華と龍神 呪われた運命
すっかり暗くなった窓の外をよそに、室内からは子供に物語を聞かせている母親の声と、その声が止むたびに続きをせがむ子供の声がしていた。
「ほら、そろそろ寝なさい。続きはまた明日ね。」
そう言って自分たちの頭を撫でる母親に、幼い兄妹は口々に抗議の声を上げた。
「まだ眠くないよ、お母様!それに、今止めたら続きが気になって仕方ないじゃないか!」
兄のその言葉に、妹の方も二度、頷いた。これは強い肯定を表す時に彼女が見せる動作で、この娘は姿かたちだけではなく細かな動作まで母親とそっくりだった。
「……仕方ないわね……。じゃあ、続けますよ?」
「「うん!」」
その言葉に声をそろえて頷くと、二人は母親を見上げて押し黙った。
「それから、景華姫は柳鏡や明鈴に手伝ってもらってよりよい国を創るための色々なお勉強を始めました。
「ほら、あんた用だ。」
そう言って、景華の目の前に細身の剣が差し出された。剣を差し出したのは長身の青年で、くせ毛の黒髪を無造作に切っていて、深緑の、どことなく不思議な目をしている。
差し出された剣は練習用ということで装飾などが一切ないものだったが、彼女はそれを手にとってまじまじと見つめた。
「あんたでも扱えそうな物を選んで来た。さすがに、大剣を使わせる訳にはいかないからな。まず構えからだ。」
その声を合図に景華は立ち上がって、一応それらしく構えてみた。
「ほら、違う違う。まず、両足を揃えるな。力が入らなくなるからな。それから、どちらか片方に傾けて持つのもよくない。反対側からの攻撃に対処するのが遅れるんだ。」
コクリと頷いてから指摘された部分を直し、もう一度構え直す……。
「うん、今度はまあまあだな。次は振り方だな。」
冬に入り寒さも本格的になってきていたが、景華はこの頃、昼間柳鏡がいる内は彼から剣術を教わり、いない時は明鈴と政策などについて本を読み漁っていた。夜は夜で柳鏡に兵法について教えてもらったり、繕い物の仕事をしたりしていた。もっとも、剣術は習う前に体力作りが必要だとかで、今日からやっと本格的に剣を扱うようになったばかりだった。
景華が清龍の里に来てから、二か月が経った。彼女はここの生活にも慣れ、家事全般は一人でできるようになっていた。それも、何もかもを根気よく教えてくれる柳鏡と明鈴のおかげだ。
「疲れたか?休憩にしよう。」
景華の息が上がっていることに気がついて、柳鏡はそう提案するとその場に腰を下ろした。その隣にちょこんと腰掛けて、景華は再び細い剣を見つめた。その研ぎ澄まされた切っ先は、忘れられないあの記憶を呼び覚ます……。一国の姫として城で暮らしていた彼女が、その国の辺境の里で暮らすことになった原因とも言えるあの事件……。そのせいで、彼女は今声を失っていた。
「飲まないのか?」
ハッとなって目の前に差し出された水筒を手に取る。自分が何を考えていたのか、おそらく彼はわかっているだろう。口をきけなくなってしまってからでも、彼は自分の言いたいことを常に正確に読み取ってくれていた。
「……また、あの時のこと考えていたのか……?」
さりげない調子で訊ねてくる彼に、黙って水筒を返して膝を抱える。それだけで、彼の問いかけに対する答えとなる。
「考えるなとは言わないが……。あまり深く考え過ぎるのもよくないだろ。あんたは大きなことを決めたんだ。今はそれだけで十分じゃないか?」
そう、彼女はここでできる限りのことを学び、国民全てに望まれるような王となって城に戻ると誓ったのだ。それでも。
『私、焦っているのかもしれない……。』
一刻も早く城に戻りたいという心とは裏腹に、彼女のやらなければならないことはあまりにも多く、勉強もあまりはかどっていないというのが現状だ。もともと頭の悪い方ではないが、今まで何も教えられていなかったようなことばかりで、基礎も何も全くない状態から学び始めていることが原因だった。
『どうして、城にいる時にもっと勉強しておかなかったのかしら……。』
今は、後悔ばかりが募る。最近の彼女は、自分を責めることが多くなっていた。
「ほら、いつまでもウジウジと考えていたって仕方ないだろうが。続けるぞ。」
その言葉に頷いて立ち上がる。柳鏡は、最近の彼女のそんな思考に不安を感じてきていた。彼女の決意は大きなものだった。そして、自分はそんな決断を下した彼女を全力で支えるとも誓った。だが、最近はそんな自分が彼女の重荷になっているのではないだろうか。そんな気がしていた。
「景華ーっ!」
そこへ、明鈴が走って来た。柳鏡の腹違いの姉である彼女は、景華に政治について色々と教えてやっていた。
「姉さん、どうかしましたか?」
呼ばれた景華も剣を構えたまま止まっている。
「もうすぐ終わるでしょ?一緒にお風呂に行こうと思って。この冬に汗の始末もしないでいたら風邪引いちゃうからね。ん?なになに?……ご飯の……仕度、がまだ?大丈夫、柳鏡にさせればいいって。」
景華が彼女の手のひらに書いた言葉に対しからからと笑ってそう言う明鈴に、柳鏡が笑顔で答えた。
「姉さん、俺が風邪を引いてもいいと言うんですね……?それに、俺の料理なんか食べたら再起不能になりますよ?」
「あんたは風邪なんて引かないでしょ?何とかは風邪引かないって言うし。でも、そうか……。あんたの料理が壊滅的だったのを忘れてたわ……。」
明鈴が真剣な顔をして唸った。柳鏡は、ここに来てから一度も彼女たちを手伝って台所に立つことがなかった。だが、どうやらそれは彼の面倒くさがりな性格からではなく、能力の問題からきているようだった。景華が、今度は柳鏡の手を取った。
「夕飯……少し、遅く……なっても、いい?あぁ、それは別に構わないが……。」
その答えに、景華がニッコリと微笑んで続きを書いた。
「柳、鏡も……一緒に、行こう?……風邪、引くよ?」
「へぇ、景華は優しいねぇ。よかったわねぇ、柳鏡!よし、じゃあ、今日はこれで練習はおしまい!さあ、仕度していらっしゃい!」
明鈴の声でパタパタと景華は家の方へ駆けて行った。その後に、柳鏡がついて行く……。その後ろ姿を見送ってから、明鈴は小さく呟いた。
「景華の声、いつになったら出るんだろう……。」
医者でない彼女には詳しいことはわからないが、事件のショックで声を失ったとすれば、その傷が癒えれば元のように話せるようになるのではないだろうか……。そう思っていた。しかし、二月経って本来の明るさをだいぶ取り戻した今になっても、彼女の声は戻る気配もない。何か他に、彼女の喉を締め付けている物があるのかもしれない……。
「なんか、切ないな……。」
そう言って溜息をこぼしたところで景華が家の戸口から顔を覗かせ、またパタパタと駆けて戻って来た。
「おい、走るな!転んだらどうする!」
その後ろから、柳鏡の声が追いかけてくる。案の定、彼女は躓いて転びそうになった。後から追いついた柳鏡が、その上体を引き戻す。明鈴から見れば、それはなんとも微笑ましい光景だ。
「ま、いつか良くなるよね……?」
いつものようにくだらないケンカをしている二人を見て、明鈴はそう願った。放っておけば収拾がつかなくなってしまうので、自分もそちらへ歩く……。
「大体、あんたは昔からそうなんだよ!絶対に緩い下りで転ぶんだ!」
冷静に聞けば、彼女の小さな癖も見逃さない程見ていたという台詞……。口を尖らせて反抗的な目で柳鏡を見ている景華は、そんなことには絶対に気付いていないだろう。
「ほらほら、喧嘩ばっかりしてないの。行くよ。」
昔は二人の喧嘩には、別の人間が割って入った。幼馴染の、趙雨と春蘭だ。しかし、その二人は景華から大切な物をほとんど奪った。彼女の頭には、今もあの夜の言葉が反響する……。それが、彼女の焦りに繋がっていたのだ。
「ほら、今度は転ぶなよ。」
柳鏡は、そう言って今までつかんだままだった景華の腕を放した。余計なお世話、という言葉が彼の頭に浮かんだ。おそらく、彼女が話せる状態だったなら間違いなくそう答えただろう。子供の頃から一番近くで、一番大切だと思って見守っていた存在だ。好きな物や嫌いな物、どんな時にどんな言葉を返すかということ、彼女自身も気付いていないような小さな癖まで、彼は全部知っていた。
「今、余計なお世話、って思っただろ?」
物は試し、と思って、そう彼女に問いかける。ほんの少し目を丸くして、彼女は頷いた。やっぱり。
「そうだと思った。」
彼がそう言って小さく微笑んだ理由は、景華にも明鈴にもわからなかった。小さな手に重そうに提げられていた荷物が、大きな手によってそっと奪われる……。今度は、景華は目を大きく見開いた。彼のこの行動は、全く予期していなかったようだ。
「重いだろ?」
ぶっきらぼうにそう言って視線を逸らす……。そんなに重いと思っていた訳ではないが、彼のその優しさが嬉しくてその手に荷物を預けた。ほんの少し目を細める、独特の笑顔を向けながら……。
「いいなぁ、景華。柳鏡、私のも!」
明鈴がふざけて柳鏡の方に荷物を差し出した。
「嫌ですよ。姉さんは怪力なんだから、自分で持って下さい。」
笑顔で毒々しい台詞を言ってのけた柳鏡の背を、明鈴の平手が激しく打った。柳鏡はむせ込んだ。
「……だから怪力だって……。」
「もう一回言ったら、今度は地獄を見せるわよ?」
「いえ、遠慮しておきます……。」
兄弟がいない景華は、二人のやり取りを見て羨ましいなぁ、と思いながら小さく笑っていた。
「ふぅ、最高ね!」
明鈴がお湯につかって早々、そう声を上げた。景華も、ニッコリと笑って頷いた。清龍の里にはいくつか公共の浴場があり、その内の一番近くの浴場に足を運んでいたのだった。
「柳鏡ー、そっちはっ?」
明鈴が竹垣の向こうにそう声をかけた。
「繋がっているんだから、同じに決まってますよ!」
そして、反対側からも同じように答えが返って来た。この浴場は竹垣を隔てて男湯と女湯に分かれているので、反対側の会話も聞き取ることができた。珍しく貸切の状態だったので、いつも以上に声が聞き取りやすい。
「景華、体洗っちゃおうか。ついでに髪、洗ってあげる。」
彼女が頷いたのだろう、その数秒後にザバッとお湯からあがる音がした。続いて、お湯をかける音。
「うわっ、景華肌すべすべ!一体どんな手入れしてたらそうなるの?」
柳鏡の口が湯船の中に沈んだ。空気を長く吐き出して、お湯をブクブクと言わせている。どうやら、隣から聞こえてくる音をかき消すつもりらしい。
「髪もさらさらだし、羨ましいなぁ。……え、なになに?」
隣からの会話は、まだ聞こえてくる。
「明鈴、さんは……スタイ、ルがいい……から……羨まし、い……?そりゃもう二十歳だからね、景華も私位の年になればこの位になるよ。え?疑わしい?」
おそらくじとーっとした目で明鈴を見上げたのだろう、柳鏡にはそれも予想がついた。
「なによー、信じなさいよ。お嫁さんになる頃にはきっと、ね。まぁ、ダメだったら柳鏡のお嫁さんにしてあげるよ!」
明鈴の言葉に、柳鏡は湯船の中に完全に沈没した。
浴場でそのまま明鈴と別れて、景華と柳鏡は家へと戻った。外はかなり寒かったが、湯船からあがったばかりの彼らにはそんなことは関係なかった。帰りも、景華の手には荷物がなかった。
「……。」
ふと景華が立ち止まって空を見上げた。そして、その手をそっと空に向けて差し出した。手のひらに、冷たい物がふわりと乗った。
「どうした?……あぁ、雪か。初雪だな……。」
柳鏡も立ち止まって空を見上げる……。真っ暗な空から、白い綿がふわふわと落ちてくる……。じっと空を見つめている景華に、ふと彼は問いかけた。
「そう言えば、あんたひょっとして雪を見るのは初めてか?」
空からほんの少し目線をずらして、すぐ隣に立っている頭一つ半位背が高い彼の瞳を見上げた。それだけで、彼はきっと理解してくれるだろう。
「そうだな、城の辺りでは降らないからな……。」
そう言って空を見上げる柳鏡の息が白く曇った。その光景で、自分たちが寒い場所にいることを思い出す……。お湯で温まった体も、いつの間にかすっかり冷えてしまっている……。景華は、ぶるっと身震いした。
「寒いのか?」
その言葉には答えず、またじっと彼を見上げる……。
「早く言えよ。さっさと帰るぞ。」
やっぱり。彼は、自分が考えていることを言葉に出さなくても簡単に理解してくれる。しかも、おそらくは短い答えなら一字一句違えることなく。それに気付いたのは少し前だったが、もうあまり驚かなくなっていた。そして、その優しさに甘えてしまっている自分にも同時に気が付いた。甘えてはいけない、頼ってはいけないと思いながらも、心の奥底では常に彼の存在を期待しているのだ。
『ダメだってわかってるのに……。』
眉根を寄せて、唇を噛み締めて俯く。彼女にとって、彼の存在はいつまで経っても甘えから脱出できない自分の存在を知らしめる物となっていた。もちろん、原因があるのは景華の方だ。
「なんだよ、具合でも悪いのか?」
慌てて首を振って見せる。そして、彼が珍しく読み違えてくれたことに感謝した。いや、実際には柳鏡は景華が何か考え事をしているのだろうということがわかっていたが、彼女がああいった顔で考え事をする時は触れて欲しくないことについて考えている時なので、敢えて間違ったふりをしたのだった。
「着いたぞ。」
柳鏡の声に、景華は視線をあげた。気付けば、そこはすでに家の前だった。先に戸口をくぐった柳鏡が、景華も家に入るのを待ってから後ろ手に戸を閉めた。そしてそのまま、明かりを灯しに動く。それを台所の方へ持って行ってやると、景華がニコリと微笑んで夕食の支度を始めた。彼の定位置である家の中央の茶卓の前に腰掛けて、その様子をじっと見つめる……。さっき考えていたことはなんだろう、と思いながら……。いくらでも考え付く選択肢はあったが、おそらくそのどれでもない。柳鏡に考え付くものの多くは、彼女がすでに乗り越えたと思われる問題だった。例えば、趙雨のこと……。
「いや、あれは違うな……。」
小さく呟いて、彼女の耳にその声が届いていなかったことを確認する。どうやら、材料を切る音にうまく紛れたようだ。それに、彼女からそれに対する答えはすでに聞いていた。趙雨に好かれなかったのは自分に悪い所があったせいだ、春蘭が彼の理想の女性なら二人を祝福する、と……。彼女は、ふっきれた顔で彼の手のひらにそう文字を落としたのだ。
「じゃあ、何なんだ……?」
彼女にとっては触れて欲しくないことだろうと思ってはいるが、あまり悩むようならそれを吐き出させる必要もあると、彼はよく物思いに耽っている彼女を見て常に感じていた。
「っ……!」
「どうしたっ?」
彼女が急に声にならない声をあげたので、彼は驚いて駆け寄った。原因はすぐにわかった。彼女の指先からは、血が滲み出ていた。包丁でほんの少し指を切ったようだ。迷わずにそこに唇を押し当てた柳鏡の口の中に、鉄の味が広がった。
「後は洗うだけだ……。ったく、ボヤボヤしながらやったら危ないだろうが!何を考えていたっ?」
彼の我慢は限界だ。考え事をしていて怪我をされたとあっては、この先も不安で仕方ない。景華はちょっと手がすべっただけ、と言い訳をした。柳鏡の右腕が、グッと景華の腕をつかんだ。
「嘘つけっ!最近ずっと何か考えているだろ!さっき外でボーっとしていた時だってそうだ!」
景華は驚いて顔を上げた。まさか、ばれていたとは……。でも、自分が何を考えていたのかは言えない。特に、彼には絶対に……。言ってしまえば、自分を守るためにここまでしてくれている彼の心に深い傷を負わせるようなことになりかねない。その一心で、本当に大丈夫、と彼の手に記す……。彼がその嘘を信じてくれると祈りながら……。
「どうして俺にも嘘をつくっ?そんなに俺は信用できないかっ?」
懸命に首を振る景華の様子を見て、柳鏡は心が痛んだ。本当は、彼だってこんな彼女を追い詰めるような真似はしたくなかった。いつかは、自分に打ち明けてくれると思っていた。だが、その気配は一向になく、彼女は自分を責めるようになっていった……。そして、それを見ているだけの自分にも腹が立っていた。この際、荒療治だが仕方がない。
「いつもそうやってあんたは誤魔化すんだ!どうして一人で抱え込もうとするっ?そんなにあんたの周りは頼りない奴ばかりなのかっ?」
先程と同じで、景華は力一杯首を振った。頼りないんじゃない、頼り過ぎて困っているんだ、ということを伝えたくて……。
「それとも、周りを頼り過ぎているとでも思っているのかっ?」
ほら。どうしていつも、そうやって……。
『私が考えていること、わかっちゃうの……?どうしていつも、甘えたくなっちゃうの……?』
視界がぼやけて、目の辺りが熱い……。それでも、それを見られないように俯くことは忘れない……。景華の様子から、柳鏡は自分の言ったことが図星だったことを読み取った。そして、自分が優しさだと思ってやっていたことが彼女をがんじがらめに縛っていたということも……。
「あんた、本当に馬鹿だな……。」
自分の右手から、彼女が震えているのが伝わる……。それでも、自分には決して涙を見せないようにする意地らしさが本当に愛おしくて……。自然と、彼の二本の腕が小さな背中に回された。
「周りを一切頼らないで生きていける人間がいる訳ないだろうが……。そんなに、俺や姉さんに頼るのが嫌だったのか……?」
ふるふると彼の腕の中で首を小さく振ってから、彼女の右手が彼の左手を探した。仕方なく、彼は背中に回した腕をほどいた。
「甘え、ちゃいけない……のはわかって、いるのに……すぐに……甘えたく、なる……自分、に腹が……立つ……。誰がいつ甘えちゃいけないなんて決めたんだ?そんな決まりないだろうが。」
続きが、小さく迷いながら綴られる……。
「王様、になっ……たら、誰……にも頼れ……ない?別にそんなことないだろうが。ちゃんとした大臣を選べばいいだろ?」
おそらく、その先を言うべきかどうか戸惑っているのだろう、やけに長く時間を開けてから、細い指が再び動いた。
「それに……柳鏡、には頼……ってばかりで……迷惑、ばかりかけて……いる?ほう、俺に迷惑を掛けているという自覚はあったのか……。」
そのほんの少し嫌味な調子の言葉に、景華は小さく頷いた。
「それなら、もうこんな隠し事は金輪際やめることだな。あんたが一人でウジウジ悩んでいると思うと、こっちも気が気じゃないんだ。大体、あんたが俺に迷惑を掛けるのは今に始まったことじゃないだろうが。今更気にするなよ。」
ぶっきらぼうで、癪に触るような言い方で……。それなのに、とても優しく感じるのはどうしてだろう……。
「それに、あんたに迷惑かけられるのだってそんなに嫌じゃねえし……。むしろ、頼りたい時に頼ってもらえる方が……その……なんとなく嬉しいし……。」
心に凝り固まっていたしこりが、溶けて行くのを感じる……。
「ありがとう……。」
小さくそう呟いた。
「は……?」
柳鏡がなにやら奇妙な声を上げた。そしてその後、景華の肩をガッチリとつかんで揺すった。
「おい、あんた今ありがとう、って言ったよなっ?俺の空耳じゃないよなっ?」
「へ……?」
そしてそれに驚いた自分の声が、確かに景華の耳に届いた。随分久しぶりに聞いた、懐かしい声……。
「声……。声が出る……!柳鏡、私、声が……!」
戻った、という言葉を紡ぐ前に、彼女の体は彼の胸にすっぽりと包まれた。その腕に、先程とは違って強い力が込められる……。景華の目から涙が、ぽとりとこぼれた。
「あぁ、戻ったみたいだな……。」
彼の声が、ほんの少し震えている……。彼女の痛みも、喜びも、彼はいつも一緒に感じてくれた……。
「あのね、柳鏡……。ありがとう……。本当に、ありがとう……。治ったらまず、柳鏡にお礼がたくさん言いたかったの……。」
「そりゃ光栄だ。」
いつもと同じ口調なのに、どことなく柔らかい……。
「あの時、私を連れて逃げてくれてありがとう。それから、龍神の紋章を解放してまで私を助けてくれてありがとう。あの時、私は私だって言ってくれたこと、ありがとう……。皆を頼ってもいいんだって教えてくれたこと、ありがとう……。それから……。」
景華は彼の腕をほどかせてその瞳を真っ直ぐに見つめた。それから、小さく目を細めて微笑んだ。
「いつも、ありがとう……。」
大好き、という言葉を心で呟きながら、彼女はそう言った。柳鏡は照れた時に特有のあの仕草で、景華から視線を逸らして、長い指を黒いくせ毛に絡ませた。
「別に……。礼を言われるようなことはしてねえよ。」
その不器用な言葉の陰に隠された同じ位不器用な優しさは、彼女を何度も癒してくれた。その言葉に小さく微笑み返して、彼女は作りかけだった夕食を再び調理し始めた。彼女は二度と指を切るような失敗はしないだろう。初雪は本格的な冬を知らせるだけではなく、失った声が戻って来ることをも告げていたようだ。次の朝、明鈴に会ったら最初になんと言おうか。景華は、そのことばかりを考えながら眠りについた。
「お姫様は、また話すことができるようになりました。」
「わあ、よかったぁ。」
小さな娘が本当に嬉しそうに笑顔を見せた。兄の方もほっと胸を撫で下ろしている……。そして、どちらもまた話を聞けるように態勢を整えた。どうやら、まだ母親を解放する気にはならないらしい。仕方なく、小さく溜息をもらして話を続ける……。
「それからは、景華姫のお勉強はうまくいきました。自分を責めることをやめたおかげで、心にゆとりが持てるようになったのです。」
それから、三か月以上が過ぎた。景華が話せるようになったということで、明鈴は本当に喜んでいた。景華自身のために喜んだというのももちろんだが、なによりも彼女を命懸けで救い出してきた自分の弟がどれほど安心したかということを考えると、さらに喜びが増した。そして、前まではなんでも一人でしようとしていた景華が、彼女を頼るようになったことも喜ばしいことの一つとなっていた。
清龍の里は、温かくて平和な昼下がりを迎えていた。冬の厳しい寒さはすっかり遠のき、木々も重くなった雪を枝ごと落とし、春を迎える準備を整えている……。
今日は柳鏡も里の外には行かず、近くに借りた畑の土をおこしに行っていて、昼過ぎには戻るということだったので、景華は遊びに来てくれた明鈴の分を含めた三人分の昼食を準備していた。コトコトと鍋が小気味いい音を立てる中、明鈴がふと声を上げた。
「あ、あの子たちまた来てるわ。」
「え?」
野菜を切って濡れた手を拭いてから、景華は明鈴と並んで彼女が指差す方向に目を向けた。
そこには、少し離れた所で畑を耕していた柳鏡が、二人の女の子に話しかけられて手を休めている姿が見られた。二人とも年の頃は景華と同じ位だろうか、大人しそうなかわいらしい子たちで、小さな包みをその手に提げていた。二人は頬を赤く染めて、なにやら一生懸命彼に話しかけていた。
明鈴が、隣の景華の様子をチラリと確かめてから独り言のように呟いた。
「大人たちには煙たがられているけど、あいつあれで結構モテるのよねぇ。清龍の女の子たちは強い男っていうのが好きだし、それなりに整った容姿もしてるしね。口が悪いのはいただけないけど、性格もそこまで悪いわけじゃないし……。」
「なっ……。」
景華が言葉に詰まっているのを見て、明鈴はさらに続けた。
「本当だよ?ましてや長の息子だからね、正妻の子じゃないとしても家柄はこの里では最高って訳。上二人の兄はクズみたいな奴だし一応あれで結婚もしているから、柳鏡がいいって言う子は意外と多いんだよ。」
「柳鏡のどこがいいのよ……柳鏡なんて、口が悪くて、意地悪で、面倒くさがりで……。」
そのくせ、とっても優しくて、いつでも心地良い温もりをくれて、いつも私の背中を押してくれて……。
景華の肩が震えている……。見れば、その握り拳が真っ白になるほど強く握り締めていた。泣かせてしまったかな、と思って少し慌てた明鈴だったが、その表情を見てぎょっとした。
「柳鏡の……馬鹿っ……!」
「え?ちょっと、景華っ?」
バンッと勢いよく戸を開けた彼女はそのまま飛び出して行き、二、三歩走った所で足を止め、大きく息を吸い込んだ。
「柳鏡ぉーっ!」
三つの顔が、同時に彼女の方を振り返った。
「悪ぃ。」
そう言って踵を返そうとした柳鏡を片方の子が呼び止めた。
「あの、これ……。お弁当なんです……。良ければ、召し上がって下さい……。」
小さな風呂敷包みが、彼の目の前に差し出された。柳鏡は一瞬、どう断ろうかと当惑した。あまり無下に断ることもできないが、最初から受け取るつもりもない……。景華に今呼ばれたことが救いとなった。
「いや、今呼んだのは飯の合図だと思うから。」
『その割には随分怒っているみたいだったけどな……。』
今度こそくるりと踵を返して、柳鏡は早足で家へと向かった。家の戸口で待ち構えている景華は、あきらかにふくれっ面だった。
「何だよ、飯か?」
「え、ううん、まだ……。」
乱暴にそう訊ねた柳鏡に、景華はきょとんとして答えた。
「じゃあなんで呼んだんだよ!」
景華はハッとした。そういえば、どうして彼を呼んだのだろう?特に用事がある訳でもなく、ただ彼女たちと話している彼を見て無性に腹が立ち、思わず外に飛び出して呼んでしまっただけだった。
「あ、えーと……。なんとなく、かな?」
そう言って苦笑いをして精一杯誤魔化してみるが、我ながらなんとも苦しいな、と景華は思った。
「ふうん……。」
柳鏡は片眉を吊り上げて意地悪に笑った。なんとなく嫌な予感……。
「あんた、ひょっとして妬いてるのか?」
ボンッ!
景華の顔が、一瞬にして真っ赤になった。その頬に、柳鏡の指先が触れる……。
「へえ、意外だな。案外、当ってたりするのか?」
景華に意地悪をする時独特の、嫌味たっぷりな声……。その声に、景華の心臓は爆発しそうになっていた。
バチンッ!
「そんな訳ないでしょ、このエロ大魔神っ!頭冷やしていらっしゃいっ!」
ピシャッ!
彼の目の前で、戸がかなり乱暴に閉められた。
「ちぇっ、かわいくねえの。」
そう呟きながら、彼はヒリヒリと痛む頬に左手を当てた。一方家の中では、後ろ手に戸を閉めた景華が窓のそばで明鈴が抱腹絶倒しているのを見つけていた。
「景華もよくやるわねぇ……。ククッ、プププッ……。」
「ひどいわ、明鈴さんったら……。」
確かに、柳鏡はどうして自分が叩かれたのかさっぱりわかっていないだろう。ただ彼女をからかったせいだと思っているだろうが、実際には景華の中にはあの瞬間、それ以上の感情があった。柳鏡があのように自分以外の女の子と接しているのが、妙に腹立たしかったのだ。まだ赤い顔のまま、景華は自分の手を見下ろした。
「痛かったかしら……。」
「当たり前だろ。」
いつの間に戸を開けたのか、柳鏡が開けっぱなしの戸口に寄りかかって立っていた。
「あ、あなたが悪いんじゃない!からかったりするから……。」
「はいはい、そーですね。」
柳鏡はそう言うと、戸を後ろ手に閉めて茶卓の前にドカッと座りこんだ。その左頬には、まだ赤く手形が残っている……。
「それで?飯はまだなのか?あんなうまそうな弁当突っ返してあんたのまずい飯食いに戻って来たんだからな、感謝しろよ……。」
そう言って目を逸らす彼の様子は、やっぱりぶっきらぼうなのにとても温かくて……。左頬もまだ相当痛むはずなのに、何もなかったことにしてくれる優しさが本当に心地良くて……。
「うん……。」
二度目の大好き、という言葉を飲み込んで、景華はそれだけ答えた。この言葉の意味が前とは少し違っていたことに彼女が気付くのは、まだ後の話しだった。
その夜、父親に呼ばれたとかで、柳鏡は家を空けた。景華は一人で繕い物の仕事をしながら、彼の帰りを待っていた。よく晴れていて、彼女は家の窓から星を見上げた。そうしていると、昔はよく父の膝に乗せてもらって一緒に星を眺めていたな、ということが急に思い出された。しかし今、彼女は一人でその空を眺めている……。
「柳鏡、遅いな……。」
月の位置がかなり高くなっていることから、ふとそう思った。真珠のような月は、中空近くまで昇っている……。
「どうしたんだろ……。何か良くない話だったのかも……。」
そう思って不安げに眉根を寄せた時だった。
ガタンッ!
戸口で突然物音がしたので、景華の肩が一瞬すくんだ。慌ててそちらに歩く。
「誰?」
「こんな時間に客が来る訳ないだろ。」
前に確かめろと言ったくせに、と思いながらも、その声に景華はほっとしてかんぬきを外し、戸を開けた。
「随分時間かかったのね。」
「あぁ、趙雨の奴がとんでもないことやらかしてくれたからな……。」
「え?」
そのまま彼が定位置に腰を下ろしたので、彼女もその隣に座った。
「あんた、死んだことになっているぞ。一週間前に川から死体であがったことになってる。朽ちていて誰の死体かわからないそうだが、髪の色があんたと同じだったのと、あんたの簪をつけてたとかで断定されたらしい。あいつら、俺たちが見つからないものだからそんな手に出やがった!」
そう話す柳鏡は、ものすごい剣幕だった。握り締めている拳は、血管が浮き出てぶるぶると震えている……。
「でも……私、生きているのに……。」
「そうだ。でも、見つからないから始末することもできないし、おそらく俺たちには何もできないと思って居やがる。だから、そんな卑劣な手に出たんだろ……。しかも、それだけじゃない!」
柳鏡の話が続けられた。趙雨に対する激しい憎悪が、言葉の端々から感じられる……。燃えたぎる怒りが、彼の全身を駆け巡っている……。
「あいつ、あんたの死体もあがって王家の直系が絶えたから、法によって継承権を得ている自分が王になる、なんて言い出したんだ!そして自分の王位継承を認めさせるために各部族長を召喚するそうだ!いいか?陛下を殺害した真犯人でありながら、そんなことを言い出したんだぞ!」
柳鏡は怒り心頭という様子で、そこまで一気に景華に聞かせた。一方の景華はなぜか冷静で、そこまで柳鏡が話し終えてから彼に水を差し出した。
「あぁ、悪ぃ……。……おい、どうしてあんたは怒らないんだよ?自分の死体まで仕立て上げられて、死んだことにされたんだぞっ?」
景華も、ふとそれを疑問に思った。確かに、その仕打ちは許せるようなものではない。でも……。
「うーん……。なんか、柳鏡が私の分まで怒ってくれているから気が抜けちゃって……。」
「は?」
柳鏡はそんな彼女の発言を訝しんだが、それはまさに彼女の今の心情を的確に表現した物だった。
「それで?連瑛様は趙雨を王に承認されるの?」
景華はうまく話をすり替えて、柳鏡の気を逸らした。
「……あぁ、反対したら俺たちを匿っているのがばれるかもしれないからな……。あんたが本当に死んでいたら、趙雨の王位継承権は正統な物だし……。清龍の里は外交用の里と、こっちの本当に生活をする里とに分かれているんだが、外交用の里には城からの迎えも来ているしな。」
「そう……。」
景華の表情が曇ったのを見て取った柳鏡は、何か言わなくてはと焦った。その表情が、たまらなく寂しげに見えたからだ。
「あぁ、でも、ほら。あんたが生きているのがわかれば、趙雨の罪が少なからずあきらかになる訳だし……。王位の奪還も、少しはやり易くなったってことだ……。」
「うん……。」
だから、そんな顔をするのはやめてくれ……。彼は、その言葉を辛うじて飲み込んだ。父親を殺し、自分を裏切った婚約者が今度は自分を亡き者に仕立て上げた……。その心情は、柳鏡にははかり知ることもできない。それでも現実を受け止め、耐えている彼女に自分がしてやれることは、安心して泣ける場所を提供してやること位だ……。
「……泣きたきゃ泣けよ……。」
「へ……?」
突如柳鏡が発した不器用な言葉に、彼女はあっけにとられた。
「別に……我慢しろなんて言わねえよ……。辛いだろ?」
そのまま視線を逸らす……。景華はその様子を見て、気弱な笑みを浮かべた。
「うん……。でも、平気だよ?柳鏡、泣かれるの嫌いでしょ?」
その言葉には、彼は答えなかった。確かに、彼女に泣かれるのは嫌いだ。でもそれは、単にメソメソとされるのが嫌な訳ではなく、彼女の心を守り切れなかった自分の不甲斐なさを思い知らされるからだ。
「それにね……。」
景華の言葉が続いた。今度は、彼女はニコッと微笑んでみせた。
「前とは違って、一人だって思わなくて良くなったから、平気なの。柳鏡もいてくれるし、ね?」
「っ……!」
顔が熱い。彼は、夜の闇が部屋の中を支配していることに感謝した。もし、昼間の明かりの中なら、彼女に全て見られてしまったはずだ。自分の頬が真っ赤な色をしていることも、心臓がフル稼働していることも……。それでも……。
「調子に乗るなっ。」
彼は恥ずかしさを誤魔化すために、景華のおでこをピンッと指で弾いた。彼女が痛っと言って抗議の視線を彼に向けた。彼は、その短い時間で冷静さを取り戻していた。
「とにかく、あいつらの妙な策略はうまく使えばこっちもいいように使うことができる……。あんた、亀水族の長には会ったことがあるか?」
景華がきょとんとした。
「おじいさまでしょ?もちろんよ……。」
景華の母は、亀水族の族長の娘だった。彼女の深緑色の髪は、この母親譲りのものだ。
「そうか、そう言えば王妃様は亀水の出身でいらっしゃったからな……。今度の趙雨の即位式が終われば、どの一族の長も里に戻るはずだ……。それが終わったら、会いに行くぞ。」
景華が、先程の表情のまま目をぱちくりさせた。
「どうして?それに、私たちを見つけたら捕まえろって命令が出てるはずよね……?」
柳鏡がわざとらしく溜息をついた。
「あんたなぁ……。反乱の際の助力を求めに行くに決まっているだろうが。清龍の兵士たちだけじゃあ全然数が足りねえんだよ。砂嵐族はどっちに転ぶかわからねえし……。大体、死んだ奴を捕まえろなんて命令がどうして出ているんだよ?あんたが死んだから命令は解除に決まっているだろうが。まぁ、俺はまだ危ないからな、変装でもして行くさ。」
「どんな風に……?」
柳鏡が少しの間腕組みして唸った。
「そうだな……髪を染める位かな?目の色は変えられねえし……。あとは、服装だな。異国の商人のふりでもして行くしかないだろ。」
ちょっと考えただけで、彼は綿密な計画を練っていく……。景華は、彼のその力が羨ましいと思ったが、それは彼が今までに数多くの苦難を乗り越えて来た証でもあった。
「よし、それで決まりだな……。あんたも俺も、西の国の商人のふりをする。虎神族の奴らに見つかったら厄介だからな、あんたも念のために変装した方がいい。俺は髪の色も変えるが、あんたはそのままだ。じゃないと、亀水の長に会ってもあんたが誰かわからないからな。」
「うん、わかった。」
景華が元気よくそう返事をする。
「まぁ、もしそれでも俺たちだってばれたら……。」
柳鏡の口調が急に暗くなった。景華もごくりと唾を飲み込んで、続きを聞く態勢を整えた。
「全員俺がぶった切る。わかったな?」
「ぷっ……。」
景華の肩の力が抜けて、思わず笑みがこぼれた。深刻な話かと思えば、彼の解決策はあまりにもあっさりしている。それでも、自分を気遣ってそんな話し方をしてくれる彼に、景華は内心感謝していた。
次の朝は、早くから来客があった。もちろん、明鈴だ。ガタン、と勢いよく戸を開けた彼女は、相当息を切らせていた。
「景華、助けて!」
「「は?」」
ちょうど景華と柳鏡が朝食を食べていたところに乱入してきた明鈴に、二人の視線はくぎ付けとなってしまい、奇しくもその反応までが同じとなってしまった。一瞬お互いにチラと視線を走らせてから、元のように朝から騒々しい来客に視線を当てた。
「私、すっかり忘れていたんだけど、今週末に春の祭りがあったの!私も一応名前だけは神殿の巫女だから、巫女の衣装を着なきゃならないんだけど……。」
柳鏡の眉が、ピクリと動いた。本当は、景華に祭りがあることは聞かせないつもりでいた。言えば連れて行けとせがまれるだろうが、彼はこの里の人を極端に避ける性質だったので、そのような人ごみに繰り出すのが面倒だったのだ。
「ふうん、お祭り……。それで?助けて、って言ったのはどうして?」
案の定、彼女は祭りに興味を示した。彼は、明鈴に口止めをしておかなかった自分を呪った。仕方ない、今年はあの恐ろしい人ごみに混じるしかない……。
「青龍の神殿に仕える巫女は、衣装を着て舞を舞わなきゃならないんだけど……。」
なんとなく、彼女の言いたいことが読めた。
「姉さん、衣装ができていないんじゃありませんか……?」
明鈴がギクッとした。どうやら、図星だったようだ。本当にこの姉は、どうして裁縫だけできないのだろうか……。いつもとは形成が逆転した。
「姉さん、いい根性ですね。彼女に縫物をさせるとは……。いやいや、恐れ入りましたよ……。」
「ううう……。」
事が事なだけに、明鈴は黙っている。普段の彼女なら、おそらく彼を今すぐ地獄送りにしたことだろう。しかし、景華の保護者に近い立場である彼に断られてしまえば、いくら景華が承諾してくれても衣装を任せることはできないのである。普段彼をからかい過ぎたことを、明鈴は今になって後悔した。柳鏡の言葉は続いた。
「大体、他のことはできるのにどうして裁縫だけ……。いや、俺は姉さんがガサツだからだなんて、そんなこと言いませんよ?」
思いっきり言っているじゃない、と白い目で弟を見返す……。その顔には腹立たしくも得意気な笑みが浮かべられている。
「じゃあ、衣装を縫うお手伝いを頼みに来てくれたの?わかった、任せて!」
そう言ってニッコリと笑う景華。もちろん、彼女が快諾してくれることは明鈴も計算済みだった。問題は、普段の恨みを今晴らそうとしている弟の方だった。しかし、彼はあっさりと了承した。
「仕方ありませんね。ただ姉さん、俺からもお願いしてもいいですか?」
「何よ?」
明鈴の白い目を受けても、彼は涼しい顔をしている。
「衣装が縫いあがるまでの間、家に泊って行って下さい。実は、何日間か空けようと思っていたんです。姉さんが居てくれるとなれば俺も安心して出掛けられますし。」
「どうしてよ?」
その疑問に、彼は意味ありげに微笑んで答えた。
「まあ、旅行の準備とでも言っておきましょうか。彼女とも昨日相談しましたし。」
景華に顔を向けると、彼女は満面の笑みで頷いた。
「……まさか、新婚旅行……?」
明鈴のその言葉で、柳鏡は口に含んでいたお茶を吹き出してしまった。景華の方も、持っていた箸を取り落とした。柳鏡は、お茶がどこか変な所に入ったらしく、かなりむせ込んでいる……。ようやく冷静さを取り戻した景華が、慌てて彼の背をさすってやった。
「おい、姉さんの衣装なんか絶対縫うなよ!大体、どこをどう取り違えたらそうなるんですか!」
やっと落ち着いた柳鏡が最初の言葉を景華にかけてから、明鈴に向き直った。なるほど、今のは大分効いたみたいだ……。
「いや、だって二人で相談したって言うから行き先でも相談したのかなぁ、と……。普通そう思うって。」
いかにも柳鏡の言い方が悪いとでも言うように、明鈴は開き直った。
「違うに決まっているでしょう?誰がこんなの嫁にしますか!」
「何よ!私だってお断りなんだから!」
ワイワイ、キャンキャン……。明鈴はこっそり溜息をこぼした。失敗だった……。この二人に喧嘩をされては、きりがない……。何か話題を変えなければ。
「あ、そうだ景華、やっぱりお祭りには来るでしょ?」
「え……?」
景華の注意が明鈴に向けられた。よし、うまくいったようだ……。景華はじっと考えてから柳鏡を見上げた。
「なんだよ?行きたいって言うのか?言っておくが、俺は人ごみが嫌いだからな、気が変わったらあんたがわがままを言っても即刻抱えて帰るからな。」
「うん!」
柳鏡が行くと言い出したことにかなり驚きを感じた明鈴だったが、軽く微笑んだだけで口には出さなかった。
「じゃあ、祭りまでは勉強は休みだな。休み明けに今まで教えたことが一つでも抜けていてみろ、あんたのできの悪い頭に直接本をぶつけるからな。内容がそのまま移るかもしれないだろ?」
「失礼ね!そこまで頭悪くないわよ!」
果てしない言い合い……。明鈴は今度は大きく溜息をついた。
それから三日、明鈴は柳鏡の家に泊って祭祀用の衣装を縫い上げた。と言っても、明鈴が行ったのは主に景華の身の回りの世話で、自分の衣装を縫ってくれている彼女のサポート位だった。
「よし、これで完成!」
景華がそう声を上げたのは、三日目の夕方だった。
「明鈴さん、早速着てみてよ。」
景華に促された明鈴は、ニッコリと頷くと真新しい衣装に袖を通した。青と白が基調となっていて、袖や裾はひらひらとしていて舞台映えがしそうだった。
「さすが景華、ピッタリだよ!明日の祭りにも間に合ったし!本当にありがとう。」
明鈴の笑みに、景華も満面の笑みで返す。気がかりなのは、彼がいつまでたっても帰って来ないことだった。衣装を縫っている時はそこまでひどく気にはならなかったが、常に彼の不在が頭から離れなかったのも事実だ。実際に、彼女は外で足音がしたと思うとすぐにそちらを眺めていた。
「柳鏡、帰って来ないね……。」
景華はハッとした。まさか、明鈴にまで自分の考えが読まれてしまったのか!
「今、そう思わなかった?不安で死にそう、って顔してたもの。」
どうやら、自分の表にそんな表情が出てしまっていたらしい。景華は大人しく頷いた。
「ふうん、私がいるのにそんなに不安かなぁ?こう見えて、その辺の奴なんて相手にならない位強いんだよ、私!」
景華がニッコリと、しかしどこか寂し気に微笑んだ。
「柳鏡から聞いたわ。明鈴さんはかなり腕が立つって。だから、私のことは何も不安じゃないわ。」
「じゃあ、どうして?」
明鈴の問いに、景華は目線を窓の外に移してから答えた。
「柳鏡に何かあったんじゃないかと思ったりして、不安なの。そんな訳ないのにね……?」
夕焼け色の空はだんだんとその色を群青に染め変えている……。室内にも、群青色の闇が迫って来ていた。
「いつもそう。柳鏡が狩りの依頼を受けて山に行く時も、いつも。私がいるせいで危ない仕事をしてくれているのに、待っているしかできないから、仕方ないんだけど……。」
「景華、いいこと教えてあげようか?」
明鈴の言葉に、彼女は窓の外から視線を戻した。弟の心を捕らえた真紅の瞳が、彼女を射る……。
「もし柳鏡にちょっとでも感謝の気持ちを伝えたいなら……。」
景華はそれに聞き入った。彼に対しては素直になれない彼女だ、どんなアドバイスでも欲しいと思っていた。
「あいつが帰って来た時に、笑顔でおかえり、って言ってやることね。」
「へ?」
景華がきょとん、と目を丸く見開いて明鈴を見た。どうやら、全く予想もしていなかった言葉だったらしい。
「それだけで、いいの?」
「そうだよ。」
明鈴は、いかにも不思議だ、という顔を自分に向けている景華に笑ってみせた。
「だって、景華がいるから柳鏡はここに帰って来るんだからね。ほら、噂をすれば。どうやら、明日の祭りには間にあったみたいだね。じゃあ、私は家に帰るから。またね!」
明鈴は衣装をその腕に引っ掛けると、あっという間に出て行ってしまった。明鈴の言った通り、彼女が開けっ放しにしていた戸口から、柳鏡の顔が覗いた。
「衣装、できたのか?」
「あ、うん。さっきできたの。それで、今帰っちゃった……。」
景華は、正直なことを言うと明鈴が言ったことを疑っていた。それだけで、本当に感謝の気持ちなんて伝わるだろうか。半信半疑のまま、彼女はそれを実行に移した。
「ねえ、柳鏡……?」
「なんだよ?」
気のない返事が返される……。
「……おかえりなさい。」
明かりをつけていた彼の動きが、一瞬止まった。薄暗がりの中で自分の表情まで判別できたかはわからないが、景華は明鈴に言われた通りに笑顔でそう言った。
「……ああ。」
ただそれだけ。たった一言の短い返事……。でもそれは、彼が照れていることを表している。そして、景華にもそれはなんとなくわかっていた。理由はわからないが、どうやら明鈴が言っていたことは本当だったようだ。
「明日、楽しみだね。」
ニコニコとしてそういう景華に、柳鏡は溜息をついてみせた。
「俺には地獄だ……。」
それでもあんな人ごみの中に行こうと思うのは、彼女がそう望むから。夕飯を温め直すその横顔に、彼は小さく微笑んだ。
「そう言えば、何をしに行っていたの?全然教えてくれなかったじゃない。」
そう言ってほんの少しふて腐れてみせる景華。柳鏡はその姿に再び笑みをもらした。
「新婚旅行の準備。」
ふざけてそう答える……。
「冗談ばかり言わないでよ!心配したんだから……。」
確かに、彼は本当なら昨日の内に帰って来る予定でいた。しかし、途中で大蛇の妖怪と出会ってしまったので予定が狂ったのだった。だがそれを言えば彼女が不安がるから、言わない。
「亀水の長に会いに行く準備だよ。商人が品物も何も持っていなかったらおかしいだろ?それから、それっぽい衣装も揃えて来て、全部納屋に置いてきた。」
「そうだったの……。てっきり遠くの妖怪退治にでも行ったのかと思ったわ。」
恐るべきは女の勘である。柳鏡は食事を運んで来てくれた彼女に、曖昧な笑みを返した。実は途中で出会った大蛇というのは退治の依頼が出ていたもので、その賞金がまとまった金額だったので、行きがけの駄賃に退治しようと思っていたのだった。だが、予想以上に相手の抵抗が激しかったために、予定が丸一日遅れてしまったのだった。そして、その賞金は旅行の準備に消えた。
「それにしても、よく品物に衣装まで揃えるお金があったわね。どうしたの?」
一瞬たじろいだ柳鏡だったが、うまく切り抜ける方法を見つけた。
「いや、最初の一日は狩りをして、その獲物を売ったんだ。結構獲ったから、それなりの金額になったし。」
「ふうん、そうなの。」
彼は嘘はついていない。最初の一日で大蛇を狩ったのだ。そして景華は彼がついた嘘を真実だと思い、疑ってはいなかった。家に戻って、彼女の様子を眺めている時が一番ほっとする……。
「っ……!」
柳鏡の表情が一瞬歪んだ。
「どうかしたの?熱かった?」
景華が茶卓の向かい側で不安げに眉を寄せる。
「いや、なんでもない……。」
そうだ、なんでもないんだ……。彼はそう自分にも言い聞かせた。今痛んだのは彼の左腕、龍神の紋章が刻まれている部分だった。このところ、彼は傷の疼きを頻繁に感じていた。最初は違和感がある程度のものだったが、最近は先程のように痛むようになっていた。
『何だって言うんだよ……!』
龍神の試練が近付いているのかもしれない、と彼は思った。それならば仕方ない、と。しかし、先程のように景華に不安げな顔をさせるのだけは嫌だった。
『なんでも、ないんだ……。』
彼が食事の手を止めて厳しい表情で何事かを考えているのを、景華には見ていることしかできなかった。もし自分に、柳鏡の考えていることがわかったなら、という願望を持ちながら……。
「すごい、柳鏡って、本当に強いのね!」
妹の方が、嬉しそうに歓声を上げた。兄の方もその言葉に頷く。
「私ね、大きくなったら柳鏡みたいな人と結婚するの!」
「お前、この前まではお父様みたいな人と結婚するって言ってたじゃないか!」
目をキラキラとさせて自分の夢を話す妹に、兄が間髪をいれず疑問を差し挟んだ。妹がふくれっ面になった。本当に、子供の頃の母親とそっくりだ。
「きっとできるわよ。もう少し、大人になってからね。それから、お姫様が待ちに待ったお祭りの日がやってきました。」
母親の声で、兄妹の目には今見えている光景とは別の光景が浮かんで来た。明るい篝火に、それを囲んで楽しそうに踊る人々、たくさんの商人の姿……。
「ねぇ、見た?柳鏡!見た?」
興奮した声でそう問いかける彼女に、彼はあぁ、見た見た、と気のない返事を返した。まったく、人ごみの中に出ることだけでさえ面倒なのに、と思いながら。景華たちは今、明鈴たち青龍の神殿に仕える巫女の踊りを見たところだった。先程から彼女は、人だかりを見つけては分け入って行くのだ。さすがの彼もそれにはうんざりしていた。
「もういいか?そろそろ帰ろう。」
おそらく納得はしてくれないだろう、と思いながらそう提案する……。
「えぇ?まだお店見ていないもの。もう少しだけ、ね?」
「……。」
惚れた弱み、とでも言うやつだろうか、彼女に上目づかいでそう言われては彼もなす術がない……。時々、彼女が計算ずくでそうしているのではないかと思えるほどだ。
「まぁ、まだあちこちで催しをやっているから店の方もそんなに混んでいないし……。いいか?混んできたらすぐに帰るからなっ。」
「うん!」
明鈴から、彼があまり里の人に近付きたがらないということは景華も聞いていた。景華にもそれはわかる。彼は行く先々であからさまな敵意を向けられているのだ、そんな人々に近付きたい訳がない。それでも自分のわがままに付き合ってくれているのだから、あまり困らせたくはない。
「わぁ、見て見て!いろんなお店が出てる!」
景華がそう言って辺りを見回す様子に、柳鏡は苦笑した。確かに、彼女にしてみればこれはかなり珍しい光景なのだろう。しかし、小さな子供のようにはしゃぐその姿がなんともおかしい。連れてきて良かったかもしれない、と彼は密かにそう思った。人ごみは面倒だし周囲の刺すような視線も痛いが、それ以上の価値があった、と。
「あんまりチョロチョロとするな!はぐれるだろうが!」
彼のその言葉が耳に入っているかどうかは、疑わしい。
「わぁ、綺麗!」
景華が一つの店の前で足を止めて、歓声を上げた。つられて柳鏡もそれを覗きこむ……。
「お嬢さん、お目が高いね!それは上等な珊瑚の首飾りだよ。滅多に見られないような品だ。」
店番の中年の男が、愛想よく笑いながらそう言った。真っ赤な色の珊瑚が、篝火の光を受けてより赤く煌めく……。
「あんた、こんなのたくさん持ってるだろ?」
柳鏡がこっそりと呟く……。なぜそんな物に惹かれるのか、彼には理由がわからなかった。城では、彼女はよく珊瑚の首飾りを身に着けていた。それも、今眺めているような物とは比べ物にならないほど素晴らしい物を。そして、彼女はそのような宝飾品をたくさん持っていた。それなのになぜ、こんな物を欲しがるのだろうか……。
景華が寂し気に微笑んだ。
「うん……。でも、もう全部なくしちゃったから……。ちょっと懐かしくなって見てただけ。さあ、次見に行こう!」
そう明るく言って彼女は店を後にした。柳鏡もすぐに後を追ったが、あることを考えていた。
『あんなやつ、どこかで見たよな……。どこで見たんだ?』
「おい、柳鏡じゃないかね?」
考え事をしていた彼を、道端の天幕からしわがれた声が呼び止めた。柳鏡の歩みが止まり、景華の足もそれに合わせて止まった。
「婆さん!まだ生きていたのか!」
柳鏡がいつもの皮肉な物言いでそう言った。どうやら、彼がこんな話し方をすることから考えて、彼を呼び止めたのは数少ない心許せる者だったようだ。天幕から、腰の曲がった老婆がその姿を現した。その姿から、彼女がかなりの高齢であることが窺える。
「当たり前だ。お前こそ、まさかこんな所に足を運んでいるとは……。たいした変わりようだな。おまけに、女連れとは……。……ん?娘さん、随分変わった相をしているな……。」
「私、ですか……?」
景華はその言葉に自分を指差した。老婆に下からじっと覗きこまれて、彼女は少々たじろいだ。
「こんな所ではなんだからな、中に入るといい。あんたの運命を見てやろう。」
景華は困った顔をして柳鏡を見上げた。
「あぁ、この婆さん、占い師なんだ。人としてはともかく、占いの腕は確かだぜ。せっかくだから見てもらえよ。」
柳鏡の言葉に彼女は素直に頷いて老婆の後に続いた。その後ろから、柳鏡もついて来た。天幕の中は薄暗く、蝋燭の明かりがちらちらとしている中に椅子と机が置かれており、机の上には怪しげな水晶玉も置かれていた。柳鏡がついて来てくれなければ、彼女はその異様な空気に恐れをなして、逃げ出していただろう。老婆は片方の椅子にゆっくりと腰掛けると、対面の椅子に座るように促した。
「さぁ、これからあんたの運命を見て行くが……。本当に、随分変わった相をしている……。数奇な運命の持ち主……。」
景華が向かい側に座るのを待って、老婆は語り始めた。数奇な運命の持ち主、という言葉には、景華も柳鏡も驚きはしなかった。婚約者に父を殺されて住む場所を追われ、ついには自分も死んだことにされてしまったのだ、これを数奇と言わずしてなんと言おう。
「ほう……銀髪の男が見える……。こいつが、あんたの運命を狂わせた。まぁ、あんたがこれまでに享受していたのはかりそめの平和だ。失った痛みは大きいだろうが、この先の栄光のためには仕方がない……。」
「栄光?」
景華が老婆の言葉に疑問を差し挟んだ。それは、趙雨から玉座を奪還した後のことを意味しているのだろうか。老婆の言葉が続けられた。
「あんたはいずれ、この国の歴史に名を残すような人間になるだろう……。ただ、そのためには大切な物を一つならず手放さなくてはならない……。その覚悟ができなければ、運命はあんたを破滅へと導くだろう……。」
「栄光か、破滅か……。」
景華は、小さく老婆の言葉を繰り返した。手放さなくてはならない物、の内、一つはなにかわかっている。それは、幼い頃から培ってきた友情……。彼女の栄光は、そのまま友の破滅を意味する。しかし、老婆は言った。一つならず、と……。
「ほう、剣が見えるぞ……。あんたは、この剣で自らの運命を切り開くことができるだろう……。」
「剣……。」
彼女の頭に最初に思い浮かんだのは、柳鏡と剣術の練習をする時に用いている細身の剣だった。それにしても、あれが身を守る以外で役に立つとは思えない。
「婆さん、それだけか?」
柳鏡の顔がひょいと景華の顔を覗き込み、その後老婆に向けられた。
「あぁ、その娘さんの運命は大体そんなところだ。柳鏡、少し残れ。あぁ、娘さん、あんたはもういいよ。少し席を外してくれるかね?」
老婆の言葉で景華は立ちあがって、他のお店見ているから、と柳鏡に告げた。
「この辺だけにしておけよ。探すのが面倒だ。」
その言葉に頷くと、景華は天幕を出て行った。その背中がどことなく悲しげなのは、自分の運命に、手放さなくてはならない物があると知ってしまったからかもしれない。だが、彼女はそれと引き換えに栄光を約束されたのだ……。まるで龍神の呪いのようだ、と柳鏡は密かに思った。彼らは、ともに諸刃の剣の上を歩いているのだ。
「お前、知っていてあの娘を側に置いているのか……?」
老婆が、静かな口調でそう柳鏡に問った。
「は?」
彼女が何を言いたいのか全く理解できず、柳鏡は乱暴にそう聞き返した。
「あの娘……。あの瞳の色、間違いない。龍神の華だ……。」
初めて聞く言葉に、彼はほんの少しだけ身を乗り出した。
「何だよ、それ……。」
老婆が、重そうに口を開いた。かなり話しにくいことのようだ……。
「龍神の華……。龍神を誘う、真紅の華……。それは龍神となる者にとっては最大の試練となり、また、その身を滅ぼしかねない毒の華ともなる……。華はどうしようもなく龍神を惹きつけ、また、龍神もどうしようもなく華に惹かれる……。」
老婆が、一度そこで言葉を切った。本当に、占い師という人種はこれだから好きになれない。発言が謎に満ちている……。
「龍神が華に触れようとすればその鋭い爪で華の命を絶ってしまい、我が物としなければ龍神には恐ろしい狂気が待っている……。華に対する恐ろしいまでの独占欲、執着、そして妬み……。華に憑かれてしまった龍神は自らの欲にその身を蝕まれていくことになる……。そして、その狂気の先には死が待っている……。」
「そりゃ厄介だ。」
柳鏡が、まるで他人事かのようにそう答えた。老婆がキッと目を見開いて、柳鏡を叱りつけるような口調になった。蝋燭の明かりが揺れる……。
「お前、他人事ではないぞ?聞くところによると、お前、あの娘を家に住まわせてやっているというではないか!悪いことは言わん、すぐに追い出せ。生きたければな……。」
机に頬杖をついて、柳鏡が面倒そうに言葉を紡いだ。
「そんなこと言ったって仕方ないだろ。他に行くあてもないんだから。」
老婆が長く息を吐き出した。どうやら、彼女は柳鏡のことを自分の子供か孫のように思っているらしい、本当に親身になって彼の心配をしているのがその表情からもわかる……。
「……お前、すでにあの華の破滅の美しさに魅入られているな……?」
柳鏡がついと視線を逸らした。それは、心を読まれないようにという彼なりの精一杯の抵抗であり、自分の心を読み切ってしまう老婆への反抗的な態度でもあった。それでも、老婆の視線は彼の心の奥底までを見透かしてくる……。
「……。本当に、昔からあんたには隠し事ができねえな……。」
老婆が、今度ははっきりそれとわかるように溜息をついた。蝋燭の明かりを受けて怪しく輝く水晶を見つめるその目には、憐みの色があった。
「……まぁ、龍神の紋章を持つ者が生まれることも稀であれば、龍神の華が生まれることもまた稀だ。ましてや、その二つが出会うことはさらに……。柳鏡、お前への試練はあの者を側に置くこと、そして諦めることかもしれないな……。」
今度は柳鏡の溜息が蝋燭の炎を揺らした。それに合わせて室内の陰も動く……。
「つまり、彼女は俺のものにはならないってことだろ……?」
柳鏡が立ち上がって、先程景華が出て行った天幕の出入り口を見つめた。その瞳は、なんとも悲壮で切ない光を宿していた。
「そんなこと……最初からわかっている……。」
そうだ、最初からわかっていたはずだ……。それなのに、現在の生活が当たり前になり過ぎていた……。当たり前のように彼女がいて、当たり前のようにおかえり、と言ってくれる生活が……。
「お前も、そのような紋章を持って生まれたばかりに、辛いな……。」
老婆は、決して彼の顔を見ようとはしない。いや、見ることができないのだ。彼は、なんと悲壮な運命の下に生まれてしまったのだろう……。その思いに胸が詰まる……。
「いや、紋章があったからこそ彼女を守れた。俺は、そう思っている……。」
左腕に刻まれた呪いの証を服の上からじっと覗く……。本当に、これのせいでろくな目に遭ったことがない……。ただ一度、あの時を除いて……。
「婆さん、話はそれだけか?早く行かないと迷子になられそうで……。」
「あぁ、行くと良い……。」
柳鏡が居ても立ってもいられないという様子でそう言ったので、老婆は彼を解放した。少しでも幸せに過ごして欲しい、という願いを込めて……。
「そうだ、婆さん。もう一つ言っておくことがあった。」
柳鏡がこちらを振り返らずそう言った。老婆は、視線だけを彼の背中に当てる……。
「彼女は俺にとって欲を掻き立てるようなものじゃない……。呪われたこの身でも人であることができると証明してくれる、唯一の存在だ……。」
「そうか……。」
老婆の短い返答を受けて、柳鏡はその姿を消した。あとに残された老婆の溜息が、室内の陰を揺らした。
「あの娘への想いでのみ、自らを人と位置付けることができるということか……。」
人として生まれたにも関わらず人外の力を持ってしまった彼が、唯一自己を人だと確信できるもの……それが、感情だった。しかし、それは……。
「悲しい生き方だな、柳鏡や……。」
蝋燭の明かりが、消えた。
「まったく、どこ行ったんだよっ?」
いつの間にこんなに人が増えたのだろうか、辺りは店の品物を眺める人で溢れている、同時に、冷たい視線にも……。近くにしろ、と言っておいたにも関わらず、彼女の姿はその辺の出店には見当たらなかった。先程珊瑚の首飾りを眺めていた店にもいないし、人々の輪舞の輪の中にも見当たらない。その姿がないことで、彼は焦りを感じていた。こんなことなら離れるのではなかった、と。
「っ……!」
やっと見つけた。彼女は、出店や輪舞の輪から離れた草むらの上に一人で腰を下ろしていた。膝を抱えている様子から、何事かを考えているのがわかる。彼女が考え事をする時に特有の体勢だからだ。
「おい、店見てるって言ってただろうが。」
そう声をかけてから、隣に腰を下ろす。ふと一瞬視線を上げてから、彼女は元のように足元に視線を落とした。
「うん、そうなんだけど……。なんとなくそんな気分になれなくて……。」
悲しげな微笑を浮かべて、膝に頭を預けたまま彼を見上げた。
「なくさなきゃならない物ってなんなんだろ……?ずっとそれを考えていたの。柳鏡は?何の話しだった?」
胡坐をかいた膝の上に頬杖をついて、足元の草を乱暴にむしりながらその言葉に答える……。
「別に……。龍神についての講釈を色々と聞かされた。試練の話とか、龍神の華っていう奴についてとか……。」
「龍神の、華……?」
聞きなれないその言葉に、彼女はなんとなく心が惹かれた。なんとも美しい響きだ。
「俺もさっき初めて聞いたんだが、そういう奴がいるらしい。なんでも、龍神って言うのは皆が皆そいつに運命を狂わされるとかで、気を付けろとさ……。」
「ふうん、悪い人もいるのね……。」
いつもの調子であんたのことだろうが、と言ってしまいそうになったが、それはなんとか堪えた。聞かせたくない、と思った。聞かせてしまえば、彼女に距離を置かれることとなる……。自分を破滅させないために。彼女なら、きっとそうするだろう……。
「もういいか?帰るぞ。」
「うん。」
柳鏡が立ち上がると、景華も立ち上がって服に付いた草をほろった。歩き出せば、半歩遅れてついてくる……。彼は、その半歩の距離が愛おしかった。そして、なくしたくないものだった。
「龍神の華なんて、知るものか……。」
小さく呟いたその声は祭りの喧騒に呑まれて消えてしまったが、彼なりの、運命への精一杯の抵抗だった。
清龍の里が豊穣を祈る春の祭りで賑わっている頃、城でも華やかな式典が催されていた。言うまでもなく、趙雨の即位式だった。神官によって、宝冠が銀の髪に載せられる……。それは彼にはズシリと重く、その責務の重さをそのまま意味していた。そして、彼が犯した罪の重さも……。
『重いな……。』
その瞳が伏せられる。あの時の痛みは、未だに癒えていない。最近は、よく夢に見るのだ。自分がここにたどり着くために犠牲にした少女と、彼女を守って姿を消した龍神を……。彼の目には、きらびやかな祝宴も全て色を失って映った。口の中が苦い……。
『改革の前には、犠牲はつきものなんだ……。』
最近、彼は常にこの言葉を自分に言い聞かせてきた。そうでもして自分を納得させなければ、生きることさえ難しく感じられる……。あの日、足元に崩れ落ちたその人の表情が、今でも忘れられない……。そして、彼女の絶望の表情も、彼の軽蔑の眼差しも……。彼はふと、ある人を探した。衆目があるのであまりみっともない真似はできないが、目の端だけで彼女を探す……。いた。彼の心情を、唯一理解してくれるはずの人……。緋雀族の春蘭……。彼女は、彼の視線を受けてニコリと微笑み返してくれた。その笑顔が、罪の意識に苛まれている彼を救ってくれる唯一の物だった。
『大丈夫だ……。必ず、良い時代を築いてみせる……。』
彼女の笑顔にそう誓った彼だったが、この時はまだ気付いていなかった。玉座に腰掛ける者の素質も器量も、彼は持ち合わせていなかったということに……。
「趙雨、本当に王様になるんだね。前の王様を殺したくせに!」
兄の方が憤慨してそう言った。
「そうね……。でも、彼の罪を証明できる人が城にはいなかったの。それに、お城は彼の味方ばかりになっていたから、本当のことは皆黙っていたのよ。」
「ずるいわ!悪いことをしたらごめんなさい、って習わなかったのかしら?」
妹の方もかなり怒っている……。しかし、そのふくれっ面がなんともかわいらしい。
「うーん、大人はそれじゃあ済まない時があるの。」
「変なの。わからないよ。」
母親が苦笑する。子供には納得のいかないことだろう。だが、説明するにも方法がない……。
「さあ、続きを話しましょうね。」
結局、母親は話を続けて気を逸らす、という選択肢を取った。好奇心旺盛な子供たちなので、続きとなれば必ず聞きたがるだろう、と思って……。
「そうだよ、お母様。早く、早く!」
案の定、子供たちは話の続きの方に興味を示した。戻るのがまた遅れてしまうな、と思いつつ、言葉にしてしまった以上は仕方がないので続きを語り始める……。
「それから十日して、趙雨の即位の式に出席していた清龍族の長が里に戻って来ました。」
「柳鏡、いる?」
昼過ぎの柳鏡の家に、明鈴がひょっこりと顔を覗かせた。景華は食事の後片付けをしていて、柳鏡はなにやら書物とにらめっこをしていた。
「なんですか?」
彼は一瞬本から目を上げたが、その後すぐに視線を戻して明鈴に訊ねた。どんな難しい本を読んでいるのか知らないが、眉間にしわが寄っていることから、かなり苦労していることが窺える……。
「何の本?」
何の気なく明鈴が覗こうとしたが、柳鏡がぱっと本を引っ込めた。
「用事はなんですか、姉さん?俺は今忙しいんです。」
隠すところが怪しいな、と思いつつ、明鈴は自分が訪ねて来た理由を話した。
「いや、父上が呼んでるよ。景華も……。」
「え、私も?」
景華が軽く目を見開いて訊ねた。
「うん……。本当は自分が足を運びたい位だけど、景華の身分が露見したらまずいから、二人で屋敷の方に来てくれないか、って……。」
「ちっ、なるべくなら近付きたくない場所なのによ……。行くぞ。」
あきらかに柳鏡は不機嫌になったが、先程まで読んでいた書物からも相当な打撃をくらっていたようだ、いくらなんでも短気が過ぎる……。
「ちょっと、待ってよ!」
景華が慌てて彼の後を追う。その後ろ姿に手を振りながら、明鈴が叫んだ。
「いってらっしゃい。留守番しているからね!」
くるりと踵を返して、明鈴はニヤリとした。そして家に戻り、先程彼が隠した書物を引っ張り出して開く……。
「へ?何よ、これ?語学?」
柳鏡が隠した本は西の国の言葉について書かれた本で、あちこちのページに折り目があることから、彼がすでに何度か読了していたことがわかる。
「あいつ、こんなもの勉強してどうする気なんだろ……?」
明鈴には全く訳がわからなかったが、誰かに理由を聞く訳にもいかず、なんとも後味が悪い悪戯となってしまった。
「父上、柳鏡、只今参りました。」
「入れ。」
初めてここを訪れたときと、同じような会話がされる……。景華は、ふとあの時の緊張感を思い出した。まさか、彼の兄や継母たちもいるのだろうか……?だが、戸が開かれて室内を見渡した彼女は安心した。そこにいたのは、連瑛のみだった。すでに人払いもされていて、部屋の周りに人の姿はない。
「姫君、このような所までご足労願いましたこと、お詫び申し上げます。」
「いいえ、当然のことですから……。明鈴さんから連瑛様が私たちをお呼びだと伺いました。」
深々と礼をしてみせた彼に、景華は首を振って答えてから用向きを訊ねた。
「はい、城の即位式から今朝方戻ったことをお伝えしたかったのです……。おそらく、亀水の長も里に帰りついた頃と思います。会いに行かれるのですよね?」
景華が頷いてはい、と答えた。おそらく、柳鏡は父親には計画の全てを話して聞かせているのだろう。あるいは、助言などをもらっているのかもしれない。
「亀水の長は公明正大な人物と聞いております。姫がお話をされれば、必ず力を貸してくれるでしょう。ましてや、城ではあまりにも無茶な人事がされた後ですから……。」
「無茶な人事、ですか?」
柳鏡が父に訊ねた。景華もそれは気になった。
「王の即位とともに人事の改正はよくあることだが……。趙雨はほとんどの役職に虎神族と緋雀族を起用した。彼が信用できる人物ばかりを起用したつもりだろうが、その偏りはこの清龍族だけではなく、砂嵐族や亀水族が不満を持つ原因となっている。今決起の話を持ちかければ、亀水族は間違いなく乗ってくるだろう。それに、姫が趙雨の罪を明かしてくだされば彼を退位に追い込むこともできるからな、おそらくは砂嵐族も協力を申し出るだろう……。」
「それは、願ってもいない好機ですね……。」
柳鏡がそう呟くのを聞いて、景華は複雑な気分になった。自分たちが好機を迎えているということは、一方の城にいる友人たちは絶体絶命の危機を迎えているということだ。そして、王という立場の複雑さも同時に思い知らされた。部族間の力関係……。そんなものまで考慮に入れて人事を行わなければならないのだ。単に信用の置ける人間や、有能な人間のみを登用すれば良いという訳ではない……。
「それでは父上、明後日の朝には出発したいと考えているのですが、通行証を発行していただけませんか?」
柳鏡の声で、ハッと現実に引き戻された。彼女は今、自分が王になったらどのような人事を行うべきかを考えていたのだ。いくつかの空きが残ったが、大体の役職は決まっていた。もちろんそれには虎神族や緋雀族の人々もいる。よく知っている分、清龍族の人間が二、三人他の部族よりも多くなってしまったが……。
「通行証のことは心配しなくていい。明日にはできるだろうから、取りに来い。」
「それから、決起の際に奥方様や兄上たちに妨害をされる可能性はありませんか?清龍から兵士を出せないなんてことになれば、勝ち目がありませんよ?」
「心配ない。」
やけに確信に満ちた表情で、連瑛が頷いた。どこからそんな自信が来るのだろう、と景華は密かに思った。あれだけ底意地が悪そうな人たちだ。何をしでかすかわからない……。
「反乱が成功する可能性が高いと考えたのだろう、清龍からも兵を出せと言っている。そして、姫君にくれぐれもよろしくということだ……。」
「なるほど、これを機に中央に取り立ててもらうつもりですね……。相変わらず考えることがせこい人たちだ……。」
連瑛はそれには言葉を発しなかった。ただ、柳鏡をたしなめることはできず、なおかつ彼に賛同することもできなかったのだ。
「わかりました。即位後の人事のことは姫の胸三寸ですが、邪魔が入らないということには安心しましたよ……。それでは失礼いたします、父上。明日、通行証を取りに伺います。」
柳鏡が礼をするのに倣って景華も礼をして、二人で連瑛の部屋を後にした。半歩の距離は、やはり変わることはなかった……。
そして、彼らは柳鏡の予定通り二日後の朝に明鈴に留守の間のことを頼んで出掛けて行った。荷馬車には象牙や織物など、西の国の特産品が多く積まれている。たくさん積んでいるという訳ではないが、商人の荷物の量としてはちょうどいい位だった。着なれない西の国の衣装を着て、馬を操る柳鏡の横に腰掛ける……。馬車を曳いている馬は、彼らを城から清龍の里まで乗せて走った馬だった。
「こいつならかなり脚力もあるから、途中敵に遭遇しても二人乗りで逃げられると思ったんだ……。」
景華が馬をじっと見つめていたことに気付いたのだろう、柳鏡は前を見たままそう言った。彼のその髪は、燃えるような赤色に染められていた。本当は茶色にする予定だったのだが、明鈴が面白がってこの色にしてしまったのだ。黒の方がいいな、と密かに思った景華だったが、口には出さない。
「そうだ、これ……。」
柳鏡はそう言って懐をゴソゴソとまさぐると、何か赤い物を取り出した。それを隣の景華の手に押しつける……。近くで見ると、それはなんと珊瑚の首飾りだった。祭りで見た物とは違うが、細工が細かくて美しい。よく見て気が付いたのだが、その色は真紅ではなく、ほんのりと桃色がかっている……。
「綺麗……。どうしたの、これ?」
「それで良ければあんたにやるよ。」
「へっ?くれるのっ?」
目を丸く見開いてそう言った言葉の最後は、悲鳴に近かった。いらないのかよ、と不機嫌そうに問う彼に、景華は慌てて首を振ってみせた。
「ううん!欲しいし、すごく嬉しいけど……。高かったでしょう?」
遠慮がちに問いかけた景華に、柳鏡は視線を当てずに答えた。
「いや、買った訳じゃないから値段は知らねえよ。」
「え?じゃあどこで手に入れたのよ?」
「母さんの。」
「へっ?」
柳鏡があっさりと言ってのけた言葉があまりにも衝撃的で、景華は思わず聞き返してしまった。冗談だろう、と思いながら……。
「だから、母さんのだって言っているだろ!衣装箱の隅に入っていたんだよ!」
「……返す。」
景華はそう言って柳鏡の目の前に首飾りを差し出した。なんだよ、気に入らないのか?という言葉に、景華はブンブンと首を左右に振って答えた。
「そんな大切な物、もらえないもの……。」
これは、彼の母親の形見なのだ。自分が受け取っていいはずがない……。
「ダメだよ柳鏡。お母さんの物、簡単に人にあげるなんて言ったら……。お母さん、悲しむよ?」
柳鏡の口から溜息が漏れた。音は馬車の車輪の音に掻き消されてしまっているが、肩と口の動きでそれがわかる……。彼は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「あんた、本当に鈍いな……。誰にでも母さんの形見なんてやったりする訳ないだろうが。あーあ、嫌になるな……。」
景華には、彼の不機嫌の理由はわからない……。ただ一つわかるのは、自分が原因だということ。
「ごめんなさい……。」
しょんぼりとして俯く姿を横目に見て、柳鏡はさらにもう一度溜息をついた。
「俺がどうして怒っているのかもわからないで謝るなよ……。ほら。」
彼はそう言ってもう一度彼女の手に珊瑚の首飾りを乗せた。
「母さんだって、衣装箱の中に埋められているよりも、誰か大事にしてくれる奴が身に付けた方が喜ぶに決まっているだろうが……。」
「……うん。」
彼のその言葉に納得して、景華は首飾りを受け取った。ずっと、一生大切にする、という思いを込めて……。それを首にかけて、馬車の揺れで落としたりしないように襟の中にしまう……。
「ありがとう、柳鏡……。」
その言葉は、馬車の音に掻き消されてしまったかもしれないが、彼は小さく別に、と答えた。
それから三日程経ったある夜のこと、景華たちは見回りの兵士に呼び止められた。景華は慌てて顔を隠し、柳鏡は馬車から下りて行った。
「どこまでいくんだ?」
兵士の問いに、柳鏡が一息置いてから答えた。
「亀水……マデ。商売。」
柳鏡の片言での話し方は非常にうまく、西の国独特の訛までが忠実に再現されていて、兵士たちは彼がそちらの国の人間だと信じて疑わなかった。彼は、このために苦手な語学を一生懸命学んだのだった。
「他には誰かいるのか?」
「妻、一人。話セナイ、カラ待ッテイル。馬車、中。」
兵士の一人が馬車の中を覗きに来たので、景華は少し俯き加減になった。兵士は馬車の中に景華しかいないことを確認して戻って行った。
「通行証は?」
「ココ。妻、ノモ。」
彼はそう言って清龍の里で発行してもらった通行証を見せた。二人が架空の人物であることを除けば正式な物なので、全く問題はなかった。
「よし、行っていいぞ。最近は山賊なんかが出て物騒だからな、気をつけると良い。」
「ワカッタ。アリガトウ。」
兵士たちが行ってしまうのを見届けてから、柳鏡と景華も出発した。景華の心臓は、緊張のあまりバクバクと激しい音を立てていた。
「良かったぁ、無事に通り過ぎることができて。柳鏡の話し方、上手だったわ。練習したの?」
「まあな。」
彼は気のない返事を返す。どれだけ訓練を積んだのかは、彼女には教えてくれないつもりだろう。
「この本で勉強したの?」
そう言って景華が取り出した本に、柳鏡の顔色が変わった。
「あんた、どこでそれを見つけたっ?」
辛うじて出たその言葉に、景華は驚いた表情を見せて、明鈴さんがくれたの、と言った。それはまさに彼が勉強に使っていた本で、出掛けに見当たらないのでなくしたと思っていたのだ。
「ちくしょう、姉さんは本当にろくなことしないな……。」
「柳鏡、たくさん勉強したのね。あちこちに折り目があったりして、頑張ったのがわかるもの!」
その言葉通り、本の彼が覚えにくいと思ったページは折られていて、中には紙の隅が破れているところもあった。
「別に……。これ位しておかないと怪しまれるかもしれないからな……。できることなら、面倒事は避けたい……。」
「明鈴さんに聞いたよ。柳鏡は語学がとっても苦手なんだって。」
ニコニコとしてそう言う景華を見て、柳鏡は誓った。里に戻ったら、明鈴を彼の大剣の錆の一部にしてやる、と……。
「それでもこうやっておじいさまに会いに行くために頑張ってくれたんでしょ?ありがとう。」
その笑顔と言葉が本当に眩しくて……。彼は、一瞬自分が何をしているのかわからなくなった。彼の左手が、彼女の後頭部を捕らえて自分の方に引き寄せる……。そして……。
「ぐっ……。」
彼の顔面は、景華がとっさの判断で二人の間に割り込ませた本にぶつかってしまった。
「……あんたなぁ……!」
その頬がヒクヒクと痙攣している……。どうやら、相当怒らせてしまったようだ……。景華は苦笑いして言い訳をした。
「あ、あの、勉強のし過ぎで柳鏡の頭がおかしくなっちゃったんじゃないかなぁ、と思って……。取り返しがつかなくなる前に目を覚まさせてあげた方がいいかなぁ、と……。」
「あぁ、そうだよ!苦手な語学なんかやり過ぎたせいで頭がおかしくなっているんだ!だから……。」
ふてった時に特有の拗ねたような物言い……。そしてその後、少し乱暴な仕草で彼女の肩を引き寄せる……。景華の頭が、コツン、と柳鏡の肩に当った。
「少し位、じっとしていろ……。」
その照れたともふてったともつかない表情が、月の光に浮かび上がる……。深緑色の切れ長の瞳が、青白い光を受けて不思議な光を放つ……。彼の横顔が、彼女はとても好きだった。
「やっぱり柳鏡、変……。」
照れ隠しに彼女もそう呟く。お互いに本心では話さないのだ、なんとも不器用な二人だ……。
「そりゃどーも……。」
景華はその言葉に小さく笑った。そして、心の中で呟いた。好き、と。自分が彼にとってどんなに危険な存在であるか、彼女は知らない。龍神の紋章を持つ者と、龍神の華の呪われた関係を……。
亀水の里は、湿地の中にあった。さすが、水の神である玄武を祀っている里だ。景華と柳鏡は里のそばにある関所で、商売をしたい、と里への用向きを話し、案内人によって里の中に招き入れられた。
「亀水ノ長ニ織物、献上スル……。会イタイ……。」
柳鏡がそう言うと、長の館に仕えている侍女がやって来た。
「長は明日までは予定が詰まっています。明後日以降になりますよ?」
その口調が、暗に彼らを長が歓迎していないことを意味していた。おそらく、商人などと会うのは面倒だと思ったのだろう。それに、趙雨の人事のせいで虫の居所が悪かったのかもしれない。
「待ツ……。ソノ、馬車。」
柳鏡が乗って来た馬車を指差し、侍女はわかりました、と言って戻って行った。おそらく、商人はどうしても長に直接会いたいらしいと伝えるのだろう。
「まぁ、どんなに早くても長に会うのは明後日だな……。」
柳鏡はそう言って馬車の荷台に横になった。荷物の間に、人一人が横になれる分の空間があるのだ。いつもはここに景華が横になっていたので柳鏡は御者席に座ったまま眠っていたのだったが、それも仮眠程度のものだった。本当に眠るのは久しぶりだ。二人は、里の外れに馬車を止めていた。案内人が指定した場所だ。
「そうだね……。おじいさまに会ったら、まずなんて言えばいいのかしら……?」
景華は、普段柳鏡が座っている場所で膝を抱えていた。今夜はどうしても、そこで休むと言って聞かなかったのだ。
「まぁ、あんたは挨拶程度でいいさ。面倒な説明は俺が全部してやるよ。後は、聞かれたことに答えるだけでいい……。」
欠伸混じりの声がそう言った。やはり、かなり疲労が溜まっていたようだ。彼女は、それがわかっていたので荷台の場所を彼に譲った。
「うん。ありがとう、柳鏡……。おやすみ。」
春の夜は、まだ相当寒い。荷台は他の荷物があったりして暖かだったが、御者席はそうもいかなかった。柳鏡は、すでに規則正しい寝息を立てている……。彼女は空を見上げた。今夜も快晴だった。ふと、襟の中から首飾りを取り出す……。それは、星明かりを受けて赤く煌めいた。柳鏡の、母親の形見……。
『どうして、こんなに大切な物くれたんだろう……?』
考えれば考える程わからなくなる……。おそらく彼があの時不機嫌になった原因は、彼女がその意味を理解しなかったことだ。彼女の胸の中に、まさか、と思って浮かんではすぐに消えていってしまう考えがあった。そんなはずがない。彼は子供の頃から意地悪で、乱暴で……。対する自分も意地っ張りで、可愛げがなかった。それなのにどうしても一つ、都合の良い考えが浮かんでしまう……。
「私、変なのかも……。」
ポツン、と呟いてから、苦笑が漏れた。彼が起きていたらきっと、元からだろうが、と言うに決まっている……。彼は本当に口が悪くて、意地悪で、面倒くさがりで……。明鈴に聞かせた言葉が、彼女の頭に蘇る……。でも、それでも……。
『好き……。』
趙雨のことを聞いた時、明鈴が景華に言った言葉がある。失恋の傷は、新しい恋で癒せばいいんだよ、と。そんなつもりは全くなかったが、あの清龍の里で暮らす内に、景華の心に芽生えた感情があった。それが、先程の柳鏡に対する気持ち……。具体的にいつから、というのは彼女自身も記憶にない。だが、彼の不器用な優しさが彼女の心に残った傷を癒し、それと同時に、無条件に差し伸べてくれるその手のぬくもりが、彼女自身に何よりも必要だったということにも気が付いた。
「柳鏡の……馬鹿……。」
ここまで来れば、もはや八つ当たりと言う他ない。ただ、彼が自分の気も知らずに安息を得ているのが妙に腹立たしかった。いつもはこの逆であることを、景華は知らない……。たった一つ、星の明かりだけがそんな彼女に同情を示すかのように、キラリと煌めいた。
二日後になっても亀水族の長の迎えは来ず、景華と柳鏡はその場でもう二晩野宿するはめになった。もちろんただその場にいた訳ではなく、人の集まるような場所に行っては店を広げ、商人らしく商売をすることは忘れなかった。品物の数も少しずつ減り、帰りの馬車は軽くなりそうだった。柳鏡が言うには、商品の三分の一を売って、その中で一割増し程度の利益は出ているという。どちらにしろ、最初から赤字覚悟で商人の真似ごとをしているのだ、彼はそのようなことはあまり気にしてはいなかった。そして、三日目の夜にようやっと長の館から迎えがやって来た。
「長がお会いになるようです。どうぞこちらへ。」
柳鏡は織物を献上すると言ったことを思い出し、一番良い物を選んで持った。半歩後ろから、上掛けを深めに被った景華が緊張した面持ちでついて来る……。おそらく、彼女の足は震えていることだろう……。死んだはずの彼女が自分の祖父を訪ねるのだ、どのような対応がされるのか不安で仕方ないだろう……。
「こちらが長のお屋敷です。一番奥の間でお会いになるそうですから。」
そこからは、屋敷勤めの侍女が案内してくれた。祖父とは言っても、その屋敷を訪れるのは景華には初めてのことだった。なにしろ彼女が城から出たのは、この半年間を除けば、近くの離宮に避暑に行く時位だった……。
「長がお待ちです。どうぞ……。」
侍女が戸を開ける……。景華の目に、いくつかの懐かしい顔が飛び込んできた。いとこや伯父伯母、そして祖父……。
「これが、献上させていただく織物です。絹糸でできておりまして、壁掛けとしても衣服としても用いていただくことができます……。」
柳鏡が深く頭を下げて、祖父の前にそれを差し出した。
「ほう、なかなかの品ではないか……。商人、許す。ここに来て詳しく説明せよ。」
柳鏡がまた一礼してから、前に歩み出た。景華の心臓が高鳴る……。彼は、自分が合図するまで正体は明かすなと言った。一体、いつになれば自分は景華として祖父との対面を果たすことができるのだろうか。ふと、柳鏡が何事かを祖父に耳打ちしているのが見えた。そして、その後……。
「皆、少しの間だけ下がってくれないか?あぁ、帯黒は残れ……。」
祖父はそう言って、伯父だけを残して他の人間を下がらせた。皆、なんとも言えない表情をしていた。祖父がなぜそんなことを言ったのか、腑に落ちないのだろう。そして、全員いなくなったことを確認してから、柳鏡が彼女に合図をした。深く被った上掛けに手を掛ける……。
「お久しぶりでございます、おじいさま。まさか、私を忘れたりはしていらっしゃいませんよね?」
深い緑色の髪が、上掛けの下からゆっくりとその姿を現した……。彼女特有の、毛先だけが丸まっているくせ毛……。そして、彼女自身も知らない運命を表す、真紅の瞳……。
「きょ、景華……?本当に、景華なのか……?お前は死んだと聞かされた……。だがその髪や瞳の色、その面差し……。本当、なのか……?」
伯父の方は、すでに言葉をなくしている。死んだと信じていた人間が目の前に現れたのだ、その反応も当然と言える……。
「はい、おじいさま。私は、こうして生きています……。全て、柳鏡のおかげです……。」
柳鏡が彼女の隣に戻って来て、その場から長を見上げた、それからまた礼をとり、口を開いた。
「亀水の長、襄厳様にお目にかかるのは初めてかと存じます。清龍族の長、龍連瑛の三男、龍柳鏡でございます。城では、姫専属の護衛としてお仕えしておりました。このような形で姫をお連れしたこと、どうぞお許し下さい。」
「し、しかし景華……。」
祖父が驚きのせいで回らなくなってしまった口でなんとか言葉を紡いだ。
「し、城の話では……。お前は死んだことにな、なっている……。柳鏡君は……その……珎王暗殺の犯人、だとか……。」
景華が握り締めた拳を上下に振りながら、精一杯の力で反論した。
「全部嘘です!全ては、趙雨と春蘭の企てなんです!」
「姫、あまりおかしなことをおっしゃらないでいただきたい!」
ようやく状況を飲み込むことができた伯父がそう声を上げた。
「おかしなこと、とおっしゃいますか、帯黒様……?目の前に、こうして死んだという報告がされていた姫君がいらっしゃるのに?」
柳鏡が不敵な笑みとともに放った言葉に、帯黒は言葉を返すことができずにぐっと黙り込んだ。
「詳しく聞かせてくれるか、柳鏡君……?」
柳鏡がまた軽く礼をしてから言葉を発した。
「はい、襄厳様。手短に申し上げます。まず、城で現王、趙雨と雀春蘭による前王の暗殺事件が起こりました。姫が趙雨と婚約をしたために、王位継承権を得たと考えたためと思われます。」
景華は、ここまでの言葉を苦く聞いた。何度聞いても、自分の過ちの話には胸が痛む……。
「その時、彼らは姫君をも暗殺の標的としていたようでしたが、姫君は私とともに辛くも脱走し、今は清龍の里に隠れ住んでおられます。」
柳鏡が私、という言葉や、自分に敬語を使うのは少し妙な気分だ。なんとなく、こそばゆい……。
「そして、清龍の里で決起の時を待っています。現在の趙雨の王朝は罪の上に築かれ、不正の上に成り立っています……。どうか、亀水族の皆さまのお力をお貸しください……。現王趙雨の非道な政治については、私たちも色々と聞き及んでおります。」
「し、しかし……。それは、反乱を起こすということではないのか……?」
伯父が、ギリギリのところで言葉を紡ぐ……。祖父は、黙って柳鏡の言葉に耳を傾けていた。
「確かに、今の王朝が正統な理由の元に成り立っているのであれば反乱と呼ばれるでしょう。しかし、こうして姫君が御存命である以上、彼に王位継承権はないのです……。それに、罪が露見することを恐れてか、趙雨は自分の側近ばかりを高官に取り立てている……。このままではこの国は、虎神族と緋雀族だけの物となってしまいますよ……?」
柳鏡の話術は実に巧みで、伯父はすでに彼の言葉に右往左往されていた。一方の祖父は、冷静に話を聞いたようで、目を閉じて何事かを考えていた。
「正直なところを聞かせてくれるかね、柳鏡君?」
「はい、もちろんです。」
祖父がやっと口に出した言葉に、柳鏡がそう答える……。
「勝率は、どの位だ?」
なんともあっさりとした、だが重要で答えにくい質問だ。しかし、柳鏡はおそらく答えを用意していたのだろう、淀みなくこう答えた。
「このまま亀水族の皆さまのご助力が得られなければ、間違いなく負けます。しかし、皆さまのご助力を得られれば勝率は九割を超えると確信しております。」
勝率、九割……。柳鏡がそう言ったのは、本当に確信があるからだろう。だが、何を理由にそのような驚異的な数字を弾き出したのだろうか……。
「一日……考えさせてくれないか……?すぐに結論を出すのは難しい……。」
「おじいさま、まさか、城に私たちがいるなんて知らせたりはしないわよねっ?」
景華の目は真剣そのものだった。襄厳は、それには笑顔で答えた。
「当たり前だ。誰がお前を信用ならない城になど売ったりするものか。それより、側に来て顔を見せてくれないか……?」
景華の足が、すっと前に進んだ。そのまま、祖父が座っている椅子の元まで歩く……。景華の頬が、ごつごつとした手に包まれた。もう一方の手が、優しく深緑のくせ毛を撫でる……。
「随分と痩せたなぁ。手もこんなに荒れて……。たくさん苦労したのだろう……。」
「そんなことないわ。たくさん、色んなことを勉強したの。」
祖父が相好を崩してうんうん、と頷いた。
「そうだろうな……。城にいた時よりも、今のお前の方がよほど輝いているよ……。さぁ、もう休むと良い。部屋を用意させよう。今まで待たせてすまなかった……。」
帯黒に人を呼んでくるように言いつけて、襄厳は柳鏡にも言葉をかけた。
「孫を守ってくれたこと、本当に感謝しているよ……。ありがとう……。どうか、君も休んでいってくれ。」
「私は姫君専属の護衛ですから、当然のことをしたまでです……。」
「いや、ただの役目だけでは、ここまでできるものではない……。良い護衛を持ったね、景華。」
祖父のその言葉に、景華は満面の笑みで頷いた。前にはわからなかった父の言葉の意味が、今ならよくわかる……。柳鏡は、彼女にとって最高の護衛だった。
次の日、景華と柳鏡が朝食を取り終えたところに祖父がやって来た。後ろには、亀水の次代を担う帯黒を連れている……。
「一晩、帯黒や他の一族の者とともに考えたよ……。」
どうやら、彼らの結論が出たようだ。景華はぐっと拳を握りしめた。心臓が、早鐘を打っている……。たとえ祖父や叔父がどのような結論を下したとしても、彼らが自分たち一族のことをよく考えた末に出した結果なのだ、決して責めたり、恨んだりしてはいけない……。景華は、自分にそう言い聞かせた。そして……。
「私たちも、趙雨の王朝と戦いたいと思う……。彼らの横暴なやり方には納得ができないからね。ましてや、その政権は罪の上に成り立っているんだ。許すわけにはいかない……。」
「ほ、本当?おじいさまっ?」
景華は目を見開いて、ぱっと立ち上がった。興奮のあまり、無意識にしてしまった行動だった。その様子に、祖父は昨日のように目を細めて笑い、頷いてみせた。
「本当だよ、景華。ただし、お前は誰もが認めるような正しい王にならなければならない。それが、私たちの条件だ。」
景華は、強く何度も頷いてみせた。その目尻から、熱い物が滑り落ちる……。
「わかっています、わかっています。おじいさま。私、そのために色々と勉強しているの……。王様になったらまず最初に何をするのか、とかも考えているわ……。」
柳鏡は、その言葉にはほんの少し驚いた。まさか、彼女がそんなことまで真剣に考えているとは思ってもいなかったのだ。彼女は、もう昔の彼女ではない……。昔は持っていなかった、強さや責任感というものを持って、今大きく羽ばたこうとしている……。いつかは、自分の助けがなくても歩けるようになるだろう。そうしたら、その時は……。
『不細工な顔……。』
いつものように彼女の泣き顔に頭の中でそう悪態をついて、彼は窓の外を眺めた。桜の蕾が、膨らんでいるのが見える……。いよいよ本格的な春が来るようだ……。
『夏、いや、せめて秋には間に合わせたい……。それまで、持つだろうか……。』
彼の右手が、その左腕をぐっと握り締めた……。
こんにちは、霜月璃音です。やっと第二話が完成しました。当初の予定よりも大分長くなってしまいましたが、このお話を読んで下さっている皆様、どうぞ今後もお付き合い下さい。