70
ミイラ男の体は、明らかに部品が足りていない。腕も足も、眼球だって片方だけ。体もほとんど揃っていない、歯抜け状態だ。それで動いているのは、もはや執念だけではないだろう。激しい憎悪が彼を突き動かしているのだろうか。
いや、そんな事はどうでもいい。何度も言うが、私の力でこのミイラ男はどうにもできない。
まずい。
非常に、まずい。
逃げるか。飛んでいくにしても、一番近くの連合王国艦隊までは相当距離がある。いや、もし逃げて行ったとしても風のない今、最強の艦隊とてただの固定砲台と変わらない。いくらでもつぶす手段はある。
逃げるのは難しい。戦うのは論外。かなり詰んでいるぞ、これ。
なにか、ないか。
いや、ないな。
ないが、本当にないのか?
「残念だったな。私は往生際の悪い、船上傭兵だ」
私は旅娘を抱き締めて、全力で飛んだ。運動エネルギーはこれで最後だ。もう少し残っていると思ったが、想像以上に大盤振る舞いだったようだ。
「さて、どうしたものか……」
「いや、ねーさんの勝ちだね」
「あ? これのどこが……」
突然目を開けた旅娘。何を言ってるんだ。今際の際で意味不明なのかと思ったら、なるほど。これは勝てるな。
目下の幽霊船へ向けて、無数の火球が降り注いだ。
その周囲へと降り注ぐのは、暁の女王号の極大射程艦砲郡から放たれたもの。
いくらカルバリンが長射程とはいえ、この距離は届くはずがない。
「ああ、そうか」
いや、そういう事か。
「帝国の技術はここでも群を抜いているようだ」
黒煙を立ち昇らせて、一隻の船が走って来た。風はまだ吹いていない。
帝国の警備艦隊旗艦、アイゼン艦長が乗艦する”18001”だ。その船が船尾より黒煙を吐き出しながら風のない夜に船を走らせている。
つまりだ、あの船にも外燃機関が搭載されていたという事だ。
「合点がいったぞ」
「何が?」
「ドルテの荷物は、アイゼン艦長の船のボイラーだ」
あの船は、明らかに新造船だった。いくら几帳面な帝国軍人とはいえ、生きた人間だ。生きた人間がいる以上はどれだけ努力をしても生活の臭いが染みつく。それがなかった。
ドブロは造船の街でもある。ソローンから運び込まれた木材を使い船を造るのだ。至急と急いでいたのは、この船を間に合わせる為。
そしてアイゼン艦長は事情を知っていた。一体どこでどうつながっているのかは分からないがすべて仕組まれていたのだ。
私がドルテに教えた砲兵術は、アイゼン艦長の知る事になり、さらにアンドリュー艦長へ伝わった。そんな重要な事を仮想敵国の最大戦力に教えるなんて、あの艦長どれだけお人好しなんだ。
18001は走りながら舵を右に切る。船の左側面を幽霊船へ見せつけると、戦列甲板に並ぶ30門のカノン砲が一斉にりゅう弾を吐き出した。
大気を叩き揺らす轟音。
暁の女王号ほどではないが、あの船は大きな船だ。それなのに砲門の数が少ないなとは思っていた。まさかこんな驚きの仕掛けがあったとは思わなかった。
至近距離でほとんど全弾が黄昏の乙女号に命中。それでも100年平野を歩み続けた船は、想像以上に堅牢な設計をされているようだ。船体の3分の1以上を喪失しているにもかかわらず、まだ足をうごめかせ歩み続ける黄昏の乙女号。いや旅路の乙女号か。
まるでむせび泣く乙女の絶叫か、はたまた死する事が無い男の怒号か、私にはわからない。しかし軋み上げる木材、断裂する金属。炸裂音。帝国艦の第2斉射が、100年以上を歩み続けた船を完全に砕いた。
轟音轟かせ爆発した船体。
「じゃあな、小僧」
旅娘は、ふうーと指先に息を吹きかけた。きらきらと金色の光をないまぜにした吐息は、燃え盛るかの船に降り注ぐ。
彼女の声は、砲弾や燃料に次々と誘爆する音にかき消えて、聞こえくなかった。