生徒会長は空を飛べない2
放課後、教室に残って何かの紙を睨みつけている彼を羽独紫音は静かに見つめていた。
影春学園高等部エリート科所属、羽独 紫音は完璧な生徒会長だ。
紫音は周囲からそう評価されているし、実際にそう評されていても問題ない程に彼女は完璧だった。
影春学園には、様々な「科」が存在する。スポーツ推薦で入学した「スポーツ科」から始まり、いくつかの「科」が存在している。その中で、紫音は偏差値が普通科よりも高い特待生のみが配属される「エリート科」に在籍している。が、その「エリート科」ですら彼女には本来相応しくない。
勉学、運動共にトップクラス。
黒より黒い漆色に染まった艶やかな髪に凛とした整った顔立ち。才色兼備。容姿端麗。文武両道。
天は二物を与えずという言葉を彼女は真っ向から否定する。紫音はそんなくだらない評価を人伝てに何度も聞かされた。
『才』は生まれる瞬間、神による気まぐれの賽によって決められる。
羽独紫音は何者にも眩しすぎるほどに優秀だった。才のある者から見ても彼女を遠いと感じさせる程に。
羽独紫音は孤独だった。
羽独紫音は余りにも優秀で、余りにも完璧で、余りにも欠点が無さ過ぎた。
何をしても最低限というべきか、周囲の人間以上の成果を残して来た。熱心に練習に取り組めばその道の人から誘われ、整った顔だちのお陰というべきか、せいというべきか、モデルなどにも頻繁にスカウトされた。
羽独紫音は完璧で優秀ゆえに孤独だった。
才は時に恐怖を抱かせる。
力は恐怖を抱かせる。
何でもできた彼女は常に憧憬の念と共に恐怖を、怯えを、畏怖を周りに抱かれて来た。
自分が何年もかけ、届いた領域に彼女はいとも容易く辿り着く。少なくともそれは周りから見れば息をするように簡単に見えた。
そんな彼女を誰もが恐怖し、憧れ、嫉妬した。
彼女と競えば誇りは消える。夢が潰える。努力を否定される。上には上がいると嫌でも実感させられる。努力は才能にかなわないと理解させられる。
紫音と関わった皆がそう思った。そう語った。
彼女がまるで才能の上に胡座をかき一切の努力をしていないかのように。
誰も自分を分かろうとしない。
知ろうとしない。
理解しようとしない。親すらも自分を理解しようとはしてくれなかった。
紫音はそれを恐怖した。
小さな頃からテストをすればいつも満点、運動会の徒競走では一番乗り、絵を描けば毎回受賞作品にノミネートされ、音楽を奏でれば周りを魅了した。
だからだろうか、それが当たり前になったのは。努力を知らず、知ろうともせず、それを当たり前と享受する両親と周囲の有象無象。褒めてくれていた両親や友達はもうどこにもいない。
誰にも知らぬ所で努力している可能性も一切考慮せずに、否、考えたくなかったのかもしれない。
全ては才のおかげだと。
違う。
違う。違う。
違う。違う。違う。
違う。違う。違うっ。違うっ!
私は『才能だけ』の人間なんかじゃないっ!
人が、誰かが見ていないと、この世界は自分の頑張りを、努力を評価されない。評価とは周りがするものだから。自分の努力は伝わらない。
大嫌いな嫌悪すべき狂った世界。
紫音は世界を呪った。色の消えたつまらない世界を。
いつも孤独だった。隣を歩く者は誰もいなかった。
誰よりも前を歩いている、周りはそう私を評しているはずなのに、自分では暗い何も無い虚無の世界に独り取り残された気がしてならなかった。
ズズッ、と何かを引きずったような音がした。
彼が椅子を引いた音だ。彼は立ち上がって教卓にプリントを置いた。そして一度机に戻りカバンを手に取った。帰宅するのだろう。
彼に見つからないように彼がいた教室とは違う教室に入り紫音は身を隠した。
彼の足音が遠くなった事を確認してから、先程彼が出てきた教室へと紫音は入った。
教卓へと進み、彼が置いたプリントを手に取る。そこには「将来の夢について」と書かれていた。
だが将来の夢を記入する欄の三つの内、肝心の一番上の欄は空欄で、その下の二つの欄にはサラリーマン、公務員と書かれていた。
彼にはふさわしくない、らしくない夢だと紫音は思った。
自分のバッグから筆箱を取り出し、中を漁りデコレーションの一つもないシンプルな黒のシャープペンシルを手に取る。
そのまま彼のプリントの一番上の空欄に自分が思い描く彼にふさわしい職業を記入した。
「んっんっ……!」
これで良しっ! と紫音は満足気に大きく頷いて、急いで彼の後を追った。
もうオレンジ色の太陽が姿を隠そうとしていた。そんな中、紫音は彼の十メートルほど後方を足音を消しながらついていく。
彼が歩くたびに影が蠢く。
その度に影が伸びて彼の影と重なればいいのに、と紫音は自分の影を見つめここにはいない誰かに願う。
部活が終わるには中途半端な時間。かといって用のない人が学園に居座るには余りにも遅い時間。今この場には紫音と彼以外に人の流れはない。
駅までの道を二人きりで歩む。
彼の早い歩行速度が少しだけ憎らしい。出来るならこの彼と二人きりの時間がずっと続けばいいのにと黒い鴉が鳴く夕暮れの空を見ながら紫音は願う。
なんだか願ってばかりだ、と少しおかしく思って紫音は口元を押さえながらクスッ、と微笑んだ。
やがて彼と二人きりの紫音にとって狂おしいほど幸せな時間は終焉を迎える。駅に到着したのだ。
紫音は駅に着いてから彼を先回りし、彼より先に彼がいつも乗る七号車目の電車が停車する場所まで進んだ。少しして後ろに彼が到着する。
彼が後ろに居てくれるこの瞬間を紫音は幸福に思うと同時、酷く緊張する。
緊張で足がプルプルと産まれたての子鹿のように震えそうになる。だが彼にそんなみっともない姿を見せるわけにはいかず、紫音は足が震えないよう静かに肺いっぱいに息を吸いこんだ。
電車が到着すると紫音は一目散にある場所を目指す。
いつも彼が立つ場所の目の前の席だ。
この号車に搭乗する人数は少ない。だからいつも空いていて席に空席がある。
席に着いてバッグから本を取り出し軽く俯いた。
本を読むふりをしながら上目遣いに紫音は目の前に立つ彼を見つめる。
彼を見ただけで胸がトクントクンと脈打つのが分かった。心臓が自分でも制御しきれない。この鼓動が彼に届いてしまっているのではないかと思うほどにうるさい。
紫音は両手で持っていた本を片手に持ち替え、空いた片方の手で胸に触れた。
あぁ、ずっと変わらない、色褪せない。鮮やかに咲き誇る幽玄なこの気持ちは永遠に。
周りから見たら彼は普通の男の子に見えるかもしれない。
それでも紫音に取っては――。
中学二年の六月八日。
紫音は今でも忘れない。あの日の事を。