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ふと目が覚めると、電車の中にいた。
そうだ仕事を終えて終電に飛び乗ったんだ。珍しく空いていた椅子に座ったら、いつの間にかうつらうつらと船をこいでいた。
顔を上げて入口の上の液晶モニターを確認すると、そこは私が下りる駅名が表示されていた。
私は慌ててビジネスバッグを胸に抱いたまま弾かれるように電車を降りた。駅のホームに足がついた瞬間、背後で電車のドアが閉まる。
危なく寝過ごす所だった。これが下りの終電であり、登りの最終はすでに発車している。あのまま乗り続けていいたら、ただでさえ短い睡眠時間を削って無駄な移動時間を取られてしまう所だった。
安堵のため息を吐いて、私は自宅である駅まで徒歩10分のアパートへ帰る。
高卒で当時流行りのIT企業に就職したのが運の尽きだった。
社外から見ればNO残業、NO休日出勤で定時出勤定時退勤。理想的な職場を謳っていた。
しかしその実態はタイムカードという存在がなく、営業成績=翌月の給料という完全歩合制という天国と地獄が詰まった勤務形態。
毎月の営業廻りと、社内のエンジニアとは名ばかりの夢と希望ばかりを口にする新卒と中途入社の団体を、『定時に出勤』『定時に退勤』『現場の責任者の指示に従う』という事くらいはできるように教育して、一山いくらでシステムテストなりサーバセンターの監視案件に突っ込むという作業を毎日毎月繰り返すのが私の仕事だった。俗にいうITエンジニアの斡旋営業と云う職種だ。
そこで私は人よりそういった事に耐性が強かったらしく、半年以内にぼこすこ辞めていく職場環境で、気付けば就職してから3年も経っていた。役員陣を除くと最古参メンバーとなっていた。しかし役職のない古参とは、つまるところ体のいい雑用係で、新人のしりぬぐい係りである。
連日のようにどこかの誰かが打ったミスを拭って、修正するために客に代替え提案して新人に引き継ぐのが今の業務のほとんどになっている。おかげで自分の営業成績は右肩下がりで今や新人と給料がさほど変わらない。
玄関をくぐると、踵の低いパンプスを脱ぎ捨て、私は体を引きずるように寝室へ直行する。時刻はすでに翌日になって二時間近く経っている。いわゆる終電帰宅というやつだ。こんなことならもう少し高くても良いから近い所にしておけばよかった。タイミングを逃すと最寄り駅まで行く電車がなくなるので、一駅歩くことになるのもリスキーだ。
「今月も、やばいなぁ」
鞄から取り出した給与明細を見ながらつぶやく。
入金された給料の額面は、フルタイムの夜勤バイトの方がマシな金額。実際の労働時間を時給に換算すると、300円程度というとんでもない状態だった。それ故に働いているのに毎月金欠。それでも客との飲み会で少ない給料がみるみる減っていく。
しかしこの状況でも上からは業績を上げろと急きつかれる。同じ口で新人の面倒を見るのは先輩(つまり私)の責任だろというのだからもはやお手上げだ。
スーツは営業マンの良し悪しを測る定規、という入社してすぐに言われた言葉を真に受けていた私は、すぐさま服を脱ぎ去りハンガーにかけて消臭スプレーを噴霧した。
その流れで着ていた服を脱ぎ去り、下着を外した。背中のホックを外すと、重力に抗っていた胸がずんと落ちて、束縛が解けたようなちょっとした解放感が得られるが、そのすぐ後に脇の痕がかゆくなる。
下着類はネットに入れて漬け置きしなければと思う反面、面倒くささが勝ってしまい、まとめて洗濯機に放り込む。後悔は明日以降にしよう。
あとは布団に飛び込んでしまいたい衝動があるが、そこはもう少しだけ堪えてウエットティッシュタイプの化粧落としで顔を拭い去る。本当は取り切れないからよくないらしいが、今はとにかく面倒だからそんな事は気にしてられない。それとボディペーパーで簡単に体を拭った。季節柄まだシャワーに毎日入らないでもなんとかなると信じている。大丈夫昨日はちゃんとシャワーを浴びた。こんな言い訳を自分にする時点で、もはや女子力というやつは消滅確定だ。
それから朝脱ぎっぱなしにしてしまったスウェットを着込んで布団に潜り込んだ。
暖房をつけないと芯から冷える2月の寒さだが、電気代ケチるためにも布団をしっかりと体巻き付けて耐える。光熱費は何としても2000円以内(基本料金込み)に収めたい。収めないとならない。
部屋の壁に張りっぱなしになっている4年前に流行ったゲームのポスターのキャラと目が合って、初めて部屋の照明を消していない事に気が付いた。
そういえば、先ほど電車の中で見た夢の美少女は、このゲームのメインヒロインに似ていた気がする。まだ学生だったこともあり、このゲームはやり込んだ。キャラグッズだけじゃ飽き足らず、同人誌にまで手出ししていた。半公式で百合認定されていたから、同人もその手の物が多くて非常に助かったものだ。ロリババアとイケメン女子のカップリングという自分の知らなかった自分のストライクポイントを知ってしまった切っ掛けだ。
そんな取り留めのない考えがしながらも、私の身体は自動的にスマートフォンを手にとり画面を見た。メッセージアプリとメールにはごまんと通知が溜まっていた。それを片っ端から片付け、さていよいよ自分の好きな事をしようと、動画共有アプリを開くと、急に胸が締め付けられるような激痛に見舞われる。
「さいきん、おおい、な……ッ!?」
胸が絞めつけられて口から心臓がこぼれ出そうになる痛み。私は無意識に胸をかき寄せ身を丸めて痛みが引くまでの数秒間を耐える。
おそらく不整脈の発作だと思うのだが、ここひと月は頻発している。いつもはしばらくすれば数秒で収まり、若干の倦怠感を残して元通りになる。だから問題ないだろうと思っていた。思っていたのだが、発作はいつまで経っても収まらず、いよいよまずいと思い助けを呼ぼうとした時には、すでに手遅れだった。
震える手は力が入らず、持っていたはずのスマートフォンは床に落ちていた。身をよじった拍子に落ちたのだろう。
体が、動かない。
その後は急激に眠くなり、視界は暗転した。
あ、これ、死んだ。
走馬燈だとか、後悔とか、なにもなかった。ただ眠るように、泥の中に沈む様に意識が落ちて行く。死とは、存外呆気ないものだ。