35
ごー、ごー
霧の向こう、何かいる。うごめく何かが、霧の向こうにいる。
ぞくぞくと得体の知れない恐怖が、私の背中を震わせた。何か良くない事が起きる。
「嫌な霧だ……。船を岸に付けろ」
アンドリュー艦長が苦虫を噛む様につぶやき、咄嗟に指示を飛ばした。この巨大な船だ。下手に動くと僚艦を踏み潰しかねない。それなら大人しく岸に居た方がいい。
アンドリュー艦長は双眼鏡を下ろして、霧の向こうを睨んでいた。彼も何か感じたのだろうか。
「あぁ、見つけた……」
すぐ隣に立つ者の顔すらぼやけて見えるような濃密な霧の中で、そいつは笑っていた。
帽子をずらし珍しく顔を出した旅娘は、霧の向こうを猛獣のような笑みを浮かべていた。
「見つけた」
「お前……」
手すりがめりめり音を立てて、ばきっと豪快に折れた。いや旅娘が握りつぶした。
私がぎょっとした瞬間、彼女は、飛び降りた。
私たちがいる物見甲板から桟橋までの距離は10数メートル以上はある。落ちたらタダじゃ済まない。
慌てて身を乗り出して下を見ると、なにもない。
「なにもない……?」
霧で視界が悪いとは言え、そこに人がいるか、何かしているかくらいは分かる。
おかしいだろ。さっきまで艦乗騎兵が掃討戦を実施していたはず。何もないはずがない。本艦の直援や敵の死体なりあるはずだ。
「艦長! 何かが変です! 兵隊戻して」
断末魔が、耳朶を打つ。
艦内からだ。
「総員注意しろ! 賊が艦内に入り込んだぞ!」
アンドリューは艦橋から飛び降りて来た。手にはカトラスと刺突剣を持っていた。二刀流とは最高にイかしている。
「艦長、あまり前に出ないでください」
副長と戦術長が、艦上用に銃身を切り詰めた火打石銃と火縄散弾銃で武装して並んだ。
「魔女殿! 残念だが手を貸してくれ! 敵の数がわからん」
私は物見甲板から艦長たちがいる通常甲板へ向かった。
「邪魔にはなるなよ」
戦術長は四十路に近い歴戦の勇者然としたおじさまだ。猛禽類に似た鋭い眼光と鷲鼻が特徴的で、今は散弾銃を手に私に一瞥くれた。全然どうでもいい事だが、こういうオジサマって素敵じゃなかろうか。人類の至宝だと思うわけだよ。
「精々、給料分の仕事はしましょう」
なにせ私は船上傭兵。乗り込んできた賊を打つための戦闘要員ですから。
4人1組となり甲板の下、砲列層へ降りる。不安な顔をした兵士たちが落ち着きなさそうだ。
第1層は問題ない。続いて第2層。
戦列艦はもしも敵に乗り込まれた時を考え、階段が一貫して貫通していない。甲板に出るのが中央にあれば、3層から2層へ降りる階段は艦首側にある。その下は後部側にある。その為下りるにはいちいち船内を往復する必要がある。
2人が並んで下りられる広さの階段を降りると、鼻に付く鉄さび臭さを感じた。これは、血だ。
ヤバい。
そう思った矢先、戦術長の散弾銃が火を噴いた。目の前に飛び出してきた、シルエットに彼は躊躇いなく撃った。
大の字に飛んで行ったシルエットは、やはりこの船の乗組員ではないなにか。
いや、それよりなんだ、この胸騒ぎ。
「おい!? 大丈夫か!?」
第2層は、血の海だった。
兵たちの死体が転がっている。どれも応戦したような痕跡がある。
「馬鹿な。おい! しっかりしろ!」
飛び降りたアンドリュー艦長は血相を変えて、倒れている兵士に声をかける。
ダメだ。死んでいる。
「艦長……」