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姫と龍神 変化と決意

「母様、まだ眠くならないよ。もっとお話聞かせてよ。」

小さな男の子が、母親を見上げながらこう言った。父親そっくりの深い緑色の瞳に見上げられて、母親は小さく笑みをもらした。その隣では、自分そっくりの娘も期待を込めたまなざしで兄と同じように母親を見上げている。

「仕方ないわね。じゃあ、もうひとつだけ。とっておきのお話を聞かせてあげましょう。」

そう言って苦笑をもらす母親に、子供たちは目を輝かせて大きく頷いて見せた。

「それでは、お話をはじめましょうか。遥か昔のお話です。ある国のあるお城に、お姫様が住んでいました。」

「わあ、素敵!私、お姫様が出てくるお話、大好きよ!」

母親は、その細い指をそっと娘の唇にあてた。

「ほら、お話を聞く時には静かにね。その国は豊かな国で、中央に住む砂嵐サラン族、北に住む亀水キスイ族、西に住む虎神コシン族、そして南の緋雀ヒジャク族、東の清龍シンロン族という五つの部族で成り立っていました。」


「あっ、待ってよみんな!」

小さな女の子が、慌てて転んでしまった。年のころはまだ五つ、六つ位だろうか、ほんのりと緑色がかった髪を肩まで伸ばした、真紅の瞳のかわいらしい少女だ。

「大丈夫?」

横から手を差し伸べたのは、二つほど年上に見える朱色の髪の少女だった。

「うん、ありがとう、春蘭シュンラン!」

先ほど転んでしまった少女をつかまらせて立ち上がらせると、春蘭と呼ばれた少女はニコッと微笑んだ。

「怪我はしてない?景華キョウカ?」

銀色の髪を首のあたりで束ねた少年が覗き込んできた。その青い瞳に、彼女はドキリとした。

「あ、う、うん!趙雨チョウウもありがとう!」

四つ彼女よりも年上の少年は、怪我がないことを知ると満足気に笑みを返した。

「まったく、景華は鈍くさいからなぁ。怪我でもさせたらこっちが大目玉だっていうのに。」

「ちょっと、柳鏡リュウキョウ!鈍くさいってどういうことよっ?」

無造作に切った黒髪の頭をかきながら、少年は深い緑色を宿したきつい瞳でこちらを見返した。よく見れば、柳鏡の瞳の色は、景華の髪の色とそっくりだった。

「そのままだよ。」

少年はそうぶっきらぼうに言い放った。

「よくも言ったわね!今日こそぜーったいに許さないわよ!」

景華は、真っ赤な顔をして怒っている。

「そう言っておきながら三日後には寂しくなって遊びに来いって言うの、誰だっけ?」

景華は言葉を失った。今までにもこの二人は顔を合わせる度にこのような喧嘩をしていて、その度にいわゆる絶交状態になるのだが、結局は景華が寂しくなって柳鏡のもとに使いを送る、というようにいつも解決していた。

「こ、今度は絶対に寂しくなんかならないもん!」

「あぁ、無理無理。景華にはぜーったいに無理!」

いつものことだと思って見物していた二人も、さすがにそろそろハラハラしてきた。

「りゅ、柳鏡、言いすぎなんじゃ……。」

趙雨が止めに入った。

「ほら、景華も。柳鏡は景華の反応がおもしろくてわざとからかってるんだから。本気にしちゃダメよ。」

春蘭も景華をなだめにかかった。

二人に止めに入られては、景華も戦意を喪失させるほかなかった。

「う……。覚えてなさいよ、柳鏡……。」

「気が向いたらね。」

「ちょっとぉー!」

「「はぁ……。」」

事態の収拾がつかないことで、趙雨と春蘭の二人は同時に溜息をこぼした。


「お姫様は、春蘭、趙雨、柳鏡という友達に囲まれて毎日を楽しく過ごしていました。」

母親がそこで話をいったん区切った。

「それで?どうなるの?」

子供たちがまだ起きていることを確認すると、母親はまた話を続けた。

「やがて、お姫様たちはどんどん大人になっていきました。そして、柳鏡と趙雨は立派な青年に、景華姫と春蘭も素晴らしい女性にそれぞれ成長していきました。そしてお姫様は、趙雨に恋をしました。」

「どうして?」

小さな娘が気に入らないというように口を尖らせた。

「どうして柳鏡じゃあないの?喧嘩するほど仲がいいって、私聞いたことあるのに。」

母親は、そっと口元を綻ばせた。

「そうねぇ。でも、この時のお姫様は、いつもいつも優しくしてくれる趙雨の方が好きだったの。」

「ふうん。」

まだ納得のいかない様子でいる娘を優しくなでながら、母親は話を続けた。

「そしてお姫様は、十六歳になったある日、思い切って趙雨にそのことを話したのです。」


初夏の風が、森のすがすがしい香りを城の中にまで運んで来た。十六歳になった景華は、少しだけ緑色がかった髪を、背中まで伸ばしていた。それに比べて、瞳の色は相変わらず、不純物の一切混じらない真紅の色だった。

「あ、趙雨!」

彼女が廊下に出たとたんに出くわしたのは、彼女が一番会いたかった人だった。

「やあ、景華姫。今日はお見舞いに上がったのですが、もうお加減はよさそうですね。安堵しましたよ。」

「うん、もう大丈夫よ。」

その答えを受けてより一層嬉しそうに微笑む趙雨に、景華は幸せそうに笑みを返した。

ついこの間まで、彼女は熱風邪で寝込んでいたのだった。

「さっき柳鏡と会いましたが……。」

「あ、うん。お見舞いに来てくれてたの。といっても、私専属の護衛に雇われてるとかで、ずーっとそこにいたんだけどね。俺にうつしたらあんたに看病させるからな、とか言いながら。」

趙雨がぷっとおかしそうに吹き出した。

「そうですね、その光景が目に浮かびますよ。あの柳鏡ならそう言うでしょう。」

「本当に。趙雨はこんなに優しいのに。大違いだわ。」

そう言って景華はつんとふてったような仕草を見せた。

「当たり前だ。みんながみんなあんたを甘やかすと思ったか。」

背後からの声に、二人が同時に振り返った。

「な、いつからいたのよ!というか、どうして戻ってきたのよ?休みにいったんじゃなかったの?」

「あのなぁ、誰かほかのやつに交代してもらってからでないと休める訳ないだろうが。警護っていうのはな、面倒なことに四六時中あんたのそばに控えてないとならないんだよ。……。」

柳鏡は、そこで趙雨をじっと見た。

「そういう訳で頼んだぞ、趙雨。じゃ。」

柳鏡はそう言うと軽く手を挙げて踵を返して行ってしまった。

『え、今のって、気を使ってくれたの……?』

景華は一瞬、自分と趙雨が一緒にいるのを見て、柳鏡が気を利かせてさっさといなくなったのかと思った。

『そんな訳ないわね……。あの柳鏡に限って。』

景華がじとーっとした目で柳鏡の後姿を見つめていることに気がついて、趙雨は一呼吸置いてから景華に話しかけた。

「そんなに気になりますか、柳鏡が?」

景華の顔が一瞬にして真っ赤になった。

「そ、そんな訳ないじゃない!柳鏡は昔からただの喧嘩友達で……。」

いつもは優しい趙雨の笑顔が少し強張って見えるのは、単なる彼女の思い過ごしかもしれない。でも……。

「ご、誤解しないで……。私が小さな頃からずっと好きなのは……趙雨だから……。趙雨には、誤解されたくないの……。」

言ってしまったあとで、景華はハッとした。自分はなんということを言ってしまったのか!でももう後には引き下がれない。たとえどんな答えであっても、彼なら今までのように優しく接してくれるだろう。

そう思っていながらも、やはり答えの恐ろしさから逃げ出したくなり、彼女はギュッと目をつぶった。

ポン、と温かい手のひらが彼女の頭の上に置かれた。

「よく言えましたね。あなたのそういう勇気のある所が、私も好きですよ……。」

「へっ……?」

景華は、状況が飲み込めずにポカンとした顔で、彼女より頭一つ分背が高い趙雨の顔を見上げた。

「私も、姫様を長年お慕いしておりました……。」

「っ……。」

景華は文字通り言葉をなくし、真っ赤になった顔の口元に手をあてた。

「……。」

柳鏡は、景華に薬を飲ませるのを忘れたと思って戻ってきていたが、柱の陰から出るに出られないでいた。

『いつかこんな日が来ることはわかっていたはずだ……。この日が来たら、笑って祝ってやろうと思っていたのに……。』

「ダメだな、まだ自信がない……。」

彼は柱の陰というなんともいたたまれない場所から、景華の幸せそうに輝く笑顔を見つめていた。


「じゃあ、やっぱり柳鏡は景華姫が好きだったのね?どうして早く言わなかったのかしら。」

「さあねぇ。でも、言わない方が姫のためになると思っていたのかもしれないわね。だって柳鏡は、子供の頃から景華姫のことだけを想ってきたのだもの、景華姫が趙雨が好きだったことが、わかっていたのかもしれないわね。」

母親は、子供の質問に苦笑しながら答えた。

「柳鏡、かわいそう……。」

子供たちが口々にそういうのを聞いて、母親はそっと自分の唇に人差し指をあて、静かにするようにうながした。

「おしゃべりするようならお話はここでおしまいにしますよ。」

二人は母親を見上げてじっと押し黙った。

「景華姫のお父様も、二人の結婚には大賛成でした。趙雨は優しいだけでなく賢かったので、姫と結婚して立派な王様になってくれると思ったのです。」


「お父様、あのね……。」

小さな頃からしているように、景華は自分の父を見上げた。

「どうした、景華?お前がそんな風にする時は、昔からこの父に願い事がある時だったな。」

景華は父親の様子に安心して話を始めた。

「私が結婚したいって言ったら、お父様は困る……?」

ガクンッ!

父親の体から急に力が抜けたのが、景華にも伝わった。

「そ、そんなことはないが……。お前もこの前の誕生日で十六歳となり成人したことだし、そろそろ縁談について考えなければならないとは思っていた……。しかし、まさかそんな言葉がお前の口から出てくるとは思わなかったよ。」

そう言って頭をなでてくれる父の手のひらの優しさに、景華は安堵した。

「ところで、どこの誰なんだ?私のかわいい娘の心を射止めたのは?柳鏡か?」

景華はふくれっ面になった。

「どうしてそこで柳鏡が出てくるの?趙雨よ。趙雨!」

父はほんの少し驚いた顔を見せたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。

「そ、そうか……。趙雨なら、この父も異存はない。昔からお前に優しく接してくれたし、今もその英知で様々な面で私を支えてくれている。しかし、意外だったな。お前は柳鏡の方が合うのではないかと思っていたよ。」

景華は下からじとーっと父親を見上げた。

「だから、どうして柳鏡なの?いっつもあんなに意地悪ばかりして。お父様がなぜ柳鏡を護衛に選んだのか、私、今でもわからないもの。強いから?」

柳鏡は十八歳の若さで辰南の国でもっとも優れた武人だと言われ、他国からは龍神と呼ばれて恐れられるほどの腕前となっていた。

ふっと、チン王の目線が遠い彼方を見渡すようなものになった。

「そうだな、確かに、腕が立つというのが一番の理由ではあるが……。護衛というのはね、強いだけじゃダメなんだ。その主人を守るという強い意志と忠誠心が必要なんだよ。その点で柳鏡は、私が求める一番良い護衛だったんだ。」

「ふうん……。」

『そりゃ、お父様には忠誠心も持っていると思うわ。でも、私になんてそんなもの一度も、かけらさえ見せてくれたことなんかないわよ……。』

「難しい話をしてしまったようだな……。いつかはきっと、この意味がわかる日が来るだろう。ところで、趙雨と話はついているのか?」

真剣に考え込んでいる娘を見て、珎王は苦笑して話題を変えた。

「あ、う、うん……。今、外で待っているんだけど……。」

「それを早く言いなさい。随分と待たせてしまったではないか。趙雨、入りなさい。」

「失礼します。」

王の掛け声で、趙雨が緑色の飾りがついた入口から姿を現した。銀の髪は腰に届くほどの長さになっていたが、彼は相変わらずそれを肩のあたりで結んでいた。瞳の色も、昔とちっとも変っていない。

「やあ、久しぶりだね、趙雨。いつも景華が世話になっているよ。」

珎王の言葉に、趙雨は恭しく礼をしてから答えた。

「お久しぶりでございます、陛下。この度は、お話があってお伺いしました。」

「ああ、景華から聞いたよ。おめでとう。いや、よろしくお願いしますと言った方がいいかな?大切な一人娘だからね、しっかりした男と結婚させたいと思っていたんだが、君なら安心だ。知識も豊富な君にゆくゆくは国王としてこの国も任せられると思うと、私も肩の荷が下りたよ。」

趙雨がニコッと微笑んだ。

「お許しいただけますか。ありがとうございます。」

珎王は満足気に微笑みながら、何度も頷いていた。

「お父様、ありがとう!」

景華は、本当に嬉しそうな、眩しく思える程の笑顔を父に向けた。

「ところで、君は確か長子だったよね?景華と結婚するとなると、虎神族の後は継げないが、弟に継がせるつもりかい?」

趙雨はまた、恭しい礼をしてから答えた。

「はい、虎神族の次代は、弟の英明エイメイに継がせようと思っております。父も賛成してくれました。」

それを聞くと、珎王は目を細めて笑った。

「そうか、私の元に話をしに来る前にそこまで準備を整えていたのか。何事にも下準備というものは重要になってくる。君に次代を任せられると思うと、ますます安心したよ。」

「光栄なお言葉です。ですが、私がそのような責任ある立場につくのは、まだ何十年も先のことだと思っています。どうぞ、陛下の御代でますますこの辰南国を発展させて下さい。」

ハハハハハ、ハハ……。

明るい日差しが差し込み、夏の香りがする部屋の中から、その日差し以上に明るい笑い声が響いた。

だが、その時誰が気づいただろうか。明るい夏の太陽をも覆い隠してしまうような暗雲が、すぐそばまで迫っているということに……。


「それで?お母様。その後はどうなるの?」

子供たちの興味が話にどんどん引き込まれていることに気づいて、若い母親は少々後悔した。本当は話の途中で子供たちが寝付いてしまう予定だったのだ。

『困ったわ……。あの人も私が戻るのを待っているだろうし……。』

ホゥ、と溜息がこぼれた。

「ねぇ、まぁだ?お母様。」

兄妹は、小さな瞳をキラキラと輝かせながら、母親の口から話の続きが語られるのを今か今かと待ち望んでいた。

「はいはい、続けますよ。それから一月程経ってから、お姫様は趙雨と婚約の式をあげました。」

「え?結婚式じゃなくて?」

いかにも納得がいかないという顔付をして、子供たちは母親を見上げた。

「その当時は、内乱が頻繁に起きていたの。だから、趙雨とお姫様を結婚させると、虎神族だけを特別扱いしてしまうことになるから、とりあえず婚約だけ、という形になったのよ。」

「ないらん、てなぁに?戦争とは違うの?」

妹の方が疑問を差し挟んだ。どうもこの子は小さい頃の母親似で、気になることは口にせずにはいられないようだ。

「国の中で起きる戦争のことよ。五つの部族から成り立つ国だったから、その中での争いが激しかったの。」

「変なの。みんな仲良くすればいいのに。」

「そうだ。僕たちの国だって、お母様が女王になる前まで五つの部族に分かれていたんでしょう?それなのに、今は内乱なんか起きてないじゃないか。」

口々に不平不満をもらす子供たちを、母親は優しくなでた。

「そうね、みんながみんな、いい人だったらいいのにね。とにかく、その時はそうではなかったみたいなの。」


もう秋になるという時期のはずなのに、景華の体には真夏のような熱気が感じられていた。

彼女は今、城の楼閣の上から、広場に集まった国民に向かって手を振っていた。隣には、もちろん趙雨の姿があった。

今日は、彼らの婚約が発表され、きらびやかな式典が行われていた。その中の行事の一つとして、広場に集まって祝福の意を表してくれた国民に手を振る、というものがあり、それが今彼女が楼閣の上にいる理由であった。

「たくさんの人ね。」

景華は、眩しい日差しのせいで手をかざしながら、広場に集まっている国民の数に感心してそうつぶやいた。

「そうですね。これだけの民がこの都で暮らしているのですよ、姫様。驚きましたか?」

趙雨の優しげな問いかけに、景華はコクリ、と頷いた。

「知らなかったわ。考えてみれば私、お城外に出たことなんて、数えるほどしかなかったもの。」

趙雨は、驚いたかのようにほんの少し目を見張った。

「そうでしたか。……いつかもし、お許しがでれば……。その時は、私がご案内しましょう。」

「ほ、本当?」

景華が頬をうっすらと上気させて嬉しそうにする様子を見つめて、趙雨がニッコリと微笑んで頷いた。

「ただし、時間があればですけどね……。」

「え?なぁに、趙雨?聞こえなかったわ。」

趙雨があまりにも小さくつぶやいたので、景華にはそれが全く聞き取れなかった。

「いえ、なんでもありませんよ。」

趙雨が顔をあげていつもと同じように微笑んだので、景華はそれ以上は詮索しないことにした。

下からの熱気がどんどん上がってくる楼閣で、景華はもう一度都全体を見渡した。彼女が今いるのは辰南国でもっとも高い場所であり、同時に、それまでの人生でもっとも幸せな地点だった。

暗雲が、ついに彼女に追いついた。


昼間の熱気をよそに、夕方からはしとしとと雨が降り出した。

それでも宴会は続けられていたが、さすがにもう解散したようだ。時刻は、すでに夜中と言ってもいいような頃だった。

景華は、昼間の興奮のせいでなかなか寝付けずにいた。

『ちょっとだけ体を冷やしてこようかな……。』

そう思った彼女は、水浴びの仕度をして部屋を出た。

「どこへ行く?」

部屋を出た所で、柳鏡に声をかけられた。彼は、いつも景華の部屋の入口を守っていた。

「水浴び。ついて来ないでよ。」

ビシッと柳鏡に向かって指をさしながら景華が言い放った。柳鏡は、座ったままいかにもだるそうに答えた。

「あんたについて行ったっておもしろくない。もう少し成長してから言うんだな。」

バサッ!

何か布切れのようなものが柳鏡に向かって投げつけられた。

「なんてこと言うのよ、変態!……風邪引くわよ。」

そう言って背を向けた景華の姿を見送った後で、何が投げつけられたか確認した柳鏡は、ふっと笑みをこぼした。

それは、贅沢な金糸の縫いとりが施されているもので、彼女の寝具の一つだった。

「あきらめないと……ならないんだよな……。」

彼の脳裏には、今も幼い頃からの彼女のことが鮮明に焼きつけられていた。

「あいつなら、きっと幸せにしてやれるんだろうな……。」

そして、そこには幼少時からの親友だと思っていた少年の姿が常にあった。しとしとと降り続ける雨が、とてもうっとおしく思えた。


『あれ、お父様の部屋、明かりがついてる……。もうお休みのはずなのに……。』

景華は、水浴びに行く途中で父の部屋の前を通り過ぎる時、違和感を覚えた。

『あれ?鍵も掛けてない……。さては酔ってるのね、お父様。起こしてあげないと。』

「お父様?入るわよ。」

ギィ……。

やけに空気が湿っているのは、先ほどから降り出した雨のせいだろうか。気のせいか、床も濡れている。

「やだ、雨漏り?」

そうつぶやいて床を見下ろした彼女は、そこに凍りついた。

雨漏りのそれにしてはやけに温かい水たまりは、真っ赤な色をしていた。あきらかに「血」である。

「景華姫……?」

部屋の奥から彼女を呼ぶ声がして、こちらと奥の空間を仕切っている衝立ついたてが倒れた。

「っ……!」

そこにいる人物に、彼女は絶句した。

衝立の向こう側にいたのは、昼間彼女の隣で国民に手を振っていた趙雨と、幼い頃からの彼女の唯一の女友達である春蘭だった。

趙雨の方はその衣に返り血をまだら模様に浴び、その手には祭祀用の四神剣が握られていた。その切っ先からは、まだ血が滴っている。そして……。

倒れている人物に、景華はゆっくりと眼を向けた。嘘だろう、と。自分は夢を見ているのだ、と思いながら。

そこにあったのは彼女の父、珎王の青白く変わり果てた姿だった。

「お、お父様!なぜっ、なぜっ!」

景華は、足元に横たわっている父に取りすがってすすり泣いた。

「忠実な民を欺く不実な珎王は、この虎趙雨が討ち取った……。」

「ど、どういうこと……?」

そう言って趙雨を見上げた景華は、その冷たい瞳にゾッとした。いつもなら柔らかい光をたたえているはずの瞳は、今は見つめられただけで凍りついてしまうかのような冷たさを内包していた。

「城から滅多に外に出ないあなたにはわからないでしょう。」

春蘭が、こちらも信じられない程冷たい口調で話を切り出した。

「今年は、麦も米も、何もかもが凶作でした。それはもう、過去五十年の中で最悪と言われる程の……。それにも関らず、王はあなたの成人の式典があるとか、王妃様の死後十年たったから追悼の式を行いたいからと言って、苦しい生活をしている民からさらに搾取したのです。」

「……。」

景華には、すでに言葉を紡ぐ気力も残されていなかった。ただ彼女の耳だけが、話し続ける春蘭の声を拾っていた。

「もちろん、陳述だって何回も行いました。それも自分たちが第一だと考える王の前では無意味に終わってしまいました……。あなたは知らないでしょうけど、今もこの城壁の外では多くの人が命を落としているんですよ!」

「っ……!」

声こそは出さないが、景華があまりの事実に驚き、目を見開いたのが薄暗がりの中でもわかった。

「私は、あなたを愛してはいません、姫様。」

さらに衝撃の事実に、景華はついに動くことさえできなくなった。

「あなたと結婚すれば、珎王に直系の男子がいないために、自動的に私に王位継承権が与えられる。私はそれに目をつけました。誰か民の暮らしをよく知る者が王位に就けば、このような搾取が行われることはなくなるはずですからね。」

景華は、うまく回らない頭で一生懸命に状況を整理しようとした。

「つまり、王位のため……。」

やっと口をついて出たのが、その一言だった。

「そうです。私は、小さな頃からここにいる春蘭ただ一人を思ってきました。彼女はいつも周りに対して公平で、思慮深さを持っていた。あなたと丁度真逆ですね……。」

冷たい口調に、冷たい微笑み……。これが、つい先程まで彼女の隣で笑ってくれていた趙雨なのだろうか。

「あなたと遊んでいる内に、本当にあなたが憎らしくなってきました……。望めばなんでも手に入る環境。一人娘だからとことんあまやかされていたことも事実でしたし。城の外の民が明日の糧の心配をしているような時に、あなたは明日のお菓子のことなんかをのんきに考えていたんですよ!」

春蘭のとどめの一言に、景華は自分の幼く、無邪気な時代が音を立てて崩れ去っていくのを感じた。

趙雨が、まだ四神剣に残っている血を振り払って囁いた。

「さて、姫様。ここであなたに見られてしまったのは誤算でしたが、仕方ありませんね……。よき時代、よき国を創るためのいしずえとなって下さい……。」

趙雨が四神剣を振り上げるのが、目の端にゆっくりと映った。銀色の切っ先が、室内の小さなろうそくの光をあびて閃いた。

「い、や……。」

死にたくない!

彼女がその瞬間に唯一考えたのは、それだった。

誰か、助けて!

「柳鏡……!」

その名前を呼んだ瞬間に、彼女の体が何か力強いものに引かれるのを感じた。

ガシィィィィィン!ガラン、ガランガラン……。

足元に、何か金属質の物が落ちた音が反響した。

景華は、そこでそっと目を開けた。

彼女を引き寄せた力強いものは、柳鏡の腕だった。彼の利き手である左手には、常に彼が背負っていた大剣が抜き身の状態でしっかりと握られていた。

「りゅ……きょ……。」

「怪我はないか?」

彼女は声にならない声で、辛うじて彼に呼びかけた。そして、彼からの問いに涙をボロボロとこぼしながら頷いた。

「衛兵!」

趙雨がそう号令を発すると、どこにいたのか、バラバラと二十人近い数の衛兵がその姿を現した。

「どういうことだ、趙雨……?それに、こいつらは虎神族の人間じゃないか?城の衛兵に化けてはいるが、俺の目はごまかせないぞ……。」

「国家のために不実な王を処刑しただけだ!お前にもわかるだろう?王がいかに国民に苦しい生活を強いていたか!」

趙雨が、今までにないほど語気を荒げた。おそらく、予想だにしなかった柳鏡の邪魔で苛立っているのだろう。

「だからどうした……?王位の簒奪さんだつに正統性など主張してどうなる?間違いを正すために間違いを重ねるのか?」

趙雨の表情が変わった。そこには、柳鏡への敵意がむき出しにされていた。

「なぜ他の衛兵は出て来ない?こんな騒ぎになっているのに!」

さすがの柳鏡も、少々焦りが生じているようだ。城の残りの衛兵が全く気配も感じさせないことに、苛立ちを感じているように、あたりを見回した。

「みんな眠っているわ。差し入れの酒に睡眠薬をまぜておいたから……。」

「くそっ……!」

柳鏡の背を、冷たい汗が流れた。

『俺一人なら戦って切りぬけることもできる……。だが……。』

柳鏡は、ちらっと自分の腕の中を見やった。そこには、ただただ震えているだけの景華の姿があった。

『姫を抱えてとなると……。いや、やるしかない!』

「しっかりつかまってろよ!絶対に離すな!」

柳鏡はそう言いながらすでに地を蹴って飛び出していた。

ザンッ!ザシュッ!

雨の中でも、濃い血の匂いが鼻腔をつく。

柳鏡の動きは、すさまじい速さだった。あっという間に近くにいた三人を薙ぎ倒し、景華を抱えたまま夜の闇に姿を紛れさせた。

「くそっ!追え!城門を閉ざして一歩も外へ出すな!」

趙雨が四神剣を拾い上げ、それを振り払ってさやに戻しながら怒号をあげた。

「趙雨……。」

心配そうに眉根を寄せながら、春蘭は趙雨の衣の袖をギュっと握った。

「大丈夫だ……。改革の前に多少の犠牲はつきものだから……。柳鏡に邪魔されたのは計算違いだったけどな……。」

趙雨は、王の返り血を嫌という程浴びた自分の衣装を見下ろした。そして、足元に崩れているその亡骸を……。

「衣替え、しなければ……。」

その言葉の真意は、彼一人にしかわからないだろう……。隣で不審そうに自分を見上げる春蘭の頭をなでながら、なんでもないよ、と自分にも言い聞かせた。

秋の始まりのうっとうしい雨は、いつかは痛みも流してくれるだろう……。


「乗れっ!」

柳鏡は乱暴にそう言うと、景華を馬上に押し上げた。そして自分もその後ろに乗ると、手綱を握り締めた。

「絶対に落ちるなよ!何があっても離すな!」

馬の横っ腹に強く蹴りを入れると、馬は高くいななきを響かせて走り出した。運よく、彼らが飛び乗った馬は景華の婚約への祝いの品で、軍馬にも劣らないような立派な馬だった。その速さは、疾風が空を翔るようだ。

『おそらく、門はすでに閉ざされてしまっただろう……。残された道はただ一つ……。』

「こいつならやれるかもな……。」

柳鏡は余裕がない中でも、不敵な笑みを浮かべた。腕の中の存在を、彼はなんとしても守り抜かなくてはならない……。それは、彼女のためであり、不遇の死を遂げた彼の主君のためであり、なによりも彼自身のためでもあった。

「この先に、一部だけ大きく城壁が崩れている場所がある。そこを飛び越えて城外に出るからな。合図をしたらしっかりとつかまれ……。怖かったら目を閉じていろ……。」

微かに、彼の言葉に応える感覚が腕の中から感じられた。

彼は、自分が今馬を疾駆させている通りの先に、城壁の崩れている部分を見てとった。

「行くぞっ!」

彼の衣の襟が、ギュッと強く握られた。

『いちかばちかっ!』

いつも競技でやっている乗馬とは違う。障害物を乗り越えなければ待ち受けているのは死であり、失敗は絶対に許されない。ましてや、二人乗りで超えるなど、通常の馬では絶対にできないだろう。

「うぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」

柳鏡の体を、浮遊する感覚がとらえた。

馬は見事に城壁を超えた。彼の目線の下で、崩れた石塀が自分の上を飛び越えて行く者を静かに見送っていた。

しかし、その爽快感に浸る暇さえ、今の彼にはなかった。

「もう大丈夫だ。城の外に出てしまえばこっちのものだからな。」

そう言って彼の腕の中を見下ろしたが、返答はない。馬の揺れの他にも、小刻みに彼女の肩が震えているのがわかる……。

「……。」

かける言葉など、彼は持ち合わせていなかった。

その存在の小ささと儚さに不安を感じながら、彼は馬を走らせ続けた。


「景華姫、かわいそう……。」

二人の目から、ぱたぱたと涙がこぼれていた。兄の方は、鼻をグスグスといわせてさえいる。

「そうね……。でも、姫の苦労はここで終わりじゃなかったの……。」


柳鏡は、そのまま馬を走らせ続けた。平地を避け、山道を行ったせいだろうか、彼らが乗っている馬の速度はだんだんと落ちてきていた。

『そろそろ追手をまいたと思ってもいいだろうか……。』

厳しい表情でそう考えていた柳鏡の目に、小さな泉が姿を現した。

『姫にも休息が必要だろうし……。ここで休んだ方がいいかもしれないな……。』

柳鏡が手綱を引くと、その走る速度が緩まり、小さくいなないてから完全に停止した。彼は自分がまず馬から降りると、不思議そうに彼を見つめている景華を馬上から降ろした。

「ここで少し休もう……。こいつが限界だ。」

そう言って馬の方を顎でしゃくってから、景華の足をそっと地につけた。案の定、その足には力が入らないようで、彼女は力なくその場に崩れた。

喉が渇いていたのか、馬はすでに泉の水を飲み始めていた。柳鏡は景華をその場にきちんと座らせると、立ち上がって水を汲みにいった。ちょうど、彼の腰には酒宴の残りの酒が入れられていたひょうたんが下がっていた。

しゃがみ込んで水を汲み始めると、ひょうたんから出てくる気泡の、ぶくぶくという耳障りな音が辺りに響いた。

追手は、いつどこから現われるかわからない……。彼は、自分の神経が小さな音も聞き逃すまいと逆立っているのを感じていた。心臓の鼓動が、嫌という程大きく聞こえる……。それは、今にも彼の口から飛び出してきそうな程だ。

「飲んだ方がいい……。」

彼がそう言って差し出したひょうたんに、彼女は見向きもしない。ただぼんやりとその場に座っているだけだ。

「……。」

仕方なく、彼は自分の口に新鮮な水を一口含んだ。

そして、なんの反応も示さない景華にその水を飲ませるために、その顔を力ずくで自分の方へと向けた。

「っ……!」

ドンッ!

景華は、力一杯柳鏡の胸を押し返した。

「くっ……!」

柳鏡はどうしようもない苛立ちを感じた。今の景華からは、生きようとする力のかけらすら感じられない。

「そんなに嫌なら水位自分で飲め!死にたいのかっ!」

そして、そんな状態の彼女に拒絶されたという事実が、これ以上はないという程、彼の心に重くのしかかっていた。景華は、柳鏡の問いに全力で首を振った。まるで、言葉にできないものを懸命に表現しているかのようだ。

柳鏡は、ホゥ、と溜息をついた。

「怒鳴ったりして悪かった。大丈夫か?」

柳鏡の言葉に応えようとしたのか、彼女は口をパクパクとさせた。そして、そのあと自分の喉元に手を当てて、再びパクパクと口を開いた。その表情には、焦りの色が見てとれる。そして、何度もその行動を繰り返してからどうしようもなく不安そうな顔をして、不思議そうに彼女を見つめている深い緑の瞳を見上げた。真紅の瞳からは、涙があふれている。

柳鏡は、彼女のその様子から何かを察した。だが、嘘だと信じたかった。

「まさか……。」

自分の仮説が間違っていることを確かめたいという一心で、言葉を紡ぐ……。

「声が……出ないのか……?」

「っ……。」

真紅の瞳の持ち主は、涙で顔をクシャクシャに歪めながら、コクッと小さく頷いた。

「そんな……っ。」

柳鏡の驚きを隠せないという表情に彼女は何度も頷いて見せた。その様子に彼自身も絶望を感じ、行き場のない憤り、そして自分自身の不甲斐なさを感じた。

自分がもっとしっかりしていれば、趙雨や春蘭の様子にもっと気を配っていれば、景華をこんな目に遭わせることはなかったのかもしれない、と……。

だが、暗くなっても仕方がない。彼は敢えて前向きに現状を捉えることにした。

「命があるだけマシだ……。先天性のものではないから、なんとかなる……いや、俺が必ずなんとかしてみせる!だからあんたは、今は生きることだけ考えるんだ!先を急ぐぞ。」

今の彼女には、柳鏡だけが頼りだった。いや、今の彼女に残されたものは、もはや柳鏡だけだった。幼馴染の、護衛の青年……。今はその背中がなんと頼もしく見えることだろう。

気を抜けばすぐに真っ白になってしまいそうな頭をなんとかして奮い立たせながら、その背中に向かって大きく頷いた。


「くそっ、まだ見つからないのか!」

一方、辰南の城の中では趙雨が二人の足取りが一向につかめないということに怒り狂っていた。

「逃げられてもう三日も経った!草の根をかき分けてでも探し出せ!必ず見つけろ!」

趙雨にしてみれば、景華に逃げられるというのはとんだ誤算だった。本当は、珎王と共に逆賊に襲われたことにして殺し、自分が王位について事態が収拾した頃に春蘭を王妃に迎えるつもりだったのだ。

その上、姫が生きているということになれば、王位継承権は婚約者・・・である趙雨ではなく、景華姫のものということになる。彼は、王位に就くことができなくなってしまった。

「趙雨、各部族や集落に連絡をした方がいいわ。柳鏡と景華を見かけたら即刻捕らえよ、と。特に柳鏡は、珎王殺しの犯人であり、景華姫をも誘拐した凶悪人だとね……。」

春蘭が、冷たい口調でそう言い放った。そこには、子供のころ景華に向けたような優しさは微塵も感じられない。

「そうだな……。早馬を用意させよう。」

そう言うと趙雨は、勢いよく戸をあけて出て行った。


その頃、景華と柳鏡の二人は、何度も続けて発射される矢の攻撃を回避しながら馬を疾駆させていた。虎神族の者に違いない、彼らは、柳鏡だけではなく景華をも亡き者にしようと襲ってきていた。

「いいか、振り落とされるなよ!」

彼がそう言って馬の横っ腹を激しく蹴ると、その速度がさらにあがった。

「なるべく俺の陰に隠れていろ!あんなのにあたりたくないだろっ?」

柳鏡は、景華の上に覆いかぶさるようにしながら馬を走らせていた。それでも、景華が自分の胸に懸命にしがみついているのがわかる。

ズドッ!

「ぐぅっ……!」

右肩に焼けるような痛みが走った。どうやら、下手の鉄砲ならぬ矢も、数を打たれるとあたってしまうようだ。

「くそっ……!」

体中を何かが駆け巡っている。心臓の鼓動は早くなる一方なのに、手足が冷たくなり、意識は朦朧もうろうとしてくる……。

「毒矢を使うとは、いい根性じゃねえか……。あいつら、いつかまとめてぶった切ってやる!」

景華が腕の中で震えている……。彼女を安全な場所に連れて行くまでは、彼は意識を失う訳にはいかなかった。

ドスッ!

二本目の矢が、今度は背中の丁度真中にあたった。

「チッ、面倒だ!」

そう言って柳鏡は馬の鼻先を真逆に向けると、背負っていた大剣を抜き放った。本来、片手で扱えるような重さではないが、馬上であり、なおかつ景華を腕に抱いているということで利き腕のみで扱うことを余儀なくされた。

『くそっ、重い!』

両腕で扱っていた時にはなんとも思わなかった重みが、今はたまらなく辛い。毒矢に体力が奪われているせいでもあるが、大剣はその左手にズシリと重かった。

「前言撤回だ!おまえら、今まとめてぶった切ってやる!」

次の矢をつがえていた一人が、狙いを定める前に柳鏡に叩き斬られた。柳鏡はその隣にもまとめて斬撃を浴びせようとしたが、重みのせいで狙いが狂ってしまった。視界がかすんでくる……。どうやら、毒に対する抵抗力が落ちてきてしまったらしい。

『まずい……。この人数なら倒すことは容易だ。だが体力の限界がくるだろう……。後から第二陣や三陣が来ないとも限らないし……。』

ふらり、と馬上の柳鏡の体が、一瞬不自然な揺れ方をした。

「しめた、毒が回ってきたようだ!このまま弱らせて殺せ!」

刺客の一人がそう声をあげた。自分がしがみついている柳鏡の体がだんだんと冷たくなってきているのは景華にもわかっていた。だが、彼女にはそんな彼を助ける術もなく、ただ邪魔にならないようにしているのが精一杯だった。

「お前らごときにられてたまるか!」

朦朧とする意識の中で、冷たい汗が柳鏡の背に流れ落ちた時だった。

ドクン。

柳鏡の中で、何かが脈打った。

ドクン。

それは、彼の体の中を出口を求めて彷徨っている。

解放せよ、と……。

『今が、その時か……。』

彼は、その一瞬の内に迷うことなく自らの運命を選び取った。

「我……龍神の、封印を……ここに解放せり……っ!」

柳鏡が息も絶え絶えにそう呟いた時だった。景華の肌が、凄まじい力の収束を感じ取った。あまりの重圧に、息をすることさえ難しい。そして。

轟音とともに、青白い光の爆発が起こった。景華はあまりの眩しさに目を閉じてしまったが、自分を離さずにいる腕の感覚だけが意識の隅に残されていた。


次に目が覚めた時、彼女は張り出した木の根の下に横たわっていた。柳鏡の姿が見えないことに気づいて慌てて起き上がると、彼女が探していた人物は、すぐ隣に腰掛けていた。

「起きたのか……。」

彼は、ちょうど服を着付け直している所だった。おそらく、毒矢にあたった部分に応急処置を施していたのだろう。傷の具合が知りたくて、深い緑色を湛えた瞳をじっと覗き込んだ。

「俺なら心配ない……。」

ほっと、口から安堵の息がこぼれた。その次に気になったのは、あの瞬間に何があったのかということだった。再び、彼をじっと見上げる……。

「あれか……。敢えて言うなら龍神の呪い、だな……。」

なんとなく言葉を濁すような言い方だったが、もしかしたら彼にもうまく説明ができないのかもしれない、と思って、深くは追求しないことにした。

「水飲んだら行くぞ……。」

ふい、と背を向けて立ち上がった柳鏡の服は、背中の部分が血の色に染め変えられていた。それは、彼が流した血液の量を物語っていた。

「あんなことがあったからには、ここからは休みは取れそうもない……。覚悟しておけよ……。」

自分につき従って歩いてくる景華に向かって、彼は背を向けたまま声をかけた。

「……。」

気のせいか、その背中がやけに辛そうに見えた景華だったが、声が出ない辛さを痛感するだけだった。


柳鏡は、景華を乗せたまま馬を走らせ続けてた。途中何度か休憩はとったものの、ほぼ不眠不休の状態だった。

「ハァ……、ハァ……。」

さすがの彼でも、二日間休みなしでいるのは相当応えていた。

「もう少しの……はずなんだが……。」

腕の中から、景華がその顔を覗き込んだ。どうやら、どこに着くのかということと、彼自身の疲労具合が気になっているらしい。

「清龍の、里だ……。あそこは……青龍の加護を、受けた者でなければ見つけられない……。あそこに入れば……まずは安全だ……。」

そう答えてやっても、景華はまだ一抹の不安が拭えないらしく、柳鏡の方を見上げていた。

「俺は……大丈夫だ……。」

景華は気づいていた。時間が経つにつれて、自分が馬上から振り落とされないように捕まえていてくれる柳鏡の腕が力を失っていくことに……。

それでも、自分のために大丈夫だと答えてくれる柳鏡を早く休ませるために、一刻も早く目指す清龍の里に着いて欲しかった。

その一心で、前方を見つめた時だった。

視界が急に開けたと思うと、緑豊かな木々の合間に、多くの家が立ち並ぶ様子が見えた。中には、木の上に建てられている家さえある。

少し離れた場所には畑が見え、清らかな水を湛えた泉も、それを跨いでいる橋も見て取ることができた。

「着いたぞ……。清龍の……里だ……。」

柳鏡が、力ない笑みを浮かべた。その時だった。

「柳鏡?ちょっと、柳鏡じゃないの!」

そう言って干しかけの洗濯物をその場に放り出し、駆けて来る姿があった。ほんの少し年上だろうか、褐色の肌に、柳鏡と同じ真っ黒な髪の女性だ。

「ね……えさん……。あと……頼みますよ……。」

その姿を認めた柳鏡は、そう言い残すとドサリと音を立てて馬上から転落した。

「っ……!」

助けに動きたいものの、景華は一人では馬から降りられなかった。

「いいわ、今降ろしてあげる。」

柳鏡の姉は、景華を馬から静かに降ろしてやると、柳鏡を肩に担いで、景華の方を振り返った。

「手伝って。その子を連れてくる位なら、できるわよね?」

そう言いながら馬の方を顎でしゃくると、彼女は先に歩きだしてしまったので、景華は恐る恐る手綱を引いた。馬は、疲れ切っていたせいもあってか、大人しく彼女に従って歩いた。

「とりあえずここでいいわ。」

柳鏡の姉は、村はずれの一軒の家の前で足を止めた。その家は、村の中心部には程遠く、いかにも疎外されているという雰囲気だった。

戸を開けて中へと入っていく彼女に、景華は門前の手ごろな木に手綱をつないだ後でつき従った。

中は、彼女が見たこともない程簡素な造りだった。寝台が一つに、衣装箱が一つ。それに、小さな茶卓と隅に台所がついているだけだった。

不躾だとはわかっていながらも、彼女はあまりの珍しさに辺りをきょろきょろと見回した。

「ここ、こいつの家なの。随分簡素な造りでしょ?」

気を失っている柳鏡を寝台に下ろしながら、彼の姉は景華に話かけた。初めて見た一般の家というものに戸惑い、彼女はうまく返事を返せなかった。

「そっか、見たことないのか。」

その言葉に、景華はひどく動揺した。自分の正体が彼女にばれてしまっているということだ。いつでも逃げられるように姿勢を整えながら、景華は油断なく相手を見据えた。

「大丈夫よ、私は味方だから。それに、こいつに後は頼むって言われちゃったしね。とりあえず、そんなに警戒しなくていいよ。」

顔の横で大げさに両手を振って見せながら、柳鏡の姉は一歩景華に近付いた。

「私は、龍明鈴ロンメイリン。ここにいる龍柳鏡の姉よ。あなたが景華姫?」

先程の柳鏡の様子からも怪しむ必要がないと判断した景華は、彼女の問いにコクコクと二度頷いた。

「城から早馬が来てたわ。あなたたちを見つけたら即刻捕らえるようにって。柳鏡、本当にあなたのお父様を殺害して、あなたをさらって来たの?」

景華は、慌ててぶんぶんと首を横に振った。一体、どこからそんな話が出てきたのだろう。

「やっぱりね。柳鏡にそんな度胸あるわけないじゃない。まあ、罪を着せるにはちょうどいい相手だったのかもね。」

少し意味ありげな言い方をしながら、明鈴は手早く柳鏡に布団をかけてやった。

「あーあ、気絶したまま寝てやんの。アホな顔ねぇ。で?一体どういう経緯でこの清龍の里に来たの?」

死んだように眠っている柳鏡の頬をつねってから、明鈴は景華に向き直った。

「……。」

声が出ないというのはなんと不便なことか。景華は、一生懸命身振り手振りでそれまでのことを説明しようとしたが、あまりにも複雑なことが多過ぎて不可能だった。そこで、なんとか声が出なくなったことだけでも伝えようとした。

喉に手をあてたりしている景華の様子を見て、明鈴は何が言いたいのかすぐに悟った。

「声、出ないの?」

ちょうど先程と同じように、景華は首を二回、縦に振った。

「お姫様が声が出ないなんて柳鏡から聞いたことなかったけど……。最近なったの?」

また、深い緑色の髪が二度、縦に揺れた。どうやら、この動作は強い肯定を表しているつもりらしい。

「そっか……。困ったな。柳鏡が起きるまでは、事情は聞けないわね。いや、たたき起すかな?」

今度は首を横に振ってみせる景華に、彼女は笑いかけた。

「冗談、冗談。さすがに可哀想だからね。起きたら呼んで。今日はこの辺で仕事してるから。」

景華の髪が再び縦に揺れるのを確認してから、明鈴は外に出た。

「やれやれ……。ひと波乱ありそうね……。」

柳鏡が誘拐した、という話は最初から信じていなかったが、姫が護衛である柳鏡ただ一人に連れられてこの里にやって来たとなると、事態が深刻だということは嫌でもわかる。

『まぁ、どんなことになってても、私はあいつの味方だけどね……。』

小さい頃、兄たちと仲が悪く、自分の母親にも疎まれていた明鈴にいつも味方してくれたのは柳鏡だった。一緒に食事を抜かれたこともあれば、夜の森に二人だけで置き去りにされたこともある。

「姉さん、俺がついているよ!」

その度にそう言って励ましてくれる柳鏡は、明鈴にはこの里の中で一番大切な存在だった。

『あいつは、自分の大切な人を隠すためにここに連れて来たんだから。何があっても、この里にかくまってあげないと……。』

自分でも厳しい顔つきになっていることに気付きながら、明鈴は残っていた洗濯物をあっという間に干し終えた。


柳鏡が目覚めたのは、夕方になってからだった。外で薬草をより分けていた明鈴の元に景華が駆けて来て、その袖をクンっと引っ張った。

「起きたの?」

明鈴の問いかけに答えことなく、景華は踵を返して駆け戻った。

「柳鏡?やっと起きたの?」

明鈴がそう言いながら開けっぱなしになっていた入口をくぐると、柳鏡はちょうど大きく伸びをしていた。

「やあ、姉さん。おはようございます。」

清龍の里に着いたという安心感からか、柳鏡のずっと張りつめられていた神経は、ほぐれたようだ。

「ほぉ、こんな時間まで寝ておいて、どの口がそれを言うのかねぇ……。さぁ、事の次第を説明してもらおうか……。」

最初柳鏡を白い目で見ていた明鈴は、今は真剣な顔をしていた。割と整った顔立ちで、鼻筋がすっと通っている。

柳鏡の方も、急に真剣な顔になった。

「それは父上たちにも話さなくてはならないから、屋敷に行ってから話します。とにかく、最初に俺たちを見つけたのが姉さんで良かった。おそらく、もう一方の里には城からの急使が来たでしょう?」

「ご名答。そこまでわかってるなら早いわ。私もついて行くから、仕度をしなさい。血まみれじゃあ行けないわよ。」

明鈴は、入口に向かって歩き出した。

「奥方様とは……相変わらず?」

柳鏡は、敢えて明鈴の顔を見ないようにしながら少し重い口調で訊ねた。明鈴の足が、ピタッと歩みを止めた。

「……まあね……。それより、あんたは自分の心配をしなさい……。」

「そうですね……。ほら、あんたも行くんだよ。」

二人の様子を気遣わしげに見ていた景華の手を、羽織だけを着替えた柳鏡が引いた。

姉弟の父親である清龍の長が住んでいるという屋敷は、里の柳鏡の家とは反対側に位置していた。荘厳な造りで、装飾というものが全くと言っていい程施されていない。

「私が先に行って父上に用件を伝えてくるから、あなたたちはここで待ってなさい。」

明鈴はそう言うと、古い木の扉をくぐって奥へと消えて行った。

気のせいか、景華は里の中を歩いてくる時からずっと人々の冷たい視線を感じていた。それが気になって辺りを見回している景華に、柳鏡がほとんど口を動かさずにつぶやいた。

「あんたに対する敵意じゃない。俺に対するものだ。気にするな。」

景華は気にするなと言われてしまった以上は仕方ないと思い、辺りを見回すのをやめたが、頭の中では考え事を続けていた。

『どうして柳鏡が……?三男とはいえ、長の血を引く直系のはずなのに……。』

「父上がお呼びよ。人払いもして、最小限の人数で待っているわ。」

ふと耳に入って来た明鈴の声で、景華の考え事は中断された。

「奥方様は……?」

「あの人もいるわ……。」

「そうか……。」

柳鏡が軽く唇を噛むのが見えた。明鈴も、なんとも形容し難い顔をしている。

屋敷の中は、森の中に建っているにも関わらず天井が高く、広くて快適そうであった。人の気配が全くないのは、先程明鈴が言っていたように人払いがされているせいだろう。足音がやけに耳につく。

入口から真っ直ぐに進んだ、一番奥の部屋の前で、柳鏡と明鈴が足を止めた。

「父上、龍柳鏡、只今戻りました。」

柳鏡の声がほんの少しだけ震えているのは、気のせいだろうか。

「入れ。」

短く、入室を促す言葉。その声から、二人の父親が相当厳しい人物であることが窺える。

「失礼します。」

二つの空間を仕切っていた戸が、柳鏡の手によって開けられた。重い音が響く……。部屋の中には、先程の声の主と思われる壮年の男性と、明鈴よりももう少し年上に見える男性が二人、そしてそれらの母と思われる女性の姿があった。みな真っ黒な髪の色で、目の色も同じくらい黒い。どうやら、くせ毛なのは柳鏡だけのようだ。

「よく帰った。まずは、なぜ姫君をお連れしてここに戻ったのかを説明してもらおうか。」

威圧的なその様子は、景華の足をすくませた。

「簡潔にお話させていただきます。虎神族の虎趙雨による珎王の暗殺が起こりました。王位の簒奪を目論んだものと思われます。姫と婚約したことから王位継承権を得たと考えたためにそのような行動を起こしたようで、緋雀族のジャク春蘭との企てです。姫をも亡き者にと企んでいたようなので、ここにお連れしました。」

柳鏡は一礼してからよどみなくそう言うと、口を閉じてぐっと前を見据えた。

「その話、どこまで信じて良い?向こうの里には、城からの急使が入っていたぞ。お前が珎王を殺し、景華姫を誘拐したとな。」

若い男性のうちの一人が口を開いた。明鈴が隣で、アホか、と呟いているのが辛うじて景華の耳に届いた。

「私が申し上げたことは全て真実ですよ、長兄殿。ここにいる姫ご自身が証人となってくださることでしょう。」

いつも景華にしているように不敵な笑みでそう切り返した柳鏡だったが、言葉の端々にいつもとは違うとげとげしいものが感じられた。

「景華姫、お久しぶりです。龍連瑛レンエイでございます。」

柳鏡の父は、椅子から立ち上がって景華に対して礼をとった。

「まずはこの度の父君の御不幸、お悔やみ申し上げます。ところで、只今息子の柳鏡が申しましたように、城では虎神族の趙雨による王位の簒奪が行われたということですか?」

景華は大きく首を縦に振ってみせた。

「姫君は、事件の恐ろしさからお声をなくしていらっしゃるようです。」

明鈴がつけたしてくれたおかげで、なぜ景華が言葉で連瑛の言葉に答えられなかったかを皆一度に理解した。

「それはおいたわしい。姫君は、よき歌い手でしたのに。ですが、どうぞご安心下さい。そのような謀略が巡らされていたことが明らかになった今、私ども清龍族は、全力を持って姫君の御身柄の安全を図らせていただきます。」

「あなた、そんなに簡単に柳鏡なんぞの言ったことを鵜呑みにしてよいのですか?」

連瑛が深々と景華にお辞儀をしている時に、今まで後ろで成り行きを見ていた女性が声をあげた。

「どういうことだ?」

連瑛は、後ろを振り返って不愉快そうに訊ねた。

「あのような下賤の者が申す事が、果たして真実でしょうか?あれの母親と一緒で、あなたを騙すのがうまいこと。姫君だって、本物かどうかはわからなくてよ。」

「黙りなさい!私は姫君と城で何度もお会いしている。あの方は紛れもなく景華様だ!」

連瑛の怒声を浴びせられて、女性はさも面白くなさそうに口を閉ざした。

景華は、その様子を睨みつけた。

自分のことは仕方がない。会ったこともない彼女に、自分が本物の姫かどうかなんてわかるはずもないのだから。しかし、柳鏡に対するあのひどい物言いは許せなかった。なぜ母親が自分の息子にあのようなことが言えるのだろうか。その時、あれの母親と一緒で、という言葉が景華の耳に引っかかった。まさか、柳鏡とこの女性は親子ではないのだろうか。

「とにかく、姫君の安全は保障いたします。部屋を用意させましょう。」

「お待ち下さい。」

連瑛が立ち上がって侍女を呼ぼうとするのを、柳鏡が止めた。

「姫君は、私の家に滞在していただきます。護衛である私は姫のおそばを離れる訳には参りませんが、私がここに留まるとなると、奥方様のご機嫌を損ねてしまいますから。」

連瑛は、ちらりと自分の妻に視線を当ててから言葉を発した。

「確かにそうかもしれない。だが、あそこは村の外れだし、侍女もいないだろう?姫君にご不便をおかけする訳には……。」

柳鏡はホゥ、と溜息をついてから兄たちをぐっと見据えた。

「正直なことを申し上げます、父上。姫君をここに置くことができないのは、欲深な兄上たちの目にさらすのが恐ろしいからです。」

「なんということを!自分の兄に向って!」

柳鏡に先程長兄殿、と呼ばれた男が声を荒げた。

「それに姫君は、奥方様に対しても大層ご立腹のようです。とてもここに留まりたいとおっしゃるようには思えませんが?」

柳鏡が片眉を吊り上げて鼻で笑った。景華は、この位の仕返しは当然だ、と思っていた。隣の明鈴は小さくガッツポーズしている。

「姫君、いかがなさいますか。不便ですが柳鏡の下で暮らしますか?それともこの館で暮らしますか?」

景華は、迷わず柳鏡の袖をつかんだ。それは、今は口がきけない彼女にとっての最大限の意思表示だった。その景華の肩を、柳鏡は不敵に笑って自分の方へと引き寄せた。勝負あった。

「……わかりました。それでは、あの家にお住まい下さい。柳鏡、必要なものがあれば遠慮なくこの館に取りに来るように。」

柳鏡は、それには答えず深く一礼した。

柳鏡の兄たち、母親は、自分たちに向かって不敵な笑みを浮かべた柳鏡を呪い殺すかのような勢いで睨みつけていた。

「父上、最後にもう一つお話があります。」

柳鏡が、真面目な顔に戻って再び口を開いた。

「私は、龍神の紋章の封印を解きました。」

その毅然として言い放った言葉に、明鈴や連瑛はもちろん、彼の兄たちやその母親までもが目を見張った。

「な、お前、本当かっ?」

普段冷静沈着な連瑛も、驚きを隠せずにいる。その様子から、景華は彼が何か重要なことを言ったのだということを把握した。

「はい、姫君をお連れする際に、刺客に襲われて止むなく解放しました……。いずれ試練を受けることになると思います……。」

『封印を解いた……。彼女のために、それだけの覚悟をしたということね……。』

明鈴は弟の横顔をじっと見つめながらその決意を思い、心が痛んだ。そして、そのことについては彼と話す時も景華と話す時も触れないことに決めた。彼が封印を解放しなければならないような状況、というものは、恐ろしくて想像したくもなかった。そんな事態を、二人はくぐり抜けて来たのである。

「お話は以上です。失礼します……。」

彼がくるりと反転して出口に向かったので、景華はそれに慌ててついて行った。明鈴がその後に続いて出て来た。連瑛はもちろん、その場にいた全ての人が凍りついた。

龍神の紋章……。それは栄光への架け橋でもあり、また、彼に押された凶印でもある……。


「ハッハッハ!しかし、あんたもよくやるわねぇ!見た?あの兄さんたちの顔!」

明鈴は、屋敷の外に出るなりに大声で笑いこけた。彼に衝撃の告白を忘れさせ、少しでも明るい気分にしてやろうと考えたためである。柳鏡も、抑えてはいるものの本当は今にも吹き出しそうに違いない。そういった複雑な表情をしていた。

「姉さん、笑い過ぎですよ。あの人たちに聞かれたら呪い殺されますよ?」

それでも明鈴の笑いは治まりそうもない。もう涙目で、歩くことさえ辛そうだ。

「だ、だってあの顔……!一生に何回見られるかわからないわよ!姫のおかげね。」

柳鏡の表情が急に引き締まった。

「その呼び方はやめておきましょう。村人には感づかせない方がいい。だから父上も人払いをしたのでしょうし。」

明鈴も、急に真面目な顔に戻った。とても三十秒前まで笑い死にしそうになっていた人とは思えない。

「そうね……。じゃあ、景華キョウカ、と呼ばせてもらいましょ。音だけなら割とある名前だし、漢字で書かなければ問題はないわ。」

「名案です。それで村人によって通報されるという危険性は減るでしょう。」

明鈴は、柳鏡たちとは別の小道に向かった。

「じゃ、私はこっちだから。またね、景華。」

そう言うとくるっと背を向けて明鈴は歩いて行ってしまった。

なんだかとても疲れた、と景華は今更思った。今までは、城から逃げ出したり、柳鏡が倒れてしまったり、連瑛に会いに行ったりと忙しくてそんなことを考える暇さえなかったが、安全な隠れ家が確保できたとなると、心が落ち着いたのかもしれない。

だがその落ち着きは、別のことを想起させることにもなった。今彼女の脳裏に浮かんでくるのは、夥しい血、そして凍てついた青い瞳、彼女の心臓に杭を打ち込むかのような言葉……。

「大丈夫か?」

景華は、その声にハッとした。そこはもう、彼女がこれから身を寄せると決めた柳鏡の家の前だった。知らないうちに険しい顔をして歩いていたのかもしれない、それで心配をかけたのではないかと思った景華は、なんとかして心配ないと伝える手段はないかと考えた。そして、おもむろに柳鏡の手を取った。

「し、んぱ……。あぁ、心配するなって言いたいのか?誰があんたの心配なんかするか。」

冷たい指先が、大きな手のひらの上を走る……。その手のひらは、あちこちにマメや切り傷ができていた。そして、懸命にそれらの間を縫いながら、ひどいのね、という文字を記した。

「そりゃどーも。」

軽く溜息をついて家の戸を乱暴に開けた柳鏡の手を、再び景華の右手が捕まえた。そして、さらさらと美しい文字が記されては、わずかに残像を残して消えていく……。

「……どういたしまして。」

頭をかきむしりながらぶっきらぼうにそう言った柳鏡は、景華と敢えて目を合わせないようにしながら戸口をくぐった。


「じゃあ、景華姫はこれから柳鏡の家で暮らすのね。それなら安心ね。」

小さな娘がほっと胸をなでおろす様子は、母親の目にはとても愛らしく映った。

「そうね、命の危険はなくなったわ。でもね、お城の外の暮らしを全く知らなかったお姫様にとっては、これからが大変なのよ。」

子供たちがなんの合図もしなくても母親の声に聞き入っていることに多少の驚きを感じながらも、母親は続きを話し始めた。


夥しい量の血が、辺り一面を埋め尽くしていた。真っ暗な闇の中にいるのに、その鮮烈な赤い色が景華の瞳を射る。

怖い。

辛うじて彼女の頭が、その言葉を紡ぎだした。恐怖にすくむ足を、逃げなければという意思の力のみで動かそうとする。……やっと動いた。だが、その動きのなんと緩慢なことだろう。

何かが闇の中に潜んでいるのが、空気の流れでわかった。逃げようと懸命に足を動かす自分を、闇の中から嘲笑っている。

ドサッ!

焦りのせいで足がもつれてしまい、その場に転んでしまった。闇に潜む者が、静かにその身を起こした。

彼はどこに行ったのだろう。彼がいてくれれば、絶対に自分をこんな目に合わせることはないはずだ。景華は一縷の望みを託してその名を呼んだ。


「おい、大丈夫か?」

月の光に浮かび上がったのは、彼女が呼んだ人物だった。いつになく気遣わしげな表情で、彼女の顔を覗き込んでいる。ふと自分の顔に触れてみてから、景華はその頬を伝う幾筋もの涙に気がついた。どうやら、眠りながら泣いていたらしい……。

大丈夫。

そう彼の手に記してから、小さく溜息をこぼしてまだ溢れてくる滴を拭った。

「あのなぁ、大丈夫っていうのは泣きながら言うような台詞じゃないだろ……。」

大きく溜息をつきながら、彼は床の敷物の上にその身を横たえた。急なことだったので寝台の手配ができず、彼はそこに横になって休んでいたのだ。

「無理にでも休めよ。あんただって疲れてるはずなんだから。」

そう言って自分の右手を枕にして柳鏡はそっぽ向いた。景華は先程の夢を思い出すと、とてももう一度眠るような気分にはなれなかった。恐怖に支配されていた余韻が、まだ彼女の体に残っている。恐ろしさに震える体は、なかなか止まりそうにもない。

「ああ、もう!」

なかなか横にならない景華の様子を見るに見かねて、柳鏡が再び起き上がった。

バサリッ!

乱暴に景華が座っている寝台の上掛けを捲ると、その隣に入って彼女を強制的に寝かせて自分も横になった。元のように上掛けを掛け直した腕がそのまま細い肩を引き寄せて、景華の右頬は柳鏡の胸に押し当てられた。景華は赤くなってジタバタした。

「小さい頃だってやってただろ!今更暴れるなよ!」

景華の母親が病気で亡くなった時、柳鏡は趙雨や春蘭たちと一緒によく城に泊っていた。寂しがり屋の彼女が寂しがらないように、と公務で忙しい珎王が彼らの両親に頼んでいたのだ。その時、ときどき景華は夢にうなされて夜中に目を覚ましていた。周りで皆がすやすやと寝息を立てている中、自分だけが取り残されていると思うと、とてつもない孤独に苛まれた。

「なんだよ、怖い夢でも見たのか?」

そんな時、必ず柳鏡は起きていた。いや、眠っていても景華が目を覚ますと必ず彼も目を覚ましたのだ。景華は必ず涙に濡れた顔でその問いかけに頷いた。

「仕方ないなぁ。」

柳鏡はそう言うと起き上がり、景華の横に移動してギュッと彼女を抱きしめて横にならせた。

「ほら、これで怖くないだろ。」

ぶっきらぼうな物言いでも、昼間のように彼女をからかうようなものではなく、優しい言葉……。景華は、涙を拭って笑顔で頷くのだった。

こんなことは、子供の頃には何度もあった。だが今更、まさか成人してからこんな風にして眠ることになるとは景華も柳鏡も思っていなかった。

「ほら、これで怖くないだろ。」

昔と変わらない、少し乱暴で、それでいてとても優しい言葉……。景華は、あの頃と同じように笑顔で頷いた。


次の朝目を覚ました景華を待ち受けていたのは、山のような衣類だった。

「あんた、裁縫はできるか?」

柳鏡が衣類の山を顎で指しながら景華に訊ねたので、景華は、寝台から下りてその中の一つを手に取った。裾の部分が少しほつれていた。他にも、飾りボタンがとれてしまった物や、布同士の継ぎ目が破れてしまった物もあった。ざっと見まわしてから、なんとか自分の手に負えるだろうと思ってコクリと頷いてみせた。

「じゃあ、それが今日からのあんたの仕事だ。ここでは六歳の子供から七十歳の老人まで皆働いているんだ。あんたも食べて行くためには仕事をしなくちゃならない。昨日の一件でわかったと思うが、俺はあてにならないぞ。もちろん、父上もな。ここにいる以上、あまり兄さんや奥方様ともめ事を起こしたくない。」

景華は素直に頷いたが、自分の隣に腰を下ろした柳鏡の手を取った。

「どうして……か……。そうだな、あんたもここで暮らすんだから知っておいた方がいいかもな。」

柳鏡の目が遥かを見通すような、遠い目になった。何か言いにくいことのようだ。それでも、景華は聞こうと思った。そして、その答えを受け止めようとも……。

「俺は、昨日会った奥方様の子じゃないんだ。つまり、兄たちや姉さんとは腹違いってことだな……。俺は父上と亀水族の母の間に生まれた子だったんだ……。」

目をぱちくりとさせている景華に、柳鏡は横向きのまま視線をあてた。

「つまり、愛人の子だよ。そのせいでガキの頃から色々とひどい目にも遭わされた。まぁ、あの奥方様は自分の子である姉さんにも平気でひどい仕打ちができるような人だからな、あまり気にはならなかった。」

再び、彼の目が遠くを見た。

「俺は母とこの家に住んでいたんだが、母が死んだ時、俺は追い出されることになった。まぁ、五年前のことだな。そこに、陛下があんたの護衛の話を持って来たんだ。」

そうだ、柳鏡が自分専属の護衛として雇われたのは、丁度その頃だった。自分の事のはずなのに他人事のように淡々とした語り口で話す柳鏡に、景華はなんと言葉を掛けていいかわからなかった。

「それに、俺がこの村であまりよく思われていない理由はこれだ。」

柳鏡はそう言うと、彼の着物の左手の部分を肩まで捲り上げた。そこには、くっきりとした青い痣があった。一目で龍の形とわかるそれを見て、景華はすぐさま柳鏡に訊ねた。

「これが……龍神の……呪い?……あぁ、そうか。あんたにはあの時そうやって説明したんだったな。まぁ、呪いじゃなくて龍神の紋章と呼ばれるらしいが……。」

一度そこで言葉を区切って柳鏡は溜息をついた。この痣の意味まで説明するべきだろうか……。だが、こんな説明だけで誤魔化しても、いつかは里の人々からこの痣を持つ意味も、封印を解放してしまうことの危険性も彼女の耳に入れられるだろう。その時に自分がそれを隠していたことを知れば、彼女は今自分の口から真実を聞くよりも深く傷つくはずだ。そう思った柳鏡は、あまり気は進まないが言葉を続けた。

「清龍の里には、ごく稀にこの痣を持って生まれる奴がいるらしい。これがある奴は天性の武芸の才能を持つとかで、半端なく強くなると言われている。ようは、村の連中は俺に暴れられたら抑えられないから怖いんだろうな。」

再び、彼は言葉を区切って息をついた。その様子から、話にくいことだということが感じられる……。

「この痣に掛けられた封印を解放して龍神の試練を乗り越えれば、そいつ自身が龍神となって永遠の命と巨万の富を手に入れることができると言われている。まぁ、たいていの奴が試練とやらで命を落とすらしいけどな。」

彼女が気にかけずに済むように、軽く話したつもりではいた。だが、それでも難しい顔で考え事をしている様子を見て、柳鏡は少し後悔した。自分が冷遇されている理由は話しておくべきだとは思ったが、やはりショックが大きかったようだ。ましてや、龍神の紋章の真実はなおさら……。

「まぁ、あんたが心配することじゃねえよ。幸い、近隣の村から虎やあやかしの退治依頼がたくさん来ているらしいからな、それを片っ端から片付ければ食いっぱぐれることもないだろ。」

柳鏡は柳鏡だよ。

景華がとっさに書いたのは、その一言だった。おそらく、自分の言いたいことは半分も彼に伝わらないだろう。それでも、思いつく言葉はそれだけだったのだ。生まれなんて関係ない、ましてや、生まれ持ってしまった運命など。そう言いたかったのだ。

「わかってるよ、あんたに言われなくたって、そんなこと……。」

ふと柳鏡は、小さい頃のことを思い出した。彼が父に連れられて城を訪れ、初めて景華に会った日のことだ。

なんでも、年が近いので遊び相手になって欲しい、とのことだった。一体どんな子なんだろう。そんな期待に胸を膨らませて城を訪ねたことをよく覚えている。

父親の陰から少しだけ顔を出してこちらを覗いている姿を、彼はよく覚えている。その真紅の瞳に、彼は魅入られた。

「はじめまして。」

柳鏡は、父に教えられたようにそう挨拶をした。景華は、父親の陰からとことこ、と出て来て、じっと彼の目を見つめた。

「おんなじ!」

景華はそう言って嬉しそうにニコニコした。

「あなたのめ、わたしのかみとおんなじ!」

どうやら、彼の瞳の色と彼女の髪の色が同じだということが言いたかったらしい。

「わたし、きょうか!おなまえは?」

自分より二つ年下の少女は、すっかり自分のことが気に入ってしまったようだった。柳鏡は、初めて自分に向けられた無垢な好意というものに恐れを感じた。家では彼の出自のことで疎まれていたし、村人は彼が背負っている運命のせいで彼を恐れて、近付きもしなかった。

「りゅう……きょう……。」

自分の名前を言うことすら、緊張のせいでおぼつかなかった。

「きれいななまえ!」

そう言って向けられた笑顔を、彼は今でも忘れられずにいた。

その時、彼は初めて自分が自分という人間であって良かった、と思えたのだった。そしてその後も、彼女の眩しい笑顔が向けられる度に何度もそれを実感した。

「いや、もしかしたらあんたのおかげで自分は自分だと思えるようになったのかもしれないな……。」

珍しく自分に対して素直な態度を取った柳鏡を訝りながらも、景華は彼が衣類と一緒に運んで来たと思われる裁縫道具の箱に手をかけた。

「ちょっと柳鏡!どういうことっ?」

そこに朝一で朝食を運んで来てくれた明鈴が現われて、発した第一声がそれだった。

「何がですか?朝から騒ぎ過ぎですよ……。」

柳鏡はわざとらしく欠伸をしてみせた。

「景華になんてことさせてるの!一体どういうつもり?」

「外で話しましょう、姉さん……。」

柳鏡は景華の方にチラと視線を走らせてから明鈴を連れて外に出た。

「あんたわかってるの?景華はお姫様なんだよ?仕事なんて……。」

明鈴は小声でそうまくしたてた。

「わかってますよ……。でも、仕事はさせた方がいいんです。確かに俺が守って養うのは簡単です。しかし、それじゃあ姫はいつまでたっても人に頼ってばかりで成長できないんです……。それに、忙しく手を動かしていた方が余計なことを考えずに済むでしょう。事実と向き合うには、まだ日も浅く傷も深すぎる……。」

「そこまで考えてたんだ……。」

それは、明鈴の純粋な感想だった。きっと、一晩寝ないで考えに考えた結果なのだろう。

「そうだ、姉さんにお願いがあります。景華に料理を教えてやって下さい。彼女には、少しでも多くのことを学んで欲しいんです。あと、着物も何着か手配して下さい。あの衣装では動きにくいと思うので……。」

「わかったけど……。」

明鈴は、そこで意地悪くニヤッとした。

「本当は、景華の手料理が食べたいだけなんじゃないの?」

ボンッ!

柳鏡の顔が、一度に赤くなった。その様子は、普段の彼からは想像もできない。

「なっ、何を言うんですか、姉さんっ!」

明鈴は、普段あまり表情を変えない弟がしどろもどろするのが面白くて、もう少し意地悪をしたくなってしまった。

「あっそう、ふうん、やっぱりね。昔から柳鏡は景華にゾッコンだったもんねぇ。いつも城から帰ってきたら景華のことばっかり話してたし。」

「そ、そんな子供の時のことを今更……!」

柳鏡の目が、景華がいる家の方向に一瞬向けられた。どうやら、彼女に聞かれていないことが確かめたかったらしい。

「まあ、頑張ってねぇ。じゃあ、邪魔な姉さんは退散するわぁー!」

そう言って明鈴は踵を返すと、手を振りながら行ってしまった。

柳鏡が、戻って来るなり乱暴に壁を叩いた。仕事に取り掛かっていた景華は、驚いて顔を上げた。

「あいつ、覚えてろよ……。」

柳鏡の静かな怒りの原因は、景華には全く想像がつかないことだった。


昼が過ぎた。柳鏡は今日は仕事には行かずに家の修復に追われていた。

「ちくしょう、このオンボロ!」

そう言って壁を相手に突きを繰り出す様子は、朝とそっくりだ。そこで、景華の手が止まっていることに気が付いた。ボーっと針を見つめているその姿は、何か別のことを考えているようにも見えた。

「ボヤボヤしてたら危ないぞ。それでなくたって鈍くさいんだから。」

声を掛けられてハッとした景華は、ツンとふてったようなそぶりを見せた。

「疲れてるなら休みながらやれよ。別に一日で仕上げなきゃならないものでもないんだからな。元々、清龍の里には姉さんみたいに繕い物が苦手なやつばかりだから、預けたやつらも仕上がりがきれいなら多少時間がかかったって多めに見てくれるだろうし。」

柳鏡はその言葉を聞いた景華が手を休めるのを見てから屋根に登って行った。どうやら、今度は屋根の瓦を直すようだった。

手を止めた景華は、ボーっとしながら天井を眺めた。

『これからどうすればいいんだろう……。城に戻るにしても理由がないし……。趙雨が王になれば、お父様よりもいい政治ができるのかもしれない……。でも、お父様の亡骸はどうなったのかしら……?』

景華が父を最後に見た時、彼はすでに動かなくなっていた。その情景が、今も頭から離れない……。

手元の衣に、滴が落ちてシミになった。後から後からこぼれてくるそれは、もはや自分の意思で止めることもできなかった。

『私、泣いてばっかり……。』

城にいた頃は、彼女は自分の不甲斐なさなど感じたこともなかった。父や柳鏡に守られて平和に暮していればそれで良かった。城の外に出て思い知ったのは、自分がいかに無力な人間かということ……。自分を庇ったせいで、柳鏡は龍神の紋章を解放しなければならない程の窮地に陥った。自分は役に立たないどころか、彼の足手まといなのだ。

「おい、泣きながら繕い物するのがあんたの特技なのか?」

いつの間に屋根から下りて来たのか、気づけば柳鏡は彼女の正面に腰をおろしていた。景華は慌てて首を横に振ると、手の甲で涙を拭った。柳鏡がその様子をじっと見て呟いた。

「不細工な顔。」

「っ……!」

売り言葉に買い言葉、というやつで、景華は頭の中で余計なお世話よ!と返していた。

「いつまでもメソメソしてるから言ってるんだよ!仕事辛いのか?」

ブンブン、と景華の髪が横に揺れた。

「じゃあ何だよ?」

いぶかる柳鏡の手を景華が取った。

「どうして……足手まといの……私を……助けたの?……大怪我……までして……。なんだよ、そんなことでメソメソしてたのか。」

柳鏡がいかにも馬鹿らしいという様子でそう言ったので、景華はムカっとした。

「私は……もう姫でも……ないし……何も……持ってない、から……柳鏡に……何も……あげられない……。護衛の……お給金……だって……払えない……。だあぁ、くだらねえ!」

柳鏡が、景華の手を振りほどいた。

「あんた、俺がなんであんたの護衛なんか引き受けたり、城だなんて面倒な所まで行ってあんたのくだらない遊びに付き合ってたのかわかってないだろっ?」

コクリ、と景華があまりにも素直に頷くのを見て、柳鏡はがっくりと肩を落とした。そのまま不揃いなくせ毛を搔き揚げて、景華から視線をそらした。その仕草は、照れ隠しの合図だ。

「まあ、それはいずれ機会があれば話すとして……。」

景華は、きょとん、と彼を見つめた。心なしか、その頬はほんのりと赤い。

「確かに、俺はあんたをここまで連れて来た。途中予期せぬ事態で怪我をすることにもなった。でも、あんた忘れてないか?俺は国王殺しの濡れ衣を着せられているんだ。つまり、俺にも逃げる理由があったって訳だ。それにたまたまあんたを連れて来ちまっただけだよ、気にするな。」

景華はしょんぼりと俯いて、一度振り払われた柳鏡の手を再び取った。

「だけど……私が……足手……まといに、ならなければ……龍神の……封印、を……解放する……こともなかった……でしょう?」

柳鏡が、文字が綴られ終わった自分の手のひらをじっと見つめた。どんな言葉を選べば彼女を傷つけないで済むのか、彼は真剣に考えていた。

「そうだな……ここでそれを否定しても、あんたは信じないだろ……。でも、あの瞬間に封印を解いたのは俺の意思だ。あんたのせいじゃない……。あれのおかげで毒矢でついた傷も一度に癒えたしな。」

唇を噛んで俯く様子を見て、彼は密かに後悔した。あの言葉は、彼の精一杯の優しさから出たものだった。あれ以上、彼女にどう言葉をかければ良かったのだろうか。

「それに、考えてもみろよ?永遠の命に巨万の富だぞ?いらないって言う方がおかしいだろ?まあ、試練とかいう余計なおまけ付きだけどな。」

目から溢れそうになっている滴をこぼさないように頷くその姿が、柳鏡の目にはとても愛おしく、そして痛々しく見えた。どうしていいのかわからなくなって、彼はその頭を優しく撫でてやった。ポトリ、と滴がこぼれた。

「泣くなよ。」

俺まで辛くなる……。

「不細工な顔、もっとひどくなるだろ……。見るに堪えねえよ。」

これ以上、あんたの泣き顔見るのが嫌なんだよ……。

「笑えよ。」

どうか、笑ってくれ……。

「その顔よりはマシなんだから。」

俺が一番好きな、あの顔で……。

彼の心の声が彼女に聞こえたはずもない。でも、彼女は次々こぼれ落ちる滴を拭って微笑んだ。ほんの少し目を細めるのが癖の、柳鏡が一番好きな表情……。

「やればできるんだろ?やっぱり不細工だけどな。」

彼はそう言って景華の額をツンと突くと、再び家の外にその姿を消した。先程戻って来たのは、仕事が終わったからではなく、景華の様子が気になって仕方なかったためだった。

「そうだ、一つ言い忘れてた。」

そう言って、柳鏡は戸口に顔を覗かせた。

「姫でなくたって、あんたはあんただろ……。」

「っ……。」

景華は、一瞬息を詰まらせてしまった。まさか、今朝彼女が彼に向って掛けた言葉がそのまま返って来るとは思ってもいなかった。その言葉に大きく彼女が頷くのを見届けてから、彼はまた、屋根の上へと姿を消した。

秋の始まりの、晴れやかな一日だった。


それからしばらく、景華と柳鏡は平和に過ごしていた。明鈴は毎日のように遊びに来ては、景華と一緒に台所に立ち、包丁すら握ったことがなかった彼女に一から料理を教えていた。

「うん、いいんじゃない?景華は筋がいいね。」

形はまだ不揃いだが、とりあえず危なげなく材料を切れるようになったことで、明鈴は景華を褒めた。嬉しそうな笑顔を返されると、思わず彼女まで微笑んでしまう。そこに、柳鏡が戻って来た。

「ちくしょう、あいつら!俺を化け物だとでも思っているのかっ?」

ドゴッ!

どうやら、腹を立てた時に壁に八つ当たりをするのは、彼の癖らしい。

「ちょっと、随分物騒なご帰宅じゃない?景華がびっくりして指でも切っちゃったらどうするのよ!」

そう柳鏡を非難した明鈴を彼はジロリと睨み付けた。

「それは俺のせいじゃなくて、彼女が鈍くさいからでしょう?」

抗議の意を込めて口を尖らせる景華に、柳鏡は冗談だよ、と言って茶卓の前にドカリと座り込んだ。

「指、切ってないのか?」

その問いかけに景華が慌ててうなずくと、明鈴がその陰でニヤニヤしているのが彼の目に入った。

「ところで、あんな物騒な帰宅のしかたをした原因は何?」

明鈴の隣で、景華もコクコクと頷いて、同意の意思表示をした。

「ほら、景華も聞きたいってさ。」

ブチッ!

柳鏡のあまり丈夫でない堪忍袋の緒が不穏な音をたてた。最近の姉さんは、姫のことで俺をからかうことを楽しんでいないか……?それでも彼は努めて冷静に話始めた。

「なんでも、明日の朝のうちに行商人が出発するとかで、今夜中に裏山に最近出没している熊を退治しろと言われましたよ……。全く、俺は昨日虎退治に行ったばかりなんですよ?」

柳鏡はこのところ里の外に出ることが多くなってきていた。景華の様子が落ち着いてきたこともあり、生活のために必要な費用を稼ぐようになってきていたのだ。

「まぁ、あんた以外に一人で虎や熊に向かってくような奴、いないからね。隊を組む暇がないから、仕方ないんじゃない?」

明鈴は弟をそうなだめながら、手早く器を並べた。

「それはそうですけど……。」

柳鏡は、先程明鈴が並べた器に雑炊を取り分けている景華にチラと視線を走らせた。昼間はまだいいが、夜に彼女を一人にするのがとてつもなく不安だった。外敵からは守られているが、この前の仕返しに兄たちがよからぬことを考えないとも限らない。それに、夜中に彼女がうなされていても起こしてやることもできなくなる……。

「一晩位なら、一人でも平気か?」

柳鏡の問いに、景華は驚いて目を丸く見開いた。

「はぁん、そう言うこと。景華が心配でグチグチ言ってたの……。」

「姉さん、怒りますよ?」

明鈴の得意げな顔に、柳鏡は間髪入れずに危険な笑顔でそう返した。

「あんたが無理だって言うなら断るつもりなんだが……。またメソメソされてると思うと、たまったものじゃないからな。」

運んで来た雑炊を三人分茶卓に並べてから、景華は唯一の意思疎通の方法で自分の考えを彼に伝えた。

「多分……大丈夫……。困っている、人が……いるなら……助けて、あげて……。本当に大丈夫なんだろうな?」

気持ちよく笑って頷く景華に、柳鏡はほんの少しだけ笑みを返した。

「まぁ、もし何かあったら家までおいで。場所は知ってるよね?」

景華は今度は明鈴の方を振り向いて、同じように頷き返した。

『一人なら……誰の目も気にしないで考え事もできるし……。』

景華は密かにそんなことも考えていた。彼女は、ゆっくりと物を考える時間が欲しかった。

『二人が、私がまだあの時のことを深く考えなくてもいいようにしてくれているのはわかっているけど……。迷惑ばかりかける訳にもいかないもの。自分のこと位、自分で考えなくちゃ……。』

一瞬景華が曇った表情を見せたのを柳鏡は見逃さなかったが、なるべく早く戻る、とだけ告げて、昼食を掻き込んで仮眠に入った。明鈴も、後片付けを手伝うと洗濯物を取り込むから、と言って帰って行ってしまった。

夕方、景華に起こされた柳鏡は、ブツブツと文句を言いながら仕度をした。靴をきちんと履き直す彼の脇に、小さな包みが差し出された。

「なんだよ、これ?」

景華がその隣に座り込んで彼の手に綺麗な文字を書き込み始めた。

「一人で……作った、から……おいしくない……かもしれない、けど……お弁当……。お腹……空くでしょ……?っ……!」

柳鏡はついと顔を逸らして靴紐を結び終えると、その包みを乱暴にひったくった。

「まずかったら許さないからな!」

夕陽の照り返しが、彼の頬が赤く染まっているのを隠した。

「行ってくる。メソメソするなよ!」

いつも以上に乱暴な言い方をして、彼は外へと出て行ってしまった。

戸締りをきちんとしてから、景華は寝台に座りこんで膝をギュッと抱え込んだ。

『私、嫌われてたんだ……。趙雨にも、春蘭にも……。』

彼女の頭に真っ先に浮かび上がったのはそのことだった。もしや。彼女の心に、暗い考えが浮かんだ。

『柳鏡は?柳鏡も私のことなんか嫌いなの……?……そんなことないよね。怪我までして、こんな遠くまで連れてきてくれたんだから……。』

彼女は、彼に全幅の信頼を寄せていた。それも、この前彼に言われたあんたはあんただろ、という言葉のおかげだった。彼は、姫としての自分ではなく景華としての自分の存在を認めてくれたのだ。ほんの少し心が軽くなるのを感じた彼女だったが、次にまた別の疑問が浮かんだ。

『お父様は、殺されなければならないほどひどい政治を行っていたのかしら……。だとしたら、一体どんな王が皆に望まれるのかしら……。』

ふと、あの場で投げつけられた趙雨の言葉が蘇ってきた。誰か、民の暮らしをよく知る者が王になれば……。その言葉が、ぐるぐると頭の中を廻る……。抱えた膝に、ギュッと顔を埋めた。

どれくらいそうしていたことだろう。気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。柳鏡の家からは、里の家々を見ることができた。あちこちの家から、明かりが漏れている……。

『明かり、つけなきゃ……。』

そう思って油を探しに立ち上がった時、何か、おそらくは茶卓の脚だと思われるが、彼女は躓いて転んでしまった。暗いということは、なんと不便なことなのだろう。

『お城にいた時は、こんな思いしたこともなかったわ……。いつも暗くなる前に篝火が焚かれていたもの……。』

そうか。その時景華の頭に、明白な考えが浮かんだ。

『お城での暮らしと民の暮らしは全く違う……。だから、民の暮らしをよく知って、どんな政策をとればその生活が改善されるか民の立場で考える必要があるのね……。』

自分が今しなければならないことが、景華にもわかった気がした。まずは、民の暮らしというものをよく理解すること。そして、父親の汚名をそそぐこと……。父がどのような政治を行ってきたのか、景華は全く知らない。ただ、自分には優しく、誰よりもかわいがってくれた大切な父だった。その父が、もしも民に恨まれたまま死んでしまったのなら、自分は父の名誉を挽回するために生きるべきだ。

『お父様……。』

たとえそう決意したとしても、やはりその死は彼女の心に重い。まして、父を手に掛けたのはあの趙雨なのだ。

『ごめんなさい、柳鏡……。約束、守れそうにもない……。』

柳鏡の不安は的中して、やはり彼女の目からは滴が溢れた。現実は、彼女にはあまりにも残酷だ。認めなければならないのに、心のどこかでそれを拒否している自分がいる……。

ガタンッ!

戸口の外で物音がして、景華は慌てた。とりあえず涙を拭くと、立ち上がってそちらに向かい、戸を開ける……。

「おいおい、誰なのか確認もしないで開けるなよ……。」

そう言った長身の陰に、景華はしゅんとして頷いた。その手に、夕方より軽くなった包みが乗せられた。どうだった、と彼女は彼を見上げた。

「あぁ、まあまあ、かな?」

珍しく褒められたことに驚きを隠せないでいたが、その少し照れたような物言いに、驚きよりも嬉しさが勝った。疲れて帰ってきているのに申し訳ないかな、と思いながら、中央に座りこんだ彼の横にちょこんと座って、その右手を取った。

「……!」

景華は、思わず目を見開いた。柳鏡の右手に、無数の引っ掻き傷のような物が増えていた。月の青白い光の中で、その傷はよりなまなましく景華の目に映った。

「あぁ、熊とやり合った時に茂みに引っ掛けたんだ。熊にやられたらこれじゃあ済まねえよ。」

その説明を聞き終わるや否や、景華は立ち上がって明鈴が洗濯を済ませてくれたばかりの布を水瓶の水で濡らし、傷に染みないように気をつけながら血を拭き取ってやった。それでも、あちこちにできた傷は痛々しい。

「別にそこまで痛くはねえよ。」

景華がそんな顔をして彼の傷を拭いていたのか、彼はそのことを強調した。

「それで?あんたは一体何を言おうとしてたんだ?」

柳鏡の言葉にはっとしたが、彼の手は文字を書き込めるような状態ではない。

「ほら、こっちはなんともねえよ。」

その言葉と共に、彼の利き手が差し出された。そしてこちらは、あの紋章がある方の手だ。

「色々、と……教えて……欲しい……。具体的に、何を?」

彼の問いかけに答えるために、再びさらさらと文字が書かれた。

「なん……でも……普通……はど、んな暮らしを……している、のか?それを知ってどうする?それに、ここにいれば嫌でも覚えてもらうことになるぞ?」

だんだんと、文字を綴る手に力が込められて来た。

「おと、うさまの……汚名を……そそ、ぐため……娘の、私が……良い王、として……国を……治め、たい……。そのため……に民の……暮らし、を知る……必要、がある……。なるほどな……。」

柳鏡が、ホウ、と長く息を吐いた。

「あんた、自分の言ったことの重大性がわかってるか?王になるには今の趙雨の政権を倒さなければならないんだぞ?」

強く頷く様子から、そのことは承知だったようだ。

「それに、反乱を起こすとなればあんただって武器を扱わなければならないし、民の暮らし以外にも、兵法やこれまでの政策、制度までありとあらゆる物を学ばなければならないんだぞ?それでも、王になりたいか?」

さらにもう一度強く頷く様からは、迷いなどは一切感じられない。

「……わかった。あんたがそのつもりなら、俺はそれに協力するし、最後まであんたにつき従う。兵法と武器の扱いなら俺が教える。政策や制度は本を読んで学ぶしかないな……。それは姉さんと一緒にするといい。ああ見えて、かなり頭の切れる方だからな、あの人……。」

もう一度強く頷く様子を見て、柳鏡は密かに誓った。この先どんな障害があっても、必ず彼女を守り抜いて、玉座に腰掛けるその姿を見届けると……。そのためには、いつやってくるかわからない龍神の試練も必ず乗り越えると……。

『あの姫が、泣きながらでも考えて、出した結論なんだから……。』

彼女が自分が戻る前まで泣いていたことを、彼はなんとなく感じ取っていた。それがわかっていたからこそ、彼は熊ごとき・・・を相手に本気を出し、さっさと片付けて戻って来たのだ。

「どうやら、俺が思ってたよりも遥かに強いみたいだな、あんたは……。」

その意味は景華にはよくわからなかったが、その様子が怒っているようでもなく、むしろ彼女を見つめるその瞳は本当に愛おしげで、その視線のあまりの心地よさに深く追求はできなかった。

秋も深まり、木々はその色を染め変えていた。その黄金色は、いつか彼女が抱くことになる宝冠の色にも似ていた。

はじめまして、霜月璃音と申します。

今回、初めて小説を投稿させていただきました。ここまで読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。続きはもうしばらくお待ち下さい。もしよろしければ、ご意見、ご感想をお聞かせ下さい。今後の執筆活動の参考や励みにさせていただければと思います。

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