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ずっ、と橈骨と尺骨の隙間に何かが通り過ぎた。
恐る恐る自分の腕を見ると(ダメだ。見るな)、見たことない物が、(絶対に理解するな)前腕から生えている。
いや、ごめん。本当に許してください。私、痛いの大嫌いなんです。お願いだから、痛いのはやめて欲しい。
自分の喉から出たとは思えない空気の炸裂。絶叫というより、咆哮、断末魔に近い叫び。
激痛というのは、衝撃だ。
腕の骨の隙間を巨大ククリの切っ先で貫かれた。
熱い。とにかく熱い。そして金槌で突き上げられるような痛みの衝撃が、脳に叩きつけられる。真っ赤に焼けた火掻き棒で脳みそをかき混ぜられるような、とは安直だがこの痛みを伝えるには最適かもしれない。
痛みは一定レベルを超えると、神経をおかしくするのだろう。全身が激しく痙攣し、異常な緊張と弛緩を繰り返す。耐える事ができずに、堰を切った。胃袋がひっくり返るような感覚が襲い、中身を全部ぶちまけて下半身を汚した。
私が発する激痛の咆哮と、かすかな水音。そして背後からは喜劇を見て笑うようなしわがれた男の声。
「いい声だ。最高だと思うだろ?」
「……」
切っ先が引き抜かれると、驚くほど血があふれ出た。これは一時間もせずに、死ぬ。
涙でまともに見えない目で、私は旅娘を見ていた。無意識に助けを求めていたのだ。
ちゃんとは見えない。ただ、彼女の顔はまるで無表情だった。場違いなほど澄んでいた。
冷静に見えるそいつの顔に、理不尽な怒りを感じた時、また別の痛みが傷口に走る。
開いた穴から、虫が、ウジや芋虫が私の中に入ろうとしていた。一瞬意識が飛んだが、すぐに痛みで強制覚醒させられる。
自分でも何を言っているのかわからない絶叫を上げ、何としても振りほどこうとしたが、腕はピクリとも動かない。虫が私の中に、入って来た。虫って、生きた生物の中には入ってこないんじゃないっけ? という現実逃避の思考が脳裏をよぎるが、これはどう見てもまともな自然界の生物じゃない。呪いとか魔法とかそういう類の怪現象だ。常識なんて通用しない。
肉を食い破られる痛み。小さな虫が体内に潜り込む不快感。痒みが衝動となって、脳髄を焼く。
もぞもぞと動く虫。ぶちぶちと自分の皮膚を伝って聞こえる、体を食い破られる音。
嫌悪感と痛み、恐怖が刃となって頭の中をミキサーにしてかき混ぜた。そして激しい嫌悪感が拒絶反応となって、もう何も入っていないと思っていたが、口から胃液をぶちまけた。
役に立たないと分かっていても、私はせめてもと旅娘を見て、助けを懇願した。
「今、助ける」
ばきっと音が聞こえた。金属が砕ける、世界が割れるような澄んだ音色。
男はその巨体に見合わない素早さで横に動いて、牢の外へ転がり出た。
「これは、驚いた。とんでもないバカ力だな」
男もさすがに目を白黒させているようだが、私はそれどころじゃない。
「いたい! いたいだろばか! あほ!」
理不尽だとは思う。しかし助けられるならなんでもっと早く動かなかった!?
私はふがいない事に、旅娘にしがみついて罵詈雑言を垂れ流す事しかできなかった。
「もう大丈夫。ほら」
そう言って彼女は私の腕を撫でた。
その瞬間、べりべりという音と共に、腕の傷が”はがれて”いった。
虫と一緒にはがされた傷を、旅娘は丸めて握りつぶす。小さく煙を上げて消えた。
「臆病で、一人じゃ小娘をいたぶる事しかできない小者のあおたん小僧」
牢の前に立った彼女は、抑揚のない静かな声でつぶやいた。
「メアリ・アン・リードリの名にかけて、お前に今以上の苦しみを与える事を、ここに宣言する。我が先祖にかけて誓おう」
私からは彼女の顔は見えない。ただ、怒り狂っているのだろう。牢の向こうで安全であるはずの男が見るからに怯えて後ずさった。感情なんてないであろうミイラがすくみ上っているのがわかった。
彼女が掴んだ鉄格子が、音を立てて歪んでいく。
「は、はは。いいさ。ここから出られるならな!」
そう言い残して男は洞窟から飛び出すように出て行く。その後を追いかけるミイラまでも、まるで恐怖に駆り立てられているようだった。
そして静かになった牢獄。
痛みの残滓が、脳の奥にこびりついている。
麻痺するように痺れる脊髄と、腕全体。傷も痛みも嘘のように消えているのに、それらが残っていた。いまだに心拍数も呼吸も跳ね上がったまま。突然消えた痛みに、脳は誤解が解けずまだ痛みがあるという錯覚が起きる。
思考はまだはっきりしない。靄がかかったように、ぼんやりとしている。
それでもとりあえず助かった事と、今はまだ死なないで済んだことに安堵した。
私の体は震えていた。痛みと恐怖が去ったとは言え、まだ状況としてはさほど好転していない。それに早く戻らなければ裏切った事にされて、連合王国でも賞金首になってしまう。
どうしていつも世界は私に優しくない。神は慈悲をくれたわけではないらしい!
「さって、と」
そこで旅娘が振り向いてこっちを見た。さっきまでの鬼迫はない。いつもの砕けすぎたお調子者の気配を纏わせている。
こいつは何者だ。
あの出来損ないミイラ男の会話から、ただならぬ由縁なのは分かった。それにいくつかとんでもない情報があったようにも思うけど、今はまだちゃんと考えられない。思考にまとまりがない。
「なんか、巻き込んじゃった、のかな。ごめんね」
まったくこっちは理解できないし本当にそうだ。精々睨み付けてろうと思ったが、今はなぜかこのムカつくお調子者が救世主に見えて仕方ない。
そっと奴の手が、私の頭を撫でる。いや、そんな事をやられたって、ときめかないし、胸が高鳴ったりはしない。しないはずだ。
だから顔が熱を持つのは、先ほど腕を串刺しにされたから。そのせいだ。
「……」
やつはスカーフを解いて私の顔を拭って、よしとうなずいた。
「あの臆病者はきっともう船を出してとんずらしてるはず」
「ずいぶん、詳しいな。知り合いだったみたいだけど?」
「はは」
笑ってごまかされた気がした。
「でも、ひとつあたしは確信した」
「何を?」
旅娘は私の顎をくいと指で押し上げて、何かを押し付けて来た。
もう一度頭の中が真っ白になる。
ぱっと顔を離したそいつは、腹立たしいほど綺麗で艶めかしい笑みを浮かべて唇を舐めてつぶやく。
「あたし、独占欲が物凄く強いみたいだ」
前言撤回だ。こいつはクソアマの下種雌郎だ。
それでも、私は抵抗をしなかった。ぞくぞくするような艶やかな笑みを浮かべた彼女の顔がゆっくりと近づいてきた。