旗印と龍神 守られない、約束
「それで、お母様?亀水族の人たちは景華姫に協力してくれるって言ったんでしょう?」
布団を自分の口のあたりまで引っ張り上げながら、小さな女の子が自分の母親を見上げてそう訊ねた。面差しは母親そっくりだが、その瞳の色は父親とよく似ている……。隣にいる兄の方は、父親に生き写しだった。だんだんと冷え込んできたので、母親も肩掛けを羽織り直した。
「そう。それで、景華姫たちはいよいよ綿密な計画を練ることになったの。でも、景華姫はまだお勉強がたくさん残っていたから、一度柳鏡と一緒に清龍の里に戻ることになったの……。」
クシュン、と兄の方が小さくくしゃみをした。母親が、その襟もとまで布団をかきあげてやる……。
「続きを話して!お母様!」
母親はその言葉に小さく微笑んで応えた。室内の明かりが、少し揺れた。
「柳鏡は、亀水の里からの帰り道は少し遠回りをして、景華姫に色々な物を見せてくれました。綺麗な景色や、珍しい物……。でも、それだけではありませんでした。」
「ここは……?」
景華が、遠慮がちに口を開いた。そこは谷間に沿って造られた暗い街で、異臭が放たれていた。道端には動く気力すらない人々が何人も転がっている……。皆服とも呼べないような物を纏い、子供たちは痩せた四肢に対して不自然な程に腹部が膨張していた。まるで、街全体が墓場のように静まりかえっている……。
「辰南の国で一番貧しいと言われている街だ……。あんたに、これだけはどうしても見せなければならないと思っていた……。」
景華にそう説明してくれる柳鏡の方もあまり良い気分ではないようだ、その深い緑色の瞳がなんとも言えない色を宿して、揺れた。手綱を持つ手に、グッと力が込められるのが見えた。
「……こんな街もあったのね……。中央からの支援が行き届いていないのでしょう?」
その言葉に一度頷いてから、柳鏡は再び口を開いた。
「ここは、元々は鉱山夫たちが家族とともに住んでいた街だった。だが、資源が減ってきたせいで近くの鉱山が閉鎖されたんだよ。そのせいで、多くの失業者が出た。だが、あまりにも膨大な数だったために国も対応しきれなかったんだ。結局、この街は丸ごと国に切り捨てられた……。」
彼が話す口調は真剣そのもので、それを聞く景華の表情も引き締まっていた。とても、半年前まで城にいて、外の世界について何も知らずに遊んでばかりいた姫とは思えない……。彼女は、そこまでの成長ぶりを見せていた。
「他の鉱山を紹介したりはしなかったの?辰南は鉱山資源が豊富だから、他にも鉱山はあるでしょ?」
真面目な顔をしてそう問いかける彼女に、柳鏡は一瞬視線を当てた。勉強する時にだけ見せる、険しくて頼もしい表情……。だが、こういう表情をしている時は物事を真摯に捉えている時なので、彼は普段のように悪態をついたりはせずにそれに答えた。
「もちろん、何人かはそれもしてもらえた。国や地方の役人に、高い賄賂を支払った順にな……。だが、普通に働いて家族を養って来た鉱山夫たちにそんな金がある訳がない。賄賂を支払えなかった人間は、この街とともに犠牲になったんだよ……。」
こう見えて意外と正義感の強い彼だ、賄賂や癒着の類は許せるものではなかった。そして、それは隣で彼の話に聞き入っている少女も同じことだった。
「役人っていうものは、国や地方ごとにその地域の人が不自由なく暮らせるように尽力してくれる人がなるべきものだわ。その当時の王様は、人選を誤ったのね……。」
「あんたの親だよ……。」
景華の父、つまり、先代の国王……。彼が在位していたのは半年前までで、その政治があまりに非道であったために彼は暗殺されてしまった。景華の元婚約者に……。そして、今はその彼が王位に就いている……。
「……お父様の代ってことは、まだせいぜい十二年よ?その間にこんな風になってしまったの……?」
彼女は、今の自分の年齢と父が即位した当時の自分の年齢から、珎王の年代を算出した。たったの十二年で、当時は賑わっていたであろう街が、廃墟のようになってしまったのか……。彼女は、人の営みの儚さ、というものを痛感した。
「あぁ、そうなるな……。あんたは清龍の里で生活して、城の外での暮らしに対する知識も持つようになった。だが、あの里に住んでいる奴は皆国民の中では割と裕福な方なんだ……。忘れるな。」
彼のその言葉に、景華は強く頷いてみせた。その姿からは、恐れや迷いという類の物は一切感じられない……。あるのはただ、国造りに燃える強い意志だけ……。真紅の瞳のその奥に、彼女の国への情熱が燃えているのが見える……。柳鏡は、そんな彼女に一瞬笑いかけた。
「あんたがわかったならそれでいい。さぁ、これで寄り道は終わりだ。清龍の里に帰るぞ。帰ったらまずは試験だな。戦の陣形があんたの悪い頭から抜けていなければいいが……。」
「失礼ね!ちゃんと覚えているわ!柳鏡こそ、帰りに巡回の兵士に会った時、また西の国の商人のふりができるかしら?ねぇ、語学が苦手な柳鏡さん!」
柳鏡の嫌味な調子に、景華も彼の腹違いの姉である明鈴から聞いたとっておきのネタで応酬する……。柳鏡の片眉が、意地悪につり上がった。
「あんた……ここに置いて行かれたいみたいだな……?」
景華がギクリとして固まった。それから、ぎこちない笑みを浮かべる……。
「ほら、そんなこと言わないで。ちゃんと連れて帰ってね、柳鏡様っ。」
そして、猫撫で声でそう言った。胸の前で手のひらを合わせ、お願い、という仕草をすることも忘れない……。
「仕方がないからな。こんな所にこんなじゃじゃ馬置いて行ったら迷惑だろうし、またメソメソと泣かれるのも厄介だからな。」
「ちょっと、じゃじゃ馬って誰のことよーっ?」
この二人の喧嘩には、いつも果てがない……。こんな調子で清龍の里まで、十五日ほどかけて帰った。帰りつく頃には里の桜はすっかり葉桜になってしまっていて、初夏の香りが漂っていた。緑の匂いが濃くなり、森独特の木の香りが辺りに立ち込めている……。
「あっ、景華おかえり!柳鏡も!」
里に帰りついた彼らを最初に迎えてくれたのは、柳鏡が春に借りた畑で野菜を世話してくれていた明鈴だった。少し日に焼けたその顔は、瞳の黒い色をより美しく見せていた。
「明鈴さん、ただいま!お留守番ありがとう!あのね、お土産に……。」
景華が笑顔で手を振って駆けて行く……。緩やかな下り坂を……。柳鏡が、慌てて止めた。
「だから走るな!転んでも助けねえぞっ?」
やはり景華は、足をもつれさせてバランスを崩した。体勢は……もう立て直せない。せめて手をつこうと思って前に出した彼女だったが、地面にぶつかることはなかった。その前に、柳鏡の腕が彼女を受け止めていた。
「アホが……。あんたみたいのを学習能力がないって言うんだ!」
「柳鏡うるさーい!そんなにお小言ばかり言ってたらすぐにおじいちゃんになっちゃうよ?」
彼の腕にぶら下がった状態のまま、景華は柳鏡に反抗してみせた。彼の頬がヒクヒクと不穏な動き方をしている……。こいつは、助けてもらっておきながらそんな生意気なことを言うのか、と……。
「俺が早死にしたらあんたのせいだって訳だ、なんなら毎日夢枕にでも立って呪いの言葉を呟いてやろうか……?」
「ひえぇー、明鈴さん、助けて!」
その一部始終を目の当たりにしていた明鈴は、ある言葉が頭の隅に浮かんだが、ギリギリのところで堪えて口には出さなかった。彼女はあの瞬間に納得したのだ。あぁ、これが世に言うバカップルと言うものなのか、と……。よくも人の前でこんなに恥ずかしげもなくイチャイチャと……と思ったが、それも口には出さない。間違いなく大剣の錆にされてしまうから。
「ほら、もういいだけ遊んだでしょ。それで?亀水の方は?」
そう言いながら景華を柳鏡の腕から引き離し、さりげなく話を逸らす……。景華が遊んでないわ、などと言っていたが、それは無視。だんだん、この二人の扱いにも慣れてきた明鈴だった。
「亀水の方でも、協力を惜しまないそうです。まぁ、これでなんとか成功する見込みが出てきましたよ……。」
「えっ?」
柳鏡の言葉に、景華が妙な声を上げた。明鈴も柳鏡も、その突拍子もない声に驚きの顔を見せる……。
「柳鏡、おじいさまに勝率は九割を超えるって言ってなかったっけ?」
「……。」
柳鏡は、ばつの悪そうな表情で目線を逸らした。
「あの位はったりかまさないと協力してもらえないだろうが……。……あんた、まさか信じていたのかよっ?」
あまりにも素直に頷いて見せる景華に、柳鏡はがっくりと肩を落とした。そういえば、前にもどこかでこんな光景を見た気がする……。
「……まぁいい。これでまたあんたも一つ賢くなったはずだ……。交渉っていうのはな、時には嘘や見栄が必要になることもあるんだ。わかったな?」
「うん!」
再び素直に頷いて見せる景華に、柳鏡は本当かよ、と言いながら明鈴の方に視線を当てた。
「父上は屋敷の方ですか?色々と報告をしなければならないのですが……。」
「多分ね。行くならついて行くけど?私も色々と聞いておきたいから。」
柳鏡がほんの少しの間思案顔になってから、景華に向かって話した。
「あんたは家で待っていろ。連れて歩くのも面倒だからな。いいな?」
柳鏡の隣で、明鈴が二マーッと笑った。
「疲れているだろうから休んでいろ、ってどうして素直に言えないのかしらねぇー?」
「姉さん、行きますよ!」
柳鏡が明鈴を引きずるようにして連れて行き、後には景華一人が残った。
『お留守番かぁ、つまらないな……。』
景華はそう思って口を尖らせながら一月ぶりの家に帰った。中の様子は全く変わっていない。明鈴が綺麗に掃除をしていてくれたおかげだ。いつも食事の支度をする台所も、柳鏡が座る茶卓の位置も、いつも仕事で泥や血に塗れた彼の服を、洗い終えてからしまう衣装箱も、何一つ変わってはいなかった。これの隅に、彼がくれた珊瑚の首飾りが入っていたという……。そういえば、小さな布袋を見たような記憶もある……。今その首飾りは、彼女の首にかけられ、襟の中にしまわれていた。
『あ、そうだ。ご飯の準備、しておいた方がいいかな……。』
景華はそう思って台所の隣に置かれている水瓶を覗き込んだ。当然のことながら、空っぽだった。水がなくては話にならないので、家の裏手にある小さな池まで汲みに行く……。清龍の里には、浴場と同じようにいくつか生活用水を汲むための共用の井戸があったが、柳鏡はその水よりも裏の池の水の方が清潔だと言って、いつもそちらの方に水汲みに行っていた。普段なら柳鏡がやってくれていた仕事だったが、その彼が不在であるために、景華は仕方なく自分で水を汲みに出た。とりあえず今必要な分だけを確保できる大きさの器を持って……。
「わぁ、すっかり緑が濃くなっている……。」
景華は、昼の日差しを受けながらその葉を輝かせている木々に目を奪われた。むせ返る程の緑の香り……。そして、澄んだ水の香り……。
「よいしょ。」
誰も聞いていないのをいいことに、そう呟いてから池のほとりに腰を下ろす……。水を汲もうと水面に身を乗り出した時だった。
「あれ、この色……。」
一陣の風で、小さな池が波立つ……。彼女がふと気付いたものは、その瞬間に掻き消されてしまった。そして、さざ波が治まるのと同時に再び姿を現す……。それは、澄んだ水面に映り込んだ柳の葉の色だった。その色に、景華の鼓動が一つ、高鳴る……。何の色だろう。その色は、大きな安心感をもたらす色なのに、それでいて彼女の心を小さく、だが何度も波立たせる……。……そうか。
「柳鏡の目と、同じ色……。」
自分の口から思わずこぼれた言葉に、彼女は納得した。そして、同時に確信した。これが、彼の名前の由来なのだと……。鏡のような水面に映る、柳の色……。なんと美しく、心惹かれる色だろうか……。
「綺麗……。」
思わずそう言ってニッコリとする。そうだ、この話は、戻ってきたら彼にも聞かせてあげよう……。そう考えた景華は、少し惜しい気もしたが、器に水を汲んだ。水面が揺れて、柳の色が消えてしまった。それでも、彼女の心の中にあるその色は消えない……。もうすぐ、その色を瞳に宿した彼が家に戻って来るはずだ。早く食事の支度をしてあげなきゃ、と思って彼女は家へと急いだ。
一方の柳鏡は、父親である清龍族の長に亀水の里での出来事について大体を報告し終え、景華が待つ家へと向かっていた。
「そう言えば、姉さん、随分と余計なことをしてくれましたね……。」
その言葉には、静かな怒りが籠っている……。明鈴は、何のこと?と笑って誤魔化した。
「とぼけないで下さいよ……。あの本のことですよ……。」
「あっ、ああ、あれね……。いや、柳鏡が忘れたら困るだろうから、景華に預けておいたの。」
苦笑いをしてそう答える……。まだ、錆にはなりたくない……。
「ほう、人が語学を苦手としていることまで話しておきながら、知らないふりをしますか……。」
冷たい微笑み……。景華、そんなことまで言っちゃったのね……。元はと言えば自分が余計なことを話したことが悪かったにも関わらず、明鈴は心の中で景華を責めた。ともかく大剣の錆、決定だ……。
「まぁ、余計なことをべらべらと話したことは別として、姉さんがあの本を彼女に持たせておいてくれてよかったですよ……。それがなかったら、あの時……。」
柳鏡の頭の中に蘇るのは、本を間に挟まれた、あの時の記憶……。本当に、あの本があって良かった。もしもなかったら、彼女との今の関係が崩れてしまい、顔を合わせることさえできなくなっていたかもしれない……。それこそ、龍神の紋章を持つ者と龍神の華の、呪われた関係を証明してしまうことになりかねない……。
「あの時、何なのよ?」
一人で回想に耽る柳鏡を白い目で見て、明鈴が続きを促す……。
「な、なんでもありませんよ!それじゃあ、姉さんはそっちでしょうっ?俺はこっちですから!」
足早に去っていくその背中を見つめて、明鈴が呟いた。
「そこまで言いかけておいて秘密、ですか……。そんなに恥ずかしい目にでも遭ったのかねぇー。」
まぁ、いいか。と心の中で呟いて、彼女も家路を辿った。空は、夕焼けで真っ赤に燃えていた。
「あ、やっと帰ってきた。夕食、できてるよ。」
明鈴と別れて一人で帰ってきた柳鏡を、景華の笑顔が迎えた。食事の準備も整えていてくれたらしく、彼女は盛りつけにかかった。
「別に、今日位休んだって良かったのによ……。物好きな奴……。」
素直に嬉しい、とは言わず、わざわざ自分の本当に言いたいことがわからなくなるような言い方をする……。
「だって、久々にやりたかったんだもの。ほら、運ぶの手伝ってよ。」
そう言って調理台の上に並べてあった器を彼女が指差すので、仕方なくそれを茶卓まで運ぶ……。どうやら、肉と青菜が入ったスープのようだ。正直、彼はとても驚いていた。
「材料なんて何もなかっただろ?水だって……。」
「うん、余ってた干し肉全部使っちゃった。後は、明鈴さんがお世話をしてくれていた青菜を少し採ってきたの。」
笑ってそう答える彼女に、柳鏡はそうか、とだけ言った。彼がそれを口に運ぶ様子を眺めてから、景華も食事に取り掛かろうとした。だが、そこでふとあることを思い出した。
「ねえ、柳鏡。明日は、忙しい……?」
ふと一瞬、目線を上に上げてから彼が答えた。
「別に。帰ってきたばかりだぜ?俺だって休みてえよ……。」
景華がそれを聞いてニッコリとした。何かを企んでいるようだ……。
「ダメ。明日は水汲みに行って来て。私もついて行くから。」
「なんでついて来るんだよ、面倒くせえな……。汲んで来て欲しいなら、一人で行って来てやるよ。」
「ダメ!」
面倒そうに答える彼に、間髪入れず景華がそう言う……。
「柳鏡一人じゃ絶対に気付かないから、ダメ!」
一体何に気付けと言うのだろうか。だが、言い出したら聞かないことがわかっているので、彼は諦めて渋々承知した。面倒だな、と思いながら……。初夏の夜は、そうして更けて行った。
「柳鏡の名前、そんな意味があったんだ……。お母様、僕の名前の由来は何?」
息子の方が、母親を見上げてそれを訊ねた。隣で、妹の方も次は私、と言っている……。母親が、その様子を眺めて苦笑をもらした。
「二人の名前はね、お父様がつけてくれたのよ。天連の方は、天に届くほどの徳を積んでくれるように、と言う願いを込めて。蘭花の方は、蘭の花みたいに多くの人に愛されるようにって。」
「へぇー、僕、てっきりお母様が付けてくれたのかと思っていた。お父様、そういうのが苦手そうだから……。」
天連の言葉に、母親は微苦笑して応じる……。
「あら、お父様はちょっと面倒くさがりな所もあるけれど、そういう時には人一倍真剣に考えてくれる人なのよ。」
「知らなかったわ……。」
蘭花の方が、そう言って溜息をもらした。
「あ、ごめんなさい、お母様。邪魔したりしないから、続きを聞かせて。」
兄妹がそう言って体勢を立て直したので、母親の方もついに覚悟した。どうやら、彼らは本当に最後まで聞くつもりらしい……。
「それから、景華姫たちは本格的に乱を起こす準備を始めました。武器を揃えたり、兵士の訓練や隊への編成を始めたのです。」
「わあ、いいんじゃない、景華?すごく動きやすそう!」
外のジリジリとした陽射しをよそに、柳鏡の家には景華と明鈴がはしゃぐ声が響いていた。今日は彼女のために作らせていた防具が届いたということで、明鈴がやって来ていた。
「うん、これなら鉄のやつと違って軽いから、動きやすいよ!」
景華が笑顔でそう応じる……。鉄製の鎧は彼女には重すぎるのではないか、という柳鏡の意見で、景華には革製の防具が作られていた。その他に、膝のすぐ下まで丈がある布製の靴と、自分で縫ったという戦衣を纏っている。実際に着てみて何か不都合な部分がないか確かめた方がいい、ということで、柳鏡を炎天下の外に放り出して着替えていたのだった。
「柳鏡ー、もういいよ!」
明鈴が戸口を開けてそう彼を呼ぶ……。彼は、少しでも日光を避けようと木陰に腰掛けていた。いかにも面倒だ、という顔をしながら戻って来る……。
「ふうん……。まぁ、そんなもんか。」
「ちょっとー。もっと他に言うことはないの?せっかく着てみたんだから、褒めてよ!」
彼にしたら先程の言葉も褒め言葉なのだろうが、景華は他にも何か言って欲しい、と思い、ふくれっ面で彼にそう言った。柳鏡の表情が変わった。あきらかに、景華をからかう時の表情だ……。
「いいんじゃないか?脚が出るところとか……。」
「馬鹿っ!一回死んじゃえ!」
景華は、真っ赤な顔になって戦衣の裾をつかんで下げた。その戦衣は、柳鏡が彼女をここに連れて来た時に、彼女が着ていた衣装の裾を切ったもので、少々切り過ぎたために膝よりも少し高い位の丈になってしまったのだった。
「仕方ないよ、景華。あまり長いと、馬に乗ったりする時に邪魔になるよ?」
「だって、明鈴さんー!」
赤い顔で必死に彼女に助けを求める景華だったが、どうやら助けてはくれないらしい……。彼女をからかっていたその表情を一変させて、柳鏡が険しい顔で言葉を発した。
「大体、あんたがその服にしたいって言ったからそうなったんだろうが。」
本当は、彼はあの当時の服を彼女に着せるのが嫌でたまらなかった。あの時の途方もない怒りが、今もその体を駆け巡る……。
「うん……。戦いには不向きな服かもしれないけど……。でも、あの時に感じた痛みとか、悲しみとか、怒りとか……。そういうもの、全部忘れたくないから……。この服を着ていたら常に思い出せるかな、と思って……。」
「……勝手にしろ……。」
彼女にそこまでの意思があるというなら、彼の方が折れざるを得ない……。
「言っておくが、あんたの防具は革製だ。軽くて動きやすいかもしれないが、その分強度の面では鉄鎧に劣る……。わかっているんだろうな?」
その言葉には、景華は素直に、そして力を込めて頷いた。
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ、景華っ。いざとなったら柳鏡がちゃんと、景華の盾になってくれるからっ!」
明鈴が明るい調子でそう言う……。いつもなら、誰がそんなことするか、などと言うはずの柳鏡は、今回に限っては黙っている……。おそらくそれは、明鈴が言ったことを彼がすでに決意していたことを意味している……。彼が、ふと皮肉な口調で口を開いた。
「まぁ、俺が盾にならなければいけないという時点でこちらの負けは決まりですね。なにしろ、彼女がいるはずの本陣にまで敵の攻撃が及んでいるということですから……。」
「そんなこと言わないの!景華が不安になるじゃない……。」
明鈴の言葉に、景華は首を振ってみせた。
「大丈夫。だって、柳鏡の言っていることは本当のことだもの……。あっ、そう言えば、そろそろお屋敷まで会議に行かなきゃならない時間じゃない?」
「あぁ、そう言えば確か正午から、とか……。」
景華の言葉に、柳鏡はそう答えてから外の陰を見る……。どうやら、太陽は相当高い位置まで昇っているらしい。
「大変!景華、着替えなきゃ!ほら柳鏡、出て行って!」
明鈴がそう言って彼をまた外に放り出した。仕方のないことだが、彼はこの時こう思った。ここは、本当に俺の家なんだよな?と……。なんだか、家主の扱いが随分とぞんざいな気がする……、とも……。
「集まったようですね……。」
そう言ったのは、清龍族の長、連瑛だ。会議室として利用している彼の屋敷の一室には、他に柳鏡の腹違いの兄たちと、亀水族からの代表も何人か集まっていた。ここのところ、清龍と亀水の間では、罪人の引き渡しが難航しているふりをして親密に連絡が取られていた。亀水の代表には、景華のいとこである凌江の姿もあった。
「さて、我々はこれまでに何度もこうして軍議を行ってきました。今日は、来るべき決起の日に備えて、作戦の最終確認をしたいと思います。」
全員で囲んでいる大きな机の上に、辰南国の全図が広げられた。
「まず、私たち清龍族は国の東側にある青谷から進軍し、そのまま南方に向かって緋雀の里と城の間の炎の砦を落とす。ここには現王を名乗っている趙雨に陥れられた有力者が投獄されているから、彼を助け出してそこの守りにあたらせる……。」
連瑛が手に持った剣の先で、地名を順番になぞった。全員の目が、その銀の切っ先が指し示す物に向けられている……。
「そして、その間に亀水族の方々には、城を挟んで炎の砦と反対に位置している、水の砦を陥落していただく……。ここには北の国の王子が人質として幽閉されているはずなので、彼を助け出して援軍を求める……。北の国には彼の他にも王子がいるが、どうも政務には不向きだと言う話だ。そこに彼を返してやるとなれば多少なりとも協力をしてくれるだろう……。」
ここで一度、剣先が紙の上を離れた。皆の目が連瑛に向けられる……。
「おそらく、この段階までには二度、城の兵と一戦交えることになるだろう……。一度目は青谷を通過する際。青谷には趙雨の息がかかった領主がいるからな、ここでの戦闘は免れないだろう……。二度目は炎の砦を落とす前の話だ。亀水族の方々が先に水の砦を落とし終えるだろうから、その後他の砦の近くには城の警備隊が常駐することになると考えられる。」
銀の切っ先が、再び辰南国の上を走り始めた。全ての目が、それを真剣に追う……。
「こうして城の南北を囲んでしまえば、その中央に住んでいる砂嵐族はこちらの方に寝返るだろう。自分たちの里に攻め込まれる訳にはいかないからな……。そして、西側の虎神族からの援軍を砂嵐族に担当させて、二部族の連合軍で一気に王都に攻め込む。この際、少しでも進軍にかかる時間を短くした方がいい。城側が砂嵐族の裏切りに浮足立っている内に責め滅ぼすためだ。」
城を、趙雨を責め滅ぼす……。景華の心に、その言葉が重くのしかかった。父を殺され、彼がどんなに酷く自分を裏切ったとしても、幼い頃からよく面倒を見て遊んでくれた彼のことは、未だに嫌いにはなれない……。それは、もちろん春蘭に対しても言えることだ……。机の下の景華の手を、隣にいた柳鏡の手が強く握った。小さく大丈夫、と返す……。
「問題は、いかに我々の乱が正統な物であるかということを証明することです……。」
連瑛のその言葉に、景華が声を上げた。
「あの……、よろしいですか、連瑛様?」
「どうぞ、姫君。」
連瑛に促されて景華は立ち上がり、軍議に参加している面々を見渡してから言葉を紡いだ。大きく、はっきりと……。
「私は、趙雨がお父様を殺害する現場を見ました……。」
誰もが息をのむ……。その衝撃で景華がしばらく声を失っていたことは、ここにいる誰もが知っていた。
「ですが、私の証言だけでは証拠が不十分です。そこで、あの夜のことをもう一度よく思い出してみました。そして、彼の罪を暴く方法を見つけました。」
その場にいた皆が目を見張った。柳鏡には前の夜に伝えてあったので、彼だけは驚かない……。彼には、あの夜の記憶を手繰り寄せる手伝いをしてもらったのだ。辛い、苦い記憶を……。
「彼が陛下を殺害した凶器は、祭祀用の四神剣でした。行事の時に国王が身につける、あの剣です。あの剣には、王室の書物にしか残されていない秘密があります……。」
景華はその本を直接読んだ訳ではないが、小さい頃に父が祭りの際に帯びている四神剣について質問したことがあった。それは何?と……。父は娘の好奇心に快く対応してくれた。これは四神剣と言って、不思議な力を持っている剣なんだよ、と……。
「四神剣は、皆さまがご存じのように王族、あるいは婚礼などにより王族として認められた者にしか抜くことはできません。その他にも、四神剣には流した血を記憶するという力があります……。」
景華が明かしているのは、普通なら国民が知るはずもないことだった。だが、ここに集まった協力者たちはそれを知る必要がある……。景華はそう思ってこの秘密を明かしているのだ。
「四神剣で流された血はその剣を使用した者とともに記憶され、流された血を再びかけると、その刀身はその人を殺めた人間の部族の色に染まります……。つまり、四神剣に私の中に流れているお父様の血をかけた時に、趙雨が犯人であれば虎神族の白になります……。銀色の刀身が白く染まれば、あの当時私と婚約していた趙雨が犯人だと証明することができます。他に王族に準じると認められていた虎神族の方は、いませんからね……。」
「なるほど。それなら、趙雨の罪を証明することができるでしょう。問題は四神剣がどこに置かれているかということですね。それは城に入ってから探すしかない……。」
連瑛の言葉に、その場にいた全員が強く頷いた。そして、凌江が言葉を発した。
「では、城に入りましたら四神剣を探す組と趙雨を取り押さえる組に別れましょう。残念なことに、ここにいる全ての人が趙雨の顔を知っている訳ではないと思われます……。隊を編成しなおしますか?」
「趙雨は、姫君に探していただきたい。そして柳鏡、お前もだ。二人は幼い頃から彼と一緒にいたから、混乱の中でも見失うことはないでしょう。城の出口と言う出口は抑えますから……。」
連瑛の言葉に景華は頷き、柳鏡は軽く一礼してみせた。二人とも、承諾したという合図だ。
「わかりました。姫君、四神剣の形状などについて後ほどお話下さい。亀水からも捜索隊を編成しますから。」
亀水族の代表として軍議に加わってた中年の男性がそう言った。知らない顔だったが、筋骨隆々とした逞しい戦士だ。彼にわかりました、と答えて景華は連瑛の方へと目線を戻した。全員の視線が、彼一人に注がれる……。
「以上で確認を終えようと思いますが、よろしいですか?亀水族の方々は、戻って長に以上のことをお知らせ下さい。二週間後、夜明けとともに各々進軍を開始しましょう……。御武運を。」
全員が立ち上がって、連瑛のその言葉に深く礼をした。そして、その後口々に相手の武運を祈る……。決起の日は迫っている……。景華が城を出てから、実に十カ月もの月日が流れていた。逃げ水が見えるような熱い夏の日だったが、外では、木々がその枝を絶えず揺らしている程の強い風が吹いてる……。それはまるで、彼女がこれからこの国に巻き起こす嵐の前触れのようだった……。
「いよいよなんだね、お母様。」
天連の方が、そう口を開く……。彼の口調には、まるで彼自身がこれから戦いに赴くような緊張感があった。
「きっと、大丈夫だよね。だって景華姫はたくさん頑張って、たくさんお勉強したんだもの。」
妹の蘭花の方は、少し眠そうに小さく欠伸をしながらそう言った。それでも、母親の口の動きにはしっかりと注目している……。
「はいはい、続けましょうね。そして、ついに兵を起こす前の日になりました。清龍の里は、翌日の出兵の準備でかなり騒がしくなっていました。」
日が落ちるまではまだ間があるが、柳鏡は足早に家路を辿っていた。本当は明日の出兵にあたって彼が確認しておくべきことがまだ残っていたのだが、全部姉の明鈴に押しつけてきたのだった。いよいよ明日、趙雨や春蘭たちから玉座を奪還するために出兵するのだ……。柳鏡は、いささか複雑な気分だった。彼らが景華を傷つけ、陥れたその罪は、万死に値する。だが、例えどんなことをしたとしても、彼らは紛れもなく幼少期をともに過ごした大切な友人なのだ。その彼らを追い詰めると思うと、どうしても複雑な気分を拭えない……。そして、彼のそんな心情を理解してくれるのはおそらく景華一人だろう……。そう感じる彼の心が、余計にその足を速めていた。
「……。」
そして、彼はもう一つ別の決意もしていた。そちらの方は、景華にも決して打ち明けることはないだろう……。急ぎ足で歩きながらも、彼は左腕の醜い痣を服の上からじっと見つめた。それはおそらく今も、その下で彼の身を蝕んでいるのだろう……。ギュッと、彼の眉根が寄せられた。汚らしい物を見るような嫌悪の光が、その深緑の瞳に宿っている……。
「……着いた、か……。」
すっかり見慣れた戸口の前で一呼吸置いてから、いつものように少し乱暴に戸を開ける……。その視線の先には、いつものように小さな台所に向かって夕食を作っている景華の姿があった。慣れた手つきで野菜を切るその姿からは、約一年前にここに連れてきた時のような頼りなさは感じられない。彼がすっかり慣れてしまったこの日常も、今日で最後だ。いや、どちらかと言うと、こんな非日常の生活も今日で最後なのだ。それが、柳鏡の心を余計に締め付けていた……。
「おかえりなさい。」
いつもの乱暴な戸の開け方で柳鏡だとわかったに違いないが、景華は戸口の柳鏡の方を一度向いてそう言った。そして、切り終えた野菜を鍋の中へと落とす……。柳鏡は、その様子を覗こうと彼女の方へ歩いた。
「何作っているんだ?」
「きゃっ!」
まさかそんなに近くに立たれていると思っていなかった景華は、驚いて熱くなっていた鍋の蓋に触れてしまった。
「熱っ……!」
「馬鹿、冷やせっ!」
彼女が慌てて引っ込めた手を掴んで、台所のすぐ横にある水瓶にそれをつけさせる……。水が一杯に張られていたので、腰を屈めなくても水面に手がついた。彼女の手を水につけさせている柳鏡の指先も、冷たい水に触れている……。
「痛くないか?」
「うん、大丈夫だよ……?」
こんな何気ないやり取りも、今日で終わり……。その事実が、柳鏡にはたまらなく切なかった。
「ちょっと柳鏡?もう大丈……っ!」
自分でも気付かない内に、柳鏡は彼女を背中から抱き締めていた。その腕に込められている力が相当強いことに、彼は気付いていない……。一方の景華の方は、ともすれば息が止まりそうだった。
「ずっと……あんたとこうやって、平和に暮らせれば良かったのにな……。」
耳元で囁かれる、柳鏡の言葉……。そのあまりにも切ない響きが、普段心にもないことばかり言っている彼が、この時ばかりは本心を言っていることを伝えている……。
「国も神もない、何もない所で、二人で……。」
『鍋、噴きこぼれちゃうな……。』
景華は、必死でそんなくだらないことを考えようとしていた。そうでもしないと、溶けてしまいそうだ……。全身が熱い。先程の鍋の蓋なんて比にもならない程に……。彼女は、わざと息を止めた。そうしなければ、狂走した心臓が彼女の口から飛び出してきそうだった。そして、しばらくじっとしていよう、と彼女は思った。何より、柳鏡の心が落ち着くまで……。それを、景華自身がそれを望んだのもまた事実だった。その腕の中は、彼女が世界で一番安心できる場所だった……。
「ふっ……。」
どの位そうしていたのだろうか、柳鏡がそう自嘲気味な笑みを漏らした。
「そんなこと……できる訳もないのにな……。」
そう呟いた後、柳鏡の唇が柔らかい髪にそっと触れる……。そして、それと同時に少しずつ解かれていく力強い腕……。景華は密かに名残惜しさを感じていたが、それを誤魔化すために慌てて鍋の方へと走った。熱くなり過ぎたそれを、なんとか竈から下ろそうと奮闘する……。それを見た柳鏡は、本当に愛おしげに目を細めて笑うと、何も言わずに鍋をひょい、と持ち上げ、用意されていた鍋敷きの上に下ろしてやった。
「ありがとう。」
「鈍くさいから、見ていられなくて。」
笑顔の彼女に、いつものように答える……。
「失礼しちゃうわね!」
そう言って答える彼女も、いつものようにふくれっ面……。ここであったことは、思い出として大切にしておこう。人でいられる内は……。彼の瞳が不安定に揺れたことに、景華は気付かなかった。
ついに、出兵の朝がやってきた。東の空が、暁色に燃えている……。景華はあの戦衣を纏い、腰に剣を提げた。練習用のそれではなく、彼女のために作られた鉄剣だ。その柄には、赤い宝玉を抱く龍神の姿が彫られている。柳鏡の方も、鉄鎧に身を包んでこの上なく不満気な顔をしていた。彼は重装備で動きにくくなるのが嫌いなのだ。その不満そうな顔を見て、景華は思わず笑ってしまった。
「人の不幸を笑うとは、良い根性だな……。」
「だって、あんまりにも面白くなさそうな顔しているから、おかしくて。」
「なんならあんたも着てみるか?めちゃくちゃ重いんだぞ?」
柳鏡のその申し出には笑顔で丁重にお断りを入れて、景華は兵士たちの前に出た。その横には、連瑛や柳鏡の兄たち、そして、柳鏡の姿がある……。
「姫君、どうぞ一言かけてやって下さい。」
「えっ、私?」
連瑛の言葉に、景華は目を丸くして問いかけた。
「当たり前だろ。あんたはこの軍の旗印なんだ、なんか皆の士気が上がるようなことを言えよ。」
柳鏡のその言葉で景華は一瞬躊躇したが、馬の脚を一歩前に進ませて、大きく息を吸い込んだ。
「あの……。本当は戦いに行く人にこういうことを言ってはいけないのかもしれません。でも、とても大切なことだから、言わせて下さい。」
彼女のその姿に、五千人の目が向けられている……。緊張した面持ちで、景華は話を続けた。
「どうか、命を捨てるようなことはしないで下さい。皆さんには、家族がいると思います。もしも私のせいで皆さんが亡くなったりしたら、私はご家族の方に合わせる顔がありません。」
ザワ、と群衆がざわついた……。自分が、おかしなことを言っていることはわかっている。だが……。
「命を、大切にして下さい。皆さんがいてこその乱です。成功するかどうかは、皆さんにかかっています。そして……。」
そこで言葉を切って、もう一度大きく息を吸い込む……。空の暁色と、一緒に……。
「この国の夜の闇のような政治の暗黒を拭い、新しい次代を築きましょう!辰南の暁の為に!」
割れるような歓声が、大地に轟いた。そして……。
「景華姫の御為に!辰南の暁の為に!」
そう掛け声が上がった。景華は最初こそ驚いたものの、あまりの嬉しさに呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
「うまくやったじゃねえか。こんなこと、教えなかったのによ。」
隣に来た柳鏡が、そう言葉をかける……。そして、ふと旗の方を指差した。全軍、進軍開始!という、連瑛の掛け声が響く……。
「見えるか?あの旗……。」
王家の象徴である紫色の旗。その旗に描かれていたのは、金色に染め抜かれた龍と亀に守られている、銀色の百合の花。銀色の百合は、王家の姫の紋章である……。
「すごい……。あれ……。」
感激のあまり言葉をなくしている景華に、柳鏡が説明を加えた。
「姉さんが考えて、清龍の里の女性陣が作ってくれたらしい……。向こうの軍にも、同じものを掲げてもらうそうだ。伝令班の姉さんがあっちに持って行った……。」
「そう、なんだ……。」
もう、まともに言葉さえ出て来ない……。口を開けば、一緒に涙までこぼれて来そうだった。それでも、隣にいる彼に伝えたいことがある……。
「ねえ、柳鏡?」
「何だよ?」
面倒そうな返事が返って来た。ザカザカという規則正しい行進の音に、景華の声は消されてしまいそうだ……。
「絶対に、勝とうね……。それで私、絶対に良い王様になってみせる。だから……。」
彼女たちが列に続いて行かなければならない番になった。馬の鼻先を兵士の列の方へ向けて、景華が続きを話す……。彼が一番好きな、あの笑顔で……。
「だから、ずっと見ていてね……。」
その言葉に、彼は曖昧に笑って応えた。それができないことを、知っていたから……。それでも、彼女に気付かれないように軽口を叩く。
「あんたの脚をか?」
「前言撤回!柳鏡だけは三十回位死になさい!」
馬上でも真っ赤になって裾を下げようとする彼女を見て、柳鏡は少し目を細めて笑った。これもいつかは思い出になってしまうのか、という切なさを噛み締めて……。
「陛下!大変です!」
朝食をとっていた趙雨の前に、慌てた様子で将軍の一人が駆け込んで来た。
「どうした、将軍?朝から騒々しい……。だがあまり穏やかではないようだな、話せ。」
「も、申し上げます!反乱が起きました!亀水族と清龍族が、今朝方同時に兵を起こしたようです!」
「何だとっ?同時にっ?」
将軍は混乱している、という様子で趙雨にそう聞かせた。対する趙雨も、突然の出来事に驚きを隠せないでいた。どちらの部族も人事に不満は持っているだろう、と趙雨は思っていた。だが、絶えず部族同士の闘争が絶えないこの国で、どうやって二つの部族が結束したというのか……。よほどの者が統率しなければ、目的は同じでもすぐにばらけてしまうはずだ。それにも関らず同時に決起したということは、よほど長く、綿密に連絡が取られていたに違いない……。
「そして陛下!問題はその旗印なのです!」
将軍が、青い顔でそう言った。信じられない、という言葉が一番似合う顔だ……。
「何だ?それぞれの部族の旗ではないのかっ?」
苛立ちを隠さずに将軍に問いかける……。その様子を、春蘭がじっと見ていた。
「それが……金色の龍と亀が、銀の百合を擁しているのです!」
「何だと!」
趙雨は、その言葉を聞いて愕然とした。まさか、彼女か……?真紅の瞳が、脳裏にちらつく……。
「陛下!銀の百合、というのは王家の姫の紋章ですよねっ?それをなぜ、奴らが……?」
「黙れ!」
状況を飲み込めずにあたふたとしている将軍を一喝する……。その様子からは、余裕という物が一切感じられなかった。
「いいか、将軍。このことは他言無用だ。近衛隊から口が固い者を選んで二隊に分け、討伐に行け。奴らの動向を逐一知らせろ。わかったな?」
「仰せの通りに、陛下!」
将軍はそう言って伏礼をすると、廊下を早足で歩いて行った……。後には、趙雨と春蘭だけが残った。
「まさか、まだ生きていたなんてね……。」
春蘭がそう言って趙雨に歩み寄り、その腕に自分の腕を絡めた。趙雨が長く息を吐いてから、彼女の薄青の瞳を見下ろす……。その瞳には、昔のような明るい光は宿っていない……。
「いや、おそらく偽物だろう……。彼女は死んだんだ。そう報告も受けたじゃないか……。」
「そうね……。」
そう言って彼から逸らした瞳には、ただ黒い光のみが渦巻いていた。険しい顔つきで、渡り廊下の先の植え込みを見つめる……。
『今更戻って来るなんて……。』
今も忘れられない真紅の瞳が、彼女の目に浮かんだ。
『今度こそ、殺してやる……。』
その胸に辛うじて収まっている感情を、彼女はぐっと抑え込んだ。同時に彼の腕を強く握っていたことには、気が付かなかった……。
「おいあんた、寝ぼけて落馬したりするなよ!」
景華の隣に馬を歩かせている柳鏡が、そう声をかけた。清龍の軍は敵を撹乱するために三つに分かれ、それぞれに進んでいた。景華たちの軍は一日目の行軍を終え、短い休息を取った後にまた進軍を開始していた。午後からは生憎の曇天で気温が上がらず、冷え込む中での野宿だったので、景華はほとんど眠れなかった。
「大丈夫だって。柳鏡こそ、体が重くて動けない、なんて言わないでよ!」
心配して言ってくれたその言葉に、嫌味で応酬する……。いつものことだったが、眠れないで気持ちが不安定だったのも原因だった。柳鏡は、景華の軍の副将として配属されていた。名前は一応景華の軍であるが、とっさの判断は柳鏡がしてくれることになっていた。本来なら一軍の将として行進していてもおかしくない柳鏡だが、彼がこの位置を望んだのだと言う……。
「アホか……。言っておくが、そろそろ青谷の領主の領地に入るぞ。趙雨の息がかかった奴だからな、油断していたら後ろから矢でブスリ、なんてことになりかねないぞ?」
「もう、大丈夫だったら!」
景華がふくれっ面でそう応じた時だった。
「敵襲ーっ!背後に敵軍です!」
その声が響くと同時に、大きく角笛の音がなった。
「ほら見ろ、お出ましになったぞ。全軍方向を転換しろ!迎え撃つぞ!」
最初の言葉を景華にかけてから、柳鏡がそう号令をかけた。先程とは違う音の角笛が鳴らされる……。
景華の頭に、昨夜の柳鏡の言葉が蘇って来た。
「いいか?あんたは自分の身を守っていればそれで良い……。」
「どうして?それじゃあ役立たずじゃない……。あんなに練習したもの、大丈夫よ。」
配給の食事を景華の分も取って来てくれた彼に、口を尖らせてそう答える……。彼女の隣に腰を下ろして器の片方をその手に持たせてから、柳鏡が口を開いた。
「あんたに、人を斬らせたくねえんだよ……。」
深い緑の瞳が、何か複雑な物を宿して、揺れる……。意味がわからない、と思って、景華はその口を反抗的に尖らせたまま彼が続きを話すのを待った。
「いいか?生きるためには仕方ないとしても、戦場では人を殺さなきゃならない……。だが、相手も人間だ。同じように痛みも感じれば、あんたが言ったように家族もいる……。」
「……。」
景華の目が、伏せられた。柳鏡の言いたいことが、なんとなくわかった気がする……。
「俺たちは、そんな奴らの人生を奪っているんだ。それを後から考えると、痛い……。」
柳鏡の顔が、心の痛みにほんの少し歪んだ。そう言えば、彼が戦場で挙げた武勲を誇るところを、彼女は一度も見たことがない……。すごいのね、と褒めても、曖昧で悲しげな笑みを返すだけ……。その時は、冗談で応酬してくることもなかった。
「だから、あんたにそんな痛みを覚えさせたくねえんだよ。心配しなくても、あんたに近付く奴がいれば俺がぶった切ってやる……。」
「わからないよ……。」
景華が、俯いてそう言った。その言葉に柳鏡が片眉を吊り上げて、ほんの少しだけ反応を示す……。何がわからないのか、彼にはそれがわからない……。
「だってそれじゃあ、柳鏡が後から痛いでしょう……?」
そうか、そんなことだったのか……。少し肌寒い位の空に、食事の湯気が白く立ち登る……。
「いいんだよ、俺は。今までに何度もそういうことはあったし、今更……。」
そうだ、人でないこの身が、今更心の痛みなど感じてどうする……。右手でぐっと、左腕を握る……。温かさという物が、全く感じられない……。
「ねえ、柳鏡?一つ、聞いても良い……?」
「何だよ?」
自分がどこか奥底で動揺していることを彼女に気付かれないように、普段と同じ口調を意識してそう返す……。
「柳鏡は……そんな痛みを知っているのに、どうしていつも戦場に行ったの?」
辰南の龍神は齢十四でその初陣を飾り、以来、数多くの武勲を立てて来た……。しかし、そのような痛みを知っていながら、彼はなぜ頼みにされるがままに戦場に赴き、数多くの犠牲を生みながらもその名を轟かせてきたのだろうか……。
「……。」
彼は、どう答えれば良いのか迷った。応えは単純明快だ。彼女のため、彼女の笑顔のため。そして、彼女の幸福に自分の存在意義を見出している、自分のため……。だが、それをそのまま話す訳にもいかない……。形の良い眉を顰めて、柳鏡は少しの間考えていた。
「そうだな……。俺が人でいられる証拠のため、かな……?」
景華には、この意味は全くわからないだろう……。それがわかっていて、敢えてそう答えた。彼女が真実を知る日は、永遠に来なくていい……。それが、彼の願いだった。
「人でいられる、証拠……。」
彼の言葉をそう繰り返す……。人でない証拠、として彼が挙げているのは、もちろん龍神の紋章。では人でいられる証拠、とは……?景華に考えついたのは、彼がその痛みで自分が人だと確認しているということ。その痛みで、自分の中に心という物が存在することを確かめている、ということ……。
「柳鏡、馬鹿だね……。」
彼に景華がかけられる言葉は、それだけだった。彼のその行動は、彼女には馬鹿だと言うことしかできない……。それ以上に、彼の悲壮な生き方に対して言える言葉が、あるだろうか。
「放っておけ。それであんたに迷惑かけたこと、ないだろ?」
確かに、彼がそれで一度も自分に迷惑をかけたことはない……。だが、それでも。
「やっぱり、馬鹿……。」
そう言って冷めきった食事に手をつけた彼女に、柳鏡はそれ以上何も言わなかった。
「柳鏡。」
彼の名を、そう呼ぶ……。陣形についての指示をちょうど出し終えた彼が、振り返った。
「約束、守るから……。だから柳鏡も約束、守ってよ?」
彼が一瞬思案顔になる……。そして、この場合の約束がどれを示しているのか、考える……。頭に浮かんだのは、昨日のこと。
「あぁ。あんたに近付いた奴は、全員俺がぶった切ってやる!間違ってあんたも斬っちまうかもな!」
「……そんなことしたら、呪い殺してやる!」
笑顔の彼に、そう答える……。自分が緊張しないようにという、不器用な彼の精一杯の思いやり……。
「やめろよ、道連れにする気かっ?」
そうお互いに軽口を叩いている間に、早くも第一陣と敵軍が激突していた。
「いいか?六班に分かれろ!一班から順に前に出て、疲れたらどんどん後ろと交代しろ!」
的確な指示が、彼から出される……。そして、清龍族の兵士たちは、その命に素早く従う……。それは普段自分たちが煙たがっている彼の存在を、心の奥底では認めていたということの表れだった。景華が見ている前で、次々に兵士たちがぶつかり合い、倒れて行く……。その光景は、彼女にはあまりにも凄惨だった。
「見たくないなら、見ない方がいいぞ……。」
景華が青い顔で唇を噛み締めている様子を見て、彼がそう言った。それでも、彼女は首を横に振った。高い位置で縛り上げた髪が、いつもより激しく横に動く……。
「ダメ、全部見ておかないと……。そうしたら、もうこんなことが二度と起こらないように、と思えるようになるでしょう……?」
「……。」
震えて、そんなに青い顔をして……。それでも彼女は、決して目の前の光景から目を逸らそうとはしない……。そんな彼女は、柳鏡の目にはとても意地らしく、そして気高く映った。彼女ならば、いずれ王位に就いた時に、国民が他国に誇れるような王になるだろう……。そう思った。
「……本当は、俺が混じって戦った方が軍の士気は上がるのかもしれない……。だが、そうするとここにいるあんたの守りが手薄になっちまうんだ……。」
彼女がどういう答えを返すのか、なんとなくわかっていてそう言ってやる……。
「私は大丈夫だけど……。でも……。」
柳鏡が混ざれば、士気が上昇する……。それは願ってもいないような効果だ。だが、彼の心の痛みに対する代価は、何で支払うことができるだろうか……。
「俺のことは心配いらねえよ。問題は、あんたの方だろうが。俺は……あんたが勝つための道具に過ぎねえんだよ……。」
それは、自分の心を押し殺すことになってでも、彼女の夢を叶えるという意味……。彼のその言葉に、景華は決意を固めた。
「前線に行って、柳鏡。ただし……。」
続きを聞くために、彼の体が少し景華の方に傾けられた。
「絶対に、戻って来ること。怪我もしないで。わかったわね?」
なんとも無茶苦茶で、わがままな注文……。それでも、彼は。
「仰せの通りに!」
そう彼女に笑顔で誓って、自分が騎乗している馬の横っ腹を強く蹴りつけた。龍神が、戦場を駆けて行く……。彼の背から、大剣が抜き放たれた。銀色の刀身が、閃く……。そして、彼が通った後には、兵士たちの亡骸の山……。それが、そのまま彼の心を塞ぐ痛みに変わる……。彼女は誓った。彼のその痛みに寄り添えるようになる、と……。その時だった。
景華の周りで、兵士たちが何人も倒れた。一瞬、何が起きたのか理解できずに固まる……。
「奇襲攻撃です!前からも来ています!弓兵隊のようです!」
その言葉のおかげで、何が起きたのかを一瞬で理解する……。どうやら、敵はこれが総大将である景華の軍だと知っていたようだ。柳鏡が離れてすぐに攻撃を仕掛けてきたところから見て、おそらく辰南の龍神の存在にも気付いていたに違いない……。
「慌てないで!向こうが近付いて来るまでは、こちらも弓で応戦して。ある程度の距離になったら、ぶつかりましょう!」
そう声をかけながら、自分も弓の準備をする……。背負っている矢羽根を抜き、弓に番える……。大切なのは、呼吸。そう彼に教わった……。その彼との約束を破らなくてもいいように、敵兵の足元を狙う……。
景華が矢を放ったのと同時に、何本もの矢がどちらにも射かけられる……。それらはちょうど中央の辺りで交差し、そのまま相手の軍に降り注いだ。
「うっ……!」
左肩に、痛みが走る……。見れば、銀色の矢尻が深々と彼女の肩に突き刺さっていた。その矢が動きの邪魔にならないように、途中でバッキリと折る……。こういう時には矢尻を抜いてはいけない、と教わったからだ。
「姫君!」
それに気付いた兵士の一人が、そう声を上げる……。
「私は大丈夫!それより、皆は?次を射かけたら、すぐに盾で急所を守って!」
そう号令をかけて自分も二本目の矢を番え、発射する……。そしてその後、襲い来る矢の雨を盾で避ける。
「一気に畳みかけて!突撃!」
彼女のその言葉に、全員が剣を抜き、走る……。もちろん、彼女も剣を抜いた。皆が敵陣に突っ込んで行くのを、一人で見ている訳にはいかない。だが、その身は恐怖にすくんでいる……。以前の彼女なら、間違いなくここで逃げ出したことだろう。でも、後には引けない……。馬の横っ腹を、先程彼がしたのと同じように蹴る……。金属の不協和音の只中に、彼女もその身を躍らせた。いくつもの真剣な顔が、彼女からも見える……。自分に向かって来た兵士に、覚悟を決めて対峙しようとしたその時だった。目の前で、その彼が急に倒れる……。
「間に合ったかっ?」
その姿が、彼女を安堵させる……。
「ギリギリね……。死んじゃうかと思った!」
その位、本気で怖かった……。自分に向けられている多くの刃を、景華がどうにかして全て受け流す。そして、彼らはことごとく柳鏡の手によって斬り捨てられていく……。
「あんたみたいなじゃじゃ馬はっ、しぶとく生き残るものなんだよ!」
彼女に平静を保たせようと、いつものように乱暴にそう言う……。その鎧は、他よりも遥かに多くの返り血を浴びている……。血に濡れた刀身を翻して、龍神が舞う……。他国が彼のその名を恐れる理由が、そこにあった。
結局、全員無事という訳にはもちろん行かなかったが、景華たちの軍はあまり多くの犠牲を出すことなく勝利を収めた。柳鏡の活躍があってこその勝利だ。
「負傷者を集めろ!歩ける者は歩き、無理な者は馬や負傷者用の馬車に分乗させてくれ!この先の湖で休むから、その時に手当をする!」
柳鏡の指示で、迅速な対応がなされた。景華の肩口に、彼の視線がチラリと当てられる……。
「痛むか?」
短い問いかけだが、その声音からはあきらかに心配していることが読み取れる……。
「うん、大丈夫!そんなに深くもなさそうだし……。」
そう、嘘をつく。今は上掛けで隠しているが、先程チラリと眺めた時には、矢尻は完全に彼女の体に刺さり込んでいた。それでも自分の怪我で軍の士気を下げたりはしないように、そう答えた。肩口は、ジンジンと痛んでいる……。ともすれば、気が遠くなりそうだ。しかし、そこは気力で持ち堪える……。
「湖まで、一時間あれば着く。その間は我慢しろ……。」
冷たい言葉に思えるが、それは彼女の意思を尊重しているからこその言葉だ。本当は、今すぐその場で手当てをさせてやりたかった。
「いいよ、柳鏡。進軍させて。」
その表情を読み取って、そう声をかける……。自分なら問題ない、と彼に思わせたかった。
「……進軍を開始しろ!一時間後の湖到着を目標にする!」
その掛け声で、皆の足がゆるりと動き始める……。戦いの後で疲れ切っているのであろう、誰も足並みを揃えて歩こうとはしない……。馬上で多少ふらつきながらも、景華はなんとか湖まで持ち堪えた。
「負傷者は重傷者から順番に救護班に見てもらえ!食事の当番は準備をしろ!もし負傷者の中に食事当番がいれば、誰かに代わってもらえ!」
そう号令をかけてから、柳鏡は馬から下りた。そして、意識が薄れてきている景華を馬上から下ろす……。
「おい、本当に大丈夫な奴がこんなことになると思うか?」
そう言いながら寄りかかって座れるような木の根元に、彼女を下ろした。
「だって、倒れる訳に行かないから……。」
確かに、旗印となっている彼女の一挙一動は、そのまま軍の士気に直結している。彼女が倒れる訳にはいかないというのは、紛れもない事実だった。
「待ってろよ。救護班の奴、呼んで来るから……。」
そう言い置いて彼が立ち上がろうとした時だった。力の入らない手で、彼女が彼の上掛けを掴んだ……。
「いら、ない。皆、もっと重症でしょ?先に……治療してあげて……。」
「あんたも十分重症な部類だと思うが……。それでも最後にしたいのか?」
柳鏡の言葉に、彼女はコクリと力なく頷いた。もう、彼の声音が怒りを帯びていることにも気付けない……。
「ふざけるなよ……。」
声を荒げることはなかったが、それだけに彼の怒りが深いことがわかる……。柳鏡は、くるりと背を向けて行ってしまった。痛みで意識が遠のいて、視界が揺れる……。ふと体が浮く感じが彼女を捕らえ、その後どこかに下ろされるのも感じた。
「柳、鏡……?」
辛うじて、腕の持ち主の名前を呼ぶ……。どうやら、皆が休んでいる湖のほとりから少し離れた場所に連れて来られたらしい、喧騒が遠い……。
「救護班が嫌なら、仕方ないだろ?抜くぞ……。」
「つうっ……!」
肩に感じていた異物の存在が激しい痛みとともに、消えた。それと同時に、温かい液体が体から抜け出て行くのを感じる……。
「ちっ、やっぱりかなり深かったんだな……。」
彼女の傷口に布を押し当てながら、一人で呟く……。こういった矢傷の類は、手当し慣れている。だが……。
「あんたが嫌だって言ったんだからな、文句言うなよ!」
彼女の傷口を抑えたまま防具の止め具を解き、緩める……。そして、その戦衣を少しはだけさせた。白い肩が、朱に染まって無残だ……。
「あんた馬鹿かっ?これだけ深く刺さることなんて、滅多にねえぞ?なんでこんな風になるまで言わなかったんだよっ?」
彼女を責めても仕方ないのは、わかっている……。彼女にこんな怪我をさせてしまったのは、自分だ。たとえ彼女がなんと言っても、あの時側を離れるのではなかった……。その後悔が、口の中で苦い。傷薬を縫った布をその肩に当てて、包帯できつく縛り上げる……。おそらく、しばらく出血が止むことはないだろう。景華がありがとう、と言って戦衣を着付け直した。防具の止め金が片手ではうまく取れないので、手伝ってやる……。
「傷、残っても知らねえぞ……。」
乱暴にそう言って、隣に腰掛ける。彼女は本当に彼の思い通りにはならず、困るようなわがままばかりを言う……。それがただのわがままならば文句のつけようもあるのだが、理に適っているわがままばかりを言うので、さらに困る。
「仕方ないよ。ほら、よくいるんでしょ?戦場でついた傷が消えない人って。」
青い顔をしているが、いくらか楽になってきたらしい、口調がはっきりとしてきた……。
「馬鹿なことばっかり言うんじゃねえよ。それは男の話だろうが。」
へらへらと笑う彼女に、本当に腹が立つ……。
「ほら、柳鏡のせいじゃないよ?私が行ってって頼んだんだし……。」
そして、あきらかに自分の落ち度なのに、彼女が自分を責めようとしないことにさらに苛立ちが募る……。
「父上が姉さんを戦場にやりたがらないのは、こういうことがあるせいなんだよ。本当は姉さんだってあんたの軍に入りたかったんだ。だけど、父上に止められた。体に傷でも残ったらどうする、って……。」
「そうだね。女の子は、いつかお嫁さんに行くからね……。」
彼女は、そう他人事のように言った。自分には関係のない世界の話だ、という考えが、頭のどこかにあったのかもしれない……。
「他人事じゃねえだろ。あんただって、王家の血筋を絶やさないためにいずれ結婚しなきゃならないだろうが……。」
その時までは一緒にいてやれないかもしれない、という考えが、柳鏡の頭をよぎって、消えた。そんなこと、今は考えたくなかった……。
「うん。そうだね……。」
まるで他人事、という言葉がぴったりの生返事……。
「あんた、自覚はあるのかっ?」
いい加減その反応に腹が立ち、思わず声を荒げてしまった。彼女がこの時、どんなことを考えていたのかも知らず……。
「……だって、仕方ないよ。私が王様になったら、私の結婚はそのまま政治に繋がってしまうでしょう?相手は他所の国の王子、とか、あるいはこの国の勇士、とか。私が勝手に決められる問題じゃないもの……。」
確かに、彼女の言う通りだった。彼女の結婚は、他国の王子とであれば外交のバランスを考慮せねばならず、国内の人間とであれば部族間の力関係に十二分に注意を払わなければならない……。そして、それらを考慮した中で最も理想的であるとされる相手が、彼女の意思とは関係なく選ばれる……。柳鏡は、その言葉を聞いてしばらく黙り込んだ。
「あんた、それで満足なのか……?」
やっと出てきたその言葉は、むしろ彼自身の意志を問うものだったのかもしれない……。この戦いを終結させて、彼女にそんな人生を歩ませる……。それで、本当に俺は満足なのか?と……。
「本当は、ずっと一緒にいてくれる人位、自分で決めたいよ?でも、何もかも欲張りになっちゃいけないから……。」
彼女は最近、あの老婆の占いを思い出す。一つならず、手放さなくてはならないもの……。その答えの中に、自由という物が含まれているのではないだろうか……。
「あんた、俺が思っていたよりも後ろ向きだな……。」
柳鏡のその言葉に、景華の顔が上がる……。何が言いたいのか、彼の表情も合わせて考えるために……。
「自分で決められないから、最初から諦めるのか?そんなもの、あんたが王様になればあんたが一番偉いんだろ?いつもみたいにわがまま言えばいいじゃねえか。自分が結婚する相手位、自分で決める!とか、あんたなら言いそうだと思っていたけどな……。」
「それじゃあ暴君だよ……。」
柳鏡の突拍子もない言葉に、景華は思わず苦笑させられた。
「あんたが暴君なのは今始まったことじゃあねえだろうが。ガキの頃から外の花を摘んで来いだの、うさぎを城に連れて来いだの……。」
「あったね、そんなこと……。」
幼い頃の記憶に、ふっと頬が緩む……。
「あんたにしたらいい思い出かもしれないが、こっちには地獄の日々だったんだぞ?あのうさぎだって捕まえるのに三日もかかったんだ……。馴らすのにはもっと時間がかかったし……。あんたが生きているのがいいとか言うから、相当苦労したんだよ。わがまま過ぎるだろ……。」
彼女のそんなわがままに付き合ってくれるのは、いつも柳鏡だった。趙雨や春蘭は、ただ眉根を寄せて困ったように笑うだけ。だが彼は、絶対に景華が欲しがったもの、見たがった物を持って来てくれた。そして決まってこう言うのだ。二度とあんたのわがままなんか聞かねえ、と……。
「でも、柳鏡は絶対に叶えてくれたよね……。後から散々文句言われたけど。」
彼女から、彼が視線を逸らした。そして、そのまま何も答えない……。
「決ーめた!王様になっても、いっぱいわがまま言っちゃお!だから柳鏡、全部叶えてね!」
「ふざけるな。あんたが調子に乗ったら手に負えないから、嫌だ。」
暗い表情を一転させてとびっきりの笑顔で言った彼女に、間髪入れず断りを入れる。
「ダメ!もう決めたもん!」
それがすでにわがままだということに、彼女は気付いていない……。立ち上がって草を払う……。
「戻ろうよ。ご飯できたみたいだし。」
そう言って楽しそうに戻って行く彼女の後ろ姿を見て、彼が呟いた。彼女には、決して聞こえないように……。
「俺に叶えてやれるものなら、全部叶えてやりてえよ。でも、時間がねえんだ……。」
左手だけを、ぐっと握り込む……。指先が、冷えた手のひらに食い込んだ。
「景華姫、怪我しちゃったんだね。痛そう……。」
蘭花の方が、そう言って顔をぐっとしかめる。矢傷の痛みを想像しているようだ……。
「でも、お母様。そうしたら、蘭花も結婚する時には自由にできないの?ちょっと可哀想だよ……。」
兄が、隣にいる妹の顔を見やった。妹の方は、今度は心配そうに眉を寄せている……。
「大丈夫よ。蘭花はお兄ちゃんがいるからね。景華姫は一人っ子だったからそうなってしまったの。」
ほっと頬を緩めた後で、別の疑問を母親に投げかける。
「お母様は、どうやってお父様と結婚したの?お母様も一人っ子でしょう?」
両親の仲が良いことは、二人とも知っている。到底、政略結婚とは思えない……。
「お父様が、この国で一番の人だったからですよ。」
「ふうん……。」
誤魔化された気もするが、仕方ない。母親の口から、続きが紡がれた。
「その後、景華姫たちは無事に青谷を抜けることができました。途中何度か戦うことにもなりましたが、その度に柳鏡が活躍してくれたのです。」
「姫君!あそこに我が軍の旗が見えます。どうやら、合流地点に着いたようです。」
青谷を抜けてすぐの林の中が、清龍軍の合流地点になっていた。旗の数からみて、連瑛が率いていた隊と柳鏡の兄たちが率いていた隊は、すでに到着していたようだ。そこに、景華たちの軍が混ざる……。
「姫君、御無事で何よりです。」
連瑛が馬上からそう挨拶をしてくる……。景華もそれに笑って答えた。
「連瑛様も、お疲れ様です。ここで皆様にお会いできて本当に良かった。」
「柳鏡、姫君にお怪我をさせるようなこと、なかっただろうな……?」
「はい、父上……。」
景華に口止めをされたので、柳鏡はそう嘘をついた。彼女の怪我を残りの三分の二の隊が知る必要はない、というのが景華の考えだった。傷は、とりあえずは塞がっていた。肩を上げたり大きく動かしたりすると痛むが、それ以外には特に問題はない……。傷痕は、残ってしまいそうだが……。
「それでは、姫君。このまま南進します。よろしいですか?」
「ええ、行きましょう。次は炎の砦でしたよね?」
連瑛の命で、合流した大隊が進軍を開始する……。全体としては、二割強の兵士が減ってしまったようだ。つまり、景華たち以外の隊も攻撃を仕掛けられていた、ということだ……。
「父上たちの隊は、二度程戦闘を行ったみたいだ。兄さんたちは、三回……。」
兵士の減り具合から、柳鏡が計算して景華に教えてくれた。そして、そのまま馬を並べて歩かせる……。
「肩の具合は?」
小さく、誰にも聞こえないように彼女に訊ねる……。誰にも気付かれないように、唇の動きも最小限に抑えて。
「ちょっと痛むこともあるけど、大丈夫。」
「傷は……?」
小さく目を伏せて、景華が答えた。
「塞がってはいるけど、残っちゃうかも……。」
「そうか……。」
何か言葉をかけてやりたかったが、何をどう言っていいのかさえわからない……。ふと思い出したことが、口を衝いて出た。
「あんた……。あれ、まだつけていたんだな……。」
一瞬、何のことなのかわからずに戸惑う……。それから、思い当たることが一つ。
「うん……。なくしたり壊したりしたら困るから、置いて来ようかとも思ったんだけど……。」
彼らが話しているのは、柳鏡が景華にあげた珊瑚の首飾りの話だった。肩口の矢傷の治療をした際に、白くて細い首にそれがかかっているのを、柳鏡は見たのだった。普段は襟の中にしまわれているので、誰にも、絶対に気付かれることはない……。
「別に……。あんたにやった物だから、あんたの自由だけどな……。」
そう言ってついと目を逸らし、乗っている馬同士の距離を若干離す……。これでは彼が何を言いたいのか伝わらないと思うが、本当は彼女の首にそれが揺れるのを見た時、とても嬉しかったのだ……。城で育った姫君には当たり前の物だから、彼女はすぐに飽きてしまうだろう、と彼は思っていた。しかし、彼の予想に反して彼女はそれを身に着け続けていた……。我ながら単純かもしれないな、と彼は思った。彼女の行動一つで、一喜一憂してしまうのだから……。
「変なの……。」
彼が何を考えているのかわからない彼女は、そう言って口を尖らせる……。今日は、久々に晴れ間が広がりそうだ……。
「どうなった?無事に討伐できたかっ?」
城に報告に戻った将軍に詰め寄る……。趙雨は、内心ではかなり焦りを感じていた。反乱軍が出たことは、すでに城の閣僚たちは知っていた。その旗印までは、まだ知らされていなかったが……。
「それが……。どちらも予想以上に抵抗が激しく、城の近衛隊だけでは太刀打ちができません!援軍を要請して下さい、陛下!」
趙雨の眉が、ギュッと顰められる……。正直、この決断は難しかった。確かに、虎神族や緋雀族に援軍を求めれば、簡単に討伐ができるのかもしれない……。だがそうなると、城の近衛隊でも抑えられない程の反乱軍が出た、として、人心に不安を与えかねない……。そうでなくても偏った人事で国民の支持を得られていない彼の政権は不安定なのだ、これ以上人心を揺さぶるようなことになっては、暴動も起きかねない……。
「城の近衛隊を増員する、と言って援軍を集めたら?」
後ろから、彼女の声がする……。その声の方を振り返り、趙雨はほっとした。自分一人では頭を抱えてしまうような問題も、彼女がいてくれれば解決できる気がする……。
「そうだな、それがいいかもしれない。父上、どの位なら兵士を貸していただけますか?」
「私もお父様にお願いしてみるわ。」
春蘭の後ろ姿が、戸口から消えた。それを見送ってから父である虎神族の長、秦扇に目線を戻す……。
「趙雨、正直なことを聞いてもいいか?」
「なんですか、父上?」
厳しい顔きで顎に手を当てて何事かを考えている……。そして、重い口調で話を切り出した。
「反乱軍の旗印に、銀の百合が描かれているという……。本当か?」
趙雨の顔色が、一瞬にして青く変わった。その様子から、返答がなくても答えを読み取る……。
「それでは、その軍に姫君がいらっしゃるのではないか?銀の百合と言えば、王家の姫の紋章のはずだ……。」
「偽物に決まっていますよ、父上……。」
青い顔のまま、自分の野望の犠牲にした少女の顔を頭に思い浮かべる……。彼女が、生きているはずがない……。
「父上も一緒にお聞きになったではありませんか。彼女の死体が揚がった、という話は……。同じ深緑の髪だったそうですし、彼女の簪までしていたのであれば、間違いありません……。」
その言葉に、父親が疑問を差し挟む……。
「私には、どうも納得がいかないのだ……。姫君は、柳鏡がさらって行ったのだろう?その彼がなぜ、姫君の死体と一緒に揚がらないんだ……?たとえどんな状況に陥ったにせよ、あの若者が、姫君を自分より先に死なせるとは思えないのだ……。」
趙雨が、それには確信があるように答える……。
「おそらく、無理に自分の妻にでもしようとしたのでしょう。それで、姫君が思い通りにならないから殺したのではないでしょうか……。彼が姫君をどう想っていたのかは、子供の頃から見ていてよく知っていますから……。」
秦扇が、険しい顔付きで何事かを考える……。そして、また重いその口を開いた。
「私には、やはり納得がいかないのだがね……。わかった、三千の兵を貸そう。ただし、もしも反乱軍の中に姫君がいらっしゃるとわかれば、直ちに兵を引かせてもらうからな……。姫君がいらっしゃるのであれば、反乱軍はこちらの方になってしまう……。」
「ありがとうございます、父上……。」
反乱軍の中に、彼女がいる訳がない。趙雨はその確信の元に、父親との約束に合意した。戻って来た春蘭が密かに眉根を寄せて考え事をしていることに、彼は気付いていない……。
「明日には炎の砦に到達します、姫君。今日は、ここに幕営いたします。ただいま姫君の天幕を張らせていますから、もう少しお待ちください。」
今日は、彼らは天幕を張って本格的に幕営をすることになっていた。明日にはおそらく城の軍とぶつかることになる……。その拠点を築く際の予行演習として、幕営を行うことにしたのだ。
「負傷者用の天幕は足りていますか、連瑛様?」
景華の問いかけに、連瑛は一瞬間を空けてから答えた。
「それが……軽傷者用の天幕が足りていません。」
言った後で、連瑛は後悔した。姫が一度言い出したら聞かない、ということは、息子から聞かされていた……。
「それなら、私の天幕を使って下さい。私一人のために、多くの負傷兵を夜露にさらしたりなさらないで……。」
「アホ。」
隣から、その息子が割って入る……。
「柳鏡、姫君になんて口のきき方を……!」
「いいんです、連瑛様。私がそう話してくれるように、頼んであるんです。」
あまりにもひどい言葉遣いなのでたしなめようとしたが、景華自身に止められる……。
「あんたが天幕を使わねえなんてことになったら、無条件で全員野宿なんだよ。仮にも総大将なんだから、その位のことわかれよ。」
柳鏡のその言葉に、景華が返答に詰まった。
「それともあんた、父上や兄上たちにまで野宿させる気か?それなら、あんたの天幕を負傷者用に使ってやる……。」
「だって……。」
口を尖らせて、俯く。彼の言っていることが正しいということは、身に染みてわかっている……。柳鏡が、軽く溜息をついた。
「父上、確か副将以上の将軍には、個別に天幕が与えられていましたよね……?」
「あぁ、そうだが……。」
個別に与えられている物なので小型ではあるが、天幕からあぶれている軽傷者は極僅かだ。彼はそう考えた……。
「それでは、俺の天幕を負傷者用に用いて下さい。どうせ俺は姫の天幕を守って眠らなければならないので、必要ありませんから。それで良いだろ、わがまま姫?」
「別に四六時中付いていてくれなくってもいいのに……。」
そう口ごたえをするが、彼は取り合ってくれない……。仕方なく、景華の方が折れる……。
「それじゃあ、そうして下さい、連瑛様。」
景華はそう言って、案内に来た兵士の一人と彼女の天幕に向かって歩いて行った。連瑛が、こっそりと呟く……。
「助かったぞ、柳鏡。」
「いえ……。姫のわがままにはほとほと手を焼かされて来ましたから、ああいった時の対処法は知っています。」
その言葉に、連瑛が苦笑する……。
「お前もその若さで随分と苦労させられているんだな。お前の母親も、若い頃はなかなかすごかったぞ……。」
今度は柳鏡の方が苦笑してみせる……。
「違うのは、父上と母上は無事に結ばれた、ということですね……。」
息子のその言葉に、なんだか違和感を覚える……。
「私の天幕も完成しただろうか……。柳鏡、ちょっと来なさい……。」
そう言った父の後を、何も言わずに柳鏡がついて行く……。連瑛の天幕も、完成していた。そのまま中に通される……。
「外に会話が漏れることはないと思うが……。柳鏡お前、何を隠している?龍神の紋章のことで、何かあったのか?最近、よく左腕を掴んでいるだろう……?」
気付かれていたか……。そう思い、柳鏡は軽く唇を噛んだ。父親の目はあの老婆の目と一緒で、自分の心の中までを見通してくる……。だから、いつも隠し事はできない。そのせいで、悪戯がばれて叱られることもしばしばだった……。
「龍神の華、という者は御存じですか?」
柳鏡の問いに、少しの間目を閉じる……。
「そう言えば昔、春の祭りの時に来ていた占い師が言っていたな……。確か、龍神の紋章を持つ者に仇をなす、という存在だろう?」
「そうです……。」
そう肯定してから、目線を下に落とす……。呪いの証からは、わざと目を逸らして。
「それが、どうかしたのか……?」
父親の目が、不安げな色を宿した。普段は厳しい人物であっても、彼は子供に対して当たり前の愛情を持っていた。ましてや、柳鏡の場合はその生い立ちや背負わされた運命が過酷であったから、なおさら……。
「あの姫が、その龍神の華なんだそうです……。そして華に焦がれた龍神には、本当に呪いが待っていた……。」
柳鏡が、自分の左腕をきつく握り締めた。その力の強さで、指先が白くなる……。
「俺は……だんだんと人ではなくなって来ています……。それでも、最後の瞬間まで人であるために、彼女の側にいたいんです……。」
息子の身に何が起きているのか、連瑛は大体の察しがついた。おそらくは、紋章の力の暴走……。それが彼にどんな変化をもたらしているのかまではわからないが、あの息子がここまで動揺しているのだ、事態は相当深刻に違いない……。
「お前の名前は、お前の母親がつけたんだ……。水面に映る、柳の葉を見て……。」
「姫が、見つけてくれましたよ……。その色が、俺の目の色にそっくりだとか……。」
嬉しそうに話す、あの笑顔が蘇る……。人である内は持ち続けようと決めた、思い出……。
「惜しいな、姫君……。正解まであと一歩だった……。」
そう言ってふと遠い目をする父親に、柳鏡は目だけで問いかけた。一体、どこが違っているのか、ということを……。彼女がその説明をしてくれた時、彼自身もそれに非常に納得がいったのだ、間違っているはずがない、と……。
「その色は、水面が波立つと消えてしまうそうだ……。」
「それも、聞きました……。」
波立ったらすぐ消えちゃうの、と言ったふくれっ面も、柳鏡はよく覚えている……。
「お前の瞳の色と同じ、鏡のような水面に映る、柳……。でも、水面が波立ったらすぐに消えてしまう……。だから。」
そこで一度言葉を区切って、息子の顔をじっと眺める……。その面差しは、母親のそれに近い……。
「その色が映る水面のように、穏やかな人生を歩んで欲しい……。それが、お前の母親の願いだ……。」
「っ……。」
柳鏡は、胸が詰まるのを感じた。母が呪われた運命の自分に望んでくれたのは、危険を冒して手に入れる栄光ではなく、そこにある平穏……。その事実が、胸に突き刺さる……。
「……俺は……母さんが望んだような人生を生きてはいないのかもしれません……。」
そこで、目線を上げる……。その瞳に、恐れと言うものはない。
「ただ、最後の瞬間まで人として生きること。これが、俺の望む生き方です……。」
そう言って一礼をしてから去って行く息子を、連瑛には呼び止めることはできなかった。だが、本当はこの言葉をかけてやりたかった……。
「望むように生きろ、柳鏡……。」
「もう、柳鏡遅いよ!」
彼が戻るなり不機嫌な彼女に、さっきまでの話で感じていた感情を全てしまい込んで、いつものように、を合言葉に答える。
「なんだよ、俺がいないと飯も食えないのか?」
景華が座っている目の前には、二人分の食事が用意されていた。もう湯気が出ていないことから、彼女がかなり待っていたことがわかる……。
「待っていてあげたの。ご飯、食べようよ。」
彼女の正面に座って食事の皿を持ち上げた、その時だった。
「柳鏡?腕、怪我したの……?」
まずい、と思って慌てて袖の中が彼女に見えないように引っ込める。しばらくは戦闘はないだろう、と考えていた彼は、ここ数日間、いつもの格好に戻っていた。その広い袖口が、仇となったらしい……。
「今、包帯巻いていたよね……?」
いつの間に彼が怪我をしたのかは正直言ってわからなかったが、気になって仕方がない。
「大丈夫?見せて?」
そう言って彼の腕に手を伸ばした。が……。
「触るな!」
そう言って、彼が乱暴にその腕を振り払う……。景華が驚きにその目を見開いた。彼女には、知られたくない……。
「……何よ。人の肩の傷は嫌がっても見るくせに!心配になっただけじゃない!」
確かに、柳鏡は彼女の傷の具合を何度か確認していた。自分の責任でついてしまった傷だ、気になるのは当然である……。景華は心配をかけまいと傷を見せるのを嫌がるのだが、彼女の大丈夫があてにならないことも柳鏡は知っていたので、自分の目で確認するようにしていた。
「別に……。痛む訳じゃあないから心配はいらねえよ……。」
そう言って、ついと目線を逸らす。この逸らし方は照れているときではなく、嘘をつく時……。
「やっぱり痛いんでしょう?薬塗ったりしなきゃ……。」
そう言ってもう一度手を伸ばすが、やはり乱暴に振り払われてしまう……。今までそんなことを彼にされたことがなかった景華は、いい加減腹が立った。
「……もういい……。」
そう言って、落ち込んだ素振りを見せる……。それから……。
「私には見せられなくても、救護の人には見てもらった方がいいよ、柳鏡……。後で行ってきなよ。それから、そんなに包帯巻いているんだから、本当は動かすのも大変でしょう?しばらく負傷者として前線からも離れた方がいいんじゃない?私は、大丈夫だから……。」
その弱々しい笑顔で言われても、と柳鏡は思った。自分がそばからいなくなるのは不安に違いないが、怪我をしているのに無理はさせられない、というのが彼女の考えだろう……。
「……何を見ても、驚かないか……?」
彼女の不安材料は、全て取り去ってやりたい……。少なくとも、戦闘の最中ではそばにいてやりたい……。しかし、このままこの秘密を持ち続ければ、それすらも叶わなくなってしまう……。彼女の前では、最後まで人でありたかった……。だが、天はなんとも無慈悲だ。彼の願いは、それすらも叶わない……。
「うん……。」
景華のその言葉を受けて、柳鏡はその袖をまくった。肩から手首までが、包帯で一部の隙もなく包まれている……。その結び目を、彼が必要以上にゆっくりと解く……。そして、それ以上にゆっくりと、包帯が解けて行く……。
「……!」
景華は絶句した。他に何の言葉も、反応も出て来ない……。
「信じられるか……?」
彼の腕は、人のそれではなくなっていた……。全体を、爬虫類を思わせる青銀の鱗が覆っている……。
「いつ、から……?」
そう言って、彼のその腕にそっと手を伸ばす……。指先が、ヒヤリと冷たい腕に触れた……。
「封印を解放してすぐは、紋章が疼いたりするだけだった……。その内、派手に痛むようになって来た。それが収まった後、少しずつ増えて来た……。冷たいだろ?人間の腕じゃねえ……。すでに、人間じゃあなくなって来ちまったんだよ、俺は……。」
深緑の瞳が、これ以上はないという程、不安定だ……。今にも、光を失ってしまいそうな……。
「まだ、心は人間のつもりでいる……。だがそれも、これに侵食されていく内にいつかなくしちまうに違いねえ……。だから、ずっとあんたと一緒にいて、ずっとあんたのわがままを聞いてやる、だなんて話、約束できねえんだ……。」
景華の瞳から、涙がポトリ、とこぼれた……。ずっと一緒にいてくれると思っていた、ずっと自分のわがままを聞いてくれると思っていた彼が、その約束をできないと言う……。そして、いつかは自分の前からいなくなってしまう……。何をどう言えば良いのか、それすらももうわからない……。彼のその手を、自分の頬に持って行く……。涙にぬれた頬が、冷たい手に包まれた。
「温かい……?」
「あぁ……。」
意味不明な問いかけに、それでも彼は真剣に答えてくれる……。
「良かった……。」
そして、そのまま笑って見せる……。その泣き笑いの顔は、柳鏡の胸を強く締め付ける……。見ていられなくなった彼は、その腕で彼女の細い肩を手繰り寄せた。彼女の小さな体は、彼の胸にすっぽりと収まってしまう……。
「ふぇっ……。」
それを合図に、彼女は堰を切ったように泣き出した。声を上げて、小さな体を大きく震わせて……。外にその声が漏れないように、ギュッと強く抱き締めてやる……。鎧を外していて良かった、と彼は密かに思った。
「あんた、意外と温かいな……。ガキみてえ……。」
彼女の温もりはその左腕だけではなく、彼の体全体、とりわけ、心には温かくて、心地良い……。鱗のある腕に抱かれているということがわかっていても、彼女は逃げようとすらしない……。天幕の中がしばらく、彼女がしゃくり上げて泣く音だけに満たされた。
「……そばにいてやれる内は……。」
彼がふと口を開いた。その口調は、真剣そのものだ……。景華が彼の腕からほんの少し、その身を起こした。
「一緒にいてやれる内は……あんたのわがまま、なんでも聞いてやるよ……。だからあんたも一つ、約束しろ……。」
泣いているとわかっていて、その顔を上げさせる……。そして親指でその涙を拭ってやった後、先程彼女がしたのと同じように、その頬を左手で包み込む……。
「ずっと、笑っていろ……。俺が人でいられる、最後のその瞬間まで……。」
小さく笑顔を見せた、ということは、了承……。柳鏡の方も、その笑顔に小さく微笑み返す……。
「俺が戦う理由が、笑顔にある……。」
彼が迷いながら、ゆるりと動くのがわかる……。景華が、軽く目を閉じた。そして……。今度は何者にも邪魔されることなく、龍神の唇が、華のそれに触れた……。呪いの紋章が疼き、彼の中で何かが脈打つ……。肩のあたりが、固まってしまうのを感じる……。それでも彼は、そうやって彼女に触れたくて、たまらなかった……。初めて、彼は彼女との約束を、破った……。
「ちっ、重てえ……。」
次の日、再び重装備をさせられた柳鏡は、左腕を馬上でぶんぶんと振り回した。
「仕方ないでしょ!今日中に戦闘になるんだから……。」
右隣にいる景華から、そんな言葉が聞こえてくる……。その様子を軽く睨み付けて、柳鏡が小声で言った。
「誰かさんが人に寄りかかったまま寝ちまったからな、腕が痺れてひでえんだよ……。」
「文句言わないの!あれが景華のわがままその一!」
「その一万、の間違いじゃねえのか?」
ふくれっ面になって指を一本、空に向かって突き立てる彼女に、しれっとしてそう答える……。あの後、泣きつかれた彼女はいつの間にか彼に寄りかかって眠ってしまっていた。動くに動けなかった彼は、結果として犠牲を強いられてしまったのだ……。
「大体、柳鏡だって昨日、人のファーストキスを……。」
語尾がどんどん小さくなっていく……。元々小声で話してはいたが、最後の方は柳鏡にも聞こえなかった。だが、彼女が何を言おうとしていたのかはわかる……。じとーっと白い目で、彼女を見つめる……。
「あんた、嘘をつくなよ……?」
「ついてないよ!本当だもんっ!」
「覚えていないなら、いい……。」
真っ赤になって怒る彼女から、小さく溜息をついて目を逸らす……。照れたとも、ふてったとも、怒ったともつかない表情……。実は柳鏡が言ったことが正しく、昨日のあれが景華にとっての初めてではない……。彼はそれを、うさぎ事件、と自らの中で呼称している。遡ること、十二年前の話だ……。
「ほら、これだよ。」
ぶっきらぼうにそう言って、彼女の手に白くて柔らかい物を預ける……。彼女は、小さなその顔をパッと輝かせた。
「これが……うさぎさん?」
真紅の瞳をまん丸に見開いて、子供の手には余るそれを恐々と抱く……。
「人には馴らしてあるから、心配ねえよ。……かわいいだろ?」
「うん、ふわふわーっ!お父様にも見せて来る!」
うさぎを重そうに抱いたままパタパタと駆け出した彼女だったが、何を思ったかそのまま駆けて戻って来た。
「ありがとう!」
そう言って柔らかい物が自分の口に触れたことを、彼は今でもよく覚えていた……。
「全く、都合のいいことばかり忘れやがって……。」
彼のその呟きに、景華は軽く肩をすくめただけだった。これだからうさぎにろくな思い出はねえんだ、と彼は心の中で呟いた。
それから間もなくして、炎の砦についた清龍族軍の一行だったが、その砦の様子を見て皆が我が目を疑った。そこに掲げられていたのは、辰南国の旗ではなく、景華たち反乱軍の旗……。だが、よく見ると微妙に模様が違っている……。
「敵の陽動か……?」
隣の柳鏡が、その瞳を鋭く細めた。確かに、景華たち清龍族の軍は全員今砦に着いたばかりなのだ、そう思う方が自然だった。その時、砦の上から景華の呼ぶ者があった。
「あれは、まさしく姫君!景華姫ーっ、お忘れですかっ?じいでございます!」
景華のその瞳が、大きく見開かれた。そこにいるのは、彼女がじい、と呼んで懐いていた師だった。小さな頃から詩や文字、歌について色々と教わっていたのだ、見間違うはずもない……。連瑛が、その人物を見上げて呟いた。
「あれは、鄭旦殿!この砦に囚われているとは聞いていたが、どういうことだ……?」
彼は現砂嵐族の長の叔父で、景華の国語の師であることから彼女の父から相当の恩賞を与えられ、この砦の守護も任されていた。しかし趙雨が王位に就く際に彼の即位を正面から否定したために、自らが任されていたその砦に捕らえられていたのだった。
「只今開門いたします!少々お待ち下さい!」
その言葉通りに、砦の門はすぐに解放された。しかし、柳鏡や連瑛はそれを訝しむ……。
「父上、どうなさいますか?罠とも思いにくいのですが、いまいち信用はできません……。」
「そうだな……。」
その時、景華が前に進み出た。そして、大声を出す前に特有の息の吸い込み方をする……。
「久しぶりね、じい!でも、どうやってこの砦を乗っ取ったのっ?」
彼女の問いに、鄭旦はやっと気付いた。そうか、彼らは自分たちを疑っているのか、と……。仕方のないことだ。自分たちは、ついこの間までここに捕らえられていたのだから……。
「お待ち下さい!今そちらに行きますから!」
そう言って、砦の上の老人の姿が消えた。しばらくして、開け放した門の中から一人で、何も持たずにその老人が姿を現した。そのまま、こちらに向かって来る……。景華は、馬から降りてそれを迎えた。彼が、その場で一礼する……。
「申し上げます、姫君!我々は、姫君が決起したのではないか、という知らせを受けました!そうです、黄金の龍と亀が、白銀の百合を擁している旗印の話を聞いたのです!」
息を切らして、老人は話を続ける……。どうやらあの偽の旗は、その噂から想像して作ったようだ……。
「その時、体中に力が漲るのを感じました……。陛下は崩御され、姫君は連れ去られたとお聞きした時には、もうこの世に私が存在する意味もない、と思いました……。それでも何とか趙雨が王位に就くのを阻止しようと思っていました。彼らの策略に違いない、と私は最初から思っていたのです!」
彼のその言葉を、景華は真剣に聞いている……。万が一のことがあっては困ると思って、柳鏡も馬から下り、彼女の横に立った。
「そして、砦の中で暴動が起きるように仕向けました。自由に動ける者の中には、まだ何人か私に忠節を誓ってくれている者が残っていたので、彼らに協力してもらったのです。」
「それで?」
だんだんと話が核心に触れて来たな、と思いながら、景華は続きを促した。その隣から、柳鏡がその身を乗り出す……。少しでも不審な点があれば、すぐに彼を捕らえるつもりに違いない……。
「ここは水が少ない地域なんです。近くに川や池も流れておらず、砦では井戸の水を生活に利用していました。その井戸に、ちょっとした細工をしてやったのです。」
そこで彼が、自慢げにその胸を反らす……。こういう茶目っけのある仕草がいかにも彼らしいな、と景華は思った。
「毎日、井戸の中に毒薬を入れてやったのです。もちろん、そんなに強い毒ではありません。腹痛が起きる程度のものです。しかし、彼らは水質が急に悪くなったのだと考え、水の補給を城の方に頼むようになりました。」
続きがなんとなくわかった柳鏡は、この老人はなかなか優れた軍師だな、と内心で舌を巻いた。まだその結末がわかっていない景華は、さらに真剣な顔をして続きに聞き入る……。
「城から運ばれてくる水の量には限界があります。しかも、高官たちは自分たちの喉ばかりを潤し、兵士たちには少ない水で配給を行いました。それでは、暴動が起きるのも当然です。私が行ったのは、水質の改善を約束して、兵士たちの暴動を指揮したことだけです。」
「すごいわ、じい!」
景華がそう言って、老人に飛びついた。焼き餅を焼いてもどうしようもないことはわかっているのだが、なんとなく、面白くない……。
「なんの、姫の御為です。じいは当然のことしかしておりません!」
そうだクソジジイ、さっさと姫から離れろ。内心ではそう思っているが、もちろん、柳鏡はそんなことおくびにも出さない。さりげなく景華の腕をつかまえて、自分の方へ引き戻す……。
「積もる話は砦にお邪魔させていただいてからにしましょう。ほら、行くぞ。」
「わかったわよー。」
そう言った景華が馬に乗るのを、さりげなく助けてやる……。それから、自分の馬にまたがる……。
「それでは、どうぞお入り下さい、皆様!」
老人の言葉を受けて連瑛が行進の合図をし、隊列がゆっくりと進みだす……。景華は、隣でどことなく不機嫌そうな彼に話しかけた。
「柳鏡、どうしてそんなに機嫌が悪いのよ?」
「別に……。」
その答え方が、彼の機嫌の悪さを物語っている……。
「嘘。絶対に怒ってる!どうしたのよー?」
「人の目の前で、じいさんなんかとベタベタするからだ!」
小声で答えて、その後たまらなくなって彼女から目を逸らす……。その頬が、なんとなく、赤い。その様子があまりにもおかしくて、景華は吹き出してしまった。
「何それー?焼き餅?」
おかしそうに、だが嬉しそうに笑いながら景華が訊ねる……。前に、全く逆の立場でこんなことがあったな、と思いながら……。まさか鄭旦相手にそんなことを考えるなんて、おかし過ぎる……。
「そうだ、焼き餅だ!」
彼はそう開き直って、その後は景華と目も合わせようとしてくれない……。
「柳鏡、馬鹿だね……。」
そう笑って見せる……。後でたくさんわがままを言って、たくさん甘えてあげよう、と彼女は思った。嫌そうな顔をするくせに、内心では喜んでくれることを知っているから……。
「ね?柳鏡。」
残りの時間が短いことは、彼女も知っている……。だから、せめて一緒にいてくれる間は、良い思い出をたくさん作りたい……。彼女の唐突な問いに、彼はうるせえよ、とだけ答えた。もうすぐ、秋がやって来る……。空の色は、澄んで青かった。
お待たせいたしました。第三話、無事に完成させることができました。話の内容がだんだんと重くなってきてしまいましたが、本編は次話で完結する予定です。どうぞ最後までお付き合い下さい。番外編などの構想も練っておりますので、よろしければそちらもご覧下さい。