70.くのう
何だか最近、ヒグレに元気がないように思う。
どこかぼんやりとしていて、心ここに在らずった感じで。
大丈夫だろうか、と少し心配になるくらいだった。
「ちゃんと寝ているの?今日も皿を割るところだったわよ?」
「す、すみません…」
小さい声で、謝るばかりである。
「危なっかしいので、今日は仕事はしないでおいて下さい」
ベルにまでそう言われてしまう始末。
一体何があったというのか。
心配になってヒグレの部屋に行くと、扉も半開きのまま。衣服を緩め、ベッドに身を投げた姿が見えた。
「何があったのよ?話せる内容なら、私が聞いてあげてもいいのだけど」
ヒグレは、ゆらりと上体を起こして。
「…お嬢は、マスターを殺せるっすか?」
ヒグレらしくない、低い声だった。
なるほど。魔王についての話を聞かされたわけだ。
「今はまだ無理ね。火力が足りないもの。でも…」
「そういうことじゃないっすよ。気持ちの問題っす」
私の言葉を遮るようにして、ヒグレが言った。
気持ち、だなんて。もう迷いなんてない。
始めのうちは、魔を斬る勇者としての本能だったが。
「あいつが望んでいることだもの。私はその願いを叶えてあげたいだけよ」
今では、そう割り切っていた。
すると、ヒグレは一瞬だけこちらに殺気じみた目を向けて。
「…死ぬっていうことがどういうことか、お嬢は分かってないじゃないっすか」
吐き捨てるように、そうこぼした。
「オレにはきっと、できないっすよ。…お嬢みたいに、強くないっすから」
殺気は消えて、むしろ弱気な表情であった。
「お嬢がマスターに留めを刺そうとしたとき…オレはきっと、マスターを庇ってしまうっすよ」
自己満足で、自分勝手に死んでしまうと。
「オレ、強くなりたいっておもってたんすよ。強くなったら、ちゃんと意識してもらえるんじゃないかって」
ヒグレがシノに特別な感情を抱いていることは、何となく分かっていた。
「竜族って、強さが第一じゃないっすか」
生涯を預ける相手としての基準であった。
「今まで言ってきたこと、全部本気だったんすよ?」
添い遂げたいと、大好きだと言っても。あいつには届かなかったそうだ。
「やっぱり、オレが男だからっすか?」
生まれ持った性に、悩んでいた。
「オレが半血じゃなくて、一人前の竜だったら、よかったのに」
変えられないものに、苛まれていた。
「お嬢みたいに、可愛げのある人間だったら、何か違ってたっすか?」
実際に、姿を変えることはできるが…。
「一度だけ、と思って使ったんすよ。でも…使った瞬間、色んなことが、頭に蘇ってきて…。全身拒絶反応して、腹の中身が全部出ちゃったんすよ」
誰にも言えず、隠し通して。
…その苦しみがどれほどのものか、計り知ることもできない。
「いつも冗談みたいになって、茶番になって、でもオレ、一回も嘘は言ってないっすよ?」
自分で自分を受け容れられなくなっていた。
シノが軽く受け流すたび、胸のあたりがちくりと痛んだのだという。
「期待しちゃったんすよ。竜の番の条件を知って。だから強くなろうと思って…でも強くなったら、その先は、マスターの願いは…!」
ぽろぽろと、ヒグレは涙をこぼした。
「こんな半端者が、ここにいていいんすか?」
自己の存在の理由すら、分からなくなっていた。
「ええ、もちろんいいわよ。こんな私がここにいるんだもの」
ここにいていいとか、いてはいけないとか。そんな理由どこにも存在していないのだ。
ただ自分で勝手に作り上げてしまっただけである。
…私だって同じことを考えたのだ。気持ちはよく分かる。
「男だとか、半血だとか。そんな理由で諦める必要ないわよ」
私だって、同じようなものなのだから。
「姿も、寿命も、番の基準も違う私が諦めてないのよ?それとも、異性なら異種族の壁も関係ないとか、おかしな話でもあるのかしら?」
ヒグレは、ぽかんとした表情をしていた。
「あいつが時間をくれたのなら、悩んでもいいと思うわ」
それがたとえ、答えのない問いであったとしても。
「あいつは、あなたにヒグレとして生きてほしいと思ってる。…自分らしく生きられないって言ったら、あいつもきっと悲しむわ」
それは、たった一つヒグレに望んだことだから。
「私だってあなたじゃないし、あなただって私じゃない。あいつはあいつ。お互い思うことはバラバラで、完全に分かり合うことなんてできないもの」
でも、悩むことそのものが悪であるはずがない。
悩み苦しみ抜いた先の道を求めるなんて、シノも本当に性格が悪い。
「でも、一つだけならあなたにしてやれることもあるわ」
手を掲げれば魔法陣が浮かび、愛刀が目前に現れた。
赤の鞘を払い、銀の刀身をヒグレの喉笛に突きつける。
「あなたが望むのなら、その首を斬ってやるわ。安心なさい、脊髄も一瞬で断つから」
ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。
「生まれ持ったもの、全部抜きにして考えなさい。今ヒグレという唯一の存在として、どうありたいか」
すると、ヒグレは目元の涙を拭って。
「まだ、生きていたいっすね」
大泣きした余韻が残った声だった。
「まだ全然分からないことばっかりっすけど…このままお嬢に勝ち逃げされるってのも、悔しいっすから」
私が刀を下ろすと、ヒグレはベッドから立ち上がった。
「よくよく考えれば、お嬢も全くそういう目で見られていないし、オレにも十分勝機はあるっすよね」
「ぶっ叩くわよ?」
気持ちの浮き沈みの激しい子である。私もひとのこと言えたものではないが。
「殺すか殺さないかの二択じゃない可能性だってあるっすからね」
二択じゃない可能性だなんて、一体…。
「この借りは、いつか絶対返すんで」
強がった笑みのも、ほんの少し滲む悔しさも。その全てがヒグレの一部であるのだった。
「こう見えて、往生際の悪さのは定評があるっすよ?」
「勇者の底意地の悪さを覚悟しておくことね」
でももうしばらくは、戦友かつ好敵手として。
こつん、と拳をぶつけ合うのであった。




