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トランスポーテーション  作者: 茶園ひろし
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エレベータの反乱

そのビルは、神田の古い町並みの中にあった。

表通りから2~3本入った少し狭い路地を進んだところにひっそりと建っている。

8階建ての建物だが、もともとは4階建てだったらしく、5階から上は後で増築したらしい。つまり、4階建てに、さらに4階を乗せたわけで、大きな地震があったら真っ先に崩れるのではないかと噂されている。

この古いビルに、これまた古いエレベーターが付いている。法定点検は定期的に実施されているのだが、なにせ古いので、急に動かなくなって、中に人が閉じ込められたりする被害がよく起こる。

また、エレベーターに「噛まれる」被害がよく起こる。

閉まりそうになっているエレベーターに無理やり割り込もうとすると、ドアに思い切り「噛まれる」のだ。普通は、閉まりかけたドアに少し触れれば、もう一度開くものだが、このエレベーターのドアは、ぐいぐいと強い力で閉じようとする。

完全に閉まらないと動かないようになっているので、さすがに人を挟んだまま上の階に行くことはないが、挟まれた人は痛いし、かっこ悪いし、大変な目に合う。強い力で押し開ければなんとかなるが、腕力の弱い女性や老人の場合は、挟まれたままになってしまう。

中に人がいれば、「開」のスイッチを押して救出することができるが、人が乗っていないときは、大声で助けを呼ぶしかない。


このエレベーターによるトラブルは絶えない。

あるとき、このビルに入っている会社の女性社員がエレベーターに乗ろうとすると、急にドアが閉じてしまい、噛まれてしまった。中には同僚の女性社員がいて、「開」ボタンを押してくれたが、あいにくこの二人は日ごろから仲が悪く、噛まれた女性が「あなた、ドアを閉めたでしょう」と文句を言った。

「開けてあげたでしょう。言いがかりをつけないでよ。」

「嘘つけ。閉ボタンを押したのを見たわよ。」

「そんなこと、するわけないでしょう」

居合わせた課長が仲裁しようとした瞬間、ドアに噛まれた女性社員が、中にいた女性社員のほっぺたを思い切り平手打ちしてしまった。

ばちーんと、乾いたいい音が狭いエレベーターのなかに響いたそうだ。

叩かれた女性社員は、興奮して警察署に電話してしまって、警察官が会社にやってくる騒ぎになった。(その後、被害届を取り下げて一件落着となった。)



1 鈴木係長

その古いビルに小さな会社が10社ほど入っている。

一社で複数のフロアを使っている会社もあるが、たいていはひとつのフロアを3社くらいで使っている。

鈴木幸太郎の勤めている五山商事は、世間的には中小企業だが、5階の1フロアーを一社で使っているので、このビルでは大手の方だ。

鈴木は40台半ばで、総務課の係長をしている。年齢的には働き盛りだが、見た目もそうとうくたびれていて、これ以上の出世は難しいように見えるし、本人も出世などは考えたこともない。

 入社時は営業部に配属されたが、機転が利く方ではないし、得意先にお世辞も言えないので、全く成績が上がらず、社内をたらい回しされて、総務課に落ち着いた。

  総務課の仕事は一応「事務分掌表」に書かれている。そこには、社員の給与計算や出張旅費の精算、社会保険の手続きや役所への各種届出など具体的に列挙してあるが、最後の行に、「その他、他の部署の所掌に属さないこと」と書かれている。

したがって、各課のすきま業務から役員のお使いに至るまで「他の部署に属さない」あらゆる仕事が回ってくる。

上司の総務課長は、おとなしい人で、パワハラやセクハラからは縁遠く、いわば人畜無害なので気は楽だが、仕事はからっきしダメで、まったくあてにできない。

総務部長は、総務課長とは正反対の人で、エネルギッシュに仕事をするが、男性社員を見ると「バカやろう」と怒鳴りつけ、女性社員を見ると「さっさと結婚したらどうだ」とか「その服、先週も着てたよな」とか「余計なこと」を言う。空気の読めないおじさんだ。

そして、酒癖が悪い。悪すぎる。

酒場で知らない人に絡んで殴られたり、カラオケを歌っている人(もちろん知らない人だ)に「下手くそ!」と叫んで喧嘩になったりというような事件が、飲みに行くたびに起こる。

部長は毎日飲みに行くので、毎日そういう事件が起こる。

誰も付き合わないので、毎日総務課長がお供して、後始末をしている。

総務課の社員は、鈴木係長の下に50過ぎの女性が一人と、派遣の女性社員が一人いるだけだ。

50過ぎの女性は、小杉小百合さんという名前の、なんというか強烈な人で、「テッカメン」と言うあだ名が付いている。鉄仮面である。フランスの古典文学とは関係ない。無表情でいつも怒っているように見えることから、いつの間にかそう言われるようになった。身長も170センチ以上あり、プロレスの観戦が趣味で、週3回ジムに通って身体を鍛えているので、腕っぷしも強い。

小百合さん(以下「鉄仮面」)は美容整形が趣味で、2〜3年に一度、お金をためて整形手術を実施する。鉄仮面が長期の休みを取って出てくると、顔が変わっている。

整形手術で綺麗になったという評価は聞いたことがないが、手術を受けるたびに表情が乏しくなり、喜怒哀楽が顔に出なくなった。

整形手術を重ねたせいで顔が固まったんだと皆は噂しているが、目が釣り上がった怖い表情のままで固まっていて、本当に鉄仮面のようだ。もともとどういう顔だったかは誰も知らない。原型を留めていないのだ。

おまけに気が強くて、気に入らないことは絶対に許さない。エレベーター内で同僚の女性にビンタをかましたことは、他社にも知れ渡っていて、みんな近寄らないようにしている。

部長も鉄仮面だけにはセクハラをしない。怖い目にあったことがあるからだ。

ある日、総務部全員で残業をしたことがあった。食べに行っている時間がないので隣の栄珍軒というラーメン屋から出前を取ろうということになった。その時間に出前をしてくれるのは、その店しかない。鉄仮面が注文を取ってくれた。「ラーメン」とか「チャーシュー麺」とかそれぞれ希望を述べているところで、部長がニタニタしながら「テッカ麺と言うのはないのか」と言った。

全員が固まった。

「アホちゃうか」と鈴木係長は、なぜか大阪弁で思った。

鉄仮面は表情を変えず、「メニューにはありませんが、どんな料理ですか」と詰め寄った。部長席のすぐ前に立ち、座っている部長を上から見下ろした。

さすがに部長もマズイと気づき、「いや、メニューになければいいよ」と言ったが、「いえ、頼んでみます。どんな料理か言ってください。食べたことがあるんですよね?」とさらに詰め寄った。

卍固めが出るか、と思った時、課長が「部長、ラーメン屋に鉄火丼はありませんよ。チャーシュー麺にしてください」と誤魔化した。

あんなに怖いことはなかった。

鉄仮面はそんな調子だし、派遣社員にはあらかじめ決められた定型的な仕事以外は頼めない。

そういう訳で、鈴木係長は、来る日も来る日も雑用に追われ、残業ばかりさせられている。

その日も午後9時になるのに、ひとりで居残りをしていた。課長は、今日も酒癖の悪い部長のお供で飲みに連れて行かれ、女性たちは帰ってしまい、鈴木を手伝うような者はひとりもいなかった。

8月の暑い日だった。このビルは午後8時になるとエアコンが切れてしまうので、窓を開け、扇風機をつけて残業しなければならない。

「単独のエアコンをつけてほしいなあ」といつも思う。「その方が能率もあがるのに。」

10時を回ると深夜時間帯になるので、残業代の割増率が上がってしまい、上が嫌な顔をするので、そろそろ帰ろうかなと思っていると、エレベーターが動く音がした。

このフロアーには鈴木しかいないので、エレベーターのモーター音が大きく響く。

しばらくすると、モーター音が止まり、続いてドアの開く音がした。

誰か来たのかなと思ったが、人が出てくる気配がない。

誰かが間違えて5階のスイッチを押したのかと思ったが、エレベーターは5階から動く気配もしないし、ドアが閉まる音もしない。

このエレベーターは、普通は、ドアを閉めて待機体制に入るように思う。

毎日残業しているが、こんなことは初めてだ。

「なんだか気持ち悪いなあ」

鈴木係長は廊下に出て、様子を見てみることにした。

節電のため、使っている部屋以外は電気を消しているので、廊下は真っ暗だ。

エレベーターのドアが開いていて、そこから蛍光灯の明かりが青白く漏れている。

誰も乗っていないようだ。

こわごわエレベーターに近づいてみたが、黙って静止している。

なんとなく誘われているような気がした。

鈴木は吸い込まれるようにエレベーターに乗り込んだ。

すると、ボタンに触れないのに、勝手にドアが閉まり、エレベーターが動き始めた。

上に向かっているらしい。

回数の表示を見ると、どんどん上がって行って、屋上で止まった。

そしてドアが開いた。

エレベーターのドアが開くと、急に強烈な太陽の光に照らされた。

そこは屋上ではなく、夜の東京でもなかった。

「どこだ、ここは?」

どこかの海岸だった。白い砂浜が続き、青い海と青い空があった。

「ここは日本じゃない」

直感的にそう思った。来たことのない土地だが、これは日本の海岸ではない。

人は誰もいなかった。

明るい太陽と砂浜。どこか南洋の島かもしれない。

鈴木係長はふらふらと足を踏み出した。

砂浜を少し歩いて振り返ると、何もない空間にエレベーターのドアが開いていた。「戻らなきゃ」と思っていると、ドアが閉まった。

そして何もなくなった。

鈴木係長は見知らぬ国の海岸に取り残されてしまった。


2 吉田美恵子

栄珍軒は、神田の裏通りにある小さなラーメン屋である。家族経営の小さな店で、今の店主は2代目だ。先代夫婦はすでに亡くなっており、先代の息子である浩が料理を作り、その妻である洋子がそれをテーブルに運び、会計をする。浩夫妻の息子の健一は高校を卒業後、店を手伝っている。

「こんな店、将来性がないからどっかに就職しろや」と父親には言われてきたが、健一は生まれ育ったこの街が好きだし、このラーメン屋も好きだ。

だから、ずっとこの街に住んで、父親と同じようにラーメン屋として生きていきたいと思っている。

主な客は近くの会社の社員たちだが、学生や古本屋帰りの人も来る。ランチ時には満席になるし、夜、飲んだ後の締めに立ち寄ってくれる客もいる。

また、近所の会社から出前を頼まれることも多い。

家族だけでは出前まで手が回らないので、アルバイト店員を雇っている。

給料が安いせいか、なかなかアルバイトが来てくれないので、洋子が頼み込んで、近所に住んでいる吉田美恵子に不定期に来てもらっている。

美恵子は、健一の小中学校の同級生で、母親同志も仲が良い。今は自宅から地下鉄で少しの距離の国立女子大の2年生なのだが、サークルには入っていないので、授業のない時間帯を選んで来てくれる。

アルバイトの主な仕事は、近くの会社への出前をすることだ。白い上っ張りを着て岡持を持ってラーメンや餃子を配達する。

若い女の子が好んでするような仕事ではないが、美恵子は、この仕事が嫌いではない。

あまり考えずにできるので、出前をしながらフランス語の単語を復習したりしている。できれば大学を卒業したら翻訳物の出版社に就職して、最新のフランス文学を日本に紹介するような仕事がしたいと思っている。

美恵子は、小中学校の同級生だった健一には、ずっと好意を持ってきた。健一は野球部でピッチャーをしていて、とても凛々しく見えたのだ。

健一の親も美恵子の親も、できるだけ公立でという考え方だったので、二人とも区立中学校を卒業した後、都立高校に進んだ。美恵子は勉強ができたので、健一より偏差値の高い高校に進んだ。

健一は高校でも野球を続けたが、甲子園に行くような高校ではなかったので、3年生になって引退するまで楽しく部活をした。

美恵子は、健一がラーメン屋を継ぐつもりだとは全く知らなかった。

「健ちゃんがラーメン屋かあ」

なんだか似合うような似合わないような、と言って、サラリーマンが似合うかと言えばそれも似合わないような気もする。やはり野球のユニフォームが似合うと思う。

土曜日の夕方、美恵子はいつもの格好で丼の回収に向かっていた。

土曜日はお休みの会社が多いので、裏口から入って黙々と回収する。

遠くの出前先からいくつか回って、最後に隣のビルに向かった。

美恵子は、このビルが苦手だ。数か月前にエレベーターに乗ろうとして挟まれたことがあるのだ。あの時は痛かった。ウエストを思い切り締められて、息ができなくなった。たまたま近くにいた屈強な男性がこじ開けてくれて助かったが、あの人がいなかったらどうなっていただろうと思う。

挟まれたと言うより、噛まれたという感じだった。

エレベーターの悪意のようなものを感じた。

それから、5階の五山商事には怖い女性社員がいる。いつも無表情に睨みつけてくるし、挨拶をしても無視される。

「やだなあ」と思いながらビルに入った。

目的のビルはシャッターが半分ほど降りていたが、土曜日にはよくあることなので、美恵子は周りを見回しながら中に入った。

エレベーターがドアを開けて待っていた。

周りが薄暗くなっているので、ぼやっとした青白い光が漏れている。

乗ろうとしたらドアが閉まってしまうパターンなんじゃないかな、と警戒しながら近づいてみたが、閉まる様子はない。

なんだか「乗ってください」と誘われているような気がした。

いきなり強く挟まれないように、片手で岡持ちを持ち、片手でドアを押さえながらそっと乗り込んだ。

無事に乗れた、と安心していると、ドアが閉まった。

そして、行先のボタンを押さないのにエレベーターが勝手に上昇を始めた。誰かが上で呼んでいるのかもしれない。

「何階で降りるんだっけ」と迷っている間にもエレベーターはどんどん上がって行ってしまう。

「あ、4階だ」と思い、4のボタンを押したが、反応はなく、あっという間に4階は通り過ぎ、5階、6階と進み、8階も過ぎて屋上に向かって行く。

「屋上で誰かが呼んでいるのかな」

今までにないパターンだなあと思っていると、屋上でやっと停止してドアが開いた。

ドアが開くと、真っ黒な夜空に満天の星が輝いていた。

赤い砂の大地が遥か遠くまで続いている。

こんな星空も大地も見たことがない。

明らかに東京のビルの屋上ではないし、人の気配もない。

「これは日本じゃない」と美恵子は思った。

いったいどうしてこんなことに?

危険を感じつつ、あまりの美しさに、美恵子はエレベーターから一歩を踏み出した。

硬い砂地だ。

砂漠のようだ。見回しても街の明かりが見えない。

振り返ると、何もない空間にエレベーターのドアが開いている。

戻らなきゃと思っていると、音もなくドアが閉まり、後には何もなくなってしまった。

美恵子は、見知らぬ国の砂漠に置き去りにされてしまった。


3 西山泰三

西山泰三は、電気工事を仕事にしている。

その日は、契約しているビル会社から、テナントのコンセント増設工事を頼まれて一人でやってきた。

神田の裏通りにある古いビルだが、賃料が安いせいか空き部屋はないようだし、長く入っている会社が多いようにみえる。

時々、レイアウト変更をする会社があり、そのたびにコンセントや蛍光灯の増設や移設などを依頼される。

そうした変更は図面に残さなければならないことになっているが、このビルのオーナーは、管理がいいかげんで、しっかりとした図面を保管していない。あるときなど、普通考えられないような配線がされている箇所を発見したことがある。

 それは、4階のテナントの一社から呼ばれて行ってみた時のことだ。スイッチが無茶苦茶なので何とかしてほしいと頼まれた。

西山が入り口のスイッチを押すと、一番奥の社長室の蛍光灯が消えた。その下のスイッチを押すと、コンピュータの入力作業をしていた社員が「わー」と叫んだ。コンピュータの電源が落ちたらしい。

さらにその下のスイッチにはカバーがしてあった。

「これは何ですか?」と聞くと、「それは絶対に触ってはいけないと聞いています」という返事が返ってきた。

「押してみても良いですか?」と聞くと、「結果に責任を持ってくれるなら良いです」と言われた。

「でも、やってみないとどうなっているのか分かりませんよ」と言うと、しぶしぶ了解してくれた。

社員が固唾を飲んで見守る中で、カバーを開けてスイッチを押すと、全部の電気が落ちた。蛍光灯だけではなく、使用中のコンピュータやら電話やら、電気という電気が落ちてしまった。

会社の外からも「わー」と言う叫び声が聞こえたので、出てみると、廊下や他の会社も真っ暗になっていた。

「何だ、これ」思わず西山は叫んだ。

同じフロアーの全部の電気が落ちてしまっていたのだ。

古くからいる社員に聞くと、「昔、電気工事が好きで、勝手に電気ドリルで壁に穴を開けて配線を通したり、スイッチを付け替えたりした人がいた」とのことだった。資格は持っていない全くの素人だったらしい。

「それ、違反ですよ」と言ってみたが、「もう辞めちゃってるし、どうしようもないよ」と言われてしまった。

脚立を使って天井の点検口から天井裏を覗いて、西山は息を呑んだ。

そこにあったのは、文字どおり蜘蛛の巣のように張り巡らされた配線だった。中心から周辺に向けて放射状に電線が伸びていて、電線どおしが網の目のように繋がれていた。

どこがどう繋がっているのやら、見当もつかなかった。

これはもう手に負えない、と西山は思った。

「一度全部の配線を外してからやり直すしかありません。」と西山は説明した。

とても一人では無理だ。

同じフロア全体に配線が張り巡らされているので、全部の会社に退去してもらってやり直すしかない。

しかし、そんなことは不可能だ。

と言うことで、奇妙な配線はそのままになっている。

「まさか、他の階の配線までいじってないだろうな」と不安になり、一応調べてみたが、4階以外は通常の配線だった。

ビルのオーナーには、「何かあったら役所から怒られますよ」と言ってあるが、聞き流されてしまう。

その日は、日曜日を利用してコンセントを2か所増設するだけだったので、簡単に終了し、挨拶して廊下に出た。

丁度エレベーターがドアを開けていた。

「あ、ラッキー」と小声で言いながら、脚立と工具箱を持って小走りに乗り込んだ。

1階のボタンを押そうと思ったら、エレベーターが勝手に上昇を始めた。

「まいったなあ」と思ったが、仕方ない。上で誰かが呼んでいるのだろう。

  エレベーターは屋上まで昇って停止した。

 ドアが開くと、氷の世界だった。遠くをシロクマが歩いて行く。

「えーと、シロクマがいるということは北極?」

西山は呆然と立ち尽くした。

1階のボタンを押して「閉」ボタンを押してみたが、全く動かない。

非常ボタンを押してみたが、何の音もしないし、応答もない。停電か?と思ったが、蛍光灯は点いている。

「降りるしかないのか」

  西山は、脚立と工具箱を抱えたまま一歩を踏み出した。

  本当に氷しかない。

異常な寒さだ。

  振り返ると、エレベーターのドアが閉まるところだった。

  西山は北極に取り残されてしまった。


4 鈴木係長の帰還

  鈴木係長が取り残されたのは、パラオ共和国の小さな島だった。

  ワイシャツ姿で海岸をうろうろしていたら、現地の人に「ニホンジン?」と日本語で話しかけられた。

  パラオは、第二次世界大戦中、日本が占領したことがあり、その名残で日本語を話す人がいる。

また、住民はなぜか親日的で、日本語を公用語にしている州まである。

鈴木係長はラッキーだった。

「イエス」と何故か英語で返してから、「ここはどこですか?」と日本語に切り替えた。

「ここはパラオよ」と、パラオ人のおじさんは、ニコニコと教えてくれた。「何か食うか?」

鈴木係長は、食べ物より、日本大使館に連れて行ってくれと頼んだ。

「オーケー、オーケー」と言いながら、おじさんは、鈴木係長を自宅に連れて行ってくれた。

助けてくれた人の名前は「フランシス・イチロー」さんだった。「イチロー」はファーストネームではなく、ファミリーネームで、ファーストネームがフランシスさんらしい。なんだか両方名前みたいだが、パラオでは普通らしい。 

鈴木係長がそのことを知ったのは、日本に帰ってからだったので、現地では名前のつもりで、ずっと「イチローさん」と呼んでいた。結果的には不自然はなかったのかもしれない。

イチローさんは、あまり詳しい事情も聞かず(聞かれても答えられないのだが)日本大使館に電話を入れてくれて、おアメリカドルだったを貸してくれた。

日本大使館では、根掘り葉掘り聞かれたが、「残業中にエレベーターに乗ったら、ここに来てしまった」としか答えようがなかった。

大使館員が、五山商事に電話を入れてくれたところ、総務課長が電話に出て、鈴木係長が机の上に書類を放置したまま行方不明になっていること、家では奥さんが心配していることなどを説明してくれた。

到底信じられないが、鈴木係長が明らかに仕事中の身なりだったことや、日本で最後に確認された日付とパラオで発見された日付にズレがないこと、不法入国したような形跡もないことから、特例的に日本に強制送還する措置をとってくれた。

そのような幸運な経過を辿って、鈴木係長は無事に日本に帰り着いた。

帰り着いてから色々な調査に付き合わされ、新聞や週刊誌、テレビの取材なども受けさせられた。

マスコミの取り上げ方は、真面目なニュース番組は少なくて、ワイドショーや週刊誌が中心だった。つまり、面白半分だった。みんな半信半疑だったということだ。

騒動が落ち着いて出社すると、最初に出迎えてくれたのは鉄仮面だった。

「鈴木さん、パラオに行ってたんだって?」

「そうなんですよ。えらい目に遭いました。」

「ところで」と鉄仮面は無表情に言った。「お土産は?」


5 美恵子の帰還

美恵子は呆然と立ち尽くした。

ここはいったいどこなんだろう?

見たこともない美しい星空。プラネタリウムでしか見たことがないような星空。

そして砂漠。

ここは地球なんだろうか?そもそもこの世なんだろうか?

「冷静にならなきゃ」美恵子は深呼吸した。「少なくとも酸素はある」

「そうだGPS」

美恵子はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して、現在地を確認した。

「え?ナミビア共和国?アフリカ?」スマートフォンの画面をピンチアウトするとアフリカ大陸の地図が映し出されている。

「すると、ここはナミブ砂漠?」

テレビやインターネットで見たことがあるナミブ砂漠は、世界一星空が美しい地域として紹介されていた。

「なんでまた、そんなところに?」

わけが分からないが、来てしまったことは間違いない。

「どうやって帰れば良いんだろう?」

「ここでエレベーターが来るのを待っていてもあてにならない」美恵子は考えた。「仮にエレベーターが現れて乗ることができたとしても、神田に連れて帰ってくれるとは限らない」

しかし、だからと言ってやみくもに歩き回ってもどうしようもない。

「ここがナミブ砂漠だとすれば、ツアー客が来たりするはずだから、それを捕まえて日本大使館に連絡してもらおう」美恵子は持っていた岡持ちをエレベーターが到着した辺りに置いて、その場に座り込んだ。

「砂漠って、夜が明けたらすごい気温になるのかなあ。水も持ってないしどうなるんだろう。」不安になるが、ここで弱気になったらダメだと気持ちを引き締めた。

たしか世界遺産に登録されるような有名な土地だから、世界中から訪れる人たちがいるはずだ。自動車か、飛行機か、ヘリコプターか、何かが現れるだろう。

地面をよく見ると、自動車の太い轍が何本か走っていること気が付いた。

やはりここに来る人がいるんだ。

星空を見に来る人が多いはずだから、運が良ければ今夜会えるかもしれない。

美恵子は顔を上げて、辺りを見回した。

どのくらいの時間が経っただろう。遠くの方に灯りが見えた。だんだん近づいてくる。やがて光源が4つあることが分かり、2台の自動車のヘッドライトであることが分かった。

美恵子は立ち上がり、スマートフォンの明かりをつけて、大きく手を振った。「おーい、おーい」と声も出した。

すると、幸運なことに自動車がこちらに向かってきた。気が付いてくれたようだ。

やってきたのは、2台の四輪駆動車だった。

黒人が運転していて、白人の客が数人乗っていた。

「どうしたんだ」と英語で聞いてきた。

「助けて」と美恵子は言った。

四輪駆動車に乗っていたのは、運転手兼ガイドの黒人と、フランス人のツアー客たちだった。

美恵子は、英語とフランス語で質問攻めにあい、苦労して説明したが、説明すればするほど訳がわからないことばかりだった。

客の中にミシェル・アデールと言うフランス人の若い女性作家がいて、美恵子の話に大いに興味を示し、「ホテルは満室みたいだけど、私の部屋にベッドがふたつあるから、ともかく一緒に来なさい」と言ってくれた。「ところで、荷物は?」

美恵子は岡持ちを指さした。「デリバリーの途中なの」

小説家は、砂漠に置かれた岡持ちとラーメン丼を写真に撮り、美恵子に岡持ちを持ってポーズを取るようにリクエストした。

この世のものとも思えないような美しい星空を背景に、白い上っ張り(胸にラーメン屋の刺繍が付いている)を着て岡持ちをもった東洋人の女性。

その時には、ミスマッチを絵に描いたような自分の写真が世界中に出回るようになるとは想像もしなかった。

その夜は、ミシェルの部屋に泊めてもらって、色々な話をした。

ミシェルはマックブックを開いて何やら作業していたが、「ねえ、ミエコ、あなたが乗ったエレベーターってこれ?」インターネットのニュースサイトの記事だった。確かにあのビルとエレベーターが写っている。

「そう、これ」美恵子はパソコンの画面を覗き込んだ。「でも、なんでこの写真が載ってるの?」

「ゴザン・ショウジって会社のスズキって人が、このエレベーターに乗ってパラオにタダで旅行したらしいよ。」ミシェルは鈴木係長の写真を見せて言った。

「えー。その人知ってる。」美恵子はびっくりして言った。「毎晩残業してる人だ。」

その記事は記者が半信半疑だったのか、半ばからかって書いているようだった。

「私以外にも被害者がいたんだ」

「多分、明日になったらもっと大騒ぎになってるよ」ミシェルはイタズラっぽい目をして言った。「私がS N Sにアップしたから。」

事実、翌日ホテルから日本大使館に電話したら、「ああ、あなたですか。」と言われた。「すぐにこちらに来てください。」

前例があるので、話が早かった。鈴木さんのおかげだ。


6 電気技師 西山の帰還

西山が寒さに震えながら呆然と立ち尽くしていると、遠くから声が聞こえた。男たちが大声で叫びながら駆け寄ってくる。どうも英語のようだ。

西山は英語が話せないので、ぼんやりしていると、身振り手振りでついてくるように言われた。なんでこんなところに男たちがいるのか不思議に思いながらも、「やれやれ助かったのかも」と安心した。

 少し歩くと、大勢の男女が撮影機材を構えてこちらを写しているのが見えた。大掛かりな映画の撮影チームみたいだ。見たことのある俳優たちもこちらを見ている。

 ナタリー・ポートマンだ、と西山は心の中で叫んだ。ファンなのだ。

 「中国人?韓国人?」と聞かれ、「日本人です。」と答えた。

 すると、翻訳機を手に持ったスタッフがやってきて日本語モードにして渡してくれた。ついでに厚手のコートとブーツを貸してくれた。

そして監督を紹介してくれた。

「最近はこう言う便利なものができて助かる。」監督は翻訳機に向かってそう言った。瞬時に日本語に翻訳される。 

監督の言うことには、ここにいるのはハリウッドのチームで、北極の場面を撮影していたそうだ。遠くから望遠レンズで白熊の様子を撮影していたら、いきなり空間にエレベーターが現れ、東洋人が梯子を担いで降りてきたので、全員のけぞって驚いたらしい。(そりゃそうだ。)

 監督は、「誰も見たことのない超常現象を撮影することができて大変ラッキーだった。」と興奮していた。「経緯を説明してくれ。」

 「経緯と言っても」と西山は言った。「東京の神田と言うところの古いビルで電気工事をしていたのですが、仕事が終わってエレベーターに乗ったところ、勝手に動き出して、ドアが開いたらここでした。それ以上は何も分かりません。」

 スタッフがスマートフォンを西山に見せた。「どうやら同じ現象が他でも起こっているらしい。フランス人の作家がS N Sに載せて大騒ぎになっている。我々の映像もアップしたら大騒ぎになるに違いない。」

 「これは大事な記録だから、順を追って聞くので、簡潔に答えてほしい。」と監督は言った。「君の名前とプロフィールを教えてくれ。」

 「僕は西山泰三という日本人です。年齢は43歳です。東京で電気工事の仕事をしています。千葉県の市川市に家があり、妻と子どもが2人います。」

 「今日の行動を説明してくれ」

 「今日は2箇所の電気工事を頼まれていて、1箇所目は午前中に終わり、2箇所目の工事を終えて廊下に出たらエレベーターが止まっていました。乗り込むと、ボタンを押す前にドアが閉まり、勝手に上昇しました。ドアが開いたら北極でした。以上。」

「今の気持ちを教えてくれ」

「何がなんだか分かりませんが、人間に会えて良かったです。一刻も早く日本に帰って妻と子供達に会いたいです。」

「わかった。責任を持って君を日本に送り届けよう。」と監督は言った。「ところで、この状況をS N Sにアップさせてほしい。世界中が見たい映像のはずだ。」

そして、監督は撮影した映像を見せてくれた。何もない空間にいきなりエレベーターが現れ、しばらくすると西山が降りてきた。そしてエレベーターが消滅した。映像を見ても誰も信用しないよなあ、と西山は思った。

 「ありがとうございます。」と西山は言った。「ところで、この映画の公開はいつですか?」

 「来年のクリスマスあたりを予定しているが」と監督は言った。「何故だね?」

 「そりゃあ」と西山は言った。「私も出るのかなと思って」

マスメディアは、最初のうちは半信半疑で、まともには取り扱ってこなかったが、同様の事件が3件続いた(しかも3件目は動画付き)となると、まともな事件として取り扱わざるを得なくなった。

日本のメディアだけではなく、海外のメディアも同様で、連日世界中でさかんに報道されるようになった。

科学的な解明も必要とされるわけだが、こうした超常現象を正面から扱うような学問はあまりないらしく、物理学者を中心としたチームが調査に乗り出した。

しかし、問題のエレベーターはどのように調べても普通のエレベーターに過ぎないし、被害にあった3人も普通の人たちだった。

テレビのワイドショーでもほぼ毎日話題になった。

お笑い芸人がやってきて、ビルのテナントの職員にもインタヴューが行われた。

「このエレベーターに噛まれたり、閉じ込められたりする被害は毎日のように起こっていますよ」と事件に関係のないことを訴える人もいて、痩せたお笑い芸人がわざと強く挟まれて泣き叫ぶ様子が面白おかしく放送された。

しかし、外国に連れて行かれるという現象の再現はできなかった。

新たな被害者が出たときのために、エレベーターに乗る前にはリストに名前と所属、訪問先を記載することが義務付けられるようになった。エレベーターを降りてビルを退出するときにも退出時間などを記録するのだ。

退出記録がない人は行方不明になった可能性があるということになる。

またエレベーター内に監視カメラとG P Sの装置が付けられた。

幸いにして、3人以外に被害者は出なかったので、徐々に報道が沈静化しはじめた頃…


7 来訪者たち

ある朝、ビルの清掃会社が早朝の清掃に来たとき、エレベーターのドアが開いて中から虎が現れた。清掃作業員はびっくりして外に止めた車に逃げこみ、早朝の神田をゆったりと歩く虎を呆然と見送った。

その後、通報を受けた警察官が出動し、非常線が張られ、猟友会の人たちが集められ、大捕り物になった。

最初の通報者であるビルの清掃会社員への聞き取りによって、この虎が話題のエレベーターから現れたことがわかった。また、エレベーターに設置された監視カメラの映像をチェックすると、どこかの草原で虎がエレベーターに乗り込む様子が確認された。また、G P Sによって、その場所がインドの山の中であることも確認された。

テレビは、どのチャンネルも神田の虎の実況中継だった。

  「この虎はどういう種類の虎ですか?」アナウンサーが質問した。

  「ベンガル虎ですね。縞模様が美しいですね。体長は2メートルくらいありますから、大人のベンガル虎だと思われます。生息地は主にインドです。昔、人食い虎がいたという伝説もありますが、一般的には人間を避けて生活しています。」ゲストの大学教授が答えた。

「では刺激しなければ安全ということですか?」

 「いや、やはり危険です。襲われたら命はありません」

 「エレベーターに乗ってきた可能性があるということですが、なぜエレベーターに虎が乗ったのでしょうか?」

  「分かりません。エレベーターに虎が乗ったことより、インドの山中にエレベーターが出現したことの方が不思議です」

虎を刺激しないようにヘリコプターの飛行は禁止され、麻酔銃を使って無事に捕獲することに成功したのだった。

ベンガル虎が神田の街をさまよっている日、美恵子は来日中のミシェル・アデールを都内観光に連れて行く予定だった。

ミシェルは3日前から日本に来ていて、美恵子は毎日付き合っている。

その日は、朝から、例のエレベーターを見学することになっていたが、ベンガル虎事件で外に出られない。

仕方がないので、ホテル滞在中のミシェルに電話を入れた。

「ハイ、ミシェル。美恵子よ。昨日はありがとう。疲れてない?」

「ハイ、美恵子、あのくらいで疲れてないよ。スシはおいしかったね。やはり日本で食べるスシは別格ね。今日もよろしくね」

「ところが、ベンガル虎が神田の街を歩き回っているらしくて、外に出られないのよ」

「虎?誰かが放し飼いしてるの?」

「違うよ。例のエレベーターがインドから連れてきちゃったらしいのよ」

「ウーララ!ぜひ見てみたいわ」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ。大騒ぎなんだから。テレビをつけてみて。どのチャンネルも虎のニュースばっかりよ」

「わかった。見てみる。日本のテレビは何を言ってるのか分からないのよね。美恵子に通訳してほしいわ」

「私の住んでいる周辺は戒厳令みたいな状態よ。戒厳令は経験したことないから想像だけど。虎が捕まったら会いに行くわ」

「オーケー。まったく想像の上を行くエレベーターね。オズの映画を見て連絡を待つわ」

「オズの魔法使い?ジュディ・ガーランド?随分古いのを見るのね」

「ノン!オズ・ヤスジロウの映画よ。知らないの?」

「また、クラシックな映画ね。面白い?」

「失われた日本の風景がいいね。畳の部屋に折りたたみ式の低いテーブルを出して食事したり、のんびり話したり。1世紀以上昔の話みたいに見えるけど、第二次世界大戦後のショーワの話なのよね。日本人はなんでも捨ててしまうからねえ」

「確かに」

「私は、リュウという俳優が好きなのよ」

「リュウ?笠智衆か。なるほど」

「虎が捕まったら、そのビルに行ってみましょう。あれを見ないと東京から動けないわね。この先、何が起こるか分からないから、目を離せないよ、きっと」

「脅かさないでよ」

古いエレベーターを前にして、ミシェルはしばらく無言だった。

そして、「子どもなんだろうね」と言った。

「子どもなの?」と美恵子は言った。「ずいぶん古いエレベーターだけど」

「人類の歴史が始まって2万年くらい、地球の歴史が始まって46億年と考えたら、まだ子どもだよ」

「まあ、そんなのと比べたら子どもだけど、どうしてそう思うの?」

「理由は分からないけど、たぶんこの子は色々な能力を急速に得ているのだと思う。でも、精神は子ども。最初のうちは気に入らない人に噛みついたり、閉じ込めたりして遊んでいたのかもしれない。そのうち空間を超越する能力を手に入れて、人をとんでもない場所に連れて行くようになった」

「私は気に入らない人だったのか。一度ひどく噛まれたことがある」

「逆に気に入っていたのかもしれないけどね。小さい子ってそういうことするじゃない?」

「どっちにしても何故嫌われたのか、好かれたのか分からないなあ」

「まあ、それは私にも分からない。エレベーターの考えることだし。そして、次の段階として、どこかで生き物を乗せて、ここに連れてきた」

「なるほど。面白いけど怖いね」

「ただ、子どもと言っても、ある程度の分別はあるんだと思う。スズキの時は危険のない国だったし、すぐに発見されて日本語で話しかけられている。美恵子の時は、ツアー客がよく通る場所だった。電気工事の人の時は危険な場所だけどハリウッドのチームが撮影している現場だった」

「偶然じゃなかったってこと?」

「偶然にしては運が良すぎるからね。ハリウッドのチームに出現するところを撮影させたのも意味があると思う」

「自己顕示欲もあるってことかな?」

「むしろ警告じゃないかな。エレベーターに近寄るなって」

「そうなの?いたずらできなくなるじゃない」

「問題は、この後どうなるか。まだ暫くは色んな動物を運んでくるかもしれないね。その後何をするかが分からない。今のところは、出口または入り口の一方はここに固定されているように思うけど、それからも解放されてしまうかもしれないね」

「つまり、好きなところに現れて、好きなところに連れて行くってこと?」

「うん」

「そうなると、もう止めることはできないの?このエレベーターの電源を落としても無駄ってこと?」

「そうなるよね」

ミシェルは、エレベーターのドアを優しく撫でた。「いい子でいてね」

ミシェルの言ったとおり、ベンガル虎の翌日にはペンギンが3匹現れ、その翌日にはニューヨークのホームレスのおじさんが現れた。

危険が大きいと判断され、ビルのテナント会社はすべて退去し、ビルは閉鎖されることになった。

ミシェルの言うことには、解決策はふたつしかない。

一つは、このエレベーターが学習して大人になり、悪戯をしなくなってくれること。

もう一つは、これ以上進化する前に壊してしまうこと。

エレベーターが意志を持っていると考えると、壊すのはかわいそうな気もするが、これ以上進化すると、手に負えなくなる。

例えば、今は行き先は地球上のどこかだが、地球外に出てしまうかもしれない。

また、今は時間を超えることはないが、それも超越してしまうかもしれない。

エレベーターに乗った人間が、旧石器時代に運ばれたり、月に運ばれたりしたらどうすれば良い?

だから、壊してしまうのは仕方がない、と美恵子も思った。

まだ電源を必要としない段階に達してなければ良いが。

閉鎖されたビルの中、誰も人はおらず、電気も切られているので、真っ暗だ。あと数日でビルごと壊されてしまう。

真っ暗なビルの中で、突然エレベーターが動き出した。

一階でドアが開き、蛍光灯の明かりが廊下を照らした。

誰も乗る人がいないことを確認すると、しばらくしてドアが閉じ、また静寂が戻った。



第2部 新しい世界

1 五山商事 総務部長

ビルが取り壊されることになり、五山商事も他のビルに移転することとなった。

エレベーターが暴走しないかビクビクしながらの引っ越し作業になったが、どうにか無事に(誰も外国に連れて行かれることもなくという意味だが)近くのビルに引っ越すことができた。

今度のビルは10階建てで、比較的新しく、綺麗だった。

引っ越しが終わった日の夕方、社長が全員を集めて挨拶(というより訓示みたいな内容だった)があった。

今度のビルは家賃が高いので、今までと同じ売り上げでは収益が下がってしまうから、頑張って売り上げを伸ばしてほしいことや、売り上げに直接関係のない部署(総務部だ)は、経費の節減に努めてほしいことなどが内容だった。最後に取ってつけたように、「今後も健康に留意しながら頑張りましょう」という言葉があった。

社長の挨拶のあと、総務部に戻ると、総務部長が、「まあ、社長もそう言っていることだから、経費節減についてアイデアがあれば俺のところに持ってくるように」と言った。

「それから」と部長は鈴木係長を見て言った。「鈴木は、毎晩残業させられてるとか、部長が毎晩飲みに行ってるとか、そういう余計なことを言いふらさんように」

「えっ!」鈴木係長はしばらく絶句した後、「私、そんなことを言いふらしていませんが」と言った。

「毎日帰りは遅いし、会社と家を往復するだけです。どこにも寄り道なんかしません。休みの日は疲れて夕方まで寝ているし、子どもと遊んでやることもできません。夏休みを取って九十九里浜の家内の実家に連れて行ってやる約束をしていたのに、パラオ騒ぎで仕事を休んだ期間は夏休みと年休で処理するように言われて、それもできなくなりました。せめて出勤扱いにしてくれると思ったのに」だんだん悲しくなってきた。「その上、濡れ衣を着せられたら悲しいですよ。いつ、誰に言いふらすんですか。そんな時間も機会もないですよ」

「うるさい!」部長は怒りで真っ赤になって言った。「現に週刊誌に出てるじゃないか」

「いやいや、それは」と、総務課長が部長の袖を引いて隅の方に連れて行った。「それを言ったのは部長ですよ」

「え?俺が?」

「スナック弓で言ったの覚えてませんか?」

「弓のママが記者に喋ったのか?あいつ、三日にあげず行ってやってるのに、恩知らずな奴だなあ」


「いや、毎晩ですよ」と総務課長は言った。「それはともかく、ママじゃなくて、隣に座っていた週刊誌の記者に部長が鈴木君のことを言ったんですよ。エレベーターでパラオにただで旅行したとか、毎晩残業してるとか、出来が悪いとか」

毎晩どこかで飲んで、新宿のスナック弓に行ってママにおだててもらって、最後にラーメン屋に行って「テッカメンを持ってこい」と言って店員を困らせてから普通の醤油ラーメンを食べて帰るのが部長の日課だった。

「俺が毎晩飲み歩いていることは誰が言ったんだ?」

「そりゃ、誰でも知ってますよ。毎晩なんだし。その記者にだって、弓に行って部長に会わない日はないと言われてましたよ」

「そうか、覚えてないなあ」と、言いつつ、鈴木係長に謝ることもなく、部長は部屋から出て行った。

喫茶店に行って、ほとぼりが冷めてから帰ってくるつもりだった。

部屋を出ると、エレベーターがドアを開けて待っていた。

「お、ちょうどよかった」と思いながらエレベーターに乗り込み、1階のボタンを押したが、エレベーターはどんどん上昇を始めた。

部長は舌打ちをして「誰かが上で呼んでいるんだな。くそ!誰だ」と悪態をついた。

エレベーターは屋上まで上がって、やっと止まった。

ドアが開くと、オレンジ色の僧衣を着た人たちがあっけに取られてこちらを見ていた。背景には仏教の寺院のようなものが見える。

僧侶の一人が英語で話しかけてきた。

「あなたは誰ですか?その乗り物は何ですか?」

部長は、一息ついてからたどたどしい英語で「私はダイチ・キタという日本人です。この乗り物はエレベーターです」と言った。

北大地というのが部長の名前だった。北海道の出身だとすぐ分かる。

これは鈴木係長と同じだな、と北は思った。

「ところで、ここはどこですか?」

「ここは」と僧侶が答えた。「チベットです」

やれやれ、どうやって帰れば良いんだ、と北は途方にくれたのだった。

冷静に考えると、北部長が乗ったエレベーターは、鈴木係長をはじめとした何人かをとんでもない場所に運んだエレベータとは別物だ。ということは、この現象はあの古いエレベーターだけが引き起こすものではないということになる。

  神田じゅうのエレベーターが変な現象を起こし始めたのか?

  何でまた?

  考えてもさっぱり分からなかった。

  しかし、突然チベットに連れてこられたことは間違いない。何とかして日本に帰らなければならない。

  僧侶たちが日本語の話せるガイドを連れてきてくれたので、コミニュケーションは取れるようになったが、日本に帰るのはそう簡単ではなかった。

  まずなんとかしてチベットの中心部であるラサまで行って、ラサから北京まで飛行機か列車で移動し、日本大使館に行って救いを求めなければならないが、それには移動の許可をもらわなければならない。移動の許可を得るまで寺院に留め置かれることになった。

最初のうちは焦ったが、やがて焦っても仕方がないと悟った。

  北部長は、僧侶たちと共に暮らし、毎日僧侶たちの慎ましい生活を眺めているうちに、何だか懐かしいような思いに囚われた。

  子供の頃、祖母に連れられて寺にお参りしたことや、住職に可愛がってもらったこと、寺の掃除を手伝ったりしたことなどを思い出した。

  その祖母も、とうの昔に亡くなった。

  「ばあちゃん」と言ってみた。

  自然と涙が流れた。

 僧院で2週間を過ごし、北京の日本大使館に移送され、ようやく日本に帰ることができたのは、失踪からひと月が経過した後だった。

 久しぶりに出勤した北部長を見て、社員は仰天した。すっかり痩せて、表情も温和になっている。

 鉄仮面の顔を見て紙袋を渡した。「お土産です」

 中には、色とりどりの数珠が入っていた。

 「鈴木くん」北部長は言った。「パラオ騒動で休んだ期間は出勤扱いにします。総務課に人を増やすので、これからは定時退社してください」

 「えー」鈴木係長は思わず言った。「部長じゃないみたいですね」

 「昔の私は捨てました」北部長は言った。「仕事の切りが良いところで会社も辞めます」

 「どうするんですか?」

 「出家します。」北部長はにっこりと微笑んだ。


2 某国 スペード大統領

スペード大統領は憂鬱だった。

これから野党党首との討論に臨まなければならない。

野党党首は、スーザン・ポストという女性で、五十歳を過ぎたところだが、溌剌としていて三十代にしか見えない。若々しくて賢く、しかも美人だった。

大統領選でも一騎打ちとなり、際どいところでスペードが勝利した。

勝敗を分けたのはテレビ討論会だった。

まともに論争したのでは負けるに決まっているので、スペードはスーザンの配偶者であるジョージ・ポストのスキャンダルを突くことにした。

ジョージは、教育庁の要職にあったが、仕事に熱心なあまり、スラムに出向いて売春をしている少女に話しかけたり、生活を助けてやったりしていた。

スペード陣営では、ジョージが少女に金を渡しているところを写真に撮り、論戦の場に持ち込んだ。

「お前の亭主は未成年買春をしている。」とスペードは大声でまくし立てた。「偉そうな理屈を言っても、亭主がこんなことをしているとはな!これは国民を欺く行為だ。恥ずかしくないのか。」

スーザンは、夫がスラムに出入りしていることなど知らなかったが、少女買春をするような人間ではないことはよく分かっていた。しかし、あまりにも不意を突かれた。

「私は夫を信じています。きっと理由があったはずです。」と言うにとどまった。

形勢逆転と判断して、スペードはその後も大声でまくしたて、押し切ってしまった。

後で、ジョージは生活に困って売春をしていた少女を立ち直らせるために生活費を援助したに過ぎないことが分かったが、スペード陣営による印象操作は強烈に国民に植え付けられ、巻き返しはできなかった。

今日の討論では、原子力発電所をめぐる問題がテーマになっている。

スペードは、原子力発電所を誘致することで莫大な金を得ることになっており、どうも野党陣営は証拠を掴んでいるらしい。

どんな証拠かが分かれば手の打ちようがあるが、スペードはなりふり構わず汚いことをやりまくっているので、身に覚えがありすぎて、相手がどんな証拠を持ち出してくるかわからず、切り抜けられるかどうか自信がない。

なんとか論点をすり替えて、また亭主のスキャンダルでも持ち出さないと難しいかもしれない、とスペードは思った。しかし、大統領選挙のあと、ジョージが少女のことを心配して勉強を教えてやっていたことや、家庭内暴力からも守ってやっていたことが少女の証言で明らかになり、逆にスペードの立場が悪くなっていた。

もうあの手は使えない。

原子力発電のメリットを強調し、電気が使えなくなったら、家庭生活も産業もすべてパーになると大げさに脅かしてやろう。原発ほど安価に発電できる術はないと強調してやろう。太陽光発電や風力発電は自然任せで安定しないし、火力発電は石油が必要だ。石油なんて将来は枯渇してしまうんだぞ。そのときどうするんだと言ってやれば良い。

実際には、原発のコスト計算には核廃棄物の処理コストが入っていないし(それを入れたらとてつもない数字になるが、そもそも処理方法がないので、計算のしようがない。)、石油が有限というなら、ウランだって有限なのだが、一気にまくしたてればこっちが勝っているように見える。

「討論は気合いだ。」とスペードは思っている。

馬鹿な国民は小難しい議論なんか聞いてない。俺がわめき続けてエリートを攻めれば留飲を下げるに違いない。

スーザンは、ブルジョワの家庭に育ち、一流大学を卒業して一流企業に就職し、やがて政界に進出したエリートだ。夫のジョージも育ちが良く、一流大学の出身だ。一方、スペードは、貧しい家庭に育ち、大学にも行けず、父親の自動車工場を受け継いでこつことと金を貯め、その金をIT企業に投資して儲け、政治家に惜しみなく献金して様々なコネを作って会社を大きくした苦労人だ。

貧乏な家庭出身のたたき上げがエリートをぶちのめすところを国民は見たいのだ。

「俺の武器はそれしかない。」とスペードは割り切っている。

さて、そろそろ議場に向かわなくてはならない。

スペードはひとりでエレベーターに向かった。

丁度、一台のエレベーターがドアを開けて待っていた。

「おお、タイミングもいいじゃないか」

スペードがエレベーターに乗り込むとドアが閉まり、上昇を始めた。議場がある階のボタンを押しても停止せず、どんどん上がって行く。

「おい、止まれ」と叫んでも停止せず、屋上まで行ってようやく停止し、ドアを開いた。

エレベーターのドアが開くと、もうもうと湯気が立っていた。湿度が異常に高い。

だんだん目が慣れてくると、裸の女性たちが入浴していることが分かった。

女性たちもスペードに気が付き、大声をあげ、頭から大量にお湯を掛けられた。

途方に暮れていると、やがて駆けつけた従業員に取り押さえられた。

一生懸命弁解したが、英語が通じる相手はいないらしく、パトカーに乗せられて、警察署に連行された。

しばらくすると、英語の分かる刑事がやってきて、尋問が開始された。

スペードは、名前を名乗り、身分を説明した。

すでにお風呂にいた女性たちへの質問を終えていた刑事は、

「目撃した女性たちの証言によると、突然エレベーターのドアが出現して、そこからあなたが出てきたらしい。間違いないか?」と聞いた。

「間違いない。ここはどこだ?」

「ここは、日本の群馬県にある伊香保温泉です。あなたが現れたのは、女湯だったので、大騒ぎになった。」

「何が何やら分からないが、国に帰してほしい。」

「一旦落ち着いたエレベーター騒ぎがまた起こっているらしい。状況からするとあなたも被害者だと思われる。あなたの写真を大使館に送って確認してもらったところ、スペード大統領で間違いないようです。」

「そうか。」

「現地では、突然国会を放棄して行方不明になったとニュースになっているようです。大使館から迎えが来るそうです。」

「ところで」と刑事は言った。「着替えた方がいいですね。びしょ濡れです。」

スーツをクリーニングする間、警察官の私服を借りることになったが、スペードは大柄なので、体にあう洋服は署内にはあまり種類がなく、大学の相撲部に所属していた警官のピンクのジャージを着せられた。

「ピッタリだ。」とスペードは言った。「胸についているこのネズミのようなイラストはなんだい?」

「それはピカチューです。」と婦人警官は言った。

大使館から迎えがくると聞いて、ようやく一息ついた。

迎えがくるまで2時間程度かかるらしい。風呂でも入るかな、とスペードは思った。

「風呂に入りたいのだが」とスペードは言った。「女の裸を大量にみたら、何だかムズムズしてきた。日本にはソープランドというのがあると聞いたことがある。この辺にもあるかい?」

「ありますが」と刑事は言った。「それ、警察で聞きます?」

頭からお湯をかけられてびしょ濡れになった写真や、ピカチューの派手なジャージを着た写真がS N Sで世界中にばら撒かれていることにスペードが気がついてたのは、帰国して飛行機のタラップを降りた後だった。


3 ロックスター ジョニー・オースチン

世界的なロックスター、ジョニー・オースチンは、自らの70歳の誕生日を祝うワールドツアーの最中だった。どこも満員の盛況だった。

今日は、ツアーの最終日をニューヨークで迎えていた。

セットリストを変更し、最初からヒット曲のオンパレードで、ガンガン行く予定だった。

「今日は最初から総立ちだぜ。」ジョニーは気合十分だった。

今までにグラミー賞を8回受賞し、その他にも各国の様々な賞を受けてきた。

アルバムを発表すれば賞賛の嵐だし、街を歩けば憧れの目で見られる。

言い寄ってくる女性にも事欠かない。

言うことのない人生だ。

しかし、なぜか満たされない思いがある。

ジョニーの曲は、すべてある一人の女性に捧げられたものだった。そのことは誰にも話したことはなかった。

今までに3回結婚し、3回離婚してきたが、その誰でもなかった。

また、初めてデートした相手でもなく、初めてキスした相手でもなかった。

それは、中学校の時に1年だけ同じクラスになった女の子だった。彼女が忘れられなくて、ずっと心の中で求めてきたのだ。

同じ学校にいたのは1年だけで、その娘はどこかに引っ越して行った。

それっきり、60年近く会っていない。どこにいるのか、生きているのか、死んでしまったのかも分からない。

しかし、いつも彼女はジョニーの心の中にいた。

ただ、そのことを若い頃は忘れていた。彼女は、ジョニーの意識の底深くにいた。

デビューした頃は、プロテスト・ソングを歌って社会派と言われた。歌は売れたし、評価もされた。神様みたいに言われたこともあった。

しかし、何か違和感があった。自分が表現したいのはこんなものじゃないと言うような。

だが、それが何なのか、分からなかった。

一生懸命考えたり、メディテーションをしたり、人と話したり、本を読んだりしても分からなかった。

ただただもどかしかった。

それが、あるとき明け方に目が覚めてベッドでぼんやりしていると、彼女のイメージがぽっかりと浮かんだ。

教室で授業中に校庭を眺めている髪の長い少女の横顔。

「ケイト」ジョニーは声に出した。「そうだ、ケイト・ウオーカーだ。」

憑き物が落ちたようだった。

ケイトを思って詩を書くと、素直に自分の気持ちを表すことができた。

それ以来、どんな時もケイトを思って詩を書き、曲を書き、歌ってきた。

しかし、彼女を捜すことはしなかった。

俺が思っているような女性はどこにもいないと思うことにしていた。俺は勝手に理想の女性像を作ってしまっているのだ、と。

さあ、そろそろ出番だ。

イントロが始まった。ドラムが力強いリズムを刻む。ギターやホーンが被さる。客の歓声や手拍子も聞こえる。

スタッフに背中を押されて、セリ上がりのエレベーターに後ろ向きに乗って目を瞑った。使い慣れたレスポールを抱いて。

ライトを感じる。

大歓声に包まれたその瞬間、不意に音が聞こえなくなった。

目を開けて振り向くと、知らない部屋の中にいた。

白い服を着た髪の長い女性が椅子に座って、外を眺めている。

ジョニーは訳が分からなかった。

ステージはどこに行った?

満員の観客はどこだ?

音のない世界だった。

静寂の中に、知らない女性がいた。

ジョニーは混乱の中にいた。

しかし、女性の横顔を見ていると、見たことがあることに気がついた。

歳をとっていてもう少女ではないが、とても懐かしい思いに囚われる。

女性がジョニーに気づき、振り向いた。

目が大きく見開かれ、驚きの表情が浮かぶ。

しかし、やがてにこやかになった。

「ジョニー・オースチン」彼女は言った。

「俺を知ってるのか?」

「そりゃ」彼女は言った。「スーパースターだから」

「俺も君を知ってるように思うのだが」ジョニーはおずおずと言った。「どこかで会ったかな」

彼女は微笑んだ。

「覚えてくれていたの?中学生の時のことなのに」

やはりそうなのか。ジョニーは嬉しくなった。

「もちろん覚えているよ。ケイト。君なんだね」

「ケイト、俺は死んだのかい?」

「ここは天国じゃないわ。」ケイトは言った。「ここは、ベルンの旧市街よ。あれから、ずっとここに住んでいるの」

「俺は君に聞きたいことや言いたいことがたくさんあるんだ」

「時間はいくらでもあるわ」ケイトは微笑んだ。「その重そうなギターを下ろして、こっちに座って」

ジョニーは、どんなにケイトのことを想ってきたかを話したかった。自分の曲は全部ケイトのために作ってきたものだと言いたかった。そして、君が大好きだと言いたかった。

でも、何も言うことはないような気もした。

ジョニーは重いレスポールを降ろして、ケイトの前の椅子に座った。

二人は、ただ見つめあった。


4 ミシェル・アデールのインタビュー

ミシェル・アデールは多忙だった。

エレベーターが暴走する事件が起こってから、何かというとコメントを求められたり、テレビ・ショーに引っ張り出されたりするからだ。

その日も、フランスのテレビ番組でインタビューを受けていた。

女性アナウンサーが質問する。

「エレベーターの暴走が止まりません。もともとは、東京の小さなエレベーターが乗客を外国に連れて行ったのが始まりでしたが、その時はそのエレベーターの固有の問題だとみなされて、ビルごと解体して問題は終了したと思われました。」

「そうです。不思議な現象が立て続けに起こりましたが、原因を突き止める前に解体されました。ベンガル虎を東京に運んできたりして手に負えなくなったからです。」

「ところが、その後、世界中のエレベーターが暴走し始めました。主な事件だけ紹介しますと、東京の会社員がチベットの山中にある寺に運ばれたり、スペード大統領が日本の温泉に運ばれたり‥」

「日本の女性は大人しいからお湯をかけられただけで済んだけど、私の入浴中にあんなのが現れたら、思い切り右フックをかましてお湯に沈めてやるわ」

「脳細胞は5分くらいの酸欠で壊死するそうですから、あまり過激なことはしないようにしてください」

「いいのよ。もともとクルクルパーなんだから」

ミシェルは人差し指でこめかみのあたりをくるくる回して、パーと開いた。

「それから、エンパイヤステートビルの展望台に登ろうとした客がハワイのワイキキビーチに運ばれる事件もありました。それまでは一度に一人だけでしたが、その時は12人が一度に運ばれました。その後も、ロックスターのジョニー・オースチンがコンサート会場のせりあがりのエレベーターに乗ったきり行方不明になっています。このエレベーターは、役者を地下から一階に運ぶためのもので、ドアもありません。それまでのエレベーターとは異なる簡易的なものでした」

「ジョニーに関しては、音楽仲間や親しい人からの電話には出ているようだから元気にしているんじゃないかしら。スイスにいるとも聞いたし。居心地の良いところにいるから出てこないんじゃないかしら。私はそう思いたい」

「ジョニー・オースチンに関しては、本人が何か言うのを待つとして、こうしたエレベーターの暴走が世界中で起きていて、はっきりエレベーターの暴走によるものと認定されたものだけで先月ひと月で158件起こっています。世界中に行方不明者はたくさんいますから、実際にはもっと多いかもしれません。なぜこんなことが起こっていると思いますか?」

「私は科学者じゃないので、科学的な解明はできないけど、最初は、事件を起こしたエレベーターが子どもっぽいって思ったの。分別のついていない子どもが何かの理由で超能力を得て、それを持て余していると考えたわけ。だから、人間が正しい振る舞いを教えてあげる必要があると思った」

「エレベーターにどうやって教えれば良いのでしょう?エレベーターが通う幼稚園も小学校もないし」

「あなたは教育というものを分かってないね。子どもは大人のすることを見て学ぶのよ。だから身をもって示すのよ。口で伝えるのではなく、実際の行動を見せることによって教える。人間の善き行いがエレベーターを健全に育てる、と考えた訳」

「今は違うんですか?」

「どうも、人間をストップさせようとしているように感じる。人間は地球の資源を使い尽くし、環境を悪化させ、他の生物を絶滅させ、挙句は自分たち自信をも滅ぼそうとしている。だから、そんな人間をストップさせようとしているんじゃないかと思うようになった」

「S D Gsの取り組みが求められているということですか?」

「S D Gsではダメなんだと思う。持続可能な開発を続けるのではなく、もっと根底的な取り組みが必要で、開発や成長そのものを止める必要があるんじゃないかしら。私たちには、そんなに時間が残されていないと、言いたいんじゃないかしら」

「具体的に言うとどんな取り組みが必要とお考えですか?」

「大量生産、大量消費をやめて、小さなコミュニティの中で協力しあってミニマムな生活をすることね。必要な量を超えた生産や流通を止めることで、電力消費や大気汚染を止められるし、人間が協力しあうことで、戦争も止められるし、差別や貧困も止められる。それに気づくべきなんだけど、なかなか人間は今の生活を止められないから、エレベーターが実力行使しているように思える」

「エレベーターがいつ暴走するか分からないので、このままだと高層ビルは使用できなくなるし、工業用のエレベーターが使えなくなると、今の生産・流通システムは見直さざるを得なくなりますね」

「色々なところに支障が出るわね。エレベーターの暴走は止められないと思うよ」

「東京の古いエレベーターが起こした事件が、今や世界中に広まり、エレベーターの種類も大きさも、構造も全く関係なく暴走しています。さて、私たちはどのように対応すれば良いのでしょうか。今日は、作家のミシェル・アデールさんにお聞きしました」


5 新しい世界

その後も世界中でエレベーターの暴走は止まらず、というよりも日に日にエスカレートしていった。

暴走はエレベーターの種類や大きさは問わず、乗っている人や物の数量や重量も関係なかった。

数十人が乗ったエレベーターがフランスからブラジルに運ばれたり、ラーメンを乗せたエレベーターが大阪の中華料理店からスペインの海岸に運ばれたりした。

不要不急の際はエレベーターに乗らないように呼びかけがなされたが、むしろ急ぐときほど乗らない方が良いのではないかという意見もあった。

どうしてもエレベーターに乗る必要があるときは、一人では乗らないことや、できるだけパスポートとクレジットカード、それにミネラルウォーターを所持するようにという呼びかけもあった。

暴走の頻度も、日に日に増加し、やがて2回に1回は暴走するという状況になり、乗れば必ず暴走という状況になるのも時間と問題と言われるようになった。

そうなると、エレベーターの使用を停止せざるをえなくなった。

エレベーターの使用禁止措置の与えた影響はすさまじく、高層ビルは使用できなくなり、工場の稼働も大幅に制限され、世界経済も停滞することになった。

それから5年が経った。美恵子は大学を卒業し、希望どおり編集者になった。小さな出版社だが、特色のある本を出す会社として知られていた。

就職祝いにミシェル・アデールから新刊を日本で翻訳・出版する権利をもらうことができたので、新人ながら会社で大きな顔をすることができた。

それは、エレベーターの暴走について考察した本で、フランスをはじめとしたヨーロッパやアメリカで大きな話題となっていた。

電気工事の西山が撮影した、ビルの天井裏に蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線の写真をミシェルが気に入り、それを日本版の表紙に使った。

露出不足で気味の悪い写真だったが、事件自体の気味の悪さを象徴しているようにも見えて評判になった。

その日、美恵子は昼過ぎに神田の家を出て作家の家に向かった。

高層ビルが使えなくなったため、多くの会社は地方に拠点を移し、どうしても必要なとき以外は在宅で仕事をするようになった。

打ち合わせもほとんどがオンラインで行われるようになったが、作家の中には、どうしても顔を合わせて話をする必要がある人もいるため、時折電車に乗って会いに行くのだ。

社員も地方に住む人が増えたが、美恵子は相変わらず住み慣れた神田の実家に住んでいる。都内に住んでいるという理由で、東京在住の作家の担当をさせられることが多い。

事件以来、神田の街の様子もずいぶん変わった。

ビジネスマンの姿をあまり見かけないようになり、街を歩く人も減った。

大学もオンライン授業が普通になり、駿河台の巨大な校舎が自慢の大学も学生の姿がまばらになってしまった。

人が減ると飲食店も減る。

美恵子が学生時代にアルバイトをしていたラーメン屋も、経営が成り立たなくなるのではないかと心配したが、大手のチェーン店が相次いで撤退したため、なんとか潰れずに生き残っている。

古くから頑張っている地元の店には頑張ってほしいな、と美恵子は思っている。

巨大な工場で料理を作って冷凍した物をチェーン店に搬送し、店では解凍して出すだけのようなシステムの店ではなく、客の顔を見てから店主が鍋を振って作ってくれる店の料理が食べたい。そういう当たり前の仕事を大切にする店には生き残ってほしいと思う。

今日は、瀬戸康太郎という小説家に会いに行く。胃がんのため自宅で闘病しながらベッドで執筆している。今年78歳になる瀬戸はパソコンを使わない。しかし、手書きでもない。古いワープロ専用機を使い続けている。今度故障したら、もう部品がないと言われているが、結構ワープロ専用機の需要もあるらしく、その修理を専門にやっている人もいるらしいので、なんとかしてくれるかもしれない。

出版社では、ワープロで書かれた原稿をスキャナーで読み込んでデータ化する。面倒だが、手書きよりは遥かにありがたい。

瀬戸は、積極的な治療は行わず、疼痛管理だけを医師に依頼している。少し前なら、救急車で運ばれて手術しているくらいの容体だが、エレベーター騒動で医療や介護のあり方は大きく変わった。

以前は、救急患者は救急車で病院に運ばれ、一階の救急処置室で処置をした後、緊急の場合は上の階にある手術室に運ばれ、あまり緊急でない場合は、とりあえず高層階の病室に運ばれた。どちらにしてもエレベーターは必要不可欠だった。

エレベーターが使えなくなって、入院治療そのものが見直されることになった。病院にはスロープが設置されたが、それでも使えるのは2階までで、手術室は1階に置かれるようになった。できるだけ自宅で治療を行い、どうしても必要な患者だけが手術のために病院に収容され、手術が終わるとできるだけ早く自宅に帰らせるようになった。

病院の時代は終わり、在宅医療が基本となった。患者の自宅に医師や看護師、介護士などのスタッフが派遣される。

手術も必要最低限となり、臓器移植などは行われなくなった。

そのため、平均寿命は短くなると思われるが、考えて見れば、もともと人間はそんなに長くは生きてこなかった。本来の姿に帰ったとも思える。

老人介護も同じで、介護士の手を借りて、できるだけ自宅で過ごし、歩けなくなったり、食べられなくなったら自然に息を引き取るという流れが普通になった。

瀬戸の家族は、手術を受けるように必死に説得したが、瀬戸の意思は固かった。

読者が待っていますから、長生きして良い作品を作り続けてください。」と美恵子も励ましたが、「もうじゅうぶん長生きしたよ。」という返事が返ってくるだけだった。

「先生、南フランスに行ってみたいとおっしゃってたじゃないですか。」

「いや、もういいよ。外国なんて行きたくない。君みたいにフランス語はできないし、と言ってガイドが付いてくるようなツアーなんか真っ平だし。」

「私がご案内しますよ。着流しで外国の街を歩いておられる様子を写真に撮って本を作りませんか。」

「いや、フランスは天国から見るからいいよ。」

という調子だった。

投げやりになっているわけではなく、人生に満足している様子だった。

「手術して、仮に一度は元気になっても、身体はあちこちガタが来ているから、また別なところを手術しなければならなくなる。古い家みたいなもんで、あちこちから雨漏りがするんだから、修理のしようがない。手術して点滴してリハビリして、また手術して点滴してリハビリして。そんな風に人生の最終盤の日々を送りたくないよ。」

作家の意思ははっきりしている。

瀬戸の家がある駅が近づいて、美恵子は席を立った。

都内に人が減って、電車の本数も減った。ラッシュアワーという言葉も聞かなくなった。ラッシュがなくなると痴漢も減った。そういえば犯罪に関するニュースも減ったような気がする。

みんながあまり急がなくなり、ゆっくり考えるようになった気もする。

高層マンションに住む人はいなくなり、多くの人は郊外の一軒家に住むようになった。土地代が安いので、広い土地に二世帯住宅を建てる人も増えた。庭に畑を作って、野菜を栽培したり、鶏を放し飼いする人も多い。

所得は減ったが、家計の支出も減り、みんなが必要十分な生活を楽しむようになった。

一部の巨大企業が余計な物を作って消費を刺激するようなこともできなくなり、貧富の格差も小さくなった。

みんなが自分なりの幸せを求めて生きるようになった。

きっと、これは良いことなんだと、美恵子は思った。

エレベーターが暴走したおかげで、人々の暮らしが大きく変わった。

今までバベルの塔のように上へ上へと伸びて行った人間は神の怒りに触れたのかもしれない、と言う人もいた。

なぜ世界中のエレベーターが暴走したのか、結局誰もその謎を解くことはできなかったが、それを受け入れることで人間らしい暮らしを得ることができたのだ。

車窓から見ると、高層ビルが解体されていた。

見晴らしが良くなるなあと美恵子は嬉しくなった。

あと数年すると、東京の景色はまったく変わってしまうかもしれない。

高層ビルも、巨大ショッピングモールも、デパートも、みんな要らないものだったんだなあ。

電車が止まり、美恵子は元気よく歩き出した。


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