新米ぼっちは理解する5
迷惑をかけたくなかった。僕が原因で他人に迷惑をかけるのは嫌だった。
黒瀬くんは机に置かれたゴミに特別大きな反応をすることなく、ゴミを捨て席に着いた。
そんな黒瀬くんのなにかが獣飼さんをイラつかせたのだろう。獣飼さんは黒瀬くんをただ罵倒した。いつもの高圧的な獣飼さんに似つかわしくない覇気のない声。彼の何がそうさせたのだろうと莉佐は不思議に思った。
獣飼さんに罵倒された黒瀬くんは哀しそうな顔を……せず、顔を赤くさせ怒りに狂……わず、自分を罵った獣飼さんを嘲笑うように鼻で笑った。
……なんで? なんで笑えるの? 人に馬鹿にされて気持ち悪がられて、なんで笑えるの? いつも一人のはずなのに、僕と同じはずなのに、どうしてそんなに強くいられるの。
怖くないの? いじめられるかもしれないのに……。何をされるかわからないのに……。僕達には味方してくれる人なんていないのに……。どうしてそんなに強くいられるの。
知りたかった。知らなくてはいけなかった。いつまでも弱いままじゃいられないから。迷惑をかけていられないから。
「獣飼さん、もういいでしょっ」
言葉はスラリと出て来た。詰まることもなく、吃ることもない。
だが彼女は止まらない。彼女は手を振りかぶる。止めようと手を伸ばしても間に合わなかった。
風を切り彼女の手は彼の方へと向かい、そのままの勢いで彼のイヤホンを奪い取った。
ホッと安堵し息を吐いた、流石に暴力を振るったりはしないか。
だがそれと同時に莉佐の心中に怒りも込み上げる。じわじわと熱が伝わる様に血液が熱くなっていく。なぜイヤホンを奪い取ったのか。彼は無関係じゃないかと。
しかし、そんな怒りの熱さはすぐに虚空へと雪のように消えて無くなってしまう。
「えっ……?」
音が聴こえた。
すごく懐かしい音。
それは彼のイヤホンから漏れ出た音。麻里亜の手に握られたイヤホン。そこから流れ出るメロディー。ピアノを昔やっていて耳の良い莉佐でもギリギリ聴こえる程度の小さな音。でもそれはきっと耳が聴いたんじゃなくて。
そのメロディーのあまりの懐かしさに視界がぼやけた。頬を冷たい何かが伝った。
もう怒りなんて、痛みなんてなかった。あるわけなかった。
それは昔、莉佐がまだ小さく、ピアノを熱心に練習して、友達もいた頃。
何度もお父さんが聞かせてくれた曲。
辛い時、悲しい時、泣いて帰ってきた莉佐にお父さんがアレンジして弾いてくれたあの曲。
「莉佐」
小さな頃の光景が脳裏に蘇る。
莉佐はピアノを弾くお父さんの膝に座っていて、それをお母さんが微笑みながら眺めていた。
「なぁに? お父さん」
お父さんの膝の上に乗った莉佐はお父さんの顔を見上げながら間抜けな声でそう返事を返した。
「もし莉佐に悲しいこと、辛いこと、嫌なことがあったらこの曲を思い出すんだよ」
「なんでぇ?」
「そしたらきっと誰かが変えてくれる。莉佐の悲しい気持ち、辛い気持ち、嫌な気持ちを変えてくれるから」
「んー、どうして変えてくれるのぉ?」
「この曲はね、僕の演奏会にお母さんが初めて来てくれた時に演奏した曲なんだ。うーん。つまりお父さんとお母さんの思い出の曲だから、かな」
確かにそう言ってお父さんは照れ臭そうにはにかんだ。
「パーパ。そんなこと言っても理解できるはずないでしょっ」
その時の莉佐はまだ小さかったから、理解出来なかった。でも憶えていた。
「そ、それもそっか。難しい事言ってごめんな、莉佐」
「ううん! 僕わかったぁー!」
そう返事をしながらも、この時の莉佐は何もわかっていなかった。ただお父さんにほめられたかっただけ。
「おー、わかったのかぁ。莉佐は賢いなぁ……。あれ、今僕って……」
「パパの真似でもしてるんじゃないかしら。……でも女の子なのに僕ってのはどうなのかしら」
「いいじゃないか、可愛くて。そうだよねー、莉佐」
「えへへ、僕かわいーい」
…………あぁ。
あぁ。
あぁ。そうか。
そういうことか。……全部、全部、やっと理解した。
理解出来た。
何故、僕の思い出であるこの曲を彼が知っていたのかなんて今はどうでもよかった。重要なのは、大切なのは、何故知っていたかじゃないから。
きっと今まで彼は見守ってくれていたのだ。
僕が自分で「自分」を見つけられると信じて。
だけど僕がいつまでたっても変わらなかったから、変われなかったから。黒瀬くんはきっかけを作ってくれた。僕の思い出の曲で。
全ては彼の思い通りだった。
いつも教室で昼食を食べる彼が今日は教室にいなかったのも。
彼が帰ってきたタイミングが獣飼さんがゴミを投げ、彼の机に乗った直後だったのも。
獣飼さんがイヤホンを奪い取ったのも。
彼のイヤホンから僕の耳に思い出の曲が聴こえたのも。
きっと全部が全部、彼の思惑通りだった。彼の掌の上で転がされていたんだ。
どうやってかなんてわからない。
だけどこんな偶然あり得ない。こんなにも偶然が重なるなんてありえない。
偶然じゃない。なら答えは決まってる。
必然。
必然なんだ。彼が起こした必然。すべてが彼に仕組まれていた。
今思えば、黒瀬くんが時折こちらを見ていたのは僕を見極めるためだったのかもしれない。
理解出来たならあとは動くだけ。度胸なんていらない。必要ない。
莉佐は手を伸ばす。ここまでしてもらって手を伸ばさないなんて、そんな事は自分自身が許せないから。闇を払い彼が伸ばしてくれた手を強く強く掴む。
小さな頃から心を貪り続けていた呪いが『影』によって解かれていく。
莉佐は未だに潤んでいる瞳を擦り、拭い、前を向いた。
「あっ、ちょっ」
「黒瀬くん、これっ」
獣飼さんが持っている黒瀬くんのイヤホンを取り返し、黒瀬くんへと返す。彼は何も言わず軽く会釈するばかり。だけどその口はわずかに笑っている気がした。
それはまるで莉佐が前に進めたこと、変われたことをを喜んでいるかのようで。
彼が笑みを浮かべていることに気づいて無意識に莉佐の頬も上がった。
「は? 何? なんなの? 一井さん、勝手にうば」
「僕この後行く所があるって言ってたよね。行かせてもらうね」
獣飼さんの言葉を遮って、早口にそう告げる。
まだ彼女への、いじめられるかもしれないという恐怖はある。彼女にとって今までのはいじめの内には入ってなかったかもしれないけど。
それでも、やっと分かったのだ。このままじゃいけないと。
教えてくれたのだ、彼が。だから前を向いて歩かないといけない。止まっていたら呆れられてしまうから。チャンスを無駄には出来ない。
「ありがと」
教室を出る前に彼の席へと近づき、唇を彼の耳にくっつきそうなほど近づけてお礼を告げる。
変わるチャンスをくれて。
前を向く勇気をくれて。
見守ってくれて。
導いてくれて。
――ありがとう。
ドアを潜る直前、背後から獣飼さん達の声が聞こえたがそれは耳に止めなかった。
暗闇の先にはこんなにも明るい暖かい光があったんだ……。光は影を優しく抱擁のように包み込む。でもそうじゃない。
莉佐が望むのは黒。七色の虹でも暖かい光なんかでもない。
教室を出ていつもより断然清々しい気分で廊下を歩いていると前から見覚えのある女子生徒が床を鳴らし歩いてきた。漆黒の綺麗な髪がよく目立つあの人は……。
ゆっくりと、されどコツコツと自分の存在を主張しながら莉佐の方へと向かってくる。
「ようこそ、『影の領域』に……」
黒をなびかせた彼女はすれ違いざまボソッと耳元でそう囁いた。
あまりの驚きに勢いよく振り返る。だがそこにもう彼女はいない。
「あの人、生徒会長だよね……。なんで生徒会長が……」
完全無欠の才媛。生徒会長はそんな言葉がふさわしい人間だ。
彼女はいい意味で人の目を浴びる存在。この学園に彼女を崇める集団もいるぐらいには人を惹きつける天性の才があるといってもいい。自分の道すら今やっと開けた莉佐とは違い、全てを最初から得ているような人物。
そんな生徒会長がどうして……。影の領域って一体……。
「あっ!」
そういえばと、彼の噂の一つを思い出す。彼の噂の中に生徒会長がどうたらって噂があったはず……。莉佐は記憶を遡る。
『生徒会長すら学園入学すぐに手中に収めた』
なるほど、と目を閉じて静かに頷いた。あのありえない眉唾な噂は全て真実だったんだ。じゃあこの学園は彼の――。
前までならありえないと一笑に帰す話。
だけど彼ならありえるかも、と莉佐は少し声に出して笑った。僕を救ってくれた、導いてくれた黒瀬くんなら、ありえるかもと。
それにしても『影の領域』か……。
いつも一人、だけど不思議と何もかもを知っている彼。まるで影のように。そんな彼に『影』はふさわしい。
僕を導いてくれた。
生徒会長もきっと彼に救われた。
ならばと、莉佐は理解した。彼の噂はきっと嘘でもなんでもないんだと。誇張も脚色も一切ないことを。
お父さん、思い出すって形ではなかったけど、それでもこの曲が僕を変えてくれるきっかけをくれた……。お父さんの話、本当だったよ。
僕も、もう一度……お父さんみたいなピアノを……。
廊下を歩く今でも、彼の聴いていた曲が未だ胸の奥で鳴り響き莉佐を励ましている気がした。
作曲者はショパン。曲名は―――
『革命のエチュード』




