9話 人が成長する理由にも色々あります。
何でショーターがここにいるの?
てっきり、帝国に帰ったと思ってたんだけど?
違うんだったら、何で会いに来てくれなかったの?
パティの頭の中をぐるぐると、はてなマークが飛び回る。
聞いてみたい。尋ねてみたい。問い質したい。絞め上げて白状させたい。おっと、最後のはちょっと問題だ。
でも、心の中に湧き上がるものは、それだけじゃない。
疑問符なんか蹴散らしてしまう、もっと別の気持ち。もっと大きな衝動。
嬉しい。
ショーターが会いに来てくれて、嬉しい。
また彼の顔を見ることが出来て、嬉しくて嬉しくてたまらない。
ああもう。この気持を表すのに、嬉しいとしか言えないなんて。言葉の表現の仕方がわからない、勉強を知らない自分が悔しい。
そして、それ以上に。そんな簡単な言葉ですら伝えることの出来ない、今の自分がとてもとても、もどかしい。
やっぱり、絶対に覚えてみせるよ、帝国語。
でも。きっと、言葉になんてしなくても。今のこの気持は、ちゃんと彼に伝わってる。
だって、ショーターの顔だって、こんなに楽しそうな笑顔なんだから。
……そうだ。
今なら、言えるかな。次に会えた時には家名じゃなくて、名前で呼んでみようって思ってたんだ。
だって。友だち、なんだから。
「クリ、ス」
「……パティ?」
地面に転がる翔太に、馬乗りになった体勢のパティ。そこからさらに身を乗り出すように、ぐぐっと顔を近づけて。勇気を振り絞り、そう、彼の名前を呼んでみた。
「クリスっ!」
大切なものを、愛おしいものを呼ぶように。
心を込めて、気持ちを込めて言の葉にのせる、大事な大事な友だちの名前。
少しだけ不安気なパティの顔。拒絶されたらどうしよう。でも、大丈夫だよね。だって、クリスは私の大切な……。
「えっと、パティ、怒ってる?」
あれ? なんか、思ってたのと違う。パティって、自分の名前を呼び返してくれると期待していたのに。
けれど彼の顔は、どこか困っているかのようで。
「しばらく来れなかったから、怒っちゃったかな? ごめんね、でも学校が始まっちゃったから、しかたなかったんだよー」
まるで、拗ねているかのようで。
そして、まるで懇願しているかのように、こんなことを言ったのだ。
「ねえ、苗字じゃなくてさ、今まで通り翔太って呼んでよ。ほら、翔太って。ねえパティ、翔太だってば」
ショーター、ショーター、ショーターと。そう、連呼されてしまった。
もしかしてそれは、名前でなんて呼ばないでくれと。そういう、意味?
クリスなんて親しげに呼ばれるほど仲がいいわけじゃないよって、そう言いたい訳?
なに、友だちだって思ってたのは、私の方だけだったって、こと?
……。
…………。
………………。
パティはのろのろと。翔太の上から降りて、ゆっくりと立ち上がる。
ぱんぱんと、服についた土を払う動作は、どこか作り物めいてぎこちなくて。
翔太からは見えないようにと横に逸らされて、俯いた顔は影になって表情がよくわからなくて。
固く握りしめた拳が、何かを抑えるかのようにプルプルと震えていて。
あ、やっぱりこれ、怒ってる。すごく怒ってる。
怒った女の子は、怖い。とても恐ろしい。まだ7歳の翔太でも、それは知っている。父さんだって、母さんのご機嫌を損ねたときには、部屋の隅でガタガタ震える心の準備はOKなのだ。
だからこんな時、男の側に出来ることなんて、一つしかない。例え、自分には何の非がなかったとしても、それが一番の解決策なのだ。一般的には。
「ごめん、パティ。学校休みの時はできるだけ遊びに来るからさ、だから許してよ」
そう言って、ごめんなさいと頭を下げる。そう、とりあえず、謝っとけ。それが男の処世術。
けれど残念ながら、この場合。それは悪手にしかならないぞ、翔太。
なぜなら、パティはからはこう見えてしまったのだ。こう、思ってしまったのだ。頭を下げてまでも、名前で呼ばれるのは勘弁して欲しいのだと。
しばし、沈黙が場を支配する。
俯いたまま動かないパティ。翔太は腰は曲げたままに、顔だけをそっと上げて彼女の様子をうかがってみる。うん、どうしよう、これ。
居た堪れない空気。無言のパティ。頭は下げたままの翔太。そんな2人の姿を見てアワアワとする周りの大人達。
そんな混沌とした状況の中、ついにパティが動く。
ゆっくりと、顔を上げる。日差しを受けて影になっていた表情が、段々とはっきりしてくる。
そして、翔太は見た。そこには、鬼がいた。
「ショオオオオオオオオタアアアアアアアアアっ!!!」
パティは勢い良く右手を振り上げると、翔太のことをズバッと指差し。そして彼の名を叫んだ。威勢よく。
空気が震えた。翔太も震えた。大人たちだって震えた。
あーもうっ! あったまきたっ!!
いいわよいいわよ。ショーターがその気なら、こっちにだって考えがあるわよっ!!
絶対に。
認めさせてやる。
私のことを甘く見たのが運の尽きってもんよ。本気の私を見せてやるんだから。
うんと勉強して、うんと賢くなって、ショーターの横に立つのにもふさわしいようになってやる。
そしてそのときには、絶対に言わせてみせるんだ。
家名なんかじゃなくて、名前で呼んで欲しいってねっ!!
既にしていた決意を、より強固なものへと固め直したパティ。確固たるその誓いは崩れない。もう誰にも攻め落とせない。
まるで難攻不落の城塞に、対軍兵器を満載にしたかのよう。しかもそれが動く。移動要塞パティだ。
パティは、飛びついた際に放り投げてしまっていた本を拾う。そしてその最初のページを開いて、翔太へ向けてずいっと突きつけた。
「んっ!」
そこに描かれた絵を指差し、翔太のことを睨みつける。
座った目の色が氷点下。
「えっと、パティ?」
「んっ!!」
「その絵? 馬、だけど……?」
なんとかご機嫌を取ろうと、愛想笑いに必死の翔太。
返されるパティの言葉は、しかし。期待した許すような雰囲気のものではなく。
「うっ! まっ!!」
力強く。というか、怒鳴るように、復唱。スタッカートが素晴らしい。
「そ、そうそうっ! パティ上手だねっ! パティは馬が好きなの?」
「んっ!!」
一生懸命に褒めてはみても、まったくもって取り付く島もない。
ペラリとページがめくられ、次の絵が示される。
「えっと、牛だね」
「うっ! しっ!!」
まるで脅しているかのように。早く次の文字を読みやがれと、翔太に迫る。
えっと、どうしよう。せっかく父さんのゲーム機も持ってきたんだけど。ゲームも色々あるんだけど。
えーっと、パティ。どうかな、ゲーム。カバンから、ちらりと出して見せてみたけど。じっとりとした目を向けた後、フンと鼻であしらわれた。
ああ、無理だこれ。今日はもう、日本語の勉強に付き合うしかないのかもしれない。
でもまあ、いいか。これでパティの機嫌が治ってくれるなら。
僕だって、怒ったパティじゃなくて、楽しそうなパティのほうがずっと好きだしね。
「んっ!」
「ね、こ。これは猫だよ、パティ」
「ぬっ! こっ!!」
「だから、ねこだってばー」
それに、パティとお話ができるようになるなら。
それはきっと、とっても素敵なことに違いないんだ。
だから、一生懸命覚えてね。僕もちゃんと手伝うから。あ、今度、僕にも英語を教えてくれたら嬉しいな。
そんな事を思い、思わず顔に笑みが浮かんでしまう翔太。
その様子に、つられて笑ってしまいそうになるパティ。それを頬を膨らませて怒っているのだぞとアピールすることで、なんとかごまかすのだった。
こうして。
学んでいるのだか、喧嘩しているのだか、それとも遊んでいるのだか。なんとも判別のつきにくい勉強会は、週末ごとに続けられることになった。
家名なんかじゃなくて、名前で呼び合う関係になりたい。
そのパティの願いは、とうの昔に。初めて会ったときからずっと、叶っていたのだと。
それを彼女が知ることになるのは、もう少しだけ先の話。