6 シンシア視点
私はゆっくりと目を覚ました。
昨日の事が嘘だったかのようにスッキリした目覚めで体が軽い。
パメラがいつもの様に朝の白湯を持ってきてくれたので
本当に夢だったかのように思える。
けれども身だしなみを整えてもらってる時に鏡に映る、
涙の跡で目元が腫れたみっともない自分の姿は
ニコラス様からの婚約破棄は夢ではないという現実を物語っていた。
その事実は私の心を素通りし何の感傷も抱かない。
まるで昨日流した涙と共に全ての感情が溢れ出てしまい
心にぽっかりと穴が空いてしまったかの様だ。
ぼんやりしているとパメラが私の肩に手をおいて優しく声をかけてきた。
「朝からそんなお辛そうな顔なさらないでください。
今日は休日ですからゆっくりいたしましょう?」
パメラは髪をとかしながらニコニコと優しい声をかけてくる。
彼女はいつも明るくて嫌な事があった時、何度ほっとさせてくれたか分からない。
けれど、今すぐに話さなければいけない事がある。
場合によっては彼女にも迷惑がかかってしまうのだ。
「ねえパメラ、昨日のパーティーの事だけれどね
その……」
「大丈夫です。クラリス様から何があったのかお聞きしています」
そういってパメラは私の肩をポンポンと叩く。
いつも緊張をしているせいか肩が凝りやすい私が何度もマッサージを頼むので
無意識の癖になってしまっているらしい。
そういえば、昨日のクラリスの現れ方はとても強烈だった。
昨日のことを思い出しても悲しくならないのは
突然現れた彼女の印象が強すぎたせいだろうか?
「…あの方と前から交流あったかしら?」
「ご挨拶はした事くらいはあるはずですが…」
「なんでわたしの事を擁護してくれたのかしら?
何か意図があると思う?」
「……わかりません
突発的な行動のようでしたので。
ただ」
「?」
「クラリス様は信頼できると思います」
パメラが断言する事は少ない
主のわたしに最終的な判断を委ねるためだ。
思わず振り返って彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。
「クラリス様は今、魔力枯渇による貧血で伏せていらっしゃっています。
そんな事になるほどシンシア様のために奔走してくださったのです」
パメラの言葉を聞いて驚いた。
それほどの魔力の枯渇は場合によっては命に関わる。
昨日は私が寝てしまったあと一体何があったのか、クラリスとはどういう人物なのか
詳しく話を聞くことにした。
クラリスの実家、ハーヴィー家の歴史は血塗られている。
ギルベ川を隔てたすぐ隣にアナヴァスト帝国がある領地は広大な三角州の中にあり
河川からもたらされた肥沃な大地に加え、北に位置する我が国の
貴重な不凍港を有し重要な交易拠点だ。
そのため、帝国による侵略を何度も受け
多くの犠牲を費やしてきた。
そういった経緯があるため、ハーヴィー家は武人の血筋であり
クラリス自身も高い攻撃力の魔法を持っていると聞く。
だが小さな彼女が戦場に出られるはずもなく、何よりも長男が居る。
立場としてはそれほど強くないようだ。
学園でもその実力を周囲に見せることは無く
隣接する領地の友人や許嫁たちとごく狭い交流があるだけの目立たない存在だった。
そんなクラリスが見せたという昨日の魔法は、非常に特異なものだ
中級儀式魔法である転送と同等の魔法を個人が、
短時間に往復分の二回も行使したとパメラは言う。
もし事実であるのなら宮廷魔道士では特級扱いを受ける。
公になれば相応の地位に就くことが出来るだろう。
「それだけの実力を持ちながら、目立たないようにしてきたのには
なにか理由があるのかしら?」
「クラリス様は今しがた思いついたかのような事をおっしゃっていました。
それに、ハーヴィー家からそのような能力の報告は受けておりません」
「おそらく嘘でしょうね。
その魔法に必要とされる知識はそんな生半可なものではないわ
家族にも秘匿しているような、隠された能力だったのかもしれない」
「家族に秘密にする理由があるのでしょうか?」
「血みどろの戦いに身を置きたくないとか、政争の中心に居たくないとか
家督を継ぐ長男の地位をいたずらに脅かしたくないだとか色々と考えられるわね。
いずれにせよ、面倒な事に巻き込まれたくないというのが本当の所じゃないかしら?
あまり他人と関わりたくない性格みたいだし」
昨日、クラリスがさっさと帰ろうとするところを私が引き止めたときの
彼女のぽかんとした顔を思い出して、思わず顔がほころぶ。
「でも、それを私には見せてくださいました」
「…そうね。
どんな考えを持っているのか実際に会って話さないとわからないのかもね。
クラリス様に会って直接お礼がしたいのだけれど、出来るかしら?」
「かしこまりました」
一礼して去っていくパメラの背中を見ながら
私はまだ疑問が残っていた。
ほとんど話したことがないのに何故わたしの部屋の場所を知っていたのか
それどころか、ソニアを含めたわたしの周りの人間関係も
よく知っているような口ぶりだった。
彼女は一体何者なのだろう?
部屋に入るとクラリスは横になったままだった。
身を起こす事さえままならない状態なのだろう
会ってくれること自体が驚きである。
侍女が声をかけると
眠たそうな顔をこちらに向けてくる。
「シンシア様このような姿で申し訳有りません」
「私の方こそ、こんな時に押しかけてしまい申し訳有りません。
でも昨日私の為に奔走していただいたことや
パーティーでの事もありますから、どうしてもお礼を言いたかったのです」
「差し出がましい真似をしてしまった自覚はありましたから
そう言って頂けるだけで十分に嬉しいです」
クラリスは、嬉しそうにふにゃっとした笑い方をした。
幼い顔立ちと合わさってその表情は可愛らしい。
彼女は布団から手を差し出すと、わたしの手を取る。
温かい手がまるで労るように包み込むので彼女が心配しているのが伝わってくる。
とても小さな手だ。
こんな小さな身体なら面倒事に巻き込まれたら身が持たないだろう。
社交界から距離を置いているというのもわかる気がする。
私は罪悪感で胸が苦しくなる。
「…クラリス様と私はほとんど話したことがありませんでした
それなのに、何故あの時庇ってくださったのですか?」
貴族同士の間でこんな質問しても耳障りの良い言葉で
はぐらかされてしまうのは分かっている。
けれど、聞かずには居られなかった
「わたしはシンシア様が王妃になるためにずっと努力してきた事を知っています。
そんな姿をわたしはとても愛しく、尊いと思うのです。
だから、そんなあなたの悲しい顔が見たくなかった。
それだけです」
私は、それを聞いて顔どころか体中が熱くなり
全身から汗が吹き出すのを感じた。
ニコラス様に対してさえ、こんなにもハッキリと好意を告げる事は
しなかったしされなかった。
こんな時どんな風に返せば良いのかわからない
でも、すぐに返事しなければいけないのはわかる
パメラを見ると完全に固まっている。
クラリスの侍女に至っては、ふぇぇっ?なんていう変な声が出ている。
「これから大変ですけれど、一緒に頑張っていきましょうね」
わたしが必死に言葉を探していると
そう言って、答えを聞く前に彼女は再び寝入ってしまった。
「今のはどういう意味なのでしょうか……?」
再起動したパメラがぽつりとつぶやく
「わ、わからないわ
でも私のためを思って行動してくれたのは
確かみたい…ね」
私はクラリスの寝顔をじっと見つめる
自分の人生が破滅してもおかしくない行動をただの好意だけで行えるのだろうか?
だが、とても策略を図るような性格には見えないし
一緒に頑張っていこうと、そう言ってくれた彼女を疑いたくはなかった。
それは、ニコラス様に何よりも言ってほしかった言葉だったから。