿が、巨大な虎を狩るところをこの目で見ました!あれは圧巻でした……。」

凌江はそう恍惚気味に言って、詳しい様子を語り始めた。


「ちぃっ!」

柳鏡はそう舌打ちして横飛びに飛んだ。髪一筋の差で、鋭い牙が空を裂く……。彼は、汗に濡れた手で大剣の柄を握り直した。

「たかが虎のくせに、なかなかやるな……。」

ゾクリとするような冷たい、だが生き生きとした目。彼は、虎を相手に楽しんで・・・・いた。ぺろりと舌を出して、乾いた唇を舐める。そろそろ、遊びは終わりにしたい。久々の狩りで少し遊び過ぎたようだ、だんだんと制限時間が気になって来た。いい加減に帰らないと、また彼女に泣かれることになる……。

「悪いが、そろそろ時間だ。」

余裕たっぷりの笑みで、彼の隙をつこうとジリジリとその距離を詰めてくる虎を見つめる……。そして。

「恨むなよっ!」

「ガウゥッ!」

どちらも、同時に地を蹴って飛び出した。そのまま空中で交差する……。鮮血が舞った。柳鏡の方は見事に着地するが、虎の方は無残にその場に崩れ落ちて、動かなくなった……。


「あの瞬間に、彼はおそらく神速の突きを繰り出していたのでしょう!しかも近付いて見ると、急所を一撃で仕留めているのです!しかし、その攻撃は早過ぎて目に入りませんでしたよ……。」

景華はニッコリと微笑んで心の中でこう呟いた。だって、私の龍神だもの、と……。そこで凌江が、何かを思い出したように口を開いた。

「そう言えば、自分の獲物を置いたら戻って来て手伝うように彼に頼まれていました。行って参ります。」

「待て、凌江。獲物をそのまま持って帰らずとも、何か大きさや動物の種類がわかるものがあればそれで良い。」

「それが、父上……。」

凌江がこちらに向き直り、父とその隣に立っている景華を振り仰いだ。

「何しろ見事な虎なので、その毛皮を婚礼の際に陛下に送る贈り物にしたい、と言っていたものですから……。」

凌江はそう言って駆け戻って行った。帯黒の指示で、何名かが彼の後を追った。彼らが入口から出たその直後に、紅瞬と大連の二人が戻って来た。どちらも大きな猪を仕留めたようだ、その耳と牙を持っている……。紅瞬の猪の牙の方が、僅かに長く見える。

「婚礼の贈り物、だと?ふん、まだ優勝してもいないくせに……。」

英明が、凌江が消えた方を見つめて面白くなさそうにそう呟いた。そして……。景華の位置から、黄金の地に黒の縞模様が見えた。それを見ただけで、景華の足はすくんでしまう……。そして、全身を返り血で真っ赤に染めた龍神が、戻って来た。狩りから帰って来たその姿を見て、あんなに汚したら洗濯が大変じゃない!と思ったのは、久しぶりのことだった。清龍の里以来……。

「只今戻りました、女王陛下。」

衆目がある以上、仕方なくそんな口調で話す。彼女が嫌がるのはわかっているが、こればかりは仕方がない。彼は、まだ彼女の臣下の身分なのだ……。

「どうぞこちらでご覧下さい。」

その言葉に恐る恐る足を踏み出して虎に近付く……。景華があまりにも怖がっているので、柳鏡がその手を取って虎に近付かせてやった。ある程度の距離で、景華の足がピタリと止まる……。

「アホ。死んでるものがそんなに怖いか?」

「死んでたって怖い物は怖いよ……。今にも動き出しそうだもの……。」

誰にも聞かれないような低い声で、そう話す。

「これとあの珊瑚の首飾りを、婚礼の贈り物としてあんたに贈る。そうしたらそれ、大っぴらに着けられるだろ?」

彼は知っていたのだ。彼女が彼の母親の形見である珊瑚の首飾りを、肌身離さず身に着けてくれているということを……。それは、常に彼女の襟の中に収められていたのだが。

「お気に召しましたか、陛下?」

その場にいる他の人々にも聞こえるように、大きな声で訊ねる。

「ええ、すごく怖いけれど……。」

「それは良かった。」

柳鏡が、随分と芝居がかった仕草で膝を折り、再び景華の手を取った。

「私が優勝しました暁には、こちらの虎の毛皮と、珊瑚の首飾りを陛下への婚礼の贈り物にさせていただこうと考えております。」

そう言って、景華の手の甲に唇を軽く寄せる……。周囲の空気が、動く。景華は、これでやっと柳鏡がこのような行動に出た意図がわかった。もちろん、他の候補への牽制だ。そして、これで景華の心が柳鏡に傾いたと考えさせることで、余計な焦りを生じさせようとしたものだった。

「策士ね……。」

景華が笑ってそう言う。彼の耳にしか届かない、小さな声で。深緑の瞳が、そのまま彼女を見上げた。

「何とでも言え。あんたが変な約束させるからだ……。」

約束の九日後は、もう四日後まで迫っていた。


次の日には、四番目の課題である芸の課題が出された。馬術での競技は、柳鏡も得意としていた。

「行くぞ、颯!」

そう言って、二人には非常に思い出深いあの馬を厩舎から連れて出る。そして、確認のためにその背にまたがった。颯は、脚力もバランスも最高の馬だった。健康状態も申し分ない。

「颯で出るの、柳鏡?」

景華が寄って来て、その胴を撫でてやる……。

「ああ。馬としての能力も高いし、俺と一番相性がいいからな。」

「ふうん……。」

なんとなく面白くなくて、短くそう答えた。その様子を見て、柳鏡が苦笑する……。

「なんだよ、妬いてるのか?」

意地悪く微笑んで、片眉を吊り上げて彼女にそう問う。不機嫌そうに口を尖らせるその様子が、とてもかわいらしい。馬にまで焼き餅を焼くところが、なおさら……。

「そうだよっ!」

あっさりと返って来た肯定の言葉に、彼は正直言って驚いた。妬いてないよ!という答えを、彼は期待していたのだ。

「だって……。」

彼女の言葉が続くようなので、耳を傾ける。どうやら、その理由を教えてくれるらしい。

「颯と一番仲良しなのは、私だもの!」

ガクン、と彼の上体が揺らいだ。力が抜けるが、なんとか颯の背の上から落ちないように踏みとどまる……。そうか、そうだったのか……。

「そっちかよ……。」

試合開始前に、まさかの大ダメージ……。これが、試合に影響しなければ良いが……。颯の背から一度降り、なんとなくやるせない思いで出発地点に向かおうとする。

「柳鏡!」

人の期待を無邪気に踏みにじった彼女が、呼ぶ。いや、元々彼女にそんな期待をかけた自分が良くなかったのだろう……。いかにもけだるい、というように振り返る。左腕に彼女の体重がかけられて、彼の体がそちらに傾いた。左頬に、何かが触れる……。柔らかい、何か……。

「おい、あんた!人に見られたらどうする気だよっ?」

「大丈夫だよー、皆もう出発地点にいるもの。頑張ってね!」

そう言って彼に背中を向けて、弾む足取りで戻って行く……。先程以上の、大ダメージ……。頬が熱い。危なく、本気で再起不能になるところだった……。気を取り直して出発地点に向かい、颯に乗る。

「おい、お前顔が赤いぞ?風邪でも引いたか?」

凌江が横から問いかけて来た。鼓動が、治まらない……。

「ああ、大ダメージだった。そしてその後に出た特効薬が効きすぎなんだよ……。」

凌江が肩をすくめる。先程のやりとりを見ていなかった彼には、話の内容がわかるはずもない。もっとも景華にそう言っても、何が?と、目を丸くされてしまうだろうが……。用意、の掛け声がかかる。皆、一斉に姿勢を低くした。

「始めっ!」

五頭の馬が、一斉に飛び出した。皆一線に横並びで、最初の障害である石垣を迎える。この競技は障害物があるコースを馬で走り、先に着いた者から順番に得点をつける、という物だった。早くも最初の石垣で明暗が分かれた。柳鏡、英明が乗った馬は軽々と、しかも無駄なく石垣を飛び越えた。僅かに遅れて凌江の馬が着地し、高く飛び過ぎた大連と紅瞬の馬はかなり出遅れてしまった。

「意外とやりますね、柳鏡殿。」

隣からそう声がかけられた。これは虎神族の長、秦扇が決めた課題で、おそらくは息子が馬術を得意としていることから作った課題なのだろう、彼は余裕綽綽といった様子だ。

「前見ていないと落ちますよ?」

彼には視線を向けず、前方を見据えたまま柳鏡が言った。すでに、第二の障害である生垣が彼らの目の前に迫っていた。二頭の馬がそれを同時に飛び越える……。僅かに、英明の馬の鼻先が前に出た。

『柳鏡!』

彼女の不安げな喚び声が耳に響いた。実際に呼ばれた訳ではなく、頭に直接その声が響く……。負けられない。彼女のために、なによりも、自分のために……。折り返し地点の大木が見えた。これを回って、元来た道を戻れば良い……。木の周りを回るために、英明の馬の速度が若干緩められた。しかし、柳鏡は速度を落とさない……。二人の位置が逆転した。

「行くぞっ、颯!」

颯は、見事な急旋回を見せた。その場に砂煙をもうもうと立てて、走る。生垣を越え、石垣も越える……。そして。

「一着、清龍族の柳鏡殿!」

たたた、っと彼女が駆け寄って来るのが見える。柳鏡は颯の背から降りて、彼女を迎える準備をした。しかし……。

「すごいわ、颯!一番だなんて、偉い!」

柳鏡の期待とは裏腹に、彼女は自分の馬に抱きついた。本日二度目の、裏切り……。その様子が、妙に腹立たしい。ひきつった笑みを浮かべて、彼は彼女に訊ねた。

「おい、俺には一言もなしか……?」

「あっ、柳鏡もお疲れ様!」

声をかけられてから気が付いたかのように、そう付け足す……。彼女に悪気がないのはわかっている。だが……。

「馬の後かよ、俺は……。」

そう呟いた彼に、彼女は焼き餅?と楽しそうに聞いた。しかし、彼にはすでに答える気力すら残されていなかった……。

結局、二位以下は英明、凌江、大連、紅瞬となり、総合得点では一位が英明で十七点、二位の柳鏡が一点差で彼を追いかけ、三位が十点の凌江で、四位に九点の大連、五位の紅瞬は八点となっている。もし次の課題で柳鏡が一位を取り、英明が二位となって同点になってしまっても、これまでの功績からいけば柳鏡の方が評価が高いので、彼を優勝とすることができる。後は、柳鏡が一位を取れば良いだけとなった。


「いよいよ明日だね、景華。」

忠の課題の前の夜、景華の護衛にはいつものように明鈴がついてくれていた。彼女の言葉に、景華は笑顔で答える。

「うん!明日柳鏡が優勝してくれたら、明鈴さんにお願い事があるの!」

「え、私に?」

目を丸くする彼女に、さらにニッコリと笑いかける。

「そう、明鈴さんに。」

「えー、なになに?」

寝台の隣に腰掛けてくれた彼女の目を見て、その問いに答える。

「私が柳鏡のお嫁さんになったら、明鈴さんは義理のお姉さんでしょう?だから、明鈴さんをお姉ちゃん、って呼びたいの!私、ずっと兄弟が欲しかったから。ねえ、いいでしょう?」

ギューッときつく抱き締められる。

「もちろんだよ、景華ー!こんなにかわいい妹なら大歓迎だよ!私も女の子の兄弟がいなかったから、嬉しい!」

「えへへ、お姉ちゃーん!」

彼女たちがのんきにこんな話をしている間に、夜は更けて行った。


そして、いよいよ朝がやって来た。大会最後の種目、忠の課題が執り行われる、朝……。天気が良いおかげで、温かい日となった。外に特別に設置された競技場で最後の課題が行われるということで、朝からそちらに向かっている候補者もいた。

「柳鏡、緊張してない?大丈夫?」

朝食をとっていた柳鏡の元に、景華がやって来た。彼女の方が、よほど緊張しているように見える……。

「するかよ、緊張なんて。あんたの方がよっぽどヤバそうだぞ?」

「当たり前だよー、私の一生が決まっちゃうんだから。まあ、柳鏡が失敗しなければいいだけなんだけど。」

真正面に腰掛けて、真剣な口調でそう言う。思わずその真面目な顔に吹き出してしまった。

「ちょっと、なんで笑うのよ!」

「いや、あんた口でそう言っている程緊張してないだろ?」

「な、なんでわかるの?」

慌てたようにそう言う彼女に、笑いを噛み殺しながら説明してやる。彼が負けるだなんて全く考えていない彼女は、ぷぅっとふくれっ面になった。

「あんた、演技に集中し過ぎて顔がクソ真面目になり過ぎなんだよ。大体、試合前にこんな所に来て大丈夫なのか?」

「あ、それは大丈夫。他の候補者たちの様子も見て回って来たから。皆緊張してたよ。まあ、一人全く別の人種がいたけど……。」

「あんな奴の所にまで行ったのかよ……。」

彼が不機嫌になった理由は、彼女が英明の元も訪れた、ということだった。おそらく、いつもの軽薄な口調で彼女に接したに違いない。想像しただけで、吐き気がする。

「あんた、大丈夫だったのかよ……?」

「へ?何が?」

柳鏡が何をそんなに不安がっているのか、景華には全く想像もつかない。

「……あいつ、軽薄な口調であんたみたいな奴にまで迫りそうだったから……。」

「あんたみたいな奴にまで、って、随分失礼な言い方ね!別に何も言われなかったよ?今宵陛下の御元へどうのこうの、とか言っていたけど……。」

「十分迫られてるじゃねえか……。」

白い目で彼女を見つめる。彼女の鈍さは今始まったことではないが……。

「え、そうだったの?私、寝ぼけていらっしゃるようだから手水を持って来させます、って言って来ちゃった。……ひどいことしたかしら?」

「ブッ……!あんた、それは最高にひどいな!英明の奴、今までにそんなこっ酷い振られ方したことないと思うぜ?」

嬉しそうにそう笑って、彼はその大きな手で景華の頭を撫でてくれた。髪が乱れる……。

「だってー、わからなかったんだもん!」

むくれて彼にそう反論する。その様子を見て、彼がその表情を一層緩めた。

「あんたが鈍いのは昔から知ってるって。被害者は俺だけかと思ったが、そうでもないようだな。」

「柳鏡に迷惑かけたことなんてないよ!」

彼が再び冷えた視線を彼女に向けた。その両頬が、乱暴に彼の手に挟まれる。

「あんたがそれを言うのか?あんたの鈍さで俺がどれだけ苦労したと思っている?」

「知らないよ!大体、柳鏡には鈍さで迷惑かけたことないったら!」

彼女の頬を挟む力が、さらに強くなる。いい加減、腹が立ってきた……。

「じゃあ聞くが、あんた俺の気持ちにいつ気が付いた?ガキの頃か?清龍の里にいた時か?それとも母さんの珊瑚の首飾りを渡した時かっ?」

景華が首を横に振る。その答えは、予測済み……。

「龍神の紋章のせいで出て来た、青い鱗を見せた時じゃないのか……?」

そう、あの時の他にあるはずがない。それまでにも気付く機会はいくらでもあったが、鈍い彼女ならあの時がやっとだろう……。しかし、その問いにも彼女は首を振ってみせた。その向きは、横……。思わず、彼女の頬を放した。

「おい、じゃあいつだって言うんだよ?」

苦笑いして、彼女が答える。どうやら、自分がその鈍さで彼に迷惑をかけていたということがようやく自覚できたらしい。

「えっと……柳鏡が龍神になっちゃうのを、止めに行った時……。」

固まる。それから、ようやく言葉を見つける。

「嘘だろ……?」

「いや、本当……。」

大きく溜息をつく。果てしない、脱力感……。長年自分の片思いだったのはわかっていた。だが、あまりにもひどい返答……。虚しさが、彼の心を吹き抜ける……。

「いや、あんたに少しでも期待した俺が馬鹿だったんだ……。そうだ、あんたの鈍さをここまで痛感しておきながら、あんたに期待した俺が……。」

「あ、えっと……ごめんね?柳鏡……。」

苦笑したまま彼女がその手を胸の前で合わせた。もはや、笑うしかない……。

「あんたなぁ……。いや、もういい。これ以上言ったらきりがない。あんたの鈍さにはとっくに諦めがついていたんだ。ただほんの少し、そこの見極めが甘かっただけだ……。」

「何よーっ!さっきから聞いていれば人のことを鈍い、鈍いって!随分な言い草じゃない!そういう柳鏡だって、私の気持ちなんて気付きもしてくれなかったじゃない!」

ばつが悪くなって、彼女はついに怒り出した。これは、八つ当たりに近い……。その言葉に、柳鏡が苦笑する。

「清龍の里。具体的にいつからっていうのはわからねえけど、亀水の里に行く前後位から。違うか?」

「う……合ってる……。」

完敗。いや、初めから彼には敵うはずもなかったのだ。黙り込むその様子を見て、柳鏡がまた苦笑をもらす。

「まぁ、今更気にするな。……そろそろ行くか。時間だろ?」

「うん……。」

立ち上がって戸口に向かって歩く彼の背を見つめる。大きくて広くて、温かい背中。それが……。

「好き……。」

小さく呟いた彼女に、彼が振り返った。

「なんだよ急に。気持ちわりぃ……。」

聞かれてしまったことに対する照れ隠しに、その背中を思い切り叩く。

「何するんだよ、乱暴だな!あんた、そういうところ姉さんに似てきたぞ!」

「いいの!だって、明鈴さんは今日から私のお姉ちゃんなんだもの!絶対優勝しなさいよ!」

彼が笑った。優しい、心地良い微笑み……。

「……わがまま陛下の仰せの通りに。」

秋晴れの空が、その誓いを見守っていた。


競技場には各候補たちと部族長たちが、すでに集まっていた。景華のために用意された席の隣には、月桂樹の冠が置かれていた。これを、景華は優勝者の頭に被せてやることになっていた。候補者たちに、木刀が一本ずつ配られた。皆がそれを見て一様に目を見張る。

「これより、忠の課題を行います。候補者たちは、その木刀を持って競技場の中にお入り下さい。」

課題を作った者からそう説明をするように言われた景華は、言われた通りに説明をした。話が、続けられる……。

「それでは、今回は全員乱戦で戦っていただきます。木刀が手を離れた時点で負けです。勝敗がつくまでは、決して競技場の中から出ることのないように。木刀での決闘だなんて馬鹿らしいと思う方もいらっしゃると思いますが、私からの命令に忠実に従って下さい。それでは、始め!」

全員がバッと後ろ飛びに飛んで、距離を開けた。油断なく相手を見据える。

「お前に協力するぞ、柳鏡。陛下を手に入れるまで、あと一歩だろう?」

凌江が、そう言って柳鏡の背中の方に回ってくれた。彼らは、他の三人の候補に囲まれていた。

「恩に着る。なんなら、今度一騎打ちで負けてやろうか?」

真正面にいる英明を油断なく見据えながら、そう軽口を叩いた。凌江は、大連と睨み合っている。紅瞬も、柳鏡の方に回って来た。

「そりゃいいや。辰南の龍神を倒せば、俺の評価も上がるかもな。」

二人が、バッと逆方向に駆け出した。案の定、英明と紅瞬は柳鏡を追って来る。とりあえず適当にこの二人の相手をしておいて、凌江が大連を倒して戻った時に紅瞬を引き受けてもらえばいい。そう思った時だった。

「きゃあっ!」

彼女の、悲鳴……。二人の様子を窺いながらも、そちらに視線を走らせる。なんと、どこから入ったのかわからないが、彼女が腰掛けている席が刺客に取り囲まれている。その人数は、三人。その手には、抜き身の剣……。

『まずい!候補に渡したりしないように、と、部族長たちは武器を没収されている!だが……。』

勝敗がつくまでは、決して競技場から出ることのないように。その命令に対する、忠。もし彼女を助けに動けば、それが足りないと見なされてしまう……。課題をこなせなければ、失格。それは、彼女の期待に添えないということを意味する。

『柳鏡っ!』

彼女が、喚んだ・・・。足が、勝手に彼女の元へと動く。英明が笑うのが、目の端に映った。たとえ、優勝できなかったとしても。彼女が、他の人間のものになってしまったとしても。それでも、守りたい。

『怖い!』

久しぶりに味わった、恐怖という感覚。抜き身の銀の刀身は、彼女に今も一年前の恐怖を想起させる。足が、震える。誰も、自分を助けに動くことはできない。もちろん、彼も……。剣が、振り上げられた。恐ろしさに、ギュッと目をつぶる。

『柳鏡っ!』

無意識に喚ぶ・・のは、いつもその名前。彼女の体が、強いものに引き寄せられる。一年前のあの夜と同じ、あの感覚……。まさか。

「ダメ、柳鏡!戻って!失格になっちゃう!」

見上げた先には、思った通りに深緑の瞳。彼女を抱えたまま、なんとかその剣撃をかわした。

「アホっ!優勝したって、あんたが生きていなければなんの意味もないだろうが!考えろ!」

「柳鏡が優勝しなきゃ意味ないの!戻って!」

大好きなその腕のその感覚を、必死で自分から引き離そうとする。そうしなければ、この腕に抱き締められることが、永遠にできなくなるから……。

「あんた、俺を喚んだ・・・だろっ?聞こえたぞ!」

「っ……!」

反論できない。彼女は、確かに無意識のうちに彼を喚んで・・・しまったのだ。その言葉はとても嬉しいのに、現実が辛い。その時だった。

ブォーッ!

試合の終了を知らせる、角笛。刺客たちがそれを聞いて、いっぺんに剣をその鞘に収めた。何が起きたかわからずに、固まる二人……。連瑛が、前に歩み出た。

「陛下、これで私が作った忠の課題が終了いたしました。課題のためとはいえ陛下に刃を向けたこと、お許し下さい。」

「課題、ですか……?」

景華が首を傾げる。その体は、まだ柳鏡の腕の中に預けられたままだった。二人とも、その感覚が自然過ぎて気付いていない……。

「はい。恐れながら、我々が忠節を誓うべきは陛下が下された命ではなく、陛下ご自身。陛下の厳命があっても、我々は陛下をお守りするために動くべきなのです。各部族長にはその旨伝えてありましたので、武器を預けて陛下のために動かないようにして下さったのです。」

「父上、つまり……。」

柳鏡が口を開いた。そこでようやく景華を抱き締めたままだったことに気が付き、慌てて放す。

「つまり、この課題は陛下の御為に行動するかどうかを見極める物だった。そして、結果は見ての通りだ。お前以外の候補は、まだあの競技場の中にいるぞ……。」

連瑛の指差す先には、四名の候補が狐につままれた顔をしている様子があった。

「じゃあ……柳鏡が、優勝……?」

ようやく状況を掴んだ景華が、そう言葉を発する。その様子に、連瑛が満面の笑みで頷いた。そして、月桂樹の冠を差し出す……。

「陛下、どうぞ私の息子に冠を。彼が、優勝者ですよ……。」

大きく一息ついてから、冠を受け取る。その動作が、ひどく緩慢だ……。手が、小刻みに震えている……。

「俺では不満ですか?女王陛下?」

柳鏡が、いつもの意地悪の延長でそう言った。しかし、その頬は上気している……。

「そうね……。仕方ないから、あなたでいいわ……。」

対する景華も、いつものように素直ではない口調でそれに応じた。手に持った冠を、黒のくせ毛の上に載せようとする。しかし、意地悪な彼は決して屈んでくれようとはしない。景華がふくれっ面で文句を言おうとしたその時だった。

「きゃっ。」

浮遊感が、彼女を襲った。柳鏡に抱き上げられて、その深緑の瞳を見下ろす……。

「これで届くか?チビの女王陛下?」

いつもの彼女なら、ここで憤慨していたことだろう。だが……。

「うんっ!」

そう言って笑顔をはじけさせて、彼の頭に冠を載せる……。

「おめでとうっ!柳鏡っ!」

「ああっ!」

彼も、今までに見せたことのないような笑顔で頷いた。


シャラ……。

金鎖の音が、廊下から響いて来る。その後に、衣擦れの音……。

「陛下、柳鏡様がお越しになりました。」

「あ、どうぞ。お通しして……。」

スッと静かに戸が開けられる。景華の鼓動が、高鳴った。盛装させられた彼は、普段よりも勇壮で、見事な花婿ぶりだった。それなのに面倒なことが嫌いな彼は、いかにも不機嫌だといわんばかりの仏頂面だった。

「おやすみなさいませ。」

そう言って、彼を案内してきた女官は部屋を後にした。柳鏡は、その場に留まって動かない。しばらくして、彼が静かに口を開いた。

「……もういいか?」

その言葉に、景華が耳をすませる。女官たちの足音は、もうしない。

「うん、もう大丈夫。」

「あぁ、かったりぃ!」

彼女の返答を受けるや否や、彼は手に持たされていた杓を投げ捨て、被らされていた冠を乱暴に外した。その金鎖が、シャラ、と音を立てる。そのまま今度は上衣の襟に手をかけ、止め金を外す。その乱暴な彼らしい仕草に、景華は思わず笑ってしまった。

「あぁ、楽になった。まったく、なんであんたの所に来るだけで、あんなに面倒くさいことをしなきゃならねえんだよっ?」

そう言って、彼女の隣に腰掛けた。寝台が、少し軋んだ音を立てる。

「確かに、柳鏡は嫌いそうだもんね。でも……。」

せっかく着せてもらったんだから、もう少し着ていてくれれば良かったのに……。その言葉を、彼女は飲み込んだ。そんなことを言ったら、怒られそうだ。彼女も盛装させられていたが、それに対する言葉も、何もない……。

「おい、あんたもそんなものいつまで着ている気だよ?だるいだろ?」

一番内に着る綿の着物だけになった彼は、ひどく快適そうだ。

「うん、そうだね……。」

そう答えはするものの、まだ着ていたかった。彼から、何か言葉が欲しい……。もっとも、不器用で恥ずかしがりな彼にそんなことを期待するのも間違いなのだろうが……。

「ほら、さっさとしろよ。そんなものいつまでも着ていられたら、その……調子狂うだろうが。」

目を逸らす。その仕草が、彼が彼女をどう思っているのかを表している。

「えへへ……。かわいい?」

ふざけてそう訊ねる。アホか、という答えが返って来た。ここまでは、彼女の予想通り……。その返答に満足して、彼女も綿の着物だけになる。その間に、彼の口から続きがこぼれた。彼の目線は、反対側の壁に向けられている……。

「ほら、馬子にも衣装、って言うだろ?あんたみたいな奴でも、ちゃんとした服着たら……まあ、あれだ。その……綺麗に見えないこともない……。」

その言葉に、プッと吹き出してしまう。照れ屋な彼の、精一杯の褒め言葉……。寝台に膝を抱えて、座る。顔が赤い彼を、隣に眺める。

「なんかさ、普通はこういう時って緊張するものなんだろうけど、今更なんだよね。」

「ああ。今更だな……。」

隣から返って来るぶっきらぼうな答えが、嬉しい。今日から永遠に、彼女の隣からはこんな答えがずっと返って来るのだ……。

「ねえ、柳鏡。」

足元を見つめながら、彼に呼びかける。視線が自分に向けられたのが、わかった。

「明日は、何時に起きようか?」

そう明日は。約束の、九日後……。彼が微笑んでくれるのが、空気の流れだけでわかった。

「何時でも。わがまま陛下の仰せの通りに。」

視線を上げる。そして、深緑の瞳を捉える。その瞳に、笑いかけた。彼女のその表情は、今まで柳鏡が見た彼女の中で、一番幸福そうに見えた。


そして、それから一年の月日が流れた。

「ちょ、ちょっと柳鏡っ、起きて!柳鏡っ!」

朝の廊下に、元気な声が響き渡る……。

「なんだよ、うるせえな……。もう少し寝かせてくれよ……。」

「ダメーっ!朝食の時間があと半刻しかないの!また朝御飯抜きになっちゃう!」

相変わらず寝起きの悪い彼を、布団をめくって無理矢理起こす。どうやら、彼らの寝坊は九日後の朝だけに限らず、常習化してしまったようだ……。彼は恨めしそうに彼女を見上げ、乱暴に起き上がってから大きく欠伸をした。

「面倒だなぁ……。あんたが調子に乗って作った時刻法を撤廃すればいいんじゃないか?それに、朝食位抜いたってどうってことないだろ?」

「ダ・メ・な・の!」

いい加減な彼の様子に、景華は猛反対した。

「規則正しい生活を国民に勧めるなら、まず私たちがお手本を見せなきゃ。それに、朝食抜きだったら気分が悪くて、おぇー、ってなるでしょ?」

その時、彼女の口内に何かが込み上げてきた。慌てて口元を押さえる……。何とか治まったようだ。

「うぇーっ……。」

柳鏡は、単に景華が吐く真似をしただけだと思っていた。しかし。何かがまた、喉元までせり上がってくる……。彼女は、口元を押さえて今度は俯いてしまった。それも治まってから、彼を見上げる……。

「気持ち悪い……。」

「ほう、朝から人に喧嘩を売るとは、良い根性だな……。」

「うっ……。」

彼女がまた俯いた。顔色が悪い。そこで彼は、彼女が本当に調子が悪いのだということに気が付いた。

「おい、待てよ……。あんた、ここで戻すなよ!」

柳鏡はそう言って景華を抱え、勢い良く廊下に飛び出した。そして、渡り廊下の欄干からその身を乗り出させる。あまりの勢いに、近くを通りかかっていた女官が飛び上がった。

「医師を呼んでくれ!あと、薬師もっ!」

彼女は頷いて、パタパタと駆けて行った。景華の背を撫でてやる……。

「いいか?戻す時はせめてここからにしろよ!もう少ししたら、医師が来るはずだから……。」

「ふえぇー、気持ち悪いよう!」

情けない声を上げる彼女を、そう言って力付ける……。どうやらこのドタバタでは、彼らは今日も朝食にはありつけそうもない。だが、そんなことよりもはるかに素晴らしい知らせがもうすぐ舞い込むのだから、それも良しとしよう……。


物語の本当の終わりは、幸せに煌めいて……。

こんにちは、霜月璃音です。異国恋歌~龍神の華~の番外編第一弾をお届けします。今回はかわいらしく、をコンセプトに書かせていただきました。いかかでしたか?次回は景華たちの幼少期のお話を書きたいと思っています。そちらもお読み下さい。もしよろしければ、ご意見、ご感想などお聞かせ下さい。ここまでお読み下さった皆様、どうもありがとうございました。

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