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メディッテ盆地に入って2日目の夜。
順調な航野なんて存在しない。事件は必ず起きる。
ガス灯が無ければ手元も怪しい新月の夜。誰もが寝静まっていても、風だけは止まずに黄色い大地を走り抜けている。
この仕事を始めてから、私は熟睡をしたことが無い。夢と現実の間くらいをふらふらしている。人間死にそうな思いをすれば、先祖返りして野生動物と同じようになるのだ。
傭兵の為の掘っ立て小屋の狭い室内で、けたたましく鐘が揺れて鳴った。
私は飛び起きるとその勢いのままハンモックを飛び降り、外套を羽織った。
この鐘は、船の外壁に何かがへばりついた事を知らせる合図。鳴子だ。
掘っ立て小屋を飛び出して、小屋の入り口脇につるされているガス灯を手に取り、鐘の鳴った方、左舷側を注視する。
星々の弱々しい光に照らされて、宵闇の中で轟々と音を立てて回る縦型風車がぼんやりと浮き上がる。それほど暗い。
甲板の縁、手すりから何かが顔を出した。
私がそこまで距離を詰める数秒で、賊は身軽にはしごからひょいと飛んで甲板へと乗り込んできた。
これは、早急に片付けないと面倒だ。
敵の総数は5人。刺す、切るが得意そうな切っ先鋭い曲短刀を手に携え構えている。
能力は使いたくない。使わなくても、これくらいなら倒せる。
敵は大道芸人のように身のこなしが上手く、武器は機動性重視。という事はおそらく刃先には毒が塗られている可能性が高い。一撃でも当たれば必殺は免れない。
この世界には経験値だなんだという”いかにもなモノ”はない。○○耐性だとかそういう物は存在しない。当たれば死ぬし、どれだけの熟練した兵士でも、素人の投げた石ころで死ぬ事もある。この異世界は徹底的に現実的である。私の恋焦がれた異世界幻想譚なんて存在しない。
私は甲板の上を全力で駆け、まずは1人目。今上がって来たばかり、一番甲板の縁に近い人物の顔面をしっかり勢いを載せて蹴った。いわゆる飛び蹴り。
私だって人並みに体重があるわけで、しかもそれが全力で走っているモノだ。それ相応の力の塊になるわけで、哀れ長く揺れるはしごを登ってきた賊の1人は、真っ逆さまになって甲板から転げ落ちる。
次いで2人目。これには夜ならではの手段を使う。
腰の小物入れから取り出したのは、分銅のついた砂龍の体毛で作った糸。
私は分銅を回して加速させると、侵入者の足めがけて投げる。
ガス灯が無ければ手元も怪しい暗さだ、私が何を投げたのかすら見当もつかないはず。
私は決して強くない。むしろチートが無ければとっくの昔に死んでいただろう。
神様は可哀そうな私に、慈悲の心でこの異世界転生を与えると言っていたが、あれはおそらく嘘だ。きっと暇つぶしか享楽の一環で与えたに決まっている。
この世界はどうしようもなく現実的で、少しのミスで即死に繋がる場所だ。ひとまずの生の保証があった故郷とは、大きく異なる。
だから私は、何としてでも生き残る決意をした。
その為にあらゆる技術を身に着けた。
私が投擲した分銅は、狙い通りに相手の両足に絡まった。後ずさろうとするその人物は盛大に転んで倒れる。その頭部を全力で蹴りつけた。躊躇いは自分を殺す。遠慮は無用だ。
さて残りは3人だ。