女王陛下と龍神 龍神は、飛翔する
月明かりが、室内にも差し込む……。それが幼い兄妹と、その母親の姿を浮かび上がらせる……。母親が机の上に置いていた蝋燭は、とうに燃え尽きてしまっていた。それでも、母親が語る物語は、まだ終わらない……。
「じゃあ、いよいよお城に向かうんだね、景華姫……。」
兄の方が、そう口を開く……。妹の方は、眠そうに目を瞬かせていた。こちらはそろそろ眠ってしまうかもしれない……。
「そう。炎の砦は、彼女にお勉強を教えてくれていた鄭旦さんがすでに陥落させてくれていたから、景華姫たちは予定よりも早くお城に向かうことができたの。」
「柳鏡はどうなっちゃったの、お母様……?」
眠そうにその目を擦りながら、それでも話を最後まで聞こうとする……。娘のその姿に、母親は思わず微苦笑してしまう……。
「龍神の紋章のせいで、どんどん体中に青色の鱗が生えてきてしまったのよ。それでも、彼は景華姫のために最後まで戦うことを約束してくれたわ……。さあ、続きを話ましょうか。」
「長、やりました!ついに砂嵐族が寝返りました!虎神族からの援軍を担当してくれるという趣旨の文章が、たった今届きました!」
若い兵士が、昼下がりの炎の砦に息を切らして駆け込んで来た。それを聞いて、清龍族の長、龍連瑛は満面の笑みを浮かべた。
「そうか、ついに!早速姫君にお知らせしなければ!」
そう言って自分の部屋を飛び出し、階段を三階まで駆け登る……。その一番東側の部屋の手前で、彼は足を止めた。
「あぁーっ、ずるいよ、柳鏡!また私の負けー?」
そう不満気な声が、室内から漏れてくる……。
「あんたが弱過ぎるんだろうが、アホ。俺はずるいことはしてねえよ。」
そして彼の息子の、不敬にもほどがある、と言いたくなってしまうほどの言葉……。
「ちょっと位手加減してよー!もう一回!ね?いいでしょ?もう一回!」
「あぁ?面倒くせえ……。あんた、どうせ何回やっても勝てないだろうが。」
邪魔をしたくはないのだが、仕方なく室内の二人に声をかける……。
「姫君、連瑛です。御報告があって参りました。」
「どうぞ。」
室内からそう声があってから、その戸を開ける。どうやら二人で石取りの遊びをしていたようだ、床にいくつも黒い石が転がっている……。景華たち反乱軍は、砂嵐族の動向が安定していない、ということで、亀水族軍は北の水の砦に、清龍族軍は南の炎の砦に留まって様子を観察していた。そこで暇になった景華が、勝てもしない勝負を柳鏡に挑んだ、という訳だ……。
「父上、どうかなさいましたか?」
二人が立ち上がって、彼の方へと歩いて来る……。息子の深緑の瞳が、その父を捉えた。もう一方からは、真紅の瞳が見つめて来る……。
「ああ。姫君、申し上げます。砂嵐族が、やっと当方へ寝返りました。これでようやく城に向けて進軍できます。」
「本当ですか?良かったぁ。もしこちらに味方してくれないなんてことになったら、どうしようかと思いました……。」
そう言ってほっとした、というように胸を撫で下ろすその姿を見て、思わず頬が緩む……。
「アホ、父上の作戦に抜かりがある訳ないだろうが。それで父上、いつ頃出発ですか?」
そう軽く彼女を小突いてから、柳鏡が自分の父を見据えた。その視線の鋭さに、父親である彼も一瞬動揺する……。
「早ければ、明日にでも。ただ、準備に時間がかかることも考えられる。明後日、と思ってくれていた方がいいかもしれないな……。」
「わかりました。……あんたもわかっただろ?」
そう言って、隣の景華を見下ろす……。うん!と言う元気のいい返事が、彼女から返って来た。その笑顔は、前までのそれよりも数倍明るい……。彼と、笑う、という約束をしたからだ……。
「ほら柳鏡、続きしようよ!」
彼の腕に甘えるように飛びついて、そのまま先程座っていた所まで彼を引きずって行く……。連瑛は、静かにその部屋を後にした。
「……あんた、懲りねえな。まだ負け足りない、って言うのか?」
嫌味な口調に、とびきり意地悪な表情でそう訊ねる……。彼の予想通り、彼女がふくれっ面になって反抗した。
「次は絶対に勝つよ!柳鏡、覚悟してね!」
「途中で大地震でも来たら、あんたでも勝てるかもな。」
「何ですってーっ!」
顔を真っ赤にして怒る彼女を見ていると、自然と笑みがこぼれる。炎の砦に滞在している二週間、景華は精一杯柳鏡にわがままを言ってみせた。退屈だから遊んで、だの、じいと勉強をするから付き合って、だの……。傍から見ればそれはただ柳鏡を困らせているだけに見えるが、彼らには、ある約束があった。それは、柳鏡が景華のわがままをなんでも聞く、というもの。そして、景華はその代わりにずっと笑っている、と約束した。柳鏡が人でいられる、最後のその瞬間まで……。
「そう言えば、腕の調子はどう?」
急に真面目な顔付きになって、彼女が思い出したように問いかけた。明日ないし明後日からまた戦場に赴くのだ、気になって当然である。その上彼はこの軍の主力なのだ、彼がもし不調だとなれば、それはそのまま士気の低下に繋がってしまう……。
「あぁ、別に変ってねえよ。まぁ、少しずつ増えて来てるっちゃあ増えて来てるが……。」
この砦に入るまでは、呪いの青銀の鱗は彼の腕のみを覆い尽くしていたが、最近では、肩から胸にかけての部分にもその侵食が始められていた……。その答えに、真紅の瞳が伏せられた。彼女自身は知らない、龍神の華の称号を示す、その瞳……。彼の答えは、刻限が刻一刻と迫っているという事実を、そのまま景華に突き付けていた。その顔を見て、柳鏡も胸が痛む……。
「……今更そんな顔したって、仕方ないだろうが。時間がもったいねえだろ……。約束、破る気か?」
「そ、そんなことないよ!」
慌てて顔を上げて、彼に笑いかける。彼の黒いくせ毛が、秋の風に吹かれた。どんなに想い合っていても、彼らには時間がない……。しばしの平和な生活で忘れかけていた、現実……。
「ねえ、柳鏡。一つ、お願いしておいてもいい……?」
黙って視線だけを彼女に当てる……。約束をしてしまった彼に、選択権はない。それでも彼女がお願い、というのだから、何か重要なことに違いない……。真紅の瞳が、眩しい……。
「いつか……柳鏡が行かなくちゃダメになった時……。」
そう、それは、二人が離れなければならない時。彼が、人としての最期を迎える時……。
「その時は、何も言わずに行ってね……。」
真意がつかめずに、疑問を表す意味で片眉を軽く上げて見せる……。彼女が、笑った。切なげで、苦しげで、泣いている時よりも悲しそうな笑顔……。
「そうしたら、明日は帰って来てくれるかも、って、ずっと待っていることができるでしょう……?」
「……。」
胸が、痛い。張り裂けそうな痛みが、彼のその身を貫く……。できることならば、叶うものならば、彼女のそばを離れたくはない……。それでも……。
「……わかった……。」
運命には、逆らえない……。たとえ彼が人外の力の持ち主だったとしても、それだけは変えられない……。彼女のそばで、彼女を愛おしい、と思う度に、彼のその体は蝕まれていく……。龍神と龍神の華は、やはりお互いを滅ぼしてしまう運命にあるのだ……。彼の返答を受けて、彼女は小さく笑った。
「ちっ、砂嵐族め……!」
忌々しげにそう舌打ちして、趙雨は手にしていた杓を床に投げつけた。まさか、裏切られるとは……。彼らのその行動は、そのまま彼の政権への不満を表していた。もう、後がない……。父が送ってくれるはずの援軍は、その砂嵐族のせいで遥か西方で足止めをされていた。春蘭の父が送ってくれるはずだった援軍も、炎の砦の手前で反乱軍と未だにこう着状態だと言う……。
「苛立っても仕方ないわ、趙雨……。」
春蘭が、彼が投げた杓を拾い上げた。そのまま彼に歩み寄る……。
「こうなったら、恥も外聞も捨てて総力戦に持ち込むしかないわ。城の兵士たちは強者揃いだし、きっと大丈夫よ……。」
「ああ……。」
彼女が渡す杓を受け取って、どことなく上の空、という様子で答える……。彼の脳裏にちらついているのは、銀色の百合……。反乱軍、しかも三部族が、これだけ長い期間にわたって結集している……。そこから考えて、彼らは余程の旗印の下に団結したとしか思えない……。そして、その条件に最も適しているのが彼女だ……。唯一の直系の王族で、その母は亀水の長の一族出身、その護衛には清龍の長の息子である、龍神……。
「だが、なぜ生きていたんだ……?」
そう、彼女は死んだはずだ。ここにいる、春蘭の口から確かに聞いた。だが……。
「反乱軍の総大将が誰なのか、調べる必要があるな……。」
そう重く言って彼は、春蘭がいる部屋を後にした。彼女一人が、会議を執り行う閣議室に取り残された。そこには、四神剣が置かれていた。それを手でなぞりながら、ゆっくりと室内を見渡す……。赤い色は、嫌いだ……。
砂嵐族の協力があったおかげで、彼らは無事に進軍を開始することができた。なんでも城のそばまで通じている抜け道を教えてくれるとかで、景華たち清龍族軍の一行は、砂嵐族から派遣された案内役の人物について北進していた。
「砂嵐族は、万物に神が宿ると考えている……。」
相変わらず隣にいてくれる柳鏡が、そうこっそりと教えてくれる……。辰南国では、砂嵐族以外の部族は全て、それぞれに白虎、朱雀、青龍、玄武を神として崇めていた。唯一砂嵐族だけが、万物に神が宿るなどという独自の信仰を持っていた。その時、一行の足が止められた。景華と柳鏡も、馬の手綱を引く……。そこには、山肌にポッカリと口を開けた洞窟があった。普段は周囲に茂っている樹木に覆われているらしく、周囲には斬り倒された木々が転がっていた。奥に行くほど下っていっていることから、それは地下に通じているに違いない……。
「ここから、城の南門まで半日、という距離の場所まで移動できます。」
案内人が、連瑛に頭を下げてそう言った。南門は城下の街に面していて、そこから入ってしまえば罪もない街人を巻き込んでしまうのは目に見えている……。景華の眉が、ギュッと顰められた。その様子を見た柳鏡が、父の方へと馬を歩かせる……。
「父上、まさか南門から突撃するなんておっしゃいませんよね?民を巻き込むとなれば、姫は納得してくれませんよ?」
「……。」
柳鏡のその言葉に、連瑛はしばしの沈黙を持って答えた。それは、彼がまさか、と言ったことを実行しようとしていたことを表している。
「このままこの抜け道で南門のそばまで行き、その後近くの山林を迂回して東門に近付くのはどうですか?」
「それでは、時間がかかり過ぎるだろう……。城側に我々の存在が気付かれるかもしれない……。」
そうすれば、より多くの犠牲が出てしまうことが目に見えている……。柳鏡も連瑛も、密かに頭を抱えた。
「あの……。」
景華が静かに歩み出た。二人の視線が、彼女に注がれる……。
「半分に分かれるのはいかがでしょうか、連瑛様……。城の南門を攻めるふりをする軍と、東門に迂回して本当に城に攻め入る軍です。そうすれば、南門に城側の目線が向けられている内に、残りの人々が移動することができるでしょう?」
「攻めるふり、ですか……?」
そんな奇策聞いたことがないぞ、と思いながらも、連瑛は景華が話す続きに聞き入った。
「はい。本当に攻め入ったのでは、民の犠牲を生むことになりかねません。苦戦しているふりをして、うまく押したり、引いたりする必要があるんです……。」
柳鏡の目がほんの少し、驚きに見張られた。まさか、彼女からこんなに素晴らしい作戦が生み出される日が来るとは思ってもいなかった。彼女に兵法について教えてやっていた、懐かしい生活が脳裏に蘇って来る……。
「それは……。相当熟達した指揮官でなければできませんね、父上……。」
息子が自分に何を求めているのか、彼にはわかった。それに、心の中で強く頷く……。
「それでは、その役はこの連瑛が引き受けましょう、姫君。南門付近で亀水族の軍と合流することになっていますから、私たちは最初少数で行き、彼らと合流した後に南門攻めを開始します。それでよろしいですか?」
「ありがとうございます、連瑛様!」
景華がそう言ってニッコリと微笑んで見せた。
「あんたにしちゃあ上出来な作戦だったな。やってみる価値はある。」
これは、彼なりの褒め言葉だった。それでも、対する彼女は絶対にふくれっ面……。
「あんたにしちゃあ、は余計!この抜け道を行けば、城までどの位で着きますか?」
案内をしてくれている、砂嵐族の若者に景華が問いかけた。彼は深く一礼してから答える……。
「五日、長ければ一週間はかかります。何しろ中は真っ暗なものですから、足場がうまく取れるかどうかで変わって来てしまうのです。」
「馬たちは連れて入れますか?見た所、かなり広そうですが……。」
景華が、洞窟の入り口を背伸びして眺めながら訊ねた。その様子を見た柳鏡が隣でこっそりと彼女に言った。チビ姫、背伸びしないとそんな物も見えないのか?と。景華の肘鉄が、見事に柳鏡の鳩尾に吸い込まれた。そのまま柳鏡がむせ込む……。口は災いの元、とは、よく言ったものだ。もっとも、彼が鉄鎧を着ていればもっと別の結果が待っていたのかもしれないが……。
「連れて入ることは可能だとは思いますが……。乗って歩くことは困難でしょう。」
「わかりました。さあ、行きましょう、連瑛様。」
景華がそう言って連瑛に笑顔を向ける……。連瑛は、苦笑いをしてそれに応じた。自分の息子は、どうしてもこの姫には逆らえないな、と思いながら……。ゆるりと、行進が始められた。
「……死ぬ思いしたぞ……。」
恨みがましい目で彼女を見て、柳鏡がそう言った。それから、小さくむせ込んだ。景華にやられた肘鉄のショックが、まだ残っているらしい……。
「言ったでしょ?柳鏡だけは三十回位死になさい、って。」
景華がそう言ってつん、とすました顔をした。どうしても、一矢報いてやりたい……。
「洞窟の中は真っ暗かぁ……。誰があんたの脚触っても、わからねえな。その前に、誰かさんが怖い怖い、って泣き出さなけりゃあいいけどな……。なにせ、一週間も地の底だぜ?」
景華が、ぐっと返答に詰まった。実は、彼女は昔から暗い所が苦手なのだ。城にいた頃は、眠っている間でさえ明かりをつけていた。清龍の里では、夜に一人になることは滅多になかったので問題なかったが……。
「み、皆いるから怖くないし……。それに、そんな変なことするような人、柳鏡しかいないからね!もし何かあったら、犯人は絶対に柳鏡!」
「アホ。あんたの脚なんか触ったって面白くねえよ……。俺にだって選ぶ権利位ある。」
「よくも言ったわね!覚えていなさい!」
顔を真っ赤にして怒る彼女に、ほんの少し笑いかける。それだけで彼女が大人しくなってしまうことを、彼は知っていた。案の定、彼女は赤い顔のまま俯いて、彼から視線を逸らした。そのまま一行は、地の底への入り口をくぐった。ひんやりとした空気が、洞窟内を包んでいる……。時々、水が落ちる音も聞こえてくる……。
「前に退治した奴の、住処みてえだな……。」
柳鏡が、景華だけにこっそりと呟く……。その後で、まずい、と思った。景華には、大蛇の妖怪を退治した話は聞かせていなかった。
「前、って、いつっ?」
対する彼女は、真っ暗な上に足場の悪さが災いして、必死になって歩いていた。一歩を踏み出すごとに、一言を話しているという状態……。柳鏡が溜息をついた。
「あんたなぁ……。そんな歩き方していたら、一月はここを抜けられないぜ?怖い怖いと思うからそんなへっぴり腰で歩いているんだろうが。」
情けない、と呟く柳鏡だったが、今度は肘鉄が飛んで来ることもない。どうやら、本当に真剣なようだ……。ふと彼が足を止めると、景華もその歩みを止めた。暗闇でも、じっと彼女が自分を見上げているのがわかる……。その表情まで、はっきりと。
「だって歩きにくいんだもん!転んだら痛いし……。」
確かに足元はごつごつとした岩場だ、転んだら半端なく痛いだろう。だが先程の話であったように、馬に乗るのは到底無理な話だった。天井の高さが、馬の背丈とギリギリなのだ……。
「文句言うんじゃねえよ。これで無事に城のそばまで着けば、万々歳だろうが。」
「わかってるわよー。だから、頑張って、いるんで、しょ!」
口を尖らせて、彼女は再びそのおかしな歩き方を始めた。その滑稽な姿に、思わず吹き出しそうになる……。仕方なく、柳鏡が彼女の前に出た。
「いいか?俺が歩いたところを歩け。あんたと違ってまともに足場を選んでいるからな、いくらかマシだろう。この位の距離でなら、なんとか俺の足位見えるだろ?」
そう言って、彼女を振り返らずに歩き出す……。
「無理だよ、柳鏡。七寸も背丈が違うんだもん、柳鏡の歩幅で歩くなんて無理!」
そう不平をこぼしながらも、彼に言われた通りにその足跡を辿ってみる……。
「あれ……?」
一歩を踏み出して、驚く……。その後、二歩目を踏み出して、確かめる……。そして、三歩目を踏み出して、確信する……。
「ねえ、柳鏡。歩幅、合わせてくれてるの……?」
それには答えずに、彼はどんどんと先へ進んで行ってしまう……。それでも、その歩幅は彼女のそれに等しい……。
「ねえ、柳鏡ってばー!」
景華の声が、洞窟内に反響した。それに気が付いてから、慌てて口を押さえる……。柳鏡が振り返らずに彼女に言った。
「仕方ないだろ、どこかの誰かが寸足らずなんだから。大体あんた、チビのくせに声だけでか過ぎ……。」
「失礼しちゃうわねーっ!」
その声もまた、洞窟内に響く……。しかし、清龍の兵士たちは二人のこんなやり取りにはもう慣れているので、無視してひたすら進軍を続ける……。日の光が恋しくて、たまらない景華だった。
「洞窟かぁ……。行ってみたい気もするけど、本当に真っ暗なんだろうね。」
好奇心旺盛な兄妹は、洞窟、という空間に興味を持ったようだった。
「お城の近くにも、ありますよ。」
母親のその言葉を受けて、二人の顔がパッと輝く……。
「行ってみたい!お母様、連れて行って!」
その言葉に母親が苦笑してみせる……。二人が布団から出している手をその中にしまってやりながら、それに答えてやった。
「そうねえ……。お父様が連れて行ってくれる、っておっしゃったら行って来てもいいわ。」
「じゃあ、お母様からお父様に頼んでよ!お母様が頼めば、お父様は絶対にダメって言わないよ!」
それには母親は首を横にふってみせた。
「自分たちでお願いしなさい。そういうことも、お勉強です。続きを話しますよ?」
抗議の言葉を言わせないための、とびっきりの手段……。それが、お話の続き、だった。
「景華姫たちは無事に洞窟を抜けることができました。途中で一度、大蜥蜴の妖怪に襲われましたが、勇敢な清龍の戦士たちが戦ってくれたおかげで、景華姫は再び生まれ育ったお城を見ることができたのです。」
「ふえぇ……。怖かった……。」
地上に出た景華が発した第一声がその一言だった。隣の柳鏡がそれを聞いて鼻で笑った。
「あんたは人の後ろからちょろちょろと歩いて来ただけだろうが。おまけに、あの蜥蜴が出た時だって人の陰に隠れていただけだろ?」
出口の手前で、一行は大蜥蜴の妖怪に遭遇してしまった。どうやらあの洞窟の主人だったようで、縄張りを荒らされたことで怒ったらしかった。しかし清龍の兵士たちが皆勇敢で、率先してその蜥蜴と戦ってくれたことから、柳鏡は後方で景華の守護に徹していたのだった。
「別に庇ってくれなんて頼まなかったもん!」
そう言ってむくれる彼女に、柳鏡が脅しをかけた。
「あんた、知らないのか?ああいう妖怪は、若い女っていうのを好んで食べるんだぜ?あんたも見つかっていたら今頃、あいつの腹の中だったかもな。」
「そんな気持ち悪いこと言わないでよー!」
自分の肩を抱いて震え上がるような仕草をみせる景華に、柳鏡はおかしくなって吹き出した。本当は、そんなことになるはずもなかった。なぜなら、自分がいるからだ。
「姫君、ご覧下さい。ここから城を眺めることができますよ。」
連瑛がそう声をかけて、前方を指差す……。月の光に浮かび上がって、城は荘厳な雰囲気を醸し出していた。懐かしさに、彼女の口からは言葉が失われてしまった。白い壁も、緑の屋根も、朱色の渡り廊下も、細かな装飾の数々も……。彼女が城を最後に見た一年前と、その様子は何も変わっていない。何も知らずに平和に暮らしていた、あの一年前と……。
「やっと戻って来られたな。」
隣の柳鏡が、彼女を見下ろしてそう言った。城を見つめる彼女の横顔は、妙に切なげだ……。
「何も……変わっていないね……。今まであったことが、全部嘘みたい……。」
それでも、彼女はわかっている。時間は、元には戻せない。たとえ、どんなに望んでも……。
「今日はここで休むことになります。明日、二手に分かれて進軍を開始しましょう。」
連瑛はそう言って二人のそばを離れた。城を見つめるその目から、二人にしかわからない物があるということを感じさせられたからだ……。景華が溜息をついた。
「……趙雨と春蘭も、あそこにいるのかな……。」
「いるだろうな……。趙雨は王なんだし、春蘭は……なんとなくいる気がする……。」
柳鏡が城を見つめる目が、ギュッと細められた。深緑の瞳が、月の光を反射する……。そこにあるのは、深い怒りと悲しみ……。
「私ね、これで良かったと思うの……。」
意味不明な景華の呟き……。柳鏡の視線が、彼女の横顔に当てられる……。
「何も知らないまま趙雨と結婚して、何も知らないまま平和に暮らして……。そうじゃなくて、良かったなって……。」
自分の父を失い、友を滅ぼすことになってしまった……。それでも、彼女は現在の形で良かったと言う。柳鏡の目が、彼女の横顔に問いかける。なぜ、今の形で良かったと思うのかを……。
「あのまま城にいたら、皆がどんな暮らしをしているのかを知って、考えることもできなかったでしょう?ずっと周りに甘えっ放しで、自分で何かをするってこと、知らないままだったと思うの……。」
彼女の髪が、夜風に舞い上がる……。その柔らかい香りが、彼の鼻腔にも届いた。紋章が、彼の中で疼く……。
「それにね……。」
そこで、彼女の真紅の瞳が彼に向けられた。月光が、それを照らし出す……。
「あのまま趙雨と結婚していたら、自分の本当に好きな人、わからなかったかもしれないもの……。」
「……。」
彼は、その言葉には答えない……。いや、応えたくても、それができなかった。そして彼女も、それを知っていた……。夜風が、二人の間を吹き過ぎる……。
「なーんてね!本気にしたっ?」
悪戯っぽく笑ってそう言う……。その彼女が、本気で先程の言葉を言っていたことも彼にはわかっている……。それでも。
「する訳ないだろ、アホ。」
そう言って彼女の額を軽く指で弾いてやる。痛っ、と言う声が上がって、抗議の視線が返って来た。それに、笑いかける……。秋の木の葉が、風に舞い上がった。
「柳鏡。」
父親が、彼を呼んでいるのがわかる……。その声を聞いて、彼は困った。
「俺にどうしろと言うんだ……?」
そう言って、自分の左側を見下ろす……。その肩には、景華の頭が乗せられていた。彼女は、彼の気も知らず規則正しい寝息を立てている。隣に座って彼女のとりとめもない話を聞いてやっている内に、彼女が彼の方へと倒れて来たのだった。彼を見つけた父親が、歩いて来る……。
「なるほどな、呼んでも来ない訳だ……。」
その様子を見て、苦笑する……。
「申し訳ありません、父上。何かありましたか?」
そのまま自分の父親を見上げて、彼が苦笑していることを確認する……。だが、その笑顔が嬉しそうに見えることも事実だ。
「いや、特に用があった訳ではないが……。明日からお前とは別々の行動をとることになるからな、そちらの隊の指揮を任せる旨を伝えておこうと思ってな……。」
「わかりました、全力を尽くします……。」
それから、連瑛の視線がチラリと景華に注がれる……。そして、今度は目を細めて穏やかに笑った。
「お前はこの前、お前の母が望んだような生き方はしていないと言ったな……。」
母が自分に望んだような、波風の立たない、穏やかな人生……。それは、彼が龍神の紋章を解放してしまった時点で守られていない……。彼は、父の言葉に無言で応えた。
「私は、そんなことはないと思うがね……。」
「なぜですか……?」
その言葉に、目を上げる……。紋章を解放して呪われた運命を歩んでいる自分の人生の、どこが穏やかだと言うことができるのだろうか……?
「これまで見たお前の中で、今が一番、穏やかな表情をしている……。」
確かに、そうかもしれない……。たとえ残された時間が僅かだったとしても、その間は彼女と一緒にいようと、彼女のわがままを精一杯聞いてやろうと誓った。そして彼女からもその分の、いや、それ以上の笑顔が返って来るようになった。その事実は、彼を十二分に満足させていた……。
「確かに今が……今までの俺の人生の中で一番幸福で、満ち足りているのかもしれません……。」
息子のその表情は、本当に今のその状況に満足していることを表していて、その父親にはそれが何よりも誇らしく、そして、悲しかった……。もっと時間があれば、彼には間違いなく今以上の幸福が待っている。それなのに、彼はそれを望むことが許されていない。そして、息子はそのことに満足しているのだ……。彼は、息子に背を向けた。その背中が彼の目にどう映ったかは、わからない……。
次の日、連瑛は少数精鋭を率いて亀水族軍との合流地点に向けて出発して行った。柳鏡の指示で景華たちの軍も準備が進められ、彼らを見送ってすぐに出立した。
「颯!また乗せてね!」
景華がそう言って彼女の馬の胴を撫でた。彼女が乗っていたのは、一年前に城から一緒に脱出した馬だった。
「おい、もっとマシな名前つけてやれよ。そいつ、雌だぜ?」
柳鏡が苦笑交じりにそう言ってやる……。おそらく、彼女は性別などまるで気にせずに名前をつけたのだろう……。
「いいの。ねえ、颯?素敵な名前でしょう?」
その言葉に馬が小さくいなないた。
「ほら、嫌がっているだろ?センスねえな、って言っているぞ?」
「違う!今のはもちろん、って意味!」
馬の言葉などどちらもわからないくせに、くだらない口論のネタにする……。一番迷惑をしているのは、当の颯だろう……。
「出発準備、整いました。」
二人の間に、勇気ある兵士が割って入った。これで、なんとかひと段落ついた。
「東門に向けて、出発!」
柳鏡の号令で、隊列がゆっくりと進み始めた。連瑛との予定では、二日後の夜には東門に到着し、三日後には城に攻め入る予定だった。彼らは、明日から南門攻めを開始すると言う……。
「何っ?反乱軍が南門をっ?」
趙雨の驚きに満ちた声が、閣議室にこだました。その次の日、連瑛は言葉通りに南門攻めを開始した。もっとも、彼らに対する備えがされていたのだろう、門に常駐している警備兵にしては数が多かったので、ふりをする必要もなく、彼らは真実苦戦していた。
「いいか?攻め続けるぞ!昼の部隊と夜の部隊に別れて、昼夜を分かたず攻撃しろ!」
東門に回った部隊が城に侵入するまで、彼らの隊は城からの攻撃を一手に引き受けなければならない。たとえ亀水族軍と合流していたとしても、彼らと違って砦を一つ落として来ている亀水族軍は、人数がかなり減っていた。その上、清龍族軍はほとんどが景華や柳鏡とともに東門側に向かってしまったのだ、門の方には城からの援軍がどんどん来る以上、彼らは不利な戦いを強いられていた。
「慌てるな。砂嵐族が裏切った時点で、彼らの里に面している南門には人員が多く配備されている。城からどんどん援軍を出して潰せっ!」
この攻撃は、趙雨の予想の範囲内のことだった。いずれ彼らの攻撃がこの城に届く際は南門からだということは、反乱軍が起こったという時点で予測していた。しかし、彼らがここまで進軍してきたのは、彼の予想よりもはるかに速い……。彼が内心では動揺していることも、確かだった。いてもたってもいられなくなって、彼女の姿を探す……。
「ここよ、趙雨。」
いた。彼のすぐ後ろに、彼女は立ってくれていた。その姿で、彼は心の平静を取り戻した。
「他の門は?大丈夫なの?」
心配そうに眉根を寄せる彼女に、笑いかける。少しでも、安堵させてやりたくて……。
「ああ、問題ない……。南門は一番低くて攻めやすい構造だから狙われたんだろう……。」
「そう……。」
小さく答えて、彼女の目が南門の方向に向けられた……。その表情からは、不安、というものが抜けきっていなかった。
「父上たちが南門攻めを開始したみたいだな……。」
山の中に分け入っていても、その喧騒が風の流れで聞こえてくる……。一方の景華たちは、当初の予定通り近くの山林にその身を隠しながら着々と東門との距離を縮めていた。
「うん。さっきから声が聞こえるようになったね……。」
隣で、彼女が目を伏せる……。ついに、趙雨たちと正面からぶつかることになってしまったのだ。
「ほら、早く行かねえと、父上たちがやってくれていることが無駄になるぞ。」
その切なげな表情が見ていられなくなって、そう声をかける。
「うん……。」
「俺たちも明日には東門の前の林まで行って、明後日には突撃しなきゃならねえんだ。総大将のあんたがそんな顔していたら、士気に響くだろ?」
その言葉には答えずに、彼女は喧騒がする方をじっと見つめた。南門攻めを引き受けてくれた連瑛のためにも、急がなければならない……。
「私の鎧と剣を持て!前線に出る!」
城では、趙雨がついに堪え切れなくなって、出陣の準備を始めた。
「ダメよ、趙雨。たかが反乱軍相手に王が出たりなんかしたら、権威が失墜するわ!」
「元からあってないような権威だ!そんなもの、今更!」
鋭い音が、辺りに響いた。自分の頬を抑えて呆然とする趙雨と、唇を噛み締めてその彼を見つめている春蘭……。その顔は、青かった。
「行っちゃダメ!あなた、柳鏡に勝てるのっ?」
久々に聞いた、その名。懐かしく、苦い……。
「なぜそんなことを聞くんだ?南門を攻めている連中には、それらしい奴はいないという話だぞ?」
「あなたが出て来るのを待っているに決まっているわ!」
趙雨の青い瞳が、見開かれる。あいつに限って、そんなことをするだろうか……?
「いい?あなたは彼の敵なの!その彼が、あなたを見逃すはずがないでしょうっ?」
それに……。春蘭が、彼から目を逸らした。もし彼が前線に出てしまえば、出会ってしまうかもしれない。大嫌いな、真紅の瞳の少女に。死んだことになっている、彼女に……。
「行かないで!行っちゃダメ!行かないで!」
泣きじゃくる彼女を見て、呆然とする。一体、何が怖くて彼女は自分を引き止めようとしているのだろうか……?だが、彼女がここまで言うのであれば、答えは一つだ。
「わかった、行かないよ……。ただ、念のために武装はしておこう。城の中にいる者は、全員武器を持て!」
趙雨の合図で、その場にいた全員がバラバラと動いた。城の中にいても、外の喧騒は聞こえてくる。趙雨の眉が、ギュッと顰められた。反乱軍の大将は、女性だと言う。まさか、本当に彼女なのだろうか……?
「そんなはずはない……。」
彼が小さく呟く声に、春蘭の肩がビクリと震えた。喧騒は、今はまだ遠い……。
「いよいよ明日だな……。」
景華と柳鏡が率いている清龍族軍は、ついに東門の正面にある林の中に辿りついた。途中で城の警備隊に見つかることもなく、奇襲攻撃を仕掛ける条件は、きちんと整えられていた。
「うん……。城、よく見えるね……。」
この前その姿を並んで眺めた時よりも、近い……。おそらく距離的な問題だけではなく、精神的な問題もあるのだろう。喧騒が止むことなく聞こえてくることから、連瑛たちが夜にも関わらず攻撃を続けていることがわかる……。
「近くに来たんだから、当たり前だろ。」
そう言って腰を下ろした彼の隣に、自分も腰を下ろす。兵士たちは、明日に備えて各々休息に入っていた。
「明日、城に入ったら……私、本当に王様になるんだね……。」
「そうだな……。」
そうしたら、彼女は彼の手が届かない存在になってしまう。元々あってないような距離だが、その間を詰める……。
「王様になったらね、やりたいことがたくさんあるの。」
そう言って笑うその姿を、横から見下ろす。今日も、月が出ていた。どうやら、明日は満月のようだ……。
「まずね、全国の戸籍を作るの。生活水準も調べて、必要な支援ができるように。それから、いつになるかわからないけど、五部族を全部統一したい。そうすれば、こんな争いが起きたりはしなくなるでしょう?」
「ああ……。」
しっかりとした目で、平気で未来のことを話す彼女を見つめる。自分には、望むことすら許されない世界……。彼女の横顔が、ひどく眩しい……。
「それからね、王族の親戚を調べて、誰か一人を私の養子として城に招くの……。」
「は……?」
彼女が何を言おうとしているのか、彼には全く見当もつかない。なぜ、そんなことをする必要があるのだろうか?彼女自身の子供を王位につければ、それで問題はないはずだ。
「だって……。」
彼女の顔から、目を逸らす……。彼女が自分との約束を破るところなど、見たくない……。月の光が、彼女の頬を一筋になって滑った。
「決めたんだもん、誰とも結婚はしないって……。柳鏡がいなくなっちゃうってわかった時に、決めたの……。」
彼の左腕が、横にいる彼女へと伸びる。呪われた、青い左腕……。しかし、それが彼女の背中に触れる寸前で、固く握りしめられた。自分には、彼女を慰めてやる資格すらない……。
「龍神は……。」
ふと空を見上げて、彼が話す。自分が約束を破っているところを見ないようにしながら……。
「龍神は、普通天空を常に翔けているそうだ……。けれど、俺はそうはしない。」
言葉を切って、彼女を見下ろす……。彼女が慌てて涙を拭うのが見えた。どうやら、約束は守ってくれるらしい……。
「どこかの誰かが、寂しくてメソメソと泣くからな……。」
その言葉に、彼女は笑ってみせた。約束を守って……。それに、自分も応える。再び、柳鏡が空を見上げた。
「紋章を解放した時には、永遠の命とか、巨万の富とかって言葉にすげー惹かれたのに……。」
隣から見上げて来るその瞳は、月の光を受けて、赤い。彼が送った、珊瑚の首飾りを思い起こさせる。ただ赤いだけではなく、どことなく、淡く感じられる……。
「どうしてだろうな。今更だけど、龍神になんかなりたくねえや……。普通、喜んでなるはずなのにな……。」
その横顔が、痛い……。彼は、以前までは龍神になりたいと思っていた。そうすれば、自分を疎む里の人々との関係を断ち切ることができ、手に入ることのない彼女を見つめて心を痛めることもないから、と……。それなのに、彼の人生はその紋章を解放した時から大きく方向を転換してしまった。ここまでの戦いで自分の一族の兵士たちが見せてくれた、自分に対する信頼。そして、手を伸ばせば触れられる距離にいる、彼女……。全てを手に入れたと思った時には、すでに刻限が迫っていた……。
「こんなに嫌々龍神になるの、後にも先にも俺だけだと思うぜ?」
最後には、おどけた調子でそう笑って見せる……。彼女からは、何も返っては来なかった。
次の日、景華と柳鏡率いる清龍族軍は早々に出発準備を整えた。不本意ながらも、彼も鉄鎧を纏った。
「ちょうど今の時間に警備も交代するはずだ。行くぞ!」
彼らは、一斉に飛び出した。
「陛下!ご報告いたします!東門に敵襲です!」
「なんだとっ?数はどの位だっ?」
「約三千と思われます!」
苛立ちを募らせていた趙雨の前に東門の守護を任されていた兵士が現われて、そう報告した。三千……。南門と東門を同時に攻められ、なおかつそれだけの人数がいれば、到底対応しきれない。
「くそっ……!ここまでか……?」
ギリリと歯噛みする。反乱軍のここまでの結束は、まったくもって予想外だった。そして、さらに耳を疑う知らせが舞い込む……。
「陛下!」
それは、東門に配属されていた別の兵士だった。蒼白な顔をして、趙雨の前に転がり込む……。
「も、申し上げます……。龍神が現われました!龍柳鏡が、東門に!前線には出て来ていませんが、どうやら女将校を守っているようです!」
頭を、何かでガン、と殴られた気がした。強い衝撃が、彼の思考を停止させる……。彼が、現われた。辰南の、龍神……。そしてその彼が守護をしているということは、その女将校の正体は……。
「増員を、陛下!東門の常駐部隊は、皆龍神に臆して浮足立っています!」
周りの声が、遠くに響いている……。東門の部隊が臆するのも無理はない。これまでの戦いで、彼らは龍神が戦場を舞う様を目の当たりにしている。味方だからこそもてはやし、頼りにしていた龍神だ。その彼が今、眼前に敵として現れた。もはやそれだけで、東門の兵士たちは戦意を喪失していた。いざ龍神が前に出れば、彼一人で自分たちの隊など壊滅させられてしまうだろう。その恐れが、彼らの思考を支配していた。春蘭が、前に出る……。
「これ以上の増員は無理よ!南門に兵力を多く傾けてしまっているもの!その上、城の守護もさせないと……!」
喧騒が、近くに迫って来る。趙雨が小さく、まさか、と呟いた。春蘭の薄青の瞳が見張られる……。
「東門が破られた!反乱軍が城に向かっている!」
最後に走り込んで来た兵士は、もはや趙雨に対して敬意を払うことも忘れていた。城にまで反乱軍の攻撃が及んだのは、初めてのことである。龍神の存在に完全に浮足立っていた東門からは、兵士たちが次々に脱走していた。それが原因となって、東門はこのような速さで破られてしまったのである。
「来るか……?柳鏡……。」
そして、彼女も……。彼が築き上げた政権は、どうやら脆い砂の土台の上に立っていたようだ。体中の力が、抜けて行く……。
「思ったよりも早く落とせたな。早く行くぞ!逃げられたら探すのも厄介だ!」
柳鏡がそう言って彼女の手を引く。向かう先は一つ。趙雨と春蘭がいる、王城……。途中懸命に立ち向かって来る兵士たちを、柳鏡が皆薙ぎ倒す。彼の左腕は、皮肉にも人でなくなって行く内にその力を増していた。今は、あの大剣が苦も無く片手で扱える……。市街地で馬を乗り回す訳にも行かず、城までは彼らの足で行くことが余儀なくされた。
「待って柳鏡!早い!」
景華はなんとか彼が走る速度について来てはいるが、息切れを起こしてひどい。
「手が空いている者はついて来い!これから王城に向かう!」
柳鏡のその言葉に、バラバラと清龍族の兵士たちが動いた。それを目の端で確認してから、景華を右手で抱えて走る……。彼女が暴れるのがわかった。
「ちょっと、自分で走るわ!」
「アホ、あんたの鈍足には付き合い切れねえんだ!あんたのせいで趙雨たちを逃がしたとなったら、目も当てられないだろっ?」
彼女を抱えながら走って思い出すのは、一年前のこと。ちょうど一年前のこの時期に、茫然自失といった状態の彼女を抱えて城から脱出した。そして今は、その彼女を抱えて城へと戻っている……。一年は彼にはとても短く、そして、満たされていた……。
「おいあんた、平和ボケで一年前より太っただろっ?」
彼女の体が前よりも重く感じるのは、その存在が彼の中でより重くなったせい……。それが、物理的な重さにも感じられる……。
「失礼ね!そんなに変わってないわ!」
真剣な戦闘の最中だが、彼女に向かってまた軽口を叩く……。それは、彼女が緊張しなくていいようにという彼なりの配慮だった。
「そうだよな、太った割にはどこも色っぽくなっていないもんな!なぁ、痩せっぽっちのチビ姫!」
「死ね、変態!死んじゃえ!」
憤慨してジタバタと暴れる彼女を下ろす。そして、先程までとは一変して鋭い視線を前方に向ける……。そこには、衛兵たちに囲まれた趙雨の姿があった。
「やはり御存命だったのか、景華姫……。」
「久しぶりに会ったのに随分な挨拶だなぁ、趙雨。自分で姫の死体まで仕立てておいて、それはないんじゃないか?」
柳鏡が鼻で笑う……。趙雨が彼の腰から提げられている剣の柄に手をかけた。すでに、清龍族の兵士たちと城の衛兵たちはそれぞれに戦闘に入っていた。一方の彼らは、まだ睨み合いを続けていた。
「……姫様は亡くなったと聞いていた……。だが反乱が起きた時、まさかと思った……。」
「ほう、今更しらを切るとは、良い根性だぜ……。」
柳鏡の全身からは、怒りが滲み出ている。今までの鬱屈した感情が、彼の口を衝いて出る……。
「お前になら、姫を幸福にできると思っていた……。だが、俺や姫のその信頼に対するお前の応えが、一年前のあの事件だ……。俺は、お前を許すわけにはいかない。」
趙雨が愉快そうに笑った。そしてその後、柳鏡を鋭い視線で見据える……。
「相変わらず姫、姫か……。本当にお前は、子供の頃からなんの進歩もないな……。さては姫、この乱が成功した暁には彼の妻になるとでも約束したのですか?それで彼に頼んでこの乱を起こさせたのでしょう?そうすれば彼は玉座もあなたも得ることができるのですから、喜んで協力してくれたことでしょうね……。」
「柳鏡は地位や名誉を望むような人じゃない!あなただって知っているくせに!」
景華の言葉を受けて、趙雨がまたおかしそうに笑った。そして、ゆっくりと剣を抜く……。
「そうです、知っていますよ、姫。彼はあなたさえ幸福ならそれでいいと思っていた人間ですからね……。外の様子をあなたに陳述して、あなたから珎王に民の救済を嘆願していただこうかとも考えました。しかし、外での惨事はあなたが知らなくていいことだ、と彼に反対されました。辛いこと、汚れたことはあなたにお聞かせしなくていい、とね……。」
「随分とおしゃべりだな、趙雨……。」
彼の様子に、柳鏡も手に持っていた大剣の柄を握り直した。彼を見据えるその目には、鋭い光が宿されている。景華は初めて、柳鏡のことを怖い、と思った。彼のその表情は、景華が今までに見たことがないほど険しかった。
「それに、剣なんか抜いてどうする気だ……?まさか、俺と戦うつもりか?自殺行為だぞ?今の俺は、すこぶる機嫌が悪い……。」
趙雨が剣を鋭角に構えた。完全に、攻撃に移る体勢だ……。
「わかっている……。私がお前に勝てる訳がない。それでも、戦わない訳にはいかないんだ!」
ガン、ガシィィィィィン!
金属の不協和音が辺りに立ち込める……。柳鏡の大剣と趙雨の剣がぶつかり合って、火花を散らす……。景華は、彼らの邪魔にならないように一歩身を引いた。
「アホっ、何をボヤボヤしている!」
鍔迫り合いのこう着状態から趙雨を弾き飛ばして、柳鏡が振り返らずに彼女に言った。
「春蘭を探せ!あいつもどこかにいるはずだ!忘れるな、あいつも珎王を殺害した犯人なんだぞ!」
その言葉に強く頷いて、景華が駆け出した。懐かしい、城……。でも今は、その感傷に浸っている暇さえない……。通りすがりの部屋を、順番に見て行く。
「いない。……ここも、いない……。ここも……。」
閣議室の扉に手をかけた、その時だった。
「死ねっ!」
「きゃっ!」
後ろで銀光が閃くのが、僅かに視界に入った。慌てて後ろからの斬撃をかわす……。深緑の髪が一束、先程まで彼女がいた位置に舞った。振り返って、次の攻撃を剣で受け流す。彼女に向かって剣撃を繰り出して来るその人物は、彼女が探していた春蘭だった。激しく素早い攻撃が、続けて繰り出される……。
「やだ!止めて、春蘭!」
かなり際どいところでその剣撃をかわしながら、必死で彼女を止めようとする……。それでも、春蘭の手が休まることはない。
「どうして戻って来たのよ!あなたなんてっ!あなたなんてっ……!」
景華が、後ろに跳び退って彼女の攻撃が届かないところまで逃れた。ようやく、春蘭の攻撃の手が止まった。
「春蘭、春蘭に会ったら、ずっと聞きたいことがあったの……。」
肩で息をしながら、景華がそう言葉をかける……。対する春蘭の方も、同じか、彼女以上に激しく肩を上下させていた。
「どうして……もっと早く言ってくれなかったの?趙雨のこと……。私、春蘭がそうだって知っていたら……。」
「私が趙雨を好きだと知っていたら、身を引いたとでも言うつもり?」
激しい、射るような視線が、景華に向けられた。それを彼女も、臆することなく正面から見返す……。
「身を引くだなんて、そんな偉そうなこと言わないよ!だって、趙雨には春蘭の方がずっとふさわしいもの!本当はあの時、何か違和感があったの……。趙雨が私の告白に応えてくれた時……。おかしいな、春蘭のことはいいのかなって……。それでも、自分が幸せだからって、見ないふりしたの!」
そう、今思えば。あの時の彼の瞳は近くにいる自分ではなく、遠くにいる誰か、おそらくは彼女に向けられていたのだろう……。それでも、彼が自分の気持ちを受け入れてくれたことが嬉しくて、気付かないふりをしていた……。
「私があの時、趙雨にそれを訊ねていれば……。そうしたら、お父様も、ここまで来る間に亡くなった多くの人たちも、誰も犠牲にならずに済んだのに……。」
「綺麗事はたくさん!」
彼女の瞳は、怒りに燃えあがっている。青い炎が、その瞳の中に窺える……。
「あなたはいつもそう!大して反省もしていないくせに、そんなことを言わないで!多くの人が犠牲になることはなかった、ですって?それなら、ずっと柳鏡に守られてどこかこの国の片隅で暮らしていれば良かったじゃない!」
「それじゃあダメなの!」
春蘭の激しい口調につられて、景華の声もだんだんと大きくなって行く……。
「私、柳鏡に教えてもらってたくさんのことを勉強したの!今までの王たちの良い所も悪い所も!そして、お父様が非道な政治をしていたことも知ったわ!それでも私には優しい、いいお父様だった!だから決めたの!お父様が国民に恨まれて死んだなら、娘の私がその名誉を回復しようって!」
「笑わせないで!」
景華の言葉に、春蘭が間髪を入れずに怒鳴り返す……。その迫力に、景華の肩が一瞬ビクリと震えた。
「うわべだけを学んでこの国のことがわかれば、苦労はしないわ!あなた、知っている?昨年の大飢饉の話……。」
「お父様からお話だけは伺ったわ。そしてお父様が言っていたわ、気候が安定していない緋雀の里の辺りでは、かなりの被害が出ているだろう、って……。」
景華の目が伏せられた。思い出したのは、柳鏡が連れて行ってくれた、廃坑となった鉱山の町の風景……。
「そうよ……。あの年は、里の人間の半分が食べていける量がやっとだった……。それなのに、珎王はいつも以上の税を納めるように言った……。無理なら里を壊滅させる、ってね……。追い詰められた私たちは、国王の暗殺を決意したわ。それが、一年前のあの事件よ……。」
春蘭の語気が、だんだんとその激しさを失って来た……。どうやら、彼女も落ち着いて来たようだ。
「でも、それだけが原因じゃあないわ……。私、あなたがずっと大嫌いだった!」
「っ……!」
春蘭のその言葉に、息が詰まる……。彼女が困惑して固まっているそこに、柳鏡が現われた。
「無事かっ?」
そう言って、彼は彼女を庇うように前に立ってくれた。春蘭の手に握られていた剣が、彼女の手を離れて音を立てて転がった。青い顔を、両手で覆う……。
「柳鏡、私は大丈夫だから、下がって……。まだ、春蘭と話があるの……。」
その言葉を受けて、柳鏡は一歩後ろに身を引いた。それでも、いつでも飛び出せるように体重は前に傾けられている……。
「趙雨は……?」
そう問ってくる彼女の声が、震えている……。柳鏡が口を開いた。
「殺しちゃいねえよ。もっとも、俺に言わせればあんたも趙雨も殺しても殺し足りない位だけどな……。」
「柳鏡、そんなこと言わないで!」
冷たい物言いで彼女の心を抉るようなことを平気で言う彼を、景華が止めた。春蘭を傷つける必要は、どこにもない……。
「あんたはそれで良いのかもしれないが、俺は言い足りないぜ……。こいつらは、あんたを傷つけて、この城から追い出して……。許せる訳ないだろ?」
春蘭が顔を上げた。肩が震えていた理由は、涙がこぼれたから。
「柳鏡は、相変わらずなのね……。ずっと、あなただけ……。そんなになんでも持っているのに、どうして私から趙雨まで奪おうしたの?」
なんでも持っている、という言葉に、景華が過剰に反応した。なんでも持っているのは、彼女の方ではないだろうか……?
「……確かに私は欲しい物はなんでも与えられていたし、飢えて苦しい思いをしたこともないわ。でも私、ずっと春蘭が羨ましかった。」
その言葉の真意は、春蘭にも、そして柳鏡にもわからない……。
「春蘭には……お母様がいるじゃない。兄弟だっているし、私にはない良い所、たくさん持っていたから……。あの夜趙雨に言われたでしょう?春蘭には、私にはない公平さがあるって……。周りをなんの贔屓目もなく見るなんてこと、私にはできないもの……。」
春蘭の隣に、傷を負った趙雨が並んで立った。柳鏡の剣撃を受けても動けるということは、彼は言葉とは裏腹にかなり手加減をしたに違いない。普通なら、即死していてもおかしくないのだから……。
「それに……。」
春蘭が、今にも倒れそうな趙雨を支えた。趙雨が、小さく彼女に微笑む……。景華の手が、そっと柳鏡の腕に触れた。
「私に柳鏡がいてくれるのと同じように、春蘭には趙雨がいるじゃない。なんでも持っているのは、春蘭も同じでしょう……?」
春蘭の目から、後から後から涙がこぼれる……。気が付かなかった。一番憎んでいた彼女に言われるまで、自分が持っている物の価値には気付こうともしていなかった……。彼女を憎んでいた一番の理由が、それだったというのに……。
「ダメなんです。私は、趙雨にはふさわしくありません……。」
激昂していた感情が収まったのだろうか、春蘭の口調も言葉遣いもいつも通りに戻った。
「なんでも持っているあなたから、全部奪ってやりたかった……。あなたが当然の物として持っている物が、全て私から奪ったように見えていました……。そんな自分のわがままで、彼に国王暗殺までをさせてしまった……。たとえ一族の救済を表面上に掲げていたとしても、内心ではそんなことを考えていた私が、彼にふさわしいはずがありません……。」
「そんなことないよ。」
景華が、ニッコリと彼女に笑いかけた。
「春蘭が本当に一族の心配をしたのでなければ、趙雨が手伝ってくれた訳ないじゃない。……お父様は、あまり王様として褒められた政治は行っていなかったし……。だから、これで良かったと思うの。」
彼女の言葉に、二人が目を見張る……。柳鏡には、聞き覚えがある言葉だった。
「二人は、私に色々と必要なことを勉強する時間をくれたんだよね?私は、そう思っているよ……。」
その笑顔で、心に残されていたわだかまりが、溶けて行く……。四人は、小さな頃の彼らに戻ることができた……。景華が二人に歩み寄り、春蘭を抱き締める……。
「ありがとう、春蘭……。」
その様子が見ていられなくなった柳鏡が、お人好しの馬鹿姫が、と呟きながら室内を見渡す……。その時、彼の目に銀色の物が映った。
「おい、馬鹿姫。あれが、四神剣じゃあないのか……?」
「ああ、そうだ……。」
柳鏡のその言葉に応えたのは、呼びかけられた景華ではなくふらついている趙雨だった。柳鏡がそれを持って、彼に肩を貸してやる……。すまない、と言って、趙雨はその肩にもたれた。
「ほら、どうする?いくら和解したからって、こいつらに罪を償わせる必要があるだろ?」
正義感の強い柳鏡は、そういったことにはとことん厳しかった。四神剣を受け取って、景華が泣き笑いの表情を浮かべる……。
「うん……。でも、それは皆の前でね。ねえ趙雨、春蘭。いくら私たちの間で和解が成立しても、それじゃあこの乱に協力してくれた皆に示しがつかないの。……わかってね……?」
「ええ……。わかっています……。」
王族の暗殺、それも国王を暗殺したとなれば、死罪は免れない。二人には、とうに覚悟ができていた。玉座がある、王の間に四人で向かう。しばしの間のみ許された、平和な時間……。子供の頃の思い出が、色鮮やかに蘇る……。
「そう言えば、ここで行方不明になった姫の帰りを待ったことがありましたね……。」
城の裏山が見える渡り廊下にさしかかった所で、ふと春蘭がそう言って微笑んだ。
「あったな、そんなこと。なにせ、ガキの頃から人騒がせな姫だったからな……。」
「柳鏡、一言余計だよ!」
景華が赤くなってむくれるのを見て、三人が苦笑する……。
「そう言えば、あの時は確か柳鏡が見つけて来ましたよね……。」
「そうでしたね。暗くなってから急に飛び出して行ったと思ったら、その少し後に姫を背負って戻って来たんでしたよね?あの時、どうやって姫を見つけたの?」
趙雨の言葉を受けて、ふと春蘭が疑問を口にした。すんなりとその言葉が出て来たことから、それを長年ずっと不思議に思っていたに違いない。
「多分あの時、チビ姫が喚んだんだよ、俺のこと。それで居場所がわかったから、仕方なく迎えに行ったんだ。」
「迎えに来てなんて頼まなかったけどね!大体、呼んだって聞こえる訳ないでしょ?」
相変わらずの喧嘩をして見せる二人に、春蘭も趙雨も苦笑が漏れる……。
「あんた、よく言うな。見つけてやった時には怖かったー、なんて言いながらピーピーと泣いていたくせに。足挫いたって言うからおぶってやったら、人の服に涙だけじゃなく鼻水までつける始末だったじゃねえか。」
「う……。」
景華が反論に詰まった。春蘭は、そろそろ止めに入ろうかと考えていた。
「それに。」
柳鏡の言葉にはまだ続きがあったようで、全員の視線が彼に注がれた。景華は、口を尖らせて文句を言いたそうにしている……。
「あんたの喚び声は、よく通るんだよ……。まったく、どこにいたって聞こえるんだから、始末に終えない。」
趙雨と春蘭は、ほっと胸を撫で下ろした。どうやら、一年という月日は彼らに大きな進歩を与えたようだった。楽しい時はあっという間に終わりを告げ、気付けば彼らは王の間の前に立っていた。景華が、その手で扉を開く……。
「ここに……皆に来てもらおうか。ここが……一番いいよね……?」
「ああ……。」
景華の言葉に柳鏡が頷き、廊下に出て腰に提げていた角笛を吹いた。これは、城での戦闘で彼らが勝利を収めたという合図。同時に城の衛兵たちは、城から聞き慣れない音の角笛が聞こえたことで、敗戦を知ることになる……。後は、皆がこの城に辿りつくのを待つだけだ。
始め四人しかいなかった王の間は、今は人で溢れ返っていた。角笛を聞いた清龍族、亀水族の面々が、城にやって来たのだった。そこで、景華はあることを聞かされた。王の間に入って来た帯黒が、まず景華の前に跪いた。それから、彼女を見上げて口を開く……。
「申し上げます、姫君。昨日の夜に、我ら亀水族の長、亀襄厳が亡くなりました……。」
「え……おじいさまが……?」
一瞬当惑して、帯黒を見下ろす……。彼がその言葉に頷いてから、続きを紡いだ。
「はい。姫の御為に、と最後まで死力を尽くして、逝かれました……。」
「……わかりました……。」
景華は唇を噛んで俯いた。一年ぶりに味わった、喪失の痛み……。そして彼女は、また一つ、大切な物を失わなければならない。幼馴染の、親友たち……。しかも、自分の裁量で……。城が陥落したという知らせを受けた、虎神族と緋雀族の長たちも王の間にその姿を現した。その後から、砂嵐族の長も部屋に足を踏み入れた。
「それでは、姫君。まず、姫君の即位式から執り行いましょう。」
「はい……。」
連瑛のその言葉に応えて、景華が立ち上がった。彼らがこの場所を集合場所として選択した理由は、景華の即位式をそのまま行うためであった。そのまま、広間の中央へと歩み出る……。連瑛の手には、趙雨から奪還した王冠が載せられていた。
「各部族長は前へ。」
連瑛の言葉に、残りの四人の部族長、亀水族からは帯黒が前に歩み出た。そして、景華の前で膝を折る……。
「各部族長たち、こちらにいらっしゃる景華姫を次代の王と認めるのであれば、その裳裾に忠誠を誓う口付けを……。」
最初に亀水族の帯黒が動き、その次に砂嵐族の長が彼女の裳裾に触れた。乱に協力してくれた彼らには、当然の行動だった。問題は、虎神族と緋雀族……。
「姫君。」
虎神族の長、秦扇が景華を見上げて呼んだ。真紅の瞳が、彼に向けられる……。
「姫君、いえ、これからは陛下とお呼びするべきですね。此度のこと、虎神族の長として大変申し訳なく思っております……。このような私でもお許しくださるのであれば、忠誠を……。」
秦扇が彼女の裳裾を持ち上げて、忠誠を誓った。清龍族の連瑛は戴冠の役目があるために最後になるから、残るは緋雀族のみ……。全ての部族からの忠誠が得られなければ、彼女の即位は無効とされてしまうのである。景華が緊張した面持ちで緋雀族の長、春蘭の父を見つめる……。彼の手が、すっと動いた。
「知らぬことだったとはいえ、数々のご無礼、どうぞお許しを……。女王陛下に忠誠を……。」
景華は各部族長に笑顔を見せた。それが、彼らの忠誠に対する彼女の答え……。連瑛が景華の正面に立った。そして、深緑の髪の上に金色の宝冠を載せる……。その重さは、彼女の努力の重さ……。そして、ここまで来る間に死んでいった、多くの兵士たちの命の重さ……。彼女が失った、多くの物の重さ……。それら全ての重さを感じながら、ぐっと前を見据える……。
「女王陛下の御代の、繁栄をお祈りいたします……。」
最後に連瑛が、膝を折って彼女の裳裾に口付けた。景華は悠然と歩き、玉座にゆっくりと腰掛けた。そして、王の間に集まった多くの人々を順番に眺める……。その堂々とした態度からは、一年前までの頼りなさ、弱さは一切感じられない……。そこにいるのは、強い意志と誇りを持った、若い女王だった。
「女王陛下の御代に繁栄を!辰南の暁に祝福を!」
口々にそう唱える、多くの声……。熱い物が、彼女の真紅の瞳からこぼれ落ちた。それでも、彼女は笑顔のままでいる……。そして、彼をその目で探す。いた。入口にほど近い隅の方で、彼は自分のことを見守ってくれていた。悠然と、彼に微笑みかける……。彼は、本当に彼女の夢を叶えてくれた。そして、玉座に腰掛ける彼女を見る、という物は、彼の夢でもあった。金色に輝く玉座と宝冠、そしてそれ以上に輝いている彼女の笑顔に、彼は小さく微笑み返した。
「陛下。どうぞ、四神剣を……。」
連瑛の手からそれを受け取って、鞘から抜く……。
「昨年の珎王暗殺事件の犯人は、この剣があきらかにしてくれます……。」
そう言って、その切っ先で軽く自分の腕を傷つける……。彼女の血液が触れた部分から、刀身が白く輝き始めた。
「この剣を抜ける者は王族、または婚姻などによりそれに準ずると認められた者のみ。そして、流された血の記憶、この場合は私の中に流れる珎王の血が、その犯人の部族をあきらかにしてくれています……。刀身が白ということは、犯人は虎神族。そして、あの当時王族に準ずると認められていた虎神族の人間は、虎趙雨ただ一人、ですね……。」
広間が、しんと静まり返った。これで、柳鏡に掛けられた疑いを晴らすことができた。
「陛下、最初のお仕事を……。罪人に、刑罰を言い渡して下さい……。」
連瑛が、そう重く口を開く……。春蘭と趙雨が、玉座の前に引きずり出された。
「その前に、二人の言い分を聞く必要があるわ。……あの時のことを、詳しく話して……。」
趙雨が礼をしてからその言葉に答えた。顔を上げて、彼女を真っ直ぐに見つめて話す……。
「はい。一年前のあの夜、私は春蘭と一緒に陛下の寝室を訪ねました……。」
しとしとと、雨の音がうるさい。その湿った空気が、彼の心を塞ぐ……。いや、もしかすると、これから行おうとしていることの重大さが、彼の心に重くのしかかっているのかもしれない……。待ち合わせをしていた廊下の先に、春蘭の姿が見えた。
「趙雨、本当にいいの……?このまま実行してしまえば、あなたも罪人として捕らえられてしまう日が来るかもしれないのよ……?」
心配そうに見上げて来る彼女の頬を、左手で包み込んでやる……。雨のせいか、冷たい……。彼の決心は固かった。
「仕方ないんだ。多くの民が犠牲になっているのに、王はそれに見向きもしない。そんな国王にこの先も政治を任せることなんて、できないからな……。」
「でも……景華姫のことはいいの……?」
幼馴染の、かわいらしい、純粋な姫……。彼女は、彼らのこの野望の犠牲となってしまうのだ……。
「……それも、仕方ないんだ……。姫と婚約をしなければ王位継承権は得られないし、かと言って君以外の女性と結婚することはできない……。」
その言葉に、春蘭が気弱に微笑んだ。そして、その表情を硬く引き締める……。
「行きましょう、趙雨。もう後戻りはできないわ。この作戦に協力してくれた皆のためにも、私たちが迷っていてはいけない……。」
冷たい廊下を、足音をさせずに歩く……。二人の影は、完全に闇に紛れていた。そして、目的の部屋の前で足をピタリと止めた。趙雨が大きく息を吸い込み、吐き出した。その後、もう一度息を吸い込んでから中の人物に声をかける……。
「陛下、趙雨です。よろしいですか?」
「おお、趙雨か。さあ、入ると良い。」
娘の結婚ですっかり舞い上がっていた珎王は、真夜中の訪問に何の疑問も持たずにその扉を開けた。室内に、二つの陰が滑り込んだ。
「おや、春蘭も一緒だったのか。まあいい、入りなさい。美味い酒があるんだ。一緒に飲もう。」
そう言って、部屋の奥に彼らを通す。衝立の、向こう側に……。
「素晴らしい剣ですね、陛下。」
珎王の腰に提げられている四神剣を見て、趙雨が軽く微笑んだ。その様子を見て、珎王がその剣を彼の手に握らせる……。
「王族とそれに準ずる者のみに許された剣だ。景華と結婚する君には、もう抜けるかもしれないな……。いずれはこの剣も、この国も、私の娘も君の物になるんだよ、趙雨……。」
「いずれは、などとおっしゃらずに、今すぐ私に下さい。陛下……。」
四神剣が、その身を趙雨に委ねた。鞘から、銀色に輝く刀身が現われる……。
「な、何をする!気でも狂ったか?」
色を失って後ずさりした珎王の背中が、衝立にぶつかった。袋の鼠、逃げ場所がない……。
「気が狂っているのはあなただ、陛下!罪もない多くの国民を犠牲にしたあなたは、この国には必要ない!」
ドカッ!
肉を突いた感覚が、その柄から趙雨の手に伝えられる……。
「ぐう……。」
倒れた珎王のその口から、血が大量に流れ出た。もう一度深く剣を突きたてて、抜いた。血飛沫があがって、彼の衣を赤く染める……。その色は、罪の色……。その時だった。
「お父様?入るわよ。」
聞き慣れた、あの声。後から彼女もその手にかけるつもりではいたが、心の準備という物が全くできていなかった。
「やだ、雨漏り?」
そう呟く声が聞こえる。そして、その直後に息をのむ音……。おそらく、床の水溜りが何から構成されているのかに気が付いたのだろう……。
「景華姫……?」
恐る恐る、そう声をかける。彼女ではないことを、祈りながら……。衝立を、四神剣で倒す……。
「っ……!」
彼女は、絶句してしまった。できることならば、怖い思いをさせることなく、眠っているまま逝かせてやりたかった……。それが、犠牲となる彼女へのせめてもの思いやりだったのに……。
「陛下の死体が揚がった、という話は、私が作った物です……。私がついた、嘘です……。」
誰もが趙雨の告白に息をのむ中で、春蘭が静かにそう話始めた。
「まだ見つからない!一体、どこにいるんだ……?」
趙雨は、景華と柳鏡が見つからないことでだんだんと追い詰められていた。もしも彼らに反乱を起こされたら、という懸念が、どうしても拭えない……。春蘭は、その様子を見ていることしかできなかった。だが、元々彼に国王の暗殺を持ちかけたのは彼女の方なのだ、見ているだけなど、到底許される訳がない……。
「なんとか、死んだことにできないかしら……。」
その時、彼女の頭に本の一節が思い浮かんだ。国王の側妃が正妃を追い出して死体を作り上げ、自分が立后するという話……。確か、髪の色が同じ腐敗した死体に、彼女の持ち物を持たせればよいだけ。そして人を使って、趙雨には何も言わずに彼女の死体を作り上げた。それが川から揚がったことにして、彼に見せれば……。
「騙されてくれる、かしら……。」
彼が騙されてくれる確率は、五分五分。それでも、彼女はこれ以上彼が苦しむのを見たくはなかった。一縷の望みに託して、彼女はその作戦を実行した……。
「陛下、お聞き下さい。これらは全て、私たちと少数の協力者で行ったことです。長や一族の者は、ほとんどが私たちの嘘を信じ、騙された者たちです……。どうか彼らには、御配慮を……。」
趙雨の言葉に、景華は強く頷いて見せた。それから、女王としての言葉を紡ぐ……。
「わかっているわ。それに、先程各部族の長は私に忠誠を誓ってくれたばかりだもの、その彼らを簡単に罰したりはしないわ。」
安堵の色が、趙雨と春蘭の顔に宿った。その後、再び二人の顔が玉座の上の景華に向けられる……。
「ただあなたたちが行ったことは、国王暗殺、並びに全国民を騙した偽証罪に問われるわ。それは、わかっていますね……?」
「はい……。」
春蘭が静かに応えて、趙雨も頭を深く垂れた。柳鏡が、広間の隅からじっとその様子を見つめている……。あの彼女が、まさか、死罪の判決を下すだろうか……?王としては必要なことかもしれないが、そんなことをすれば彼女がこの先一生苦しむことになるのは、目に見えている。彼女も親友たちも体裁も守れる解決策は、ないのだろうか……?
「本来なら、あなたたちが犯した罪は死をもって贖うべきなのでしょう。しかし、あなたたちがこの国の今後によく貢献してくれたということも、事実なのです。」
景華のその言葉で、広間がざわついた。柳鏡も、驚きで僅かにその身を乗り出す……。
「あなたたちがあの事件を起こしてくれなければ、私がこの国について学ぶような機会はありませんでした。この一年間は、私がこの国をよく知り、どう政治を運営していくかということをよく考える時間となりました。私が今後民に望まれるような政治を行うことができれば、それはあなたたち二人のおかげなのです。」
ざわざわと騒がしかった広間が、静まった。皆、景華の言葉に聞き入る……。
「しかしその時に恩赦を出そうにも、あなたたち二人はもういなくなっているかもしれません……。ですから、先に恩赦を出しておこうと思います。」
『そんな話聞いたことねえぞ、アホ。』
柳鏡が、心の中でそう呟く……。それでも、その表情は優しかった。彼女らしい決断に、笑みがこぼれたのだ……。
「本来なら死罪の二人ですが、恩赦でもって左遷とします。南西の天山の街で、静かに暮しなさい。この判決に異議のある方はいませんか?」
ぐるりと広間を見渡す。皆が皆、景華に向かって頭を下げて了承の意思を表示する……。柳鏡だけは、軽く彼女に笑いかけてくれた。それが、彼女の原動力となる。
「どうやら、皆さん承認して下さるようですね。明朝、夜明けとともに王都を去るように……。」
景華が、そう言って二人に笑いかける……。その笑顔は、子供の頃から変わらない。趙雨と春蘭も、笑顔でそれに応えた。三人が三人とも涙を浮かべて笑う様子を見た柳鏡は、変わっていないな、と心の中でまた呟いた。
夜宴の明かりが、目に沁みる……。その眩しさに耐えられなくなった景華は、一人渡り廊下に出た。彼女の即位を祝って、各部族の長や今回の乱で大きな功績を残した者たちが、宴を繰り広げていた。景華ももちろん参加させられたが、本当は、早く一人になりたくてたまらなかった。そのまま、人の気配がない方に向かって歩く……。少し歩いたところで、何かにドン、とぶつかった。
「チビ姫、じゃない、チビ陛下。どこに目くっつけているんだ?」
彼女がぶつかってしまったのは、柳鏡の背中だった。そのまま、肩越しに声をかけてきた彼の背中にしがみつく……。
「ごめん、柳鏡。ちょっとだけ背中、貸して……。」
ギュッと、彼の衣を握り締める……。
「いいけど、鼻水つけるなよ……。」
とげのある言葉なのに、優しい……。ふざけた調子でそう返してくれるのは、彼女の心情を慮ってのこと。静寂が、しばし二人の間を流れた。
「うん、もう大丈夫!ありがとう!」
どの位そうしていたのかわからなかったが、景華が元気にそう言って柳鏡の衣を離した。それを合図に、柳鏡が振り返る……。
「おかしな奴……。鼻水、つけなかっただろうな?」
「つけてないよ、失礼な!」
いつものように怒ってむくれる景華の頭に、ポンと、彼の手が載せられる。温かい、右手……。その後、彼がその膝を折って彼女の前に跪いた。
「何しているの?さっきの真似ごと?柳鏡がやったら、気持ち悪いね……。」
どうしようもない奴だな、と思いながら、柳鏡がその顔を上げた。そして、景華の右手を取る……。今度は、冷たい左手で……。
「俺にだって、一言位真面目なこと言わせてくれよ……。」
その彼の言葉に、息をのむ……。そして、月光を受ける深緑の瞳を見つめる……。
「どうか良き王、民に愛される王として、良き時代を創り上げて下さいますよう……。女王陛下の御代に、祝福を……。」
その言葉の後に、彼女の手の甲に柔らかい物が押し当てられた。心臓の鼓動が、高鳴る。そして、止まらない……。
「ほら、戻るぞ。あんたは主賓なんだからな、嫌でもおっさんたちに付き合わなきゃならないんだぜ?」
そう言って、彼女の手を引く……。これが、彼女に触れる最後だと、わかっていながら……。そのぬくもりを覚えておこうと、強く握る……。
「痛いよ、柳鏡。ちゃんと戻るから。」
そう言って、景華がその手をパッと引っ込めた。彼女は、あれが最後だと知らなかったから……。
「悪ぃ……。」
柳鏡は、景華を後に残して祝宴が行われている部屋に入って行った。満月が、冷たい光を浴びせている……。
夜中、柳鏡はふと空を見上げた。一年前と同じように、彼は景華の部屋の戸口を守っていた。そして、その部屋の戸口を静かにくぐる……。彼女は、安らかな寝息を立てていた。見慣れた、寝顔……。そしてその髪に、そっと触れた。深緑の柔らかい髪は、彼の冷えた指先に心地良い……。そっと屈みこんだ柳鏡の唇が、彼女の額に触れた。そして……。
「……。」
もう一度ゆっくりと彼女の顔を眺めて、彼は踵を返した。決して、彼女の方を振り返ろうとはしない……。渡り廊下に出た彼の頬に、一筋の光が流れた。
景華はふと目を覚ました。暗闇に慣れられるように、彼女は明かりをつけて眠る習慣を改善しようとしていた。それでも、やはり暗闇は恐ろしい……。何者かが、息を潜めて彼女を狙っているかのような錯覚に囚われる……。
「柳鏡……?」
廊下にいてくれるはずの、彼の名を呼ぶ……。返答は、ない。近くにいてくれるはずなのだから、今の声の大きさでも十分に聞こえるはずだ。もしかしたら、疲れて眠っているのかもしれない……。嫌な予感がする……。ヒヤリとした床に、足をつける。そして、渡り廊下に続く戸を開けた……。その時。
「っ……!」
彼女の目に、満月に向かって昇って行く、青銀の龍が映った。その瞳の色は、深緑……。
「柳鏡……?」
彼の名を呼んでみるが、やはり、返答はない……。
「柳鏡っ……!」
廊下を見渡す……。彼の姿は、どこにもない。そこで、確信する……。彼女の体から力が抜けて、床に膝をつく……。空気の冷たさが、彼女のその身に染みる……。
「……行っちゃったんだ、柳鏡……。本当に、何も言わないで……。」
あの彼が彼女のそばにいてくれない……。その理由は、たった一つ……。彼が、行かなければならなくなったこと。龍神として、飛翔しなければならなくなったこと……。そして、おそらく先程の青銀の龍が、彼なのだろう……。心惹かれた、あの瞳の色……。嫌な予感は、的中した。夕べ彼に掴まれた手を、反対の手で強く握る……。彼に掴まれた感覚は、まだ戻って来る……。それなのに……。
「……もう……そばにいてくれないんだ……。わがまま、聞いてくれないんだ……。」
冷たい床に、しずくがこぼれる……。後から後からとめどなく溢れてくれるそれを拭ってくれるあの手は、もうない。今にも漏れそうな声を、ギュッと顔を埋めさせて消してくれるあの胸は、もうない。
「不細工な顔。」
「アホが……。あんたみたいのを学習能力がないって言うんだ!」
「そうだよな、太った割にはちっとも色っぽくなっていないもんな!なぁ、痩せっぽっちのチビ姫!」
あの思ってもいない悪口の数々も……。
「姫じゃなくても、あんたはあんただろ。」
「ずっと……あんたとこうして、平和に暮らせれば良かったのにな……。国も神もない、何もない所で、二人で……。」
「仰せの通りに!」
「一緒にいてやれる内は……あんたのわがまま、なんでも聞いてやるよ……。」
そして、傷ついた彼女をいつも癒してくれる、あの言葉も……。見つめられる度に胸が苦しくなる、あの瞳も……。
「柳鏡の、馬鹿……。」
それでも……。
「好きなのに……。こんなに、好きなのに……。」
彼は、もう戻っては来ない。青銀の龍神は、今も彼女を見守ってくれているのだろう……。月が一瞬、陰った。龍神が、通る……。秋の空はどこまでも澄んで、そして、どこまでも冷たかった……。
「その後、景華姫は……あら?」
ふと異変に気付いて、母親が目を上げる……。そして、その後微苦笑した。幼い兄妹は、安らかな寝息を立てていた。風邪を引かないように、そっと布団を掛け直してやる。その時、部屋の戸が開いた。長身の陰が、入口をくぐる……。それは、子供たちの父親だった。
「あら、迎えに来てくれたの?」
目を細めて笑って、彼を迎える……。
「ああ。明かり、消えただろうと思ったからな。不便だろ?」
ぶっきらぼうにそう言う彼に、ありがとう、とまた笑って答える……。大きな手が、自分そっくりの息子の髪を撫でた。彼は、本当に自分そっくりだ。同じ黒いくせ毛を、切り揃えるのを面倒くさがるところまで……。
「平和な寝顔だな。間抜けだ……。」
「あら、あなたそっくりじゃない。」
息子の寝顔にそう言った父親に、ほんの少し意地悪に母親が言葉をかけた。そして、そのまま立ち上がろうとした。
「きゃっ。」
「危ない!」
ガクン、と膝が折れる……。転ぶ前に、間一髪で父親がその体を受け止めた。母親は、二人分の体重をその細い腰で支えている……。彼女のその体は、臨月を迎えていた。
「気を付けろ……。」
「うん、ありがとう……。」
ホゥ、と息を吐いてから、彼女を立たせる……。一人で歩かせるのは不安だったので、隣から支えて二人で歩きだした。
「今日は何の話を?」
何気ない調子で、彼が訊ねてくる……。廊下に出て、子供部屋の戸を閉めた。
「あの時の話を……。」
彼の顔色が変わった。怒っている訳ではないようだが、非難めいた目つきをしている。
「早過ぎないか?半分もわからないだろう?」
「ええ……。それでも、いつかあの事件を事実としていきなり知るより、今お伽話として聞いておいた方が衝撃が薄れると思って……。それに……。」
顔を上げて、彼の瞳を捉える……。月光のせいだろうか、その瞳は、いつもより色濃く見える。子供たちと同じ、深緑の瞳……。それは、八年前も今も変わらず彼女の心を波立たせる……。
「子供たちに話したお話は、結末が違うの。」
彼は、訝しげに片眉を上げた。城の渡り廊下からは、裏山がよく見える。そして、そこにある満月も……。
「綺麗な月。満月ね……。」
「ああ……。」
ふと、二人の足が止まった。並んで月を眺めている内に、ふと彼女の口から言葉が漏れる……。
「子供たちに話したお話は、結末が違うの。」
「さっきも聞いたぞ、それ……。」
彼の苦笑交じりの言葉に笑顔を向けてから、その胸に顔を埋める……。温かい左手が、彼女の肩に添えられた。真紅の瞳が、嬉しそうに細められる……。
「だって、私の龍神は、ここにいるもの……。」
そう言って微笑んだ彼女のその胸で、珊瑚の首飾りが赤く、淡く煌めいた。
全ては異国恋歌、物語の世界の中に……。
お待たせいたしました。異国恋歌~龍神の華~、ついに本編が完結いたしました。ここまでお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございます。初めての作品でしたので、まずは無事に完結させられたことを素直に喜びたいと思います。また、只今本作品の番外編を執筆中です。よろしければ、どうぞそちらもご覧下さい。