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上着の襟を正し、私はポケットから懐中時計を取り出すと時刻を確認した。ちなみにこの世界でも時計はかなり高価で、まして懐中時計ともなると正規軍人の年俸に値する。そしてこれはアイゼン艦長から借りた物である。機械工芸が盛んな帝国の物ともなれば、一財産ものだが快く貸与してくれた。
時刻は22刻4分。各艦隊の航海士たちが立てた予測では、あと半刻ほどで風が止む。
「さて、そろそろかな」
船首に立った旅娘は、髪の毛を風にたなびかせてある方向を見つめていた。その顔はやはり獰猛な獣そのものだ。
あたりは暗闇一色。私の目からは何も見えない。
彼女には、その闇の向こうが見えているのだろう。
そして、その時が来た。
彼女が見つめる先、闇を劈く閃光が走る。
遅れて聞こえる轟音の数々。三方から瞬く閃光と轟音は、ある1つの方向へ火線を集中させていた。
本来の作戦開始時刻からはまだ早い。
「ははは! 臆病者の青たん小僧! ケツに火がついて大慌てだ!」
愉快愉快と笑う彼女は、まさに平野の大魔女というにふさわしい激しい憎悪と怒りが噴き出している。
曰く、メアリ・アン・リードリは一度交わした契約は絶対に守る。
曰く、メアリ・アン・リードリは絶対に契約を違えることはない。
曰く、メアリ・アン・リードリは契約を破る者には死よりも恐ろしい制裁を与える。
表舞台から消えて100年近く経った今でも、「約束を破るとメアリが来るぞ」と口にする。
それだけ彼女は人々に恐れられた。その彼女を裏切ったあの出来損ないミイラ男は、一体何を思っていたのだろうか。少なくとも、私なら絶対に裏切れない。彼女の凶行を目の前で見ていたのなら絶対にだ。