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旅娘の帝国嫌いは筋金入りのようだ。苛立たし気な態度を隠す事無く、アイゼン艦長の指揮杖を奪い取って盤上を指した。
「あたしが覚えている限りでの話しだ。それだって時間も経っているから、失敗してもこっちのせいにするなよ」
噛み付きそうな程、威嚇的な目で周囲をぐるりと見渡した。
「それほどいうなら、押し黙っていればいいだろう」
暁の女王号の戦術長が吐き捨てる。
「わかった。あたしがお前ら軍人に手を貸してやる義理はない!」
ぽいと指揮杖を投げ捨て、部屋を出て行こうとする旅娘。
「まて、まてまて」
慌てて私が腕を掴み、アイゼン艦長が道を塞いだ。
「今は貴殿だけが頼りだ。どうか、協力を頼みたい」
目じりを逆立て、喉を鳴らして威嚇する旅娘。彼女にとって、”あの男”の次に帝国軍人は嫌悪の対象である様だ。
腕を振りほどこうとしたので、私はしがみつくように腕を抱き込んだ。この細腕からは想像もできないほどの怪力で、そうして腰を落とさないと本当に振り飛ばされそうだ。
「ガルベル准将閣下。そこまでしてその者を引き留める理由を、お聞きしても?」
何とも言えないような複雑な表情をしたアンドリュー艦長。その問いに、
「彼女はメアリ・アン・リードリ。大平野の魔女、憤怒の女王。それが彼女です」
私も初めて耳にする、彼女の正体だ。
その名前を聞いて、連合王国側の3人は息を飲んだ。いや、帝国側のアイゼン艦長以外は明らかに緊張感が増した。
「メアリ・アン・リードリ? そんな、バカな!? 100年以上前の人物だ。あまりに荒唐無稽だぞ!?」
アンドリュー艦長は動揺というより、見るからに取り乱している。
それもそうだ。大平野に伝わる賊船の中で、最も恐れられているのが、憤怒の女王。風の吹かない霧の夜に現れる賊船。いかなる戦力があれど風が無ければ船は動かない。それでも歩みを止めず現れる呪いの船。
一方的な暴力と恐怖で、略奪し、殺して廻る。それがメアリ・アン・リードリ。
100年前の大平野を恐怖のどん底に叩き落としたかの賊船の船長。そんな彼女の最後は意外なほど呆気なく終わる。部下の裏切りによって終焉を迎えた。
しかし死する間際に彼女が己を裏切ったすべてに掛けた呪い。永遠に死ぬことなく、虫に体を貪り続けられる不死の呪いをかけられた船員たちは、永劫の苦痛から逃れるように亡霊船となって広大な大平野を歩み続けている。
今までの怪異の正体。
合致する部分はあまりにも多い。
だがそれを受け入れるには、彼女の伝説は誇大すぎる。
確かにこの世界には魔法が存在する。まあ、帝国や聖痕教会が執拗につぶして回ったから今やほとんど存在していないが。
存在が希薄になっているからこそ、彼女の伝説はあまりに荒唐無稽なのだ。
「それが、なんで今になって……」
アンドリュー艦長は半信半疑という具合だ。しかし半分信じてしまった部分の恐怖が、あまりに多い様だ。取り乱した事を隠すように乱れた髪の毛に手を当てて整える。
憤怒の女王メアリ・アン・リードリの伝説は、今でもこの世界の人々に深い爪痕を残す。
幼少期に悪さをすれば、必ず彼女の名前で叱られる。「約束を破ると、メアリが来るぞ」というのは誰もが耳にしたはずだ。
彼女は決して約束を違わなかったという。もし約束を破れば、それは島ひとつの命で贖われたという。女子供老人問わず、すべてを岸壁に吊るした。全身を切り刻み、杭で打ち、「裏切りには炎の苦痛を」と呪詛の言葉を刻み付けられていたという。
あまりに残虐。あまりに凶悪。故に連合王国も、帝国も、ひいては聖痕教会ですら手を出せなかったという。
大平野の上を歩む者たちにとって、彼女とは恐怖の象徴。屈強な兵士や船乗りですら恐怖で縮み上がる。ゆえにすべての船乗りは魔女の報復を恐れる。魔女の怒りを恐れる。魔女に決して近づかず、その怒りに触れないように関りを持たないようにする。
屈強で、無敗無敵最強を自負し、我こそ大平野の覇者であると豪語する第3艦隊のトップがあきらかに彼女に対して恐れを抱いていた。