第一話 始道
2022年、秋。
秋を告げる虫の音も、晴々とした秋晴れも、少年、泉水 蓮には煩わしくて仕方がない。
受験が刻一刻と迫る受験生にとっては秋の風情感じさせるそれらも何もかもが騒音でしかなかった。秋は夕暮れなんてほざいた奴はどこのどいつだ答えなさい、はい先生清少納言です、———なんて、皆が確実に点をとってくる易問を頭に浮かべたところできっと模試の判定は変わらない。
自転車で片道一時間かかる帰り道、何もしないのは勿体無いと焦りを感じ始めた少年はぶつぶつ化学反応式をつぶやいてみたり、人なんてほとんど通らない田舎道なので爆音で英語のリスニングを流してみたりと気の狂ったことをしているがやっぱり机に向かっている方が集中できるし頭に入ってくるものだ。自転車に乗り風を切りながら、銅精製の流れやらヘンテコな立体の体積なんて分かりようもない。
「リアカーなきK村……ってかいっそリアカーで帰りてー」
語呂合わせを唱えてみても、顔にビシバシ当たる虫のせいで気が逸れる。そもそも片道一時間の自転車通学を強いられている自分は受験生の中でかなり不利ではないか。なんなら入学当初は二時間かかっていたのを成長期の脚力と根性で全力で縮めてこれである。
バス通学はそもそもバスがなかなか来ないし家からバス停まで自転車を使いたいくらいの距離があるので除外。
なら電車?走ってない。
原付は?昔轢き逃げをしたバカがいたらしく校則で禁止。
都会の高校生は電車やらバスやらで単語帳を読み、せっせと勉強しているだろうに———実際は都会のガチの通勤・通学ラッシュの車内で単語帳を開くスペースなどないことを泉水は知らないのだ———自分は何て可哀想な受験生なのだと、泉水は自分を哀れに思ったのだ。
そしてそれを泉水は兄に話し、兄はこう返答した。
「だったら竹林の方通ってきゃあ良いだろ。あっちなら20分はまける」
兄は新聞に目を向けており、泉水の不満たらたらの顔を見ることもせずにそう言った。
そうじゃない、その返答を待っていたわけじゃないともどかしさで泉水は拳を握る。
兄の言う通り近所の竹林を通れば確かに近道だ。時間のない朝はあの道を使っている。だが問題は帰り、夕暮れ時になってからあの道は通りたくない。
「嫌いなんだよあの道」
「なんで」
「幽霊出る」
「出ねえよ」
「妖怪いる」
「いねえよ」
兄はつまらなそうに煎餅を齧って新聞をめくり、テンポよく泉水の叫びを蹴っ飛ばした。ニュースなんて興味ないくせに———泉水は口唇を尖らせて兄を睨む。兄はただ四コマとクロスワードが好きなだけだ。加えて新聞の営業に来たお姉さんが可愛かっただけである。
「じゃあ何だよ……電動アシスト自転車買ってやったろ。俺の時代には誰もそんなもん乗ってなかったんだぞ、坂道スイスイ行けるだけ喜べ」
「出た”俺の時代”。それおっさん臭えからやめた方がいいよ」
「お前明日の昼飯ごま一粒な」
「セサミ!?」
アラサーのくせにおっさん扱いされるとキレる兄の扱いは難しい。13歳も離れてると兄弟でも考え方やら何やら違う。泉水はアラサーおじさん、もとい優しい兄になんとか許しを請い、話を本題に戻した。
「つ、ま、り、俺が言いたいのは、帰りだけでも車で迎えに来てほしいです」
「え〜……まあ、良いけど」
「え、良いの?」
意外とあっさり。これなら一年生の時から頼めば良かったと今更ながら後悔する。
「受験生だから、まあ……勉強ちゃんとするならな」
「するする!」
いや、バリバリ部活やってた頃は勉強なんてろくにしなかったのでOKはもらえなかったか。泉水はそう冷静に結論付けて、兄の気が変わらない内に部屋に戻って勉強しようと立ち上がった。そんな泉水に、兄はふと思い出して言う。
「つかその場合チャリどうすんの」
「あ」
話し合いの末、週3で送り迎えしてもらうことになった。
そんな送り迎え初日ことだ。今日は快晴かつ快適な登校だった。その上帰りも楽できるときた。雨にも負けず、風にも負けず、夏の暑さにも負けず、冬場の極寒にも耐え、三年間の過酷な通学により鍛え上げられた泉水の足は本日休業。いや、今日で閉店だ。
そう朝、泉水が車中で兄に言ったら「雨と雪の日には送ってやったろ」と呆れたように言われたが正確には「傘もさせぬ豪雨と足が沈む雪の日」の間違いである。そもそも休校になれ。
「あれ、泉水まだ帰ってなかったの?」
教室で泉水が単語帳を読みながら兄を待っていると、ふと声をかけられた。廊下から顔を覗かせているのは学校イチの甘いマスクと謳われるモテ男こと外道院 蒼である。泉水と外道院は三年間クラスはかぶらなかったが、委員会が同じだったので挨拶程度はする程度の仲だ。いわゆるよっ友。
「迎え待ち。外道院は?」
「面談終わって今から帰るとこ。いいなぁ迎えくんの」
バス停も駅も遠いこの高校は皆通学に苦労している。外道院はバス通学なので、バス停までまあまあな距離を歩くことになる。平坦な道でそう苦痛ではないが、バスの本数が少なく、時間を気にしないといけないのが面倒だ。
「つってももうだいぶ待たされてっけどね。多分アイツ昼寝しててスマホ見てねえわこれ」
電話したが常時マナーモード男には意味がない。通知がうるさいからと言っていたがメルマガくらいしか連絡なんてこないくせに、と泉水は思ってしまう。
「あはは。いつもチャリ通だよな?今日、親仕事休みなんだ?」
「いや、兄貴」
「あぁ、大学生?」
「ううん、もうアラサーのおっさんだよ。兄貴神主やっててさ、うち神社だから」
仕事は、と問われる前に泉水はそう答える。これを話すと大体の人間が「え、すごーい!」とか「マジ!?」とかかなり驚いてくれるが泉水としてはたまたまそういう家に生まれただけなので特に何も凄くないと思う。
兄だって特別に信心深いわけでもなく、家がそうだから継いだだけだ。むしろお化けだ霊だなんだと、オカルト的存在には泉水より兄の方が否定的である。
夏のテレビで『心霊現象特集』を見て「はいはい偽物偽物、よくできてる映像だな」と、震える泉水の悲鳴をバッサリ切り捨てるのが兄だ。あそこまで現実的だと、神を信じているかも怪しい。
泉水と中学が同じ人は泉水の家が神社であることは皆知っているが、外道院は泉水と中学が違う。共通の友人もあまりいないので知らないのは自然だった。どうせ外道院もオーバーリアクションしてくるのだろうなと泉水が思っていると、予想外の反応が返ってきた。
「……あ、そう」
ぽかんと呆けた顔に、取り敢えず返しましたというテンションの低い声。逆に泉水が驚いた顔をしてしまう。この顔は驚いているのか、それともまさか信じていないのか。いやいやこんなしょうもない嘘をつく人間なんていまい、信じてくれないなんてそんなことない、はず。
「神社、か……あーマジか。いや、うん、すごいな。なんか御利益ありそう」
「よく言われるけど特に運がいいとかはないな」
「ふうん。……あ、俺バスの時間やばいから行くね。じゃ、バイバーイ」
外道院はそう言ってそそくさと去っていった。何だったんだろうかあの反応は、泉水は気になったが呼び止めるほどでもない。遠ざかって行く外道院の後ろ姿は、顔が見えずともイケメンだ。顔が小さいのか足が長いのか、何だかよくわからないが他の歩く生徒と違って見える。外道院が東京の大学に行ったら今以上にモテるんだろうな———と泉水はぼんやり思った。志望校知らんけど。
「返信こねえ……」
しばらく勉強して兄からの返信を待っていたが、あっという間に部活の掛け声は聞こえなくなり、閉門時間になってしまった。泉水は溜息を吐いてスマホを取り出した。兄の既読はついておらず、バスで帰ることが確定する。バス停から家まで距離があるのでかなりがっくり来た。バス代もかかるし、大人しく自転車こいでいたほうがマシだった。
大きく溜息を吐きつつ、泉水はふらふらと学校を出た。
暇つぶしにSNSを開けば、先ほど会った外道院が数十分前に靴だけ写っている写真をあげていた。曰く、『定期忘れて逆走中』とのこと。お気の毒に、泉水は泣いてる顔のスタンプを送っておいた。投稿の時間からして、ちょうど外道院もバス停に向かって再度歩いている頃だ。
案の定、バス停が見えてくると外道院がバスを待っているのが見えた。
「お、外どーー……」
そう泉水が片手を上げて声をかけようとした時だ。
「い」
泉水の声は爆風にかき消された。
何が起きたか全く分からなかった。砂煙が泉水の視界を覆う。爆発音のせいで、耳の奥にキーンと嫌な音が響いている。今顔の真横を飛んでいったのはバス停の標識の破片だろうか。
車が突っ込んできたのか?いや、車なんて一台も通っていなかった。動物でもいたか?いや外道院しかいなかった。ガス爆発、テロ、こんな田舎に見合わない物騒な言葉が頭に浮かぶが、とにかく今心配すべきなのは———。
「外道院!!」
「へえ、……外道院もいたの?あらら、巻き込んじゃった」
泉水は外道院に駆け寄ろうとしたが足を止めた。こんな爆発の後とは思えぬほど呑気な声に、今まで経験したことのない恐怖が泉水を襲った。
ゾッとするような見知らぬ男の声は、上から聞こえてきた。
「同胞殺しは主義に合わないんだけどなぁ」
「お前の主義なんて知るか。……っち、何はずしてんだ馬鹿野郎」
泉水は空を見上げて目を大きく見開いた。短髪の男と、長髪の男。泉水は混乱する頭でそれを何とか認識した。空に生身の人間がいる、CG合成のようだがそれは紛れもない事実だった。
「ごめんごめん、当てたはずなんだけどおっかしいなあ……ま、いいや、さっさとボーナスポイント取って俺らも本命の方行こう」
「弟の方は何も知らねえって話だよな。”正道狩り”って本当にうまい仕事だよな」
「見つけてきた俺に感謝しろよ」
短髪の男は得意げに笑う。ボーナスポイント、本命、とは。泉水は何も分からず口も挟めず動けないでいた。
「……おい、そこの」
バス停、のあった場所から少しずれた場所、何もない空間を長髪の男が睨みつけた。バス停のあった場所は酷い様子で、外道院はいない。長髪の男は銃口をその何もない空間に向けた。
「ぐぁっ!!」
二発の発砲、後に呻き声。蓮は目を瞬かせる。確かに何もなかったはずの場所に、外道院がいた。銃弾は肩に当たったのか、学ランに赤黒いシミが広がっている。
「目眩しか幻術の類か?……運が悪いねえ、こいつと相性最悪だ」
「〜〜っ、俺は”正道狩り”なんざ関わる気ねえよ!」
余裕そうに笑う短髪の男と対照に、外道院は肩を押さえて苦しそうにそう叫ぶ。いつもの甘いマスクはどこへやら、命の危機を前にした外道院は顔を歪めて怒っているようだった。長髪の男はそんな外道院にまた銃口を向けた。
「何であろうとお前にも死んでもらう」
「面が割れると俺たちの商売は面倒だからねえ……来世はマシな苗字に生まれるといいね、お互いに」
そして短髪の方は泉水に銃口を向けた。
「もちろん君も忘れてないよ、”正道”くん」
泉水はびくっと飛び上がる。スマホに手を伸ばして助けを呼ぼうとしていたがこれではもう無理だ。銃が本物であるのは外道院の怪我から明らか。どうやったか知らないがバス停が吹っ飛んだのもこの二人のせいだろう。
「せ、正道?ってのが誰か知らねえけど人違いだ!俺も外道院もそんな奴知らない!!」
「あれま、本当に何も知らないんだ。お兄ちゃんは何にも教えなかったのかな」
「は?何の話———」
「泉水」
外道院は低い声でそう言うと、顔を伏せた。そして歯を食いしばる。
「頼むから、黙ってろ」
瞬間、辺りが真っ黒になった。
「———は」
黒だ。
ただただ真っ黒な闇、上も下もそこにはない。
平衡感覚がなくなって、泉水はぐらりと体を傾けた。すると脇腹に誰かの手が差し込まれて持ち上げられる。泉水は思わず「ぐえっ」とうめき声をあげた。
「声出すな」
そう耳元で言われて、泉水は慌てて口を塞ぐ。真っ黒で何も見えないが、声は外道院だ。嫌な鉄の臭いも、先ほどの肩の怪我だろう。外道院が泉水を背中に背負って数歩走ったところで、また突然あたりが元の風景に戻った。
「な、なんで」
「うるせえ静かにしてろバカ。声で気づかれんだろ」
外道院の強い口調に押されて、困惑しながらも泉水は口を閉じた。
「ロン毛の方は耳がいいのか鼻がいいのか何の術か知らねえが幻術が効かない。短髪の方が混乱してるうちに逃げるぞ」
さっきのは何だとか空を飛んでいたのは何だとか色々と聞きたいことはあれど、有無を言わさぬ外道院の迫力に泉水は頷く。カバン落としてきたな、と思ったが拾う余裕なんて当然ない。ふと、そこで泉水はべったりと手に何かついたのに気づいた。
「……?」
見やれば手は真っ赤になっていた。外道院の肩の血だ。泉水は声にならない悲鳴をあげた。
「盾は黙って背負われてろ!」
「盾?!盾って何!?」
そう叫んだ時、またも銃声がした。ひいっと泉水は悲鳴をあげたが、銃弾は泉水達から数メートル離れた木に直撃した。
「な、何で……」
「っち、お前がその”結界”かけたんじゃねーのか……」
「結界?」
外道院は舌打ちすると、顔を顰めた。がっかりしたような様子に泉水はやはり訳がわからない。
泉水の知っている外道院はもう少し気の良い奴のはずだが、今の外道院は違って見える。口調も普段はもっと柔らかく、甘い顔に見合った優しい物言いだ。それが今はガラが悪いと言うか、先ほどの男たちと雰囲気が近いように思えた。
外道院は泉水を背負って学校まで走った。
閉門時間になり、閉められた門の前で泉水を降ろして「ついて来い」と門を飛び越えた。外道院はこんなにアスリート並みの運動神経だったろうかと驚く暇もなく、急かされて泉水もなんとか門をよじ登った。泉水が門を越えると、外道院はさっさと校舎内へと走って行く。泉水は慌てて後を追いかけた。
「な、なあ!何でアイツら俺達殺そうとしてんの?つか正道って?さっきの何!?結界って!?」
泉水は外道院の後ろについて行き、そう尋ねる。外道院は早足で中に入るとまず保健室に向かった。
「殺そうとしてんのはお前であって俺はたまたま居合わせただけ!巻き込まれて最ッッ悪だ!」
外道院は棚を物色しながら心底苛立ったようにそう叫んだ。包帯を見つけると、もう用はないとさっさと保健室を出て階段の方へ向かう。歩きながら器用に包帯を巻く外道院に、泉水はついて行くしかない。
「あーくっそ、神職は”正道”が多いって聞いてたけどやっぱりかよ……もっと早く知ってたら……」
外道院のぶつぶつ呟く悪態は間違いなく泉水に向けてのもの。だがだんだんと泉水も、恐怖と困惑で隠れていた苛立ちがわいてきた。訳もわからないままお荷物扱いされて、その上ずっと理不尽にキレられているのだ。怒りの滲んだ声色で言う。
「なあ何で俺を殺そうとするんだよ!つか正道って何!」
「殺そうとするのはお前が”正道”だからだ。本っ当に何も知らねえの?」
「知るって何を……」
キョトンとした顔の泉水に、外道院は心底嫌そうな顔をしてまた舌打ちした。泉水の問いには答えず、外道院は資料室に入った。
ほとんど使われておらず、物置扱いの部屋だ。火事になったらここが1番に燃え落ちる、そう言われているくらいに色んな書類が積み重なっている教室だった。一応掃除当番は割り振られているが、皆面倒くさがって軽く床を履くだけなので埃臭い。
「な、なにしてんの?ってかそうだ!警察!警察とか呼ば……」
「っち!」
もはや舌打ちしか返してくれなくなった外道院は、部屋の奥にあった腰くらいの高さの棚をどかした。そしてその棚があった場所の床板を撫でた。よく見ると切れ込みが入れられており、指を差し込めばすんなり持ち上がる。四角形の穴だ。
外道院は棚の裏に貼ってあった札を取った。読めない字と怪しげな紋様が描かれたそれを穴の周りに貼り付ける。見るからに怪しげな行動に泉水が不思議そうに覗き込むと、作業が終わったらしい外道院が言った。
「泉水、お前家が神社っつったよな?」
「言ったけど……」
「正道、外道院、結界、術、どれか聞き覚えは?」
「ええ?外道院はお前だろ?」
そう返すと、外道院は心底鬱陶しそうに溜息を吐いた。外道院はぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜると、四角形の穴を指した。
「一か八かだ、どうせこのまま死ぬくらいならバラバラになってでも生き延びた方がマシ……いいか、今からここに飛び込む。一緒にだ、一人で飛び込むな」
「え、いやこれ何、いい加減ちょっとくらい説明を———」
銃声、そして廊下の窓が割れる音が聞こえた。さっきの二人組が近づいてきている。姿は見えずともすぐにわかった。
「時間がねえ!行くぞ!」
外道院に襟首を掴まれて半ば引き摺り込まれるように穴に落ちる。ぐるんぐるんと頭や体をミキサーでかき混ぜられたような気分だった。夕飯を食べていたら確実に吐いていた。
放課後の空腹時で良かったと、ぐるぐると回りながら、泉水は呑気なことを考えた。
♦︎
「うぁっ」
「ぐっ」
ぐるぐる混ぜられた泉水と外道院は畳に放り出された。二人とも三半規管がやられて顔が青白い。
泉水は喉までせり上がってきたものを何とか飲み込んだ。そして部屋を見渡す。8畳ほどの部屋だった。隅には二口コンロ付きの調理台があり、水道には皿やコップといった使用済みらしき洗い物が置かれていて、妙に生活感があった。
「生きてる……」
外道院も吐きそうなのを堪えながら立ち上がると、手をグーパーと開いて確認した。足や体をサッと確認すると、すぐさま穴の周りの札を剥がした。二人の通ってきた穴は壁にあった。隣にあるもうひと部屋と繋がっているようだった。
「あぁくっそ!何でこんなことに!」
外道院はそう悪態を吐きながら勢いよく蹴って穴の周りを破壊し始めた。穴の原型がなくなるくらいに破壊すると、穴が大きくなったせいで隣室の、寝室として使っているらしい部屋がよく見えた。三つ折りに畳まれた布団は一つだけ。一人暮らしのようだった。
「何して……」
「出口壊せばこっちには来れねえ、時間稼ぎにはなるだろ。……はぁぁ〜〜うまくいった。抜け穴通るなんて自殺行為、二度としたくねえけど!」
外道院は肩の力を抜いて、大きく息を吐いた。肩を落とした時に傷が痛かったのか、血の滲む包帯を押さえて顔を顰める。外から救急車の音がした。泉水はそこで窓に気づいた。窓の外を見て目を大きく見開く。
「こ、ここは!?さっきまで俺ら学校に———」
「来斗駅から徒歩20分築35年2Kのボロアパート、風呂とトイレあるし最低限暮らせる部屋……つってももう引き払うけど」
家賃安かったのに、そうぼやいて外道院は押入れから取り出したボストンバッグに箪笥や棚の荷物を片っ端から詰め込む。泉水はぽかんとした顔で窓の外と外道院の破壊した穴を見比べた。
「来斗駅って、三駅隣じゃ……」
学校最寄り駅は学校から徒歩30分のところにあり、そこからさらに電車に20分は乗ったところが来斗駅だ。先程まで蓮たちは確かに学校にいたはず。埃くさい資料室にあった穴に飛び込んで、一体どうしてこんなところまで。
「お前もう出てけ、邪魔」
「え!い、いやいや俺まだ何も分かってねえんだけど!あ、ってか鞄!財布も携帯も落としてきたし!」
「バカか、帰ったら殺されるだけだろ」
「じゃあどうしろと!?」
カバンは先ほどバス停付近で落としてきた。携帯も財布もカバンの中だ。思わずそう詰め寄った蓮に、外道院はハサミを突きつけた。そして息つく間もなくそれを投げる。
「うわっ!」
泉水は慌てて顔を腕で守った。けれど恐れていた衝撃は来ず、泉水の前で何かに弾かれたようにしてハサミは壁に突き刺さった。
「な……」
「俺がお前を連れてきたのはその”結界”が役に立つと思ったからだ。一発目の爆発、間違いなくお前を狙っていたのにお前は無傷!結界が弾いてバス停に立ってた、俺の方に飛んできた」
危うく死ぬところだった、と外道院はひくりと引き攣った笑みを浮かべた。怒っているようだったが、泉水はポカンとするしかない。外道院の言う一発目とやらは、泉水は気づいたら砂煙に巻かれていた。二発目に関しては泉水も見た、背中から撃たれたはずなのに横に逸れて木に当たっていた。
「お陰で死にかけたけど、結果としては助かったよ」
そして今のハサミ、何かが泉水の周りにある。外道院はそれを結界と呼んだ。当然泉水には身に覚えのないものだ。外道院は壁に飛んでいったハサミを引き抜いてカバンにしまった。
「っし、じゃあ俺もう行くからお前も出てけ」
気づけば外道院は荷造りをあらかた終えたらしく、外道院はボストンバッグの口を閉めた。もともと荷物の少なかった部屋、ぱんぱんに膨れているといえどカバン一つに収まってしまった。
「行くってどこに……」
「あの手の奴らはしつこいからな。なるべく遠く、殺されるのはごめんだ」
外道院はまだ混乱している泉水の首根っこを掴んで雑に外に放り出す。自分も部屋を出るとさっさと鍵を閉めてしまった。
「じゃ、バイバーイ」
何事もなかったかのように手を振る外道院は学校の帰りと同じ様子で泉水はますます混乱する。ただこのままここに置いていかれたらまずいことだけは分かった。
「俺まだ何も分かってねえんだけど!つーか財布ないしどこにも行けねえ!!」
泉水はすぐさまその足に飛びついた。人通りはほとんどないし羞恥心より今は身の安全である。外道院はゴミでも見るかのような目で泉水を見下ろしてまたもや舌打ちした。1日にこんなに人に舌打ちされることってあるんだなと泉水は思った。
「何で俺たちが襲われたんだ!あいつらの狙いは!?つーかお前何者!?」
「だーかーら!何回も言わせんな!狙われてんのはお前であって俺は巻き込まれたんだよ!」
外道院は鬱陶しそうにそう言うと、ふと何かに気づいたかのような顔をした。
「……そういやお前、”弟の方”って呼ばれてたよな」
「え?」
そんなの言ってたっけ、と泉水は記憶を探るが混乱していて記憶が曖昧だ。きょとんとした顔をする泉水に外道院は続けた。
「お前親は?神主は兄貴って言ったよな、神職ついてるのは兄貴だけ?」
「え、両親は……違うけど、先代が爺ちゃんで……病気で、5年前に。だから兄ちゃんが、神社継いだ、んだけど」
泉水の言葉はしぼんでいく。何の意図があって問われているかさっぱりだからだ。家庭環境なんて関係あるのか。だが外道院は何かわかったらしく、「あぁ」と頷いた。
「じゃあ狙いは兄貴の方だな、お前はボーナスポイント。その結界も兄貴の張ったやつか。良い兄貴で良かったなー」
勝手に一人で納得して、じゃあなーと言ってそそくさと去ろうとする外道院に泉水はいやいやいやとしがみつく。
「え、ちょ、待っ、ボーナスって!?てか、じゃ、じゃあ兄ちゃんは!?」
「もう死んでるか、ワンチャン返り討ちにしてお前探してるかのどっちかだろ」
「死!?」
聞き捨てならないワードに泉水の顔は青くなる。ずっと兄と連絡がつかなかった事実が泉水の不安を煽る。外道院は力の緩んだ隙をついて泉水を振り払った。泉水は勢いで尻餅をつく。
「結界が残ってるうちは息があるんじゃねえの。まあ術によるし知らんけど……」
知らんけど、責任逃れのために使われる楽なワードである。普段だったらそんな言葉にいちいち苛立つことのない泉水だが、この状況では憎らしくて仕方ない言葉だ。
「気の毒だと思う、でも運が悪かったとしか言いようがねえよ。恨むなら”正道”に生まれた自分を恨め」
そう言い捨てて外道院は消えた。先ほどの目眩しのおかしな術だろう。まるでそこに最初から何もいなかったかのように姿を消した。
「だから”正道”って何なんだよ!!」
そう叫んだとて外道院は戻ってこない。泉水はぐしゃりと制服の裾を握る。制服は土や埃で汚れている。吐き気もおさまらないし、頭は疑問符ばかりだった。
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———2年後。2024年、春。
深夜の人気ひとけのない街で、片足を怪我した男が必死に何かから逃げていた。辺りはシャッターの閉まった店や工場ばかりで、灯も薄ぼんやりとしかない。壁に手を置いて、片足を引き摺りながら、男は荒い息で肩を揺らす。
「一番、標的は北に逃げたよ」
そんな男を、冷静に見下ろす青年がいた。青年の声は通信を通して仲間に伝わる。
「二番了解、目視で確認できた」
それを受けて、もう一人の青年が返事をした。二番、と答えたこの青年は目の前を駆けて行った標的の後を追いかける。
「三番、ぼちぼち二番と合流するからそれまでに捕獲よろしくねー」
今度は三番、可愛らしい声と反対になかなか厳しい言葉がかけられた。二番の青年は自信なさげに眉を下げたが「二番、頑張ります」と弱々しく答えた。
二番の青年は標的の後を追い曲がり角を曲がった。よし行き止まり、作戦通り追い込めたことに青年が心の中でガッツポーズしたのも束の間、曲がるとそこには誰もいない。
標的が姿を消したのだ。けれど青年は焦らなかった。
「目眩しか?———意味ねぇ、よっ!!」
青年は腰に刺していた剣を横に一文字に切るように振り抜いた。行き止まりを抜けるには青年の隣を抜けるか、壁をよじ登るしかない。残念ながら標的のかけた目眩しは、青年———もとい、泉水には効かなかった。
「見えなくても、足の怪我した奴の退路は一個しかないんだからなんとなく場所くらいわかるって」
泉水の振った剣に腹を打たれて、標的はうめき声をあげて倒れる。標的は足を怪我していた。壁をよじ登るなんて選択肢、取らないだろう。泉水は逃さぬよう、地面に倒れた標的の足を踏みつけて、腕を背中に回し、拘束した。
「三番、二番と合流……おおー、捕まえたの?やるじゃーん」
泉水の後からやってきたのは大学生くらいの女性だった。ピンクのリップを塗った唇をにんまりさせて、楽しそうな顔で泉水の方へと寄る。
「はは……まあ手負いだったし、なんとか」
泉水はそんな彼女に褒められて少し照れ臭そうにした。このこのー照れちゃってー、なんて茶番をやりつつも、二人とも任務を忘れてはいない。
「じゃ、さっさと殺って帰りますか」
女はにっこりと可愛らしい笑みを浮かべて、そう物騒なことを言った。懐から取り出したピックのような刃物は、月明かりに照らされて刺々しく光る。それを持つ手は春らしい桜色のジェルネイルが施されており、殺傷能力の高い武器には似合わなかった。
「な、なんなんだよ、お前ら!!」
首を捻って刃物を視界に入れた標的は、悲鳴に近い声をあげる。月明かりに照らされて、泉水はそこで初めて標的の顔を見た。
「あれ、……外道院?」
そして標的、もとい外道院もそこでようやく追跡者の顔を見たのだった。
「……泉水?」
顔を合わせるのは2年ぶりだった。高校三年生の秋、正道狩りにあい、二人は命からがら逃げ出したのだ。外道院はその後姿を消してそのまま高校も中退してしまったため、会うのは本当にあの日以来。
二人にとも、あの日のことは忘れたくとも忘れられない。外道院にとっては正道狩りに巻き込まれるなんて誤算だったし、泉水にとっても人生が大きく狂った日である。
「どうしたの?知り合い?」
「え、あの、ほら、俺が正道狩りにあったとき一緒に逃げた……」
「あぁ、あの巻き込まれた気の毒な”外道院”!」
手を打って、女は言う。巻き込まれた、気の毒な、外道院はこの状況がまだ掴めていないが、蓮の知り合いにどうやら自分のことが知られているらしいということだけは察した。
「同じ”外道院”として同情するよ、災難だったねー」
人の良さそうな笑みを浮かべて女は外道院の肩をポンと叩いた。けれど外道院はその反対の手に握られた鋭い刃物に目がいってしまい、返事も返せず顔を一層引き攣らせる。
「何やってんの?」
そうこうしているうちに一番と名乗っていたもう一人の青年が合流した。長身の青年は驚くことに、空から風を纏って降りてきた。足音もせず着地すると、不思議そうな顔で3人を見やる。
「早く処分して帰ろうよ」
「そだね、お腹空いたし」
長身の青年にそう言われると、女は頷いて刃物を振りかぶった。殺される、そう思い暴れる外道院。けれどそんな刃物と外道院の間に、泉水が割って入った。
「ちょちょちょ、待って待って!」
「「え?」」
変なところで声がハモる。長身の青年と女は揃って首を傾げた。
「俺にとっては、一応、ほら、恩人なわけだし……このまま殺すのは忍びないって言うか、その、ね?」
「え、じゃあどうするの」
「逃したら金剛さんにジャーマンスープレックスかけられるよ。経験あるでしょ?」
「いや、いやそうなんだけど!」
トラウマをほじくられて泉水は顔を青くする。痛かった。高校生がふざけてやるプロレス技とは違った。あれはガチ。できれば二度と受けたくない。うーん、や、いやーと言葉に迷う泉水を見て、女は察したようだった。仕方ないなあと呆れた顔をして、こう提案する。
「じゃあスカウトする?」
女がそう言った。泉水はおそるおそる頷く。スカウト、とは。外道院は何も分からなかったが、何やら話が進み出していた。
「はぁ……木槿、金剛さんに」
「分かった」
青年、もとい木槿はスマホを取り出して、誰かに電話をかけた。お疲れ様です、なんてバイト先にかける電話のように話し始めて、途中で泉水に電話を代わった。
泉水は外道院を拘束するのを木槿に代わると、そのまま電話の相手と話し始める。外道院は何が起きているのか分からなかったが、泉水がその電話の相手に何かを頼み込んでいることだけ分かった。
「あー、あのさ、外道院、急で悪いんだけどよく聞いて」
話がついたらしく、泉水は気まずそうな顔をして、外道院の前にしゃがんだ。二年経ったところでそう顔なんて変わらないが、高校生の頃よりかは少し大人びたように思える顔で、泉水は言う。
「このままだと、お前は死んでもらうしかないんだ。けど、助かる方法も、なくはないっていうか……」
「は?」
困惑と苛立ちの混じった声でそう外道院が返す。訳がわからなかった。二年前は泉水の方が訳がわからずずっと困惑していたのに,今度は逆だ。
『おい!ぐずぐずやってんじゃねえ!スピーカーにしろ!』
すると泉水の持ってるスマホから、ヤクザのような怒鳴り声がした。初老の男の声だった。泉水が顔を引き攣らせて、「本当ごめん」と外道院に謝りつつ画面をタップしてスピーカーにする。
『おい外道院 蒼、お前は”外道院”でありながら術を使って金を稼ぎ、その上人を殺した!その罪は———重い』
スピーカーから流れてきた低い声は、まるで外道院を断罪する裁判官のようだった。外道院は口を引き結んで、目線を下に向ける。言われた罪は何も否定などできない、紛れもなく事実だった。
『本来ならこのまま死刑だが、お前には特別、選択肢を与えてやる』
どういうわけか、外道院より泉水の方が緊張しているように見えた。泉水は強張った面持ちで、請うように外道院を見つめる。
『正道に飼われるか、ここで死ぬか———選べ、外道院』
泉水 蓮の人生が狂った日は間違いなく二年前のあの日だ。
けれど外道院 蒼の人生が狂った日は、この日である。




